2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 14》 愛によって働く信仰への自由

  前回は「キリストにある自由と愛」と題して5章1-6節から話しました。キリストにあって自由にされた者は、その信仰が愛によって働くようにされるのです。この《愛によって働く信仰への自由》というテーマは、6節から13節へと展開します。7-12節は、この主要なテーマの文脈の間に挿入された特別な箇所ということになります。
 ここでパウロは再び―「再び」と言うのは、一度前の箇所(4:8-20)で、自分の感情をかなり表に出してガラテヤの信徒たちに迫る形で訴えたからですが―感情をあらわにして、情熱的にガラテヤの人々に訴えています。私たちにも、あなたがたにも訴えているのだ、と受けとめてください。
「あなたがたはよく走っていたのに……」と言われる「よく走っていた」とは、正しい信仰の道を走っていたということです。パウロに導かれて福音の真理に従い、ガラテヤの諸教会の信徒たちはよく歩んでいました。それなのに異変が起こったのです。「だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか」(7)。その「だれか」に対して、ここでパウロは厳しい批判を向けているように思われます。彼らは、パウロから見れば―いや、だれでも公平に見れば―明らかに偽教師です。この偽教師たちにガラテヤの人々は惑わされてしまいました。
そのような偽教師は、「わずかのパン種」(8)と言われるように、ごく少数の者たちであったと推測されます。その人々の「勧めは、あなたがたを召してくださった方[神またはキリスト]から出たものではありません」(8節)。キリストにおいてご自身を現してくださった神が、ガラテヤの人々を福音の真理へと召してくださったのです。その福音の真理に従わなくさせる偽教師の勧めは、神から出たものでは断じてありません。
そのような偽教師は少数であっても、「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させる」(8節)ように、ガラテヤの諸教会全体をかき乱すようになったのです。この場合、「パン種」は悪い意味で使われています[善い意味で使われる場合もある]。このようにガラテヤの諸教会は、悪いパン種によってかき乱されましたが、それでもパウロは、迷わされたガラテヤの信徒たちをあくまで信じていたように思います。「私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています」(10節)と、彼らが必ず迷いから覚めて立ち直ってくれるという確信をもって、この手紙を書いているのです。
「しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです」(10節後半)と、偽教師たちには、厳しい言葉を投げかけています。福音の真理を乱す者に、パウロは激しい憤りを感じたのです。その極め付けと思われる痛烈な皮肉を、彼は12節に書いています。偽教師たちは福音を信じるだけでは足りず、割礼も受ける必要があると主張したのです。割礼は何をするのか、私たちにはよくわかりませんね。聖書辞典の説明によると、男根の先の包皮を切除する一種の外科手術です。それをすることが大事であるなら、「いっそのこと男根を切り取ってしまうほうがよい」とまで、パウロは言っているのです(新改訳は「男根を」を省いていますから、痛烈な皮肉がもろには伝わりません)
11節に戻ります。「もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう」とパウロが語る背景には、彼の福音宣教が相当な抵抗を受ける中で進められて行ったという事実があるのです。キリスト教はユダヤ教を母体として生まれました。パウロがローマ世界の各地で福音を伝えたとき、必ずユダヤ人の会堂に、会堂がなければユダヤ人たちが集まる祈り場に行きました。使徒の働きを読むと、そのことがよくわかります。その会堂には、ユダヤ人だけではなく、ユダヤ教に惹(ひ)かれる異邦人も集まっていました。パウロが語る福音を聴いて信じた人々は、その中にユダヤ人もいましたが、そういう異邦人のほうが多かったと思われるのです。
ユダヤ人のようにならなくても、異邦人のまま救われるという福音ですから、異邦人でキリスト者になった人が多かったのは、自然の成り行きであったかもしれません。それに対するユダヤ人のパウロ批判は、かなり強いものがあったでしょう。パウロの福音宣教は、いつも強い迫害を受ける中で進められていました。もしパウロが、割礼を受けることも大事だと言ったなら、そんな迫害は受けずにすんだ、ということになるのです。
さらに11節後半に、「十字架のつまずきも取り除かれているはずです」と言われています。十字架につけられるのは極悪人か政治犯です。イエス様が十字架につけられた表向きの理由は、ローマ帝国に逆らう政治犯ということでしょう。十字架につけられるような人が、なぜ救い主(キリスト)なのか。これは大きな疑問であり、「つまずき」でありました。その十字架の前に立つとき、私たちはいろいろなことを思います。イエス様が十字架につけられたのは、私たちの罪の身代わりであった。このように思うのは、イエス様の復活の光に照らされたからです。復活の光に照らされなければ、わからないことですから。
それがわかって、《イエス様が十字架につけられたのは私の罪の身代わりである》ということを深く黙想するとき、自分自身の罪深さをもっと深く示されるようになります。キリスト者は罪を知り、罪を悔い改めて、罪を赦されている者です。そのキリスト者が十字架を仰ぎ見るとき、改めて自分の罪深さを覚えさせられ、《この私の罪がイエス様を十字架につけてしまったのだ》と、しみじみ思わされるようになります。それとともに自分の無力さをも思い知らされるのです。
自分の無力さを思い知らされるとき、律法の行いの無力さを新たに示されます。ユダヤ教は律法を行うことで救われると教えており、旧約聖書もある意味でそう教えている面があります。しかし、それが旧約聖書のすべてではありません。旧約聖書には、新約の福音に通じるすばらしい側面がたくさんあります。それにしても、旧約聖書で律法を行うことで祝福されると教えていることが、いかにむなしいか。人間は自分の力で律法を守り切ることなどできない。そのことを、十字架につけられたイエス様の前で、本当に思い知らされていくのです。
でも、その十字架が復活の光に照らされるとき、《十字架につけられたイエス様が、私たちを罪から救い出してくれる神の力であり、神の知恵であるのだ》ということが、これまた本当にわかるのです。どうして私の罪が無条件に赦されるのか。自分の罪深さを思えば思うほど、自分の無力さを知れば知るほど、この私が赦されて生きる力を与えられているのは、イエス様の十字架の死のおかげなのだ、ということがよくわかります。その証拠に、イエス様は死を打ち破ってよみがえられました。復活のイエス様は永遠のいのちをお持ちなのです。
死んでなくなるいのちは、はかないいのちでしょう。死んでもなくならないいのち、十字架の死を打ち破ったいのち、それこそ永遠のいのちです。その永遠のいのちを、十字架で死んでよみがえられたイエス様が私たちに与えてくださいます。そのとき私たちは、罪からも死からも解放されて、本当に自由にされます。そのことによって私たちは、イエス様を死からよみがえらせてくださった神の大きな愛をいっぱい感じるのです。
 ここで、本題であるキリストにある自由と愛の問題に立ち返ります。6節は、内容的には13節に続いているのです。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。」 この13節の書き出しは、1節の「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」という言葉と響き合いますね。そして、13節後半に「ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と言われているように、自由と愛が両者並んで出てまいります。このキリストにある自由と愛について、非常に洞察に富んだ本を書いているのが、宗教改革運動を推進した一番の立役者であったマルティン・ルターです。
その本の名は『キリスト者の自由』として知られています。不朽の名著と言われるにふさわしいものです。その第一の項で、ルターはキリスト者の自由について、有名な二つの命題を掲げています。この書については、たくさんの日本語訳があります。私は今ここに「『キリスト者の自由』全訳と吟味」という副題のついた徳善義和先生の『自由と愛に生きる』と題する本を持っていますが、その徳善先生の訳で二つの命題を紹介します。
その第一は、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。」 これはキリスト者の自由の大事な一面です。しかし、自由というのは、両刃の剣のようなものであり、乱用されますと非常に困ることが起こります。自由が道を誤ると放縦になるように、自由には乱用の危険性があるのです。アメリカ式の自由主義経済にも同じ危険性があり、その路線を推し進めた小泉・竹中政権によって、今の日本は格差社会という大きな問題に直面しています。アメリカ式自由主義経済は、資本家と資本を持つ者たちが儲(もう)けるための自由ですから、それが高じると資本を持つ者と持たない者との貧富の格差が広がる構造になっているのです。以前の日本の自由主義経済は、儲けたものは儲けた者が独占しないで、その富をみんなに分配していくようにする仕組みになっていました。それで日本はかつて、世界で貧富の格差の最も少ない、平等で公平な社会を実現しておりました。
それが今はすっかり崩れてしまいました。いくら真面目(まじめ)に働いても貧しさから抜けられない人々を指すワーキングプアーという言葉が生まれていますが、そんな言葉は20年くらい前の日本には全くありませんでした。今の日本は経済的に立ち直りつつあると言われていますが、豊かになっているのは大企業・大資本家・有力な株主たちだけで、庶民の多くは豊かさを実感するどころか、どんどん貧困化していくことを肌で感じているのです。このように新たな奴隷状態が造られています。それがアメリカにおいてはもっと深刻で、アメリカは「貧困大国」と言われているくらいです。大国化をめざす中国も同じ道を歩んでいるように思われます。
 ですから、自由の乱用を防ぐことは、ものすごく大切なことなのです。そのための道といったら、「愛」しかありません。自由の乱用を防ぐためには、愛の道しかないのです。そのことを聖書は、本当に明解に示してくれています。与えられた自由を「肉の働く機会としない」こと。そう聖書は教えています。自分の資本を増大し、そのための働きの場を世界に広げていきたい。それがグローバリゼーションです。格好よさそうな言葉ですが、その内実は、愛の欠片(かけら)もない「弱者切り捨て」という肉の働きなのです。
 聖書は、ここでパウロの口を通し、「その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と命じています。このことに関しテマルティン・ルターは、キリスト者の自由の命題の第二として、次のように言います。「キリスト者はすべてのものに仕える僕(しもべ)であって、だれにでも服する。」
これら第一と第二の命題が矛盾なく成り立つところに、キリスト者の自由は存在する、とルターは教えてくれたのです。これは本当に正しい教えだと思います。
 自由主義経済が良い形になるためには、あるいは望ましい自由主義経済とは、経済がすべての人に服して仕える僕にならなければなりません。そのように主張する経済人がおられます。私は、つい最近、その方の感動的な講演を聴きました。品川正治さんという方です。経済同友会の終身幹事をしておられます。利潤はみんなと分け合わなければならない。以前の日本は、そのようにしてきたのです。そのやり方を今も続けていかなければならない、と品川さんは強調されました。それに欠かせないのが《愛の道》です。
自由が健全であるためには愛と肩を並べなければなりません。自由と愛とは、切り離すことができません。自由だけが野放しになったら、それはとても危険なものになってしまいます。自由が健全に働くためには、愛と堅く結びついていかなければなりません。愛は、いつも僕として、すべての人に服して仕える道を選ばしてくれるのです。イエス様ご自身がその道を歩まれました。イエス様は、だれにも服しない自由をお持ちの方です。それでも、イエス様はすべての人に服して仕える僕となる道を歩まれました。
十字架は、そのことを端的に示してくれています。十字架につけられたイエス様。すべての人の僕となって、ご自身をすべての人に与えてくださっているイエス様。私は、そのイエス様のお姿を、十字架で見ることができます。このような私にも、僕として仕えてくださっているイエス様です。このイエス様を知ることは、イエス様を知ることにおいても一番大事な側面ではないでしょうか。20世紀の最大の神学者はカール・バルトでしょう。私が彼を尊敬しているのは、このことを彼がよく理解していたからです。
彼は言います。《イエス・キリストは、主であると共に僕でもあり、逆に、僕であると共に主でもいらっしゃる》と。イエス・キリストは、僕である主、そして主である僕。そのように私たちも、しっかり受けとめたい。私たちは「イエスは主です」と言いますが、それは一面の真理であって、「イエスは私に仕えてくださる僕です」という大事な別の面があることを忘れてはなりません。私たちの主であるイエス様は、その完全な自由を肉の働く機会としないで、僕として私たちに仕える愛の道を歩まれています。このイエス様によって、私たちも《愛によって働く信仰への自由》に歩むよう召されているのです。
パウロは律法不要論者でなかったことを前にも学びました。パウロは愛に生きることにおいて、新しい次元で律法に回帰します。
その新しい次元での律法は、14節にあるように、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされているのです。この一語を全うするなら、弱者を切り捨てることなどできません。イエス様は、ご自身が、この新しい次元の律法の体現者でいらっしゃるのです。

律法の行いは、義認とは無縁であります。しかし、義認は聖化へと連結しているのです。このことから学ぶ大事な教えがあります。義認によって得られた[罪からの]解放の自由は、愛によって働く信仰への自由と連結しているのです。そうすることで、キリスト者の自由を乱用の危険から守ってくれるだけでなく、律法の全体を要約した隣人愛の戒めを実行させてくれます。それは聖霊の導きと助けによるのです。それで以下、「聖霊によって歩みなさい」(16節)という勧めに転じていくことになります。     (2007.10.14 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 13》 キリストにある自由と愛 ガラテヤ5:1~6

  今回の箇所は、前の箇所(4章)と深いつながりがあります。前回説教した4章21節以下は、アブラハムの妻サラとそばめハガルをめぐって、パウロが寓意的解釈をしている箇所でした。その解釈によると、ハガルは奴隷女の出身なので奴隷の子どもたちを表し、サラは自由の女なので自由の子どもたちを表している、というのです。
 その段落の最後の31節を見てから5章に進みたいと思います。「こういうわけで」で始まる31節は、この段落の結論みたいな内容です。「兄弟たちよ。私たちは奴隷の女[ハガル]の子どもではなく、自由の女[サラ]の子どもです。」 「私たち」というのは、キリスト者のことを指しています。「私たちは奴隷の女の子どもではない」と言うとき、「奴隷の女の子ども」が具体的に指しているのは、律法主義者たちのことです。彼ら(その多くはユダヤ人)はキリスト者であっても、律法を守ることによって神の祝福が得られる、と考えています。[パウロも以前そうであった]ユダヤ教徒たちも、それに含まれるでしょう。
しかし、実際には、ユダヤ人でないキリスト者の中にも、律法主義者がかなりいるかもしれません。この世には、いろいろな形で律法主義がはびこっているからです。キリスト者になっても、キリスト者になる前の考え方を保っている場合があります。「私はクリスチャンになったので、古いものはみんな捨てました」と口で言うことも、心で思うこともできます。でも、実際には古いものが残っている。そういうケースが多くあるのです。キリスト者として、自分は本当に新しくされている。だから、それにふさわしく新しくされ続けていく必要がある、ということをもっと真剣に考えなければなりません。
キリスト者である以上、だれでもイエス・キリストを信じる信仰が要(かなめ)である、ということは否定しません。この信仰によって救われるのだ、という点でも一致しています。それでも、《律法を守ること、とりわけ割礼を受けることも大切ですよ》と言う人々が[キリスト者の中に]いるのです。
しかし、パウロによると、キリスト者は律法の下にはない。律法を守り切ることなど人間にはできない。だから、律法を守ることを主にしていくなら、誰も律法を守れない。結局、律法によって裁かれるだけ。そのことをパウロは、律法の呪いと言いました。キリスト者は律法の呪いの下にあるのではなく、その呪いから解放されているのです。サラはそういう自由の女であって、律法の呪いから解放された人を代表しています。私たちキリスト者は自由の女サラの子どもたちです―そのようにパウロも私たちも言うのです。
それで5章に進みます。4章31節のギリシア語原文は「自由」という言葉が最後にあり、その言葉を受けて5章の文章が始まります。ですから、原文の語順を生かして、私訳のように「この自由のために、キリストは私たちを解放してくださいました」と訳すのがよいのです。「解放してくださいました」は「自由にしてくださいました」と訳してもよいでしょう。「ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと[律法の]奴隷のくびきを負わされないようにしなない」と続く忠告の文章で、5章が始まるのです。
一般には、5章からガラテヤ書の実践的勧告の部が始まる、と見られています。私も[三十数年前に]ガラテヤ書の注解書を『新聖書注解』のために書いたとき、一応そういう見方をしました。「一応」と言ったのは、別の見方も述べてあるからです。その別の見方が、今ではよいと思っています。それによると、5章1~15節は、3章から4章にかけて論じられてきた教理的論述の結びであり、実践的勧告は「私は言います。御霊によって歩みなさい」と命じる16節から始まるのです。1~15節は、前の部分の結びであるだけでなく、16節以下の実践的勧告への橋渡しをしていると見ると、ガラテヤ書の構成がもっとよく掴(つか)めると思います。
1~15節に、パウロは実践的勧告をほとんど記していません。記している箇所があるとすれば13~15節で、ここが前の部分と後の部分の橋渡しをしている主体であると見るのが、もっとよいかもしれません。いや、13節で「ただ、……愛をもって互いに仕えなさい」と勧められ、15節でも「気をつけなさい」と言われているので、13節から実践的勧告が始まり、13~15節はその重要な導入部と見ることもできるのです。
「この自由のために、キリストは私たちを[律法の呪いと束縛から]解放してくださいました。」「自由」という語は、パウロにとって、すごく大事なものであったと思います。彼は、福音の本質を《キリストにある自由》として経験しました。そのことを体で深く味わったのです。体験が彼の知識になっています。そういう知識が、本当に強い知識なのです。キリストがこの私を自由にしてくださった! これはパウロの宗教的体験に他なりません。この福音の自由を理解してほしい、という熱い思いで彼は口述しているのです。
「自由」という言葉は、福音書にはあまり出てきません。よく知られているのは、「真理はあなたがたを自由にします」というキリストの言葉です(ヨハネ8:32)。その「自由にします」は、ここで「解放してくださいました」と訳されているのと同じ動詞です。福音書には「自由」が名詞で使われる事例はありません。「自由」を名詞で一番多く用いているのはパウロです。それは彼が福音の本質を《キリストにある自由》と体験的に捉えていたからでしょう。それが何よりも大事なことであると思います。この大事なことを、私も体験的に捉えていきたい。皆さん一人一人も、そうあってほしいと願っています。
古代ギリシア人にとって、自由とは、奴隷ではないという意味での自由人のことでした。パウロは、3章28節で「奴隷も自由人もなく」と言っています。すると、外的束縛からの自由という意味が強いのです―政治的自由、社会的自由のように。当時のローマ帝国の社会は、人口では奴隷のほうが多いという、まさに典型的な奴隷制の社会でした。そういう中で自由人としての立場でふるまえたのは、限られた人々でした。しかも彼らは、多くの奴隷たちの犠牲の上に自由を享受していたのです。弱者が犠牲になって[いや弱者を踏みつけにして]強い者が自由を得ていたのですから、今から見ればいろいろな矛盾を抱えていました。そういうことで、この外的束縛からの自由というものには、限界があることを認めざるを得ないのです。
 ですから、自由を考える場合、外的束縛からの自由というだけでは足りません。政治的自由を獲得し、社会的自由を確保する。それらは大事な事柄でありますが、限界もあるのです。それで自由を、もっと人間の内面のものとして考えなければなりません。個人の内面的自由ということが、当然生じてくる大事な問題となるのです。しかし、それにも壁があることを知る必要があります。最後の壁は自分です。この《自分》という壁を破ることができるか。自分こそ、一番手ごわい相手[いや、最強の敵!]なのです。内面的自由を考える時も、この《自分自身という大きな壁があるのだ》ということを、しっかり弁えておかなければなりません。
 そういう中で、パウロは、キリストにある自由をどのように考えたのか。もちろん、外的束縛からの自由も、個人の内面的自由も、キリストにある自由の中には含まれています。しかし、それらだけだったら、限界があります。パウロは、この《キリストにある自由》の基盤を、何よりも《神との交わりの回復》という聖所に置いていたのです。そのように私は確信します。《キリストにある自由》とは、《神との交わりを回復することと共にある自由》に他なりません。言い換えれば、救いと結び付くわけです。
キリストによる救い(「私はイエス様を信じて救われました」ということ)は、神との交わりの回復である《キリストある自由》としっかり結び合わされています。キリスト者は、救われてどうなるのか。神との和解が成り、神の子とされ、神様を「アバ父」とお呼びすることができ、神様との交わりを回復させられています。その福音的恵みの現実こそ、パウロが《キリストにある自由》として受けとめていた内容である、と言ってよいでしょう。そこには愛が息づいています。ですから、キリストにあるとき、自由と愛とは切り離すことができません。それで説教題も「キリストにある自由と愛」としたのです。
 私たちが神との交わりを回復するために、神はどれほど私たちを慈(いつく)しんでくださったか、いや慈しんでくださっていることか。どれほど大きな愛を神が私たちに注いでくださっていることか。その神様の愛が息づく中で、私たちの神様との交わりの回復が実現し、キリストにある自由が与えられているのです。ですから、この「自由」の背後にあるものは、神との人格的関係に他なりません。そういう意味で、毎朝、神様との交わりを持つ、イエス様との交わりを持つ、聖霊との交わりを持つ―聖霊に導かれて、キリストにあって、父なる神と交わりを持つことが、キリスト者の自由の根本であるのです。
 毎朝のデボーションと呼ばれる神様とのお交わりの時が、《キリスト者の自由と愛》と深い関わりがあることを、皆さんはどれだけ意識されていたでしょうか。今、はっきり意識してください。「しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないように[キリストにある自由と愛を失わないように]」、神様とのお交わりを日々新たに保ち続けていくことが、何よりも大事になるのです。
パウロは2節から、「よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います」と、使徒的権威をもってガラテヤの諸教会に語りかけます。聴いてほしい内容は、「あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もない」ということです。キリスト信仰に加えて割礼を受ける必要があるとする人々の教えによってガラテヤ諸教会に混乱が生じていました。それに対処するために書かれたのが本書です。
「割礼を受けるすべての人に、私は[すでに3章で述べたのだが]再び証しします。その人は律法の全体を行う義務があります」(3節)。割礼を受けた人は、律法の全部を行うことが本当にできますか。できません。それで、これまで述べてきたことを締めくくるように、使徒的権威をもって断言します。「律法[の行い]によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」(4節)と。キリスト者として割礼がなお必要だと思う人は、キリストから離れてしまい、恵みから落ちてしまうことになるのです。この断定をしっかり受けとめなければなりません。
キリスト者にもいろいろあって、キリストを信じるだけでは足りないと思う、そのような事態に出くわす人もいるのでしょう。それでキリスト信仰に何かをプラスするということが、よくあるのです。そうすると、そのプラスしたものが、彼をキリストから離れさせ、恵みから脱落させることになってしまいます。ここでパウロは、割礼はだめだと割礼そのものを否定してはおりません。しかし、割礼に特別な効力があるわけではありません。また、無割礼であることが、自慢の種になるわけでもありません。
6節に進む前に、5節に少し触れておきます。「私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。」 まだ義をいただいていないのかなぁ、と誤解しかねない文章ですね。キリスト信仰によって、私たちキリスト者は皆、義をいただいています。そういう私たちが「義をいただく望みを熱心に抱いている」姿は、毎朝の神との交わりを考えていただければよいでしょう。義をいただいているからこそ、朝ごとに、神様とのお交わりを慕い、新鮮に義をいただいていくことができるのです。
6節を新改訳で読むと、「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」 「大事な」は原語をかなり意訳したもので、「役に立つ」という原意を生かしてギリシア語原文を私訳してみました。「割礼も無割礼も少しも役に立たず、役に立つのは愛によって働く信仰である。」 何のために、役に立つのか。もちろん《キリストにある自由》のためにです。割礼も無割礼も、キリストにある自由に生きるためには、少しも役に立ちません。
「役に立つのは愛によって働く信仰である。」「信仰」に「愛によって働く」という修飾句が添えられていることに、注目してください。「働く」は「行い」と訳されている名詞と同根の動詞です。「働く」ことは、「行う」ことであり、「実行する」ことであります。ですから、信仰は行いと無関係ではありません。信仰義認の教えが誤解されると、行いはどうでもよい、ということになりかねません。しかし、信仰と関係のある行いは「愛の行い」であり、その意味で、愛の行いと信仰は堅く結び合わされているのです。
自由と愛が結び付くように、信仰と愛も結び付いています。愛は行為であって、必ず行いを伴います。行いを伴わない愛は、偽りの愛であり、愛ではありません。キリストにある自由のために役立つ信仰とは、「愛によって働く信仰」であり、それは「愛の行いを伴う信仰」を意味しているのです。
ガラテヤ書と対比されることの多いヤコブ書には、「行いのない信仰は、死んでいるのです」(2:26)と言われています。その通りであり、パウロもここで「愛の行いの伴わない信仰では役立ちません」と間接に述べているわけですから、両者の間に矛盾はありません。「信仰、信仰」と言っても、愛によって働かない信仰であるなら、無いほうがましだという場合もあります。なまじ信仰があるために、その信仰が災いの種を蒔いていることがあるでしょう。信仰は愛によって働いてこそ、役に立つのです。ここで、パウロは、本当に大事なことを言ってくれています。
そして、愛の行いこそ、実は、律法の要約であるのです。少し先の14節には、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」と書いてあります。パウロは律法について、律法無用論者かと思えるくらい、ずいぶん否定的なことを述べてきました。しかし、彼は律法を否定してはおりません。むしろ《律法の全体は愛の行いによって全うされるのだ》と理解しているのです。

その点で、パウロは、キリストの律法理解(マルコ12:28-33参照)を正しく継承しています。パウロは「キリストの律法」(6:2)という言い方もしているのです。それはキリストが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と命じられた《愛の戒め》に他なりません。《キリストの信仰、キリストから賜る信仰こそ、私たちが愛を行う自由の源泉である》と言ってよいのです。 (2007.9.2 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 12》 隠されている別の意味を探せ

  今回の箇所は、パウロが自分の感情をさらけ出して語っている前回の箇所とは調子が一変し、お芝居でいえば舞台が反転するような感じがします。ここでパウロは、再び旧約聖書に訴えて、論証したいことを別の角度から述べてまいります。
その論証法は、ある意味で、意表を突くようなものです。少し想像を巡らせてみましょう。この手紙を口述筆記させているとき、パウロは前の箇所で、自分の感情を百パーセント高ぶらせる思いで語っている間に、思いついたことがあったのではないか。口述ですから、普通にしゃべる速さでしゃべり続けているわけではありません。一区切りの言葉を口にしたなら、それを筆記者が書き終えるのを見届けて、次の言葉を語ることになるので、その間にいろいろ考えることができ、また思いついたのではないでしょうか。それがこれから述べること表れていると思います。
訴えている旧約聖書の箇所は、アブラハムに関係があります。パウロは3章で、アブラハムに訴えて大事なことを述べてきました。ここでは、アブラハムの腹違いの二人の息子(イシュマエルとイサク)とその異母たち(ハガルとサラ)に光が当てられます。この二人の息子と二人の異母の物語が記されていのは、創世記16章1-16節、21章1-21です。
 書き出しの21節で、パウロはこれまでとがらりと調子を変えて、「律法の下にいたいと思う人は、私に答えてください」と言います。「律法の下にいたいと思う人たち」は、ガラテヤの諸教会を間違った方向に導こうとするパウロの論敵たちですが、その間違った教えに引きずられているガラテヤの諸教会の人たちをも暗に指しているでしょう。「これから私が言うことに答えてください」と、彼らに論争をしかける調子で、「あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか」と鋭く問いかけます。パウロは、律法の言うことを聞いていたと言い張る人たちに、「本当に聴いているのですか。そうではないでしょう」と強く迫っているのです。
 「律法」と言っても、ここでパウロが意味しているのは、律法の掟(おきて)ではなく、律法の書に記されている物語であることが[以下の展開から]分かります。モーセ五書の最初の創世記には、律法の掟はなく、ほとんどすべてが物語です。その創世記に書いてある物語を「あなたがたは本当に聴いているのか、本当に知っているのか」と鋭く問いかけて、22節以下に進みます。
 その物語には、「アブラハムには二人の子があって、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた」と書いてあります。女奴隷はハガル、自由の女はアブラハムの妻サラです。アブラハムとサラ夫妻には子が授からないまま、不妊の女であったサラは子を産める年齢を過ぎてしまいます。そこでサラは、当時の慣習にならって現実的な対策を採ります。自分の代わりに奴隷女を夫に差し出して子を産ませたのです。そのようにして生まれた子は、女主人である自分の子になります。こうしてハガルとアブラハムとの間に生まれた男の子がイシュマエルなのです。
 これは《アブラハムの子孫によって全世界の国々の民が祝福を受ける》という神の約束と深い関わりがあります。この約束が成就するために、まずアブラハム夫妻は子を授からなければなりません。そうでないと子孫が絶え、約束が無効になります。夫婦の間に子が生まれなければ、別の対策を講じる必要があり、サラは自分の女奴隷を夫に差し出して子を産ませることにしたのです。
「女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです」(23節)。「肉によって」とは、《男と女との自然の関係で》という意味です。アブラハムとサラとの間にも、人間的には不可能であったのに、なんと子が生まれます。それは神の約束であって、約束の成就として子が生まれるのです。そんなことをアブラハムもサラも、まともには信じませんでした。子を授かると聞いたとき、《そんな馬鹿なことが》という思いで、アブラハムもサラも笑ったと書いてあります(創世17:17;18:12)。それにもかかわらず子を授かったのは、「肉によって」ではなく、まさに「約束によって」であります。この約束の子がイサクです。
24節に、「このことには比喩があります」と書いてあります。「比喩があります」と訳された原語アレゴレオー(動詞)は、英語のアレゴリーの元になっていますが、内容的に掘り下げると「もっと深い別の意味が隠されている」という意味です。文字の表面的な意味のほかに別の意味が隠されていて、その隠されている意味のほうが大事である、という含みがあります。《その隠されている別の意味を探りなさい》と言われているのです。
その隠されている意味を探ると、「この女たちは二つの契約です。」 彼女たちにはもっと深い別の意味があり、それが二つの契約なのです。このことをパウロは、先に触れたように、口述筆記する合間に思いついたのではないでしょうか。このことは、私の小さい経験からも分かります。不思議に着想が湧いてくるのです。突飛(とっぴ)なものではなく、脈絡の中にきちんと位置づけられた着想であって、それが隠された別の深い意味を明らかにしてくれます。パウロは霊感によって、そういうすばらしい着想をたくさん神様から授かったのではないでしょか。旧約聖書の知識をしっかり身に着けていたパウロは、それだけの素養を備えていたのです。
ハガルとサラには隠された別の意味があります。それは二つの契約である。このことにパウロは(そして私たちも)気づかされました。「一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。」ハガルのほうはシナイ山から出ている契約(シナイ契約)で、古い契約になります。パウロの洞察によると、ハガルは古い契約を指しているのです。すると、サラはどの契約を指すのか。ここに明記されていなくても分かります。それはイエス・キリストを仲介者とする新しい契約です。これはシナイ契約に対してキリスト契約と言うことができます。
 すでに3章でパウロは申しました。《シナイ契約に基づく律法は、新しい契約を立てるキリストが来られるまで、その役割を担ったのである》と。それでパウロに、聖霊の導きによって《ハガルはシナイ契約、サラはキリスト契約である》という着想が湧いてきたのである、と私は思います。
 ハガルはシナイ契約を指すので、25節で「このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります」と言われているのです。当時のエルサレムは、ユダヤ教の本山であり、ユダヤ教そのものを指していると言ってよいでしょう。あるいは、律法主義的なキリスト教を指しているのかもしれません。「なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。」 
パウロはすでに3章で、《律法の行いによって救われようと思うなら、全く望みがない。私たちは律法のすべてを完全に守り切ることなどできないのであるから。律法の下にあるなら、その奴隷となり、そののろいの下に置かれるだけである》ということを、縷々(るる)述べてきました。シナイ契約に基づく律法は、ハガル自身が女奴隷であるように、人を自由にするのではなく、奴隷の子を産むことしかできないのです。
26節では、サラの名を挙げるまでもなく、「しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です」と述べています。ハガルのエルサレムに対して、サラは「上にあるエルサレム」と言われます。これは単に上にあるだけでなく、「上から来ているエルサレム」の意味合いがあり、そのほうが強いかもしれません。上にあるのを私たちがただ単に望んでいるのではなく、《「上から来ているエルサレム」が私たちのところにあるのだ》という[信仰的な]意味が強いと思います。それをパウロは《教会》と考えました。この「上から来ているエルサレム」こそ、キリスト契約(新しい契約)に基づく《キリストの教会》であり、人々を自由にします。キリストの福音が人々を罪の束縛から解放し、律法ののろいからも解放してくれるからです。
さらに「私たちの母です」と言います。サラはたくさん子を産む母なのです。教会はたくさん自由の子を産みます。母である教会の概念が、ここではっきり教えられていることに、注目してください。カルヴァンは、この教えを大事にしました。神は私たちの父であるけれど、私たちの母はいないのかという質問に、カルヴァンは《私たちの母は教会である》と明確に答えているのです。
「私たちの母」はたくさんの子を産むことが、27節に述べられています。ここにイザヤ書54章1節の預言が引用されています。イザヤ書54章の背景にある時代は、紀元前六世紀の後半です。その半世紀ほど前の紀元前六世紀初めころ、ユダ王国(ダビデ王朝)がバビロンに滅ぼされ、エルサレムは陥落して神殿も焼かれてしまいました(前587年)。そのときエルサレムや周辺の住民の多くがバビロンに連れていかれ、そこで捕囚生活を送ることになりました。《バビロン捕囚》と呼ばれる出来事です。しかし、半世紀ほど経過すると、バビロンが滅亡し、捕囚から解放される時が訪れます。バビロンからエルサレムへの帰還を許されたユダの人々は、荒れ果てた祖国の再建にとりかかります。そういう時期に語られた預言からの引用なのです。
「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ」と呼びかけられている「不妊の女」はサラのことを意味しているかもしれません。サラは「不妊の女」でしたから。だけど、ここで「不妊の女よ」と呼びかけられているのは、半世紀も荒廃の中に置かれていたエルサレムのことであると思います。当時のエルサレムは、城壁が破壊され神殿も焼け落ちたままで、見る影もないほど荒れ果てていました。「産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」 これは、《夫に捨てられた女のように無惨なエルサレムが、たくさんの子どもを産む祝福された女になる》という預言なのです。
では、いつ、どのように、この預言は成就したのか。バビロン捕囚から帰還したユダの民がエルサレム復興に取り組み、神殿を再建したり、城壁を築き直したりします。それでも、その後の経過を見ると、すべてが良かったわけではなく、様々な困難が続いて止むことがありません。この預言が成就したとは思えない情況が続いておりました。
パウロは、ここで《この預言は、イエス・キリスト及びキリスト契約に基づく教会において、自由の子どもがたくさん産まれていく情況において成就しているのだ》と、私たちに教えてくれています。「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです」(28節)。イサクのように自由の女サラから産まれた自由の子どもたち―これはガラテヤの諸教会の信徒を含む、私たち教会の子どもたちのことを指しているのです。
 「しかし、かつて肉によって生まれた者(イシュマエル)が、御霊によって生まれた者(イサク)を迫害したように、今もそのとおりです」(29節)。創世記の物語には、イシュマエルがイサクを迫害したことは書いてありません。この事実はユダヤ教の伝承によるのでしょう。《イシュマエルがイサクを迫害したように、今も、律法による人々が、律法ののろいから解放された人々を迫害している》と、パウロはガラテヤの諸教会で今起っている状況を見て、解釈しているのです。
こういう解釈法を寓意的解釈と言います。歴史的・文法的・字義的解釈が尊重される現代では、寓意的解釈は疎(うと)んじられる傾向があります。しかし、近代以前には、寓意的解釈が聖書解釈の主流であったのです。聖書に書かれている昔の事柄を現在の私たちにとっても大事な事柄として受けとめる道を示唆してくれていたのが、この寓意的解釈であると思います。この点での寓意的解釈の有効性を軽んじはなりません。
聖書は古い時代の書物です。それが《神のことば》として、現在の私たちにとってどういう意味があるか。そのことが絶えず問われています。そのため[聖書は歴史的に成立した文書なので]聖書の歴史的研究が必要です。しかし、それだけでは、《聖書が告げる昔の出来事は現在に生きる私たちにとって何を意味するか》という、もっと切実な問題には応えられません。聖書は最終的には聖霊の導きによって理解させられていくものであり、これが一番大切なことです。
この29節の現状は、今の日本の現状にも別の形で起っているのではないか。そのことに気づかされたので、週報の説教要旨にも書いておきました。「律法の下にいたいと思う人たち」は、日本の戦後レジームから脱却して、戦前の古いレジームへの回帰を熱望している人たちです。そういう日本人がかなりいて、戦後の新しいレジームを特色づける平和主義の人たちを押しつぶそうとしている。そういう現実を私は見るだけでなく、強く感じています。戦後レジームからの脱却を叫ぶ[軍国主義に変身した]律法主義が、平和主義の戦後レジームを押しつぶそうとしている。そういう現実を私は肌で感じています。
「しかし、聖書は何と言っていますか」(30節)。その後、創世記22章10節を引用します。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」 ハガルとイシュマエルは、ついに追い出されます。これはそういう物語として、その枠内だけで理解してください。物語の枠を越えて普遍的に理解されると、福音の真理に背くことになります。創世記の物語でも、追い出されたハガルとイシュマエルを神があわれんでくださった感動的(福音的!)な記事が、すぐ後に続いているのです(21:14-21)
パウロが一番言いたいのは、《大事なのは自由で、その自由をキリストの福音が私たちに与えてくれるのだ》ということです。それで5章において、キリスト者の自由の論述へと進みます。神の国の相続人は、自由の女の子どもです。奴隷の女の子どもは、神の国を相続することができません。神の国は奴隷の国ではなく、自由の国であるからです。この自由は基本的人権でもあり、思想・良心の自由、信教の自由等が尊重されるところに神の国があります。この自由を束縛する行為は、神の国に反対する行為となるのです。

 ハガルとサラのことから、そこに隠されている意味としての二つ契約(古い契約と新しい契約)を抽出しました。古い契約は奴隷の子しか産まない。新しい契約こそ自由の子を産むのだ。罪の赦しと永遠のいのちを得て私たちを神の子とする自由は、新しい契約に基づく福音が与えてくれます。キリストの教会こそ福音の自由の根源なのです。蓮沼キリスト教会も、いつも活けるキリストが現臨される場所であり、自由の根源であり続けることができるようにと祈ります。 (2007.8.19 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 11》 あの喜びは、今どこにあるのか

  今日は7月8日で、昨日が7日でした。この7月7日は、七夕(たなばた)として知られています。しかし昨日は、盧溝橋事件で日中戦争が始まって70周年ということで、めずらしく新聞やテレビで取り上げられていました。中国では毎年、この日は「七・七記念日」として国を挙げて覚えられています。もう一つ、私の受洗日である9月18日が、日本の中国大陸への侵略戦争が本格化する満州事変開始の日で、中国では「九・一八記念日」として国家的に覚えられているのです。そのことを日本人も忘れてはならない。過去の歴史の事実をしっかり学び、それと向かい合っていくことを大切にしましょう。
 さて、今日説教するのはガラテヤ書4章8節からです。ガラテヤ書は、非常に起伏に富んだ内容で《読む者をして飽きさせることがない》という感じがします。少し難しいと思われる箇所もありますが、読んでいて飽きることがない文章であると思います。最初からパウロは挑戦的な調子で書き始め、ガラテヤ人に強く迫っているのです。そのため自分の使徒的権威を意識し、強調しております。そして、使徒の権威にかけて語る自分の福音の確かさ、真実さを彼は力を込めて訴え、語り告げているのです。その福音の真実性を、彼は、旧約聖書の救いの歴史(救済史)に照らして論証してまいります。
それだけだったら難しくてつまらなかったかもしれませんいが、そこにパウロは自分の体験を織り込み、心情を吐露するように語っているので、読む者や聴く者に切々と迫るものがあります。そしてパウロは、《キリストが世に来られたことは、すごい出来事、まさに終末論的出来事である》と受けとめました。「終末論的」というのは、それで終わりということで、一回ですべてを包含することを意味します。ですから、繰り返し起こることはありません。《キリストの来臨は、そういう出来事である。まさに歴史を転換させるような出来事である》と、彼は理解したのです。それも彼が頭で考え出したものではなく、彼の救われた霊的体験から得られた理解であった言わなければなりません。
 パウロは、理論的な人でした。彼の書いた手紙で一番代表的なローマ書には、福音の教えがきちんと系統だって述べられています。「福音の真理を知りたければローマ書を学べ」と、私がキリスト者になって間もない頃、よく聞かされました。それで私は、内村鑑三の『ローマ書の研究』を熱心に読んで教えられ、信仰の骨格を形づくられたように思います。このローマ書は内容が難しいと言われますが、それも道理で各節の文章が、丁寧に訳すと「なぜなら……であるからです」と、前節の理由を述べるという形式で続いています。こういう理詰めの文章を書くのですから、彼は確かに理論の人であり、神学者パウロと言われてもよいのです。
 しかし、それ以上に彼は情熱の人でした。彼の当時、50歳くらいにもなって、あれだけの大旅行をしたのです。当時の50歳は今の80歳くらいに相当します。今の私くらいの年齢です。私にこれから、あのような伝道活動をやれと言われて、できるでしょうか。それを思うと、彼は本当に情熱の人だったんだなあ、とつくづく思わされます。彼は頭でよく考えたけれども、それ以上に考えたことを実行するためによく動きました。
彼は当面の問題を解決するために、聖書によって論証することに力を注ぎました。しかし論証だけで問題が解決するとは思っていませんでした。理屈だけでは人はなかなか動きません。苦楽を共にした体験や、お互いに心を通わせ合う心の交流があってこそ、人の心は動かされるのです。そのためには、相手の立場をよく理解し、相手にも自分の立場を分かってもらえるようにする。そういう交流があってこそ、理論も生きてくるのです。  
 それでパウロは、ガラテヤの教会員たちと開拓伝道期に、本当に苦しみも喜びも共にした体験を思い浮かべながら、そのことを忘れてよいのか、「あの喜びは、今どこにあるのか」と、この手紙の受け手であるガラテヤの諸教会の人々に迫っています。それが今回の箇所でありますが、そういうことが問題を解決する大きな力[決め手]となるのだ、ということをパウロは知っていたのです。
 先日、私は石橋湛山のことを取り上げた「この時、歴史が動いた」というテレビ番組を見ました。石橋湛山のことは知っていて興味があったので見た番組ですが、それだけの甲斐(かい)がありました。改めて彼が、あの満州事変以来、その前から日本の侵略政策に経済的な面から厳しい批判を向けていた先見の明に対して、敬服の思いを新たにさせられました。中国を侵略しないでも、日本の生きる道はあるのだ、日本は経済的にもやっていけるのだ、と彼は経済学者として主張し続けてきました。《隣国とは心を通わせていかなければならない》という思いを、彼は強く抱き続けてきた人であったのです。
 戦後、政治の世界に登場して総理大臣になった時期(1957年12月)がありました。まだ私の社会的関心への目覚めが不十分であった頃であったのに、私は石橋内閣の誕生で、日本はよくなるのではないかと期待しました。それが病のため退陣し、たった二ヶ月の短命内閣で終わったのです。首相に就任すると、持論である《これまでのアメリカ一辺倒の政策を脱して、中国との関係を結ぶようにしなければならない》という考えを述べるため全国を遊説しました。その疲れもあってか彼は脳梗塞で倒れたのです。しばらくの静養が必要であるとの診断を受け、彼は潔く総理の職を辞したのですが、回復後、不自由な体を押して中国へ渡り、周恩来に会って日中関係を回復する基礎を築きました。
その石橋湛山が最後に言ったと伝えられる言葉が、私の心に深く刻まれました。「人を動かしていくのは理屈ではない。それは同情である。相手の立場に立って考えていくことなのだ。」 本当にそうですね。同じ情が通い合うときに、人は動き、問題は根本的な解決の方向に向かっていくのです。
パウロも、ガラテヤの諸教会の問題を解決するに当たって、論証だけで事を済ませることはしません。彼らと心を通わせ合うことをしたいと、自らの心情を吐露して語りかけています。ここは、特に11節以下が、そのような箇所であるのです。それだけに今回の箇所は、とても魅力のある所であり、また感動的な所でもあると思います。
 8節から10節を見ると、ここでパウロは、過去と現在との大きな違いに気づかせようとしています。「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした」(8節)。これはガラテヤ人の過去の姿を述べています。彼らは、この世にあふれた「神でない神々の奴隷」であったのです。9節を見ましょう。「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力な、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」 
  ガラテヤ人は、かつては「あの無力な、無価値の幼稚な教え」のとりこになっていました。「幼稚な教え」は、ストイケイアの訳語です。英語のエレメントにあたる意味がある語で、基礎的な事物、地・水・火・風を指すこともある。そのようなものが霊的な力をもって世界(特に星)に宿っているという考えから「世の霊力」と訳されることもある。それから「基礎的な教え」を指して用いられる場合もあり、新改訳はそれによっているのです。かつてガラテヤ人がストイケイアの奴隷であったとしても、まことの神を知らなかったのですから、やむをえないことでした。
 そのガラテヤ人は、パウロを通して、イエス・キリストの福音において現された「まことの神」を知らされました。この「まことの神」は、もう少し厳密に表現するなら、《キリストの十字架と復活の出来事において啓示された神》に他なりません。第一に、福音において示された神は、《十字架につけられた神》であります。十字架のシンボルは、その意味において大事です。しかし、それだけでなく、《十字架の死からよみがえらされた神》でもあります。この「まことの神」を信じることによって、ガラテヤ人はストイケイアから解放されるという自由を与えられ、本当に喜んで新しい生活を始めたのです。
 しかし、そのガラテヤ人が新しい生活から古い生活へ逆戻りする、という事態が生じました。「あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています」(10節)。これは肯定文に訳していますが、9節に合わせて「あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っているのですか」と疑問文に訳したほうがよいと思います。せっかくパウロから聴いた福音によって新しい生活に生きる喜びを味わってきたのに、またそれから離れて逆戻りしていくガラテヤ人を見て、「あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています」(11節)と、自分の胸のうち(心配)を打ち明けているのです。
 それでパウロは、「お願いです。兄弟たち」と呼びかけ、彼らの心に迫るように訴えています(12節)。「私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから」と。この表現の背景にあるのは、Ⅰコリント9章19-23節です。キリスト者の自由についてパウロが論じている、そのさわりのような箇所であります。パウロはこう言っているのです。《福音のためには何でもしている私、この私のようになってください。私も福音のために[異邦人である]あなたがたのようになったのですよ》と。彼はガラテヤに行ったとき、ガラテヤ人のようになって、彼らと福音の恵を分かち合い、共に福音の恵みにあずかろうとしました。その結果として、ガラテヤの諸教会が誕生したのです。
 「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした」(13節)。パウロは困難な伝道旅行を50歳代になってしたのですから、かなり壮健な身体を備えていたと思われます。しかし、ガラテヤに行ったとき、彼は肉体の弱さを覚えていたと告白しています。それで彼がガラテヤへ行ったのは、福音伝道のためよりも静養が目的であったかもしれません。彼の「肉体の弱さ」が何であったかは分かりません。15節に、ガラテヤ人が「もしできれば自分の目をえぐり出して私(パウロ)に与えたいと思った」とあることから、目の病気ではなかったかと言われることもあります。
 コリント第二書12章に、パウロは「肉体に一つのとげ」を与えられ、それが取り去られることを三度も祈ったが取り去られず、《むしろ弱さのうちにこそ神の恵みが完全に現されるのだ》ということを教えられた、と書いております。パウロの肉体に「一つのとげ」と呼ばれる欠陥があったことは事実です。それはガラテヤ人に不快感を与えかねないものであったのでしょう。彼は14節に、「そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました」と書いているのです。
その時のことをパウロは、忘れることができず、昨日のことのようにはっきり思い出しています。その時のことは、ガラテヤ人も忘れていないでしょう。それはキリストの福音が彼らの心に深く入りこんだ証しであったからです。「それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか」(15節)。《自分の目をパウロに与えたいとまで思った》彼らの喜びを、よもや彼らが忘れてはいないでしょう。そんな思いで、パウロは彼らに語りかけているのです。
 ガラテヤの諸教会の設立には、本当に多くの苦しみがありました。19節後半の「私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」という言葉が、それを示唆しています。最初にした産みの苦しみは、ガラテヤの諸教会を誕生させる時でした。そのようにして産み出したガラテヤ教会の信徒たちに、パウロは母親の情(母性的感情)を抱いていたように思います。産みの苦しみの後には、大きな喜びがあります。パウロがその喜びを忘れるはずはありません。そして産み出された者たちも、その喜びを共有していました。その喜びは、今どこにあるのですか。 
 この問いかけを、蓮沼キリスト教会が、また教会に連なる信徒一人一人が、しっかり受けとめなければなりません。年月を経ると、どれほど大きな喜びも感動も、惰性で次第に薄らいでいく危険があります。ですから、キリスト者である喜びが薄らいでいかないように、忘れてしまわないように、絶えず、毎日、思い起こすことが大切なのです。朝ごとに、活けるイエス様とお会いし、お交わりして、イエス様が私と共にいてくださる喜びと感謝を新たにさせていただきましょう。これが一番大切なことです。
教会においても、毎週の礼拝において、ここに主イエス様がおられる。そのイエス様の体(からだ)に私たちは召されているのだ。イエス・キリストが私たちの教会の主でいらっしゃる。その御翼(みつばさ)の下に私たちが置かれているのだ。それらの喜びを週ごとに、新たにしていくこと。それが本当に大事なことなのです。ただ教理を学び、聖書の教えを学んでいれば良いのではありません。日本長老教会は教理とその学びを大事にしています。私も聖書の教えと教理を[誰にも負けないように]よく学んできました。しかし、それで足りるのではありません。
それらの教えや教理が生きた力となるためには、福音の恵みにいつも私たち自身が新しくされていなければなりません。私も自分が19歳で救われた日のことを思い起こします。あの喜び、本当にうれしかったあの喜びを、現在78歳ですから60年近く経ちますが、この今によみがえらせていただいて忘れないようにしたい、と願っています。
 ガラテヤ人を誤りに導いた偽(にせ)教師たちがいました。彼らは熱心でした。その熱心さのゆえに、ガラテヤ人は彼らに引かれていったのでしょう。「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを[福音の恵みから]締め出そうとしているのです」(17節)。私たちを福音の恵みから締め出そうとする力は、いろいろな形で絶えず働いています。

パウロは19節で、「私の子どもたちよ」と母親の愛情を込めて呼びかけ、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。[この手紙を書いているのもそうですよ]」と言います。大事なことは、キリストが私自身のうちに形造られ、そして教会のうちに形造られていくことです。それほどにキリストとの交わりが新鮮であり、霊的な現実性を持つとき、そこに救いの喜びが満ちあふれるのです。       (2007.7.8 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 10》 「アバ、父」と呼ぶ御子の聖霊を

  ガラテヤ書の連続説教を月に一回させいてだき、今日は第10回になります。説教する箇所は4章1~7節ですが、とても大事な所です。いつも「ここは大事な所だ」と言っているようで、どこが本当に大事なのか分からない、とおっしゃる方がいるかもしれません。しかし、今日の所も本当に大事なのです。それで、しっかり心に刻むように聴いていただけたら、うれしく思います。
 《イエス・キリストがおいでになった》ということは、ただの出来事ではありません。これは天地がひっくりかえるような、大きな出来事であったのです。そう思わない人にとっては何でもないことですが、そう思う人にとっては、パウロにとってもそうでしたが、まさに驚天動地、天がびっくりし地が動くような出来事でありました。それには旧約聖書という背景があります。
 神は、イスラエル民族をお選びになり、アブラハムに約束をなさいました。それが、神が罪に陥った人類を救うお働きをなさる最初の重要な出来事でした。旧約聖書から新約聖書に至る神のお働きの歴史は、救いの歴史、すなわち私たち人類を罪から救い出そうとする神のお働きの歴史であります。この救いの歴史を、少し難しい言葉では《救済史》と言います。イエス・キリストが来られたという出来事は、救済史のクライマックスの出来事であったのです。
 アブラハムに対する神の約束が、イエス・キリストの到来によって、本当の意味で、まさに充実した意味で成就したのです。神は、《アブラハムの子孫を祝福し、その子孫が全世界の民の祝福の基となる》と約束されました。アブラハムの子孫は、肉においてはイスラエル民族です。その《イスラエル民族が全世界の民の祝福の基となる》ということは、誰によって実現したのか。もちろん、イエス・キリストです。アブラハムの子孫としてエス・キリストがおいでになり、イスラエル民族だけではなく、すべての人々の祝福の基となってくださいました。
 神の約束が成就するということは、《終わりの出来事》と言ってもよいのです。「終わり」は、少し難しい言葉で「終末」と言います。そして終末論的という言葉があります。イエス・キリストがおいでになったことは、まさに救済史における終末論的出来事でありました。だから、それは驚天動地の出来事
であったのです。「パウロにとっては、そうだったのかなあ」という思いで、お聞きになった方もいるかもしれません。しかし、この私にとりましても《まさに同じように驚天動地の、天を驚かせ地を動かすような出来事なのだ》ということが実感できるようになれば、本当にすばらしいのです。
 パウロがこれを書いたのは、自分だけがそういう体験をして、自分だけが喜び満足するためではありません。この手紙はガラテヤの諸教会に送られましたが、その諸教会の信者たちも、自分が体験したのと同じような体験をしてほしい、自分のこの体験を共有してほしい、という願いを込めて書いています。このパウロの願いは、二千年後にガラテヤ書を読んでいる私たちにも、同じように向けられているものと思います。イエス・キリストがおいでくださったことは、《私たちにとっても、救いの歴史におけるクライマックス、まさに終末論的出来事である》という認識をしっかり持ちたい。また、そのことが、《私にとっては、驚くべき、まさに感動的な出来事なんだ》ということを、この説教を通して感じていただければ、うれしいです。
終末論的出来事の特色は、それが終わりの出来事であるため、決定的な意味を持ち、変わることがありません。神の約束は、イエス・キリストの、とりわけ、その十字架と復活の出来事において、決定的な意味において成就しているのです。説教壇の後ろに十字架が掲げられ、その両脇から光が当てられています。復活の光に照らされた十字架です。十字架につけられて死んだイエス様を、父なる神は死からよみがえらせてくださることによって、《私たちの罪を赦し、私たちに永遠のいのちを与え、私たちを神の子としてくださる》という救いの恵みに、私たちをあずからせてくださっています。《この復活の光に照らされた十字架によって、私の救いが全うされているのだ》という感謝と感動を、私はいつも[説教壇の後ろの十字架を見つめながら]新たに覚えさせられているのです。
 さて、4節を見てください。「定めの時が来た」という新改訳の訳文は、2節の「父の定めた日まで」に合わせた感じがしますが、ギリシア語原文の両者は全く違う言葉です。ここは原語に忠実に《時の充満が来た》、すなわち「[神がアブラハムへの約束を実現しようと歴史の中に働いて来られた]時が[ついに]満ちた」と読むべきでしょう。そうすると、新共同訳が「時が満ちると」、口語訳が「時が満ちるに及んで」と訳しているのは、どちらも適切な訳文であると思います。
そのように時が満ちると、神はご自分の御子を遣わしてくださったのです。「しかし時が満ちると、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。」 キリストは神の御子ですから、神と同じ性質を持ち、まさに神であられます。そのような方が「女から生まれた者」とされたのは、すべて女から生まれる人間と等しい者とされた、ということに他なりません。また「律法の[のろいの]下にある者」も、人間のことを言っています。ですから、神はご自分の御子を、まさに普通の人間として、言い換えれば《まことの人》として、この世に遣わしてくださったのです。
 その目的が、5節に書いてあります。これは「律法の下にある者(すなわち私たちを含むすべての人)を贖い出すため」です。3章13節を思い起こしましょう。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」 私たちを律法ののろいから贖い出すために、キリストが私たちのためにのろわれたものとなってくださったのです。それこそ、キリストが十字架につけられたことの大事な意味であります。
私たちがのろわれて置かれるべき所に、イエス・キリストが身を置いてくださったのです。私たちが受けるべきのろいをキリストが十字架の死において受けてくださいました。そのようにして、キリストは私たちを律法ののろいから贖い出して[すなわち律法の奴隷状態から自由の身とするために買い戻して]くださったのです。そのことを、ただ「そうか」というくらいで簡単に済まさず、よくよく自分の身に当てはめて、じっくりと黙想してほしいと思います。
 先週、私は郡山アシュラムに参加して、ヤコブ書の静聴をしました。そしてヤコブ書から、とても良い言葉を教えられました。それは、神の言葉を聴いて、それを私の「心に植えつける」ということです(ヤコブ2:21参照)。これは本当に良い言葉ですね。なぜ私は、この言葉に今まで気づかなかったのか。そんな思いを強くさせられました。神の言葉をしっかり私の心に植えつけていく。植えつけられるなら、それが芽を出して、やがて幹となり、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結んでまいります。イエス・キリストが私のために十字架につけられ、私の受けるべきのろいをご自分の身に負ってくださった。このことを深く自分の心に植えつけるように受けとめていただきたい、と願っているのです。
 そんなことはどうでもいいと考える人と、それを実行する人とでは、キリスト者生活の質が全く違ってしまいます。神がキリストにあって望んでおられるように(Ⅰテサロニケ5:16-18参照)、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する生活をしたい(ウェストミンスター小教理問答第1問から教えられるように、神の栄光を現す生活をするために、永遠に神を喜ぶ生活をしたい)と願うなら、キリストが私のために十字架につけられ、私の受けるべきのろいをご自分の身に負ってくださった事実と、その事において示された福音の恵みを、自分の心に植えつけるようにしてください。ぜひ、そうしてほしいのです。
さらに5節後半に、神が御子を遣わされた目的に伴う結果が書いてあります。「その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」と。その結果が大事ですね。それは「私たちが子としての身分を受けるようになるためで」あります。私たちは罪の奴隷から買い戻されて、神の子としての身分を授けられ、神の子として受け入れられるのです。そのためには、罪の赦しだけではなく、永遠のいのちが必要であります。そのためキリストは、死者の中からよみがえらされて、死に打ち勝ったいのち(それこそが永遠のいのち)を持つ方となり、その永遠のいのちをご自身とともに私たちに与えてくださるのです。そのように、神はキリストにあって罪の赦しと永遠のいのちを私たちに与え、私たちを神の子としてくださいます。
イエス・キリストは、初めから神の子であられます。永遠の神の御子と呼ばれてよいお方です。私たちは初めから神の子であったのではありません。罪ののろいの下にあった者であり、悪魔の子とさえ呼ばれた者でありました。そういう私たちが神の子とされたのです。イエス様が神の実子であるならば、私たちは神の養子ということになります。でも、養子であっても、特権と身分においては実子と変わりありません。たとい養子であっても、子としての身分と特権は百パーセント享受しているのです。神の相続人としては、実子も養子も変わりがありません。「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人である」のです(ローマ8:17)
そのように神の子としての身分を与えられた証しとして、説教題に掲げたように、神は「『アバ、父』と呼ぶ御子の聖霊を」私たちの心に遣わしてくださっています。6節に「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊(聖霊)を、私たちの心に遣わしてくださいました」と書いてあるとおりです。
どうして私は神の子であるのか。その証拠あるいは保証どこにあるのか。その証拠と保証は、聖霊を私が与えられていることにあります。聖霊は御子の霊であって、それを与えられた者の内に働いて、神を「アバ、父」と呼ばせてくだるのです。イエス様ご自身、神を親しく「アバ、父」と呼んでおられました。これは、神の子たる者の神に対する信頼の呼びかけであります。
神を「父」「お父さん」と呼ぶことができるのは、子であるからです。この父には、母の意味も含まれていると思います。父・母を合わせた父と考えていただいてかまいません。神が私の父・母であるのは、聖霊を与えられて私が神の子とされているからです。聖霊が私たちに「アバ、父」と呼ばせてくださいます。ですから、朝、神様とお交わりするときに、「アバ、父」と親しく呼びかけていただきたい。《神様、あなたは私のお父さんです。私はあなたの子です。》こんなにうれしいことは、ないじゃありませんか。
イエス・キリストは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けたとき、天からの声を聴かれました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)という声です。イエス様は、洗礼など受ける必要がありませんでした。それは罪の悔い改めの洗礼であったからです。それでもイエス様があえて洗礼を受けられたのは、私たちのためでした。それは、《私たちがイエス・キリストの御名によって洗礼を受けるとき、その声を聴くことができるように、というご配慮であった》と思うのです。
私たちも今、一人一人が、その天からの声を聴きます。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という、父なる神[イエス・キリスト]の御声を聴くことができるのです。こんなにうれしいことはありません。その御声を朝ごとに、神との交わりの中で、聴いてほしい、聴き続けてほしいのです。
 7節には、「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です」とあります。神の子である私は、神の財産(永遠の祝福、永遠のいのち)を相続することができるのです。なんとすばらしい恵みでしょう。キリストがおいでになることによって、パウロはそのことを深く体験させられたのですが、私たちも同じように体験させていただくことができるのです。
 1~3節にも触れて終わります。1~2節についてですが、キリストが来られるまで、ユダヤ人(イスラエル人)も父の全財産を受け継ぐ相続人としての資格を、まだ十分持ち得ておりませんでした。まだ子ども(未成年者)であって、後見人や管理者の下に置かれ、実は奴隷と少しも違わない状態にあったのです。それでユダヤ人も[異邦人と同じように]、キリストによって奴隷状態から解放されなければなりません。
 3節は、私たち異邦人について言われています。それなのに、パウロは自分を異邦人の立場において、「私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました」と言います。「幼稚な教え」は、ストイケイアというギリシア語の訳です。このストイケイアは、初歩的・原理的なものに関わるので、原理的なものを意味することもあります。私たち日本の国に生まれ育った者たちは、どんなストイケイアの下にあるのでしょうか。私は思い切って言いたいのですが、多くの日本人は、天皇制というストイケイアの下に奴隷となっているのではありませんか。
多くの日本人は、知ると知らざるとに関わらず、天皇制のとりこになっています。そのことは、明治維新以降、昭和の十五年戦争の敗北に至る70年余りの間に、顕著になった事実であったのです。天皇の権威を前面に出して国民を統治しようとする明治政府の政策で、《天皇は神である、現人神(あらひとがみ)である》という教育が徹底的に[1945年まで]施されました。私もそのような教育を16歳まで受けたものですから、天皇制のストイケイアが私の中にも滲み込んでいるなあ、と思わされることがあります。その影響力は戦後の民主主義の時代になっても消滅することなく、それを復活させようとする反動的勢力が絶えず頭をもたげて来ているのです。

 そういうものからも、私たち日本のキリスト者は、イエス・キリストによって贖い出され、解放されて自由にされていなければなりません。どこかに「天皇は主です」という思いを隠し持ち(天皇制というストイケイアの下にあり)ながら、「イエスは主です」と言っても、どれだけの力があるのか。そのことが、日本にいるキリスト者には厳しく問われています。《私は天皇の赤子(せきし)ではない。私は神を「アバ、父」と呼ぶ神の子です。神様、あなたは慈愛の父として、この私を子として愛し、喜んでくださっています。あなたの子であることを感謝します》、という喜びを日ごと新たに体験しながら、歩ませていただこうではありませんか。(2007.6.17 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 9》 みなキリストにあって一つ ガラテヤ3:23~29

  パウロの書いた手紙がたくさんありますが、一番代表的なものはローマ書でしょう。しかし、別の角度からすると、ガラテヤ書こそ代表的なものだ、と言うことができると思います。パウロについての評価はいろいろありますが、一番重要な評価は、彼がキリストの福音(あるいはキリスト教)を普遍的・世界的なものにした、ということではないでしょうか。もちろん、その基礎はイエス様ご自身のうちにあります。そのイエス様の直弟子であるペテロやヨハネよりも、後からキリスト者になったパウロのほうが、イエス様の意図にそって福音を全世界的なものにする働きをし、そのために貢献したのです。
 そのパウロの考え方が一番よく打ち出されている文書が、このガラテヤ書であると思います。そして今回の箇所は、その核心に触れるところです。23節から朗読してもらいましたが、前回は25節まで読みました。ですから続きということだと26節からになりますが、学ぶ内容との関連で前回と少しダブりますが23節から学んでまいります。
 それに先立ち、その前の箇所で述べられていたことを、思い起こしてもらいましょう。前回の説教題は「約束は律法に優先する」でした。内容的に少し難しい箇所でしたから、どれだけ説教を聞いて分かっていただけたろうか、という不安があります。約束と律法との関係を、パウロは重要に考えています。約束は、神がアブラハムに対してされた約束です(創世12章)。アブラハムはイスラエル民族の父祖であり、イスラエル民族は「アブラハムの子孫である」ことを誇りにしていました。その約束の内容は、《アブラハムの子孫によって全世界の国民が祝福されるようになる》という、すばらしいものです。この神の約束は、イスラエル(あるいはユダヤ)民族のためだけのものではありません。全国民・全民族のための祝福の約束を、神はアブラハムに対してされたのです。
 これはすごく大事なことであり、そこにパウロはしっかり目を着けました。着眼点という言葉がありますが、着眼点が良いか悪いかで随分違います。着眼点が悪いと、何もかもうまく行かないことがあります。パウロは、旧約聖書に対しても、しっかり見るべき所を見たのです。その点でも《彼は神に用いられた器だったのだ》と、私は思います。
パウロは、アブラハムに対する神の約束に、しっかり目を据えました。その約束が《イエス・キリストによって成就し、実現しているのだ》と彼は確信し、ユダヤ民族の壁を打ち破って、キリストの福音を全ての国民・万民のものとしていったのです。こうしてパウロは、《キリスト教が世界的宗教となる基礎を据えたのである》という歴史的事実を、しっかりと覚えていただきたい。
 イスラエル民族には、その後、律法が与えられました。このことを彼らはとても大事に考えました。その律法を守り行うことによって祝福を受ける道を、彼らは示されました。彼らは自らを「律法の民」とも呼んでおりました。しかし、もっと大事なこととして、パウロは、《その律法よりも約束は優先するのだ》ということ強調したのです。
では、律法は、あまり重要ではなくなるのでしょうか。いや、そんなことはありません。律法には、果たすべき重要な役割があったのです。それが「養育係」という役割でした。 このことを話したくて、前回は22節までの予定を25節まで延ばしたのです。「養育係」という言葉が出てくるのは、24節と25節でありますから。
 さて、23節から見てまいります。「信仰が現れる以前には、私たち律法の監督の下に置かれ……」とある文章から、律法は監督の役目をするのだということが分かります。この「監督」は、野球チームの監督のように、良いイメージで考えてください。ただし、それは「信仰が現れる以前」のことでした。この「信仰」は、22節の「イエス・キリストの信仰」のことです。23節は、こういう意味になります。《イエス・キリストの信仰が現れた以上、もう私たち[キリスト者]は律法の監督の下には置かれていません。》
24節「こうして、律法は私たちをキリストへ導く養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」 前回も触れましたが、「キリストへ導く」は、原文を補足的に意訳したもので、原文は直訳すると「キリストまで私たちの養育係となりました」と読める文章です。少し説明を加えて、「信仰が現れる」という言い方に模して、「キリストが現れるまで私たちの養育係となりました」と読むのが、前後の脈絡にも合致して、はるかに良いでしょう。
 この「キリスト」は「キリストの信仰」のキリストであり、「キリストが現れるまで」は「信仰が現れるまで」と同じである、と考えてよいでしょう。「キリストの信仰」は、キリストからいただく信仰です。信仰を自分の力で何かすることのように、私たちは思い違いをすることがあります。それは重大な誤りです。信仰はキリストからいただくものであり、その信仰が私たちをキリストに全面的に信頼させてくれるので、私たちは義と認められる(無条件・無制限に罪を赦される)のです。このことがよく分かると、恵みの世界を豊かに味わうことができるようになります。
 25節に書いてあるように、キリストの「信仰が現れた以上」、その信仰の恵みに私たちはあずかり、キリストに全面的に信頼しているので、「私たちはもはや養育係の下にはいません。」 その理由が26節に書いてある、と言ってもよろしいと思います。「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子たちだからです」(私訳)
ここでパウロは、ガラテヤの信徒たちに呼びかけるように、「私たちは」ではなく、「あなたがたは」と言い換えています。「キリストにある信仰」は、《キリストにあって賜る信仰》と解すれば、「キリストの信仰」に他なりません。「神の子」を新改訳は「神の子ども」としていますが、ここは正確に「神の子」と訳すべきです。私たちもキリストと結び合わされることによって、本然の神の子であるキリストと同じ「神の子」に[養子縁組で]させていただけるのです。させていただいた以上は、私たちもキリストと[特権と身分において]同じ「神の子」であるのです。
そのことを証明する大事な出来事(あるいは儀式)が洗礼であり、その洗礼について27節以下が述べているのです。
「バプテスマ(洗礼)を受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(27節)。キリストの信仰は、それをどのように受けて、私の身に着けていくのでしょうか。その一つの《一番具体的な表れがバプテスマ、すなわち洗礼であるのだ》ということを、パウロはここで教えてくれているのです。洗礼を受けると、どのようになるのか。「キリストにつく者」とされます。言い換えると、キリストのものとされます。それは、さらに言い換えると、「キリストをその身に(わが身に)着る」ということになるのです。
その時に、古い人は当然、脱ぎ捨てられることになります。それは、言い換えると、古い人に死ぬことです。《罪の子・悪魔の子》と呼ばれていた古い自分に、それを自ずから脱ぎ捨てるようにして、死んでしまいます。《脱ぎ捨てる》と言いましたが、自分で頑張って脱ぎ捨てるのではありません。そんなことをしても、なかなか脱ぎ捨てられるものではありません。キリストを着るならば、すっと[自然に]脱げてしまうのです。洗礼は、それを受ける者がキリストを着ることに他なりません。「キリストを着る」ことによって、その人は[いや私は]「キリストにつく者」にされるのです。
そういうことをよくイメージして、黙想してくださると、すごく霊的に役立つと思います。洗礼は、「キリストを着る」という儀式であるのです。洗礼によって「キリストを着た」以上は、キリストを脱いではいけません。しかし、時々、[キリストを]脱ぎたくなる人がいます。私自身も、《キリスト者を辞めたい(キリストを脱ぎたい)なあ》と、心ひそかに思ったことが一度ならずありました。それは「キリストを着る」ことの意味が、まだ私によく分かっていなかったからです。「キリストを着る」ことのすばらしさが分かっていたら、キリストを脱ぎたいという思いになることはありません。感謝と喜びをもって《キリストをずっと着ていく》ことが、キリスト者の生涯であると思います。
その時に、「キリストを着る」ことにおいては、何の差別もありません。ユダヤ人だけは特別なキリストの着方があるのだ、奴隷と自由人ではキリストの着方に違いがあるのだ、ということは全くありません。「キリストを着る」ことにおいては、ユダヤ人もギリシア人も異邦人も、社会的な地位や身分にも関係なく、みな同じであるのです。また、男性と女性の差別もありません。これは本当にすごいことです。
当時は、男女差別の著しい時代でありました。福音書に《五千人の給食の奇蹟》が記されていますが、その五千人は大人の男だけの数です。女も子どももたくさんいたでしょうから、実際は五千人より多かったに違いありません。しかし、聖書の世界でも、当時は女や子どもは数に入れられていなかったのです。そんな時代にも、イエス様は女性や子どもたちを差別なさいませんでした。そのことが福音書にはよく描かれています。
イエス様ご自身は、そういう差別を乗り越えておられました。女たちにも、イエス様は大事な教えを話されました。子どもたちをも招きましたし、《子どもたちこそ神の国にふさわしいのだ。子どもたちのようにならなければ神の国に入れない》とまで、イエス様は言われているのです。そのように差別を乗り越えた考え方が、28節に見事に表明されているのを見ることができます。
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(28節)。ギリシア語の一という数詞には、男性・女性・中性の別々の形があり、普通「一」とか「一つ」と数える時は中性を使います。しかし、ここでは男性が使われているので、「キリスト・イエスにあってひとりなのです」と訳すほうがよいのです。New English Bible は‘one person’としていますが、良い訳だと思います。「一つ」でも意味は通じますが、「一体」と言えばもっとよいでしょう。「一つの共同体」である、と言うのです。
キリストをかしらとする一つの共同体という概念が、ここに示されています。それをパウロは、コリント書では「キリストのからだ」というイメージで表しています。この一つの共同体においては、何の差別もない。人種的・階層的・性的な差別は一切ありません。このように、理想的な教会の姿を示したパウロですが、その完全な実現を阻む時代的・社会制約が多くありました。キリストにあっては奴隷も自由人もないとしながら、パウロは奴隷制度の廃止を主張しませんでした。
当時のローマ帝国は典型的な奴隷制社会であり、その奴隷制度はその後の歴史でキリスト教が普及した多くの地域にも存続し、それが撤廃されるには多くの時間を要しました。アメリカ合衆国で奴隷制度が廃止されたのは19世紀の後半のことで、そのために数年間に及ぶ悲惨な内戦(南北戦争)があったのです。男女の差別撤廃が制度的に実現したのも、20世紀後半になってであります。でも、奴隷制度や男女差別が撤廃される方向づけは、パウロが[キリストの福音において]しっかり付けておいてくれたのです。それだけでも、すばらしいことだと思います。 
 29節に「もしあなたがたがキリストのものであれば(これは「あなたがたがキリストのものである以上は」と訳せる現在の事実を示す条件文)、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」とあります。キリスト者である私たちは、神の国を相続する者、すなわち神の子とされるのです。私たちがキリストの信仰によってキリストのものであるならば、私たちは文句なく、無条件に神の子にされています。こうして《神がアブラハムに対して約束された約束は、イエス・キリストにおいて完全に成就している》と、パウロは宣言しているのです。
 そのことによって、《キリストの福音は、一部の民族・一部の階級・一部の人々のものではなく、すべての民族・全ての階層・すべての人々のものである》と表明していることになるのです。また、そのことによって、律法の監視や保護の下にあった時代(旧約時代)は過ぎ去りました。旧約時代は、それなりの意味があったとしても、差別の時代であったことは否定できません。そのような時代は終わりを告げました。ユダヤ人とギリシア人、自由人と奴隷、男と女といった差別の時代は終わったのです。
 これで済めば、事は簡単なのですが、まだ少し律法の問題が残ります。私たちは律法という養育係の下にいないとすれば、養育係としての律法はお役御免になりました。では、律法は、私たちにとって不要なもの・無用なものになったのか。パウロは、そうだとは言わないのです。そこが少し微妙なところで、律法の理解についてのデリケートな部分なのです。その部分を、私たちキリスト者はしっかり把握していなければなりません。
 パウロは律法不要論者ではありません。その証拠に、彼は5章14節に「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」と、6章2節に「互いに重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と、書いているのです。「律法」という言葉が、これらの箇所では、私たちキリスト者との関わりで用いられています。この律法を全うしていくことがキリスト者の役目ですよ、と言われているのです。
 このことの背景には、《福音の主であり私たちに福音してくださるキリストは、律法を全うしてくださった方である。キリストは私たちを愛し、私たちのためにご自身のいのちをささげるようにして(2:20参照)、愛の律法を完全に成就してくださったのだ》という考えがあるのです。そのキリストが私たちのうちに生きておられます。それは十字架につけられたままの復活のキリストであると同時に、私たちのために律法を全うしてくださったキリストであります。ですから、私たちキリスト者も、キリストが私たちのために全うしてくださった律法を、キリストにあって全うしていくようになるのです。

 そういう大事な課題が、私たちキリスト者に託されています。それは言い換えると、《信仰によって義と認められることは、聖化の生活に連続していく》ということです。みなキリストにあって一つの共同体とされている恵みの現実の中で、その共同体を実現していくために《愛の律法を全うする課題がある》ことを覚えてください。  (2007.5.13 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 8》 約束は律法に優先する ガラテヤ3:15~25

  前回の箇所(6-14節)で、《すべての人を救う福音は、律法の行いによるのではなく、ただキリストの信仰による》ということを、パウロはすごく強調しています。「キリストの信仰」は原文の直訳でありますが、新改訳その他多くの翻訳聖書は「キリストを信じる信仰」と訳しています。「キリストの」が「信仰」とどのように関わるかで、解釈上の問題が生じます。主格的に関わるのか、目的格的に関わるのか、という問題です。
 「キリストの福音」と言うときの「キリストの」と「福音」との場合にも、同じ解釈上の問題があります。「キリストの」を主格的に取れば、「キリストが与えてくださる福音」という意味に、目的格的に取れば、「キリストを[私たちが]伝える福音」という意味になります。同じように、「キリストの信仰」の場合も、主格的に取れば、「キリストが与えてくださる信仰(キリストから賜る信仰)」という意味に、目的格に取れば、「キリストを[私たちが]信じる信仰」という意味になります。どちらの意味に取るかは、意見の分かれるところなのです。
 プロテスタントは、宗教改革者マルティン・ルターの影響を強く受けていますので、目的格的に取って「キリストを信じる信仰」と解釈する場合が圧倒的に多いでしょう。でも、私は、主格的に取って「キリストからいただく信仰」と解するほうが、パウロの真意に近いのでないかと考えています。「キリストからいただく信仰」「キリストを信じる信仰」、どちらにしても、ただ「その信仰によって」私たちは救われるのです。
 パウロははっかり教えてくれました。祝福を受ける人々は「信仰による人々」であり、《キリストの信仰に生きる人々》である、と。律法の行いによって救われようと願っても、それは無理です。「律法による人々はすべて、のろいのもとにあるからです」と、パウロは断定的に申します。律法の書には、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる」 と書いてあるからです(申命記27:26参照)
 それならば実行すればいいじゃないか、ということも言えますが、はたして「すべてのことを堅く守って実行する」ことができるでしょうか。一部分ならば、いや[もっと譲歩して]大部分であっても、実行できるかもしれません。しかし、「すべて」を実行することはできません。よく考えれば、人間には不可能なことです。ですから、律法の書に書いてあることを「すべて」実行することが救いの条件であるとしたら、誰も救われません。みんなのろわれた者になってしまいます。
 そうであるなら、そもそも律法とは何であるのか。そんな疑問が生じます。パウロは、神がアブラハムに言われた「あなた[の子孫]によってすべての国民が祝福される」という約束を、とても大事にしています。すると、律法はこの約束とどう関わるのでしょうか。律法とは、この約束と合わない性格のものではないか。「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか」(21節)。このような疑問にまで行き着くのです。そしてパウロは、この疑問に、間髪を入れず「絶対にそんなことはありません」と答えています。
 では、神の約束との関係で律法が果たす役割は、いったい何なのか。こういう難しい問題に、パウロは答えようとしています。難解な箇所でありますが、聖書が教えている真理として、しっかり学んでまいりましょう。
律法は神の約束に反するものではありません。もし反するものであったら、律法が与えられたこと自体が、いや律法をお与えになった神ご自身が、問題になります。神がイスラエルに律法を与えられたのは、神がアブラハムに約束を与えられた随分後のことです。17節には「四百三十年」とあります。それは随分長い期間です。日本の歴史で430年遡(さかのぼ)ったら、江戸時代よりも前で、織田信長が天下統一をめざしていた頃になります。それほど長い期間を隔てて、後から律法がイスラエルに与えられたのです。
 律法は「御使いたちを通して仲介者の手で定められた」(19節)とパウロは書いています。「仲介者」はモーセのことです。律法がモーセの手で定められるようにしてイスラエルに与えられたことは、出エジプト記の記述とも合致します。しかし、「御使いたちを通して」律法が定められたという事実は、旧約聖書に見当たりません。これはパウロも知っていたユダヤ教の伝承によるものです。
モーセは紀元前13世紀頃の人です。それから430年遡ると紀元前17~18世紀になりますが、アブラハムはその頃の人だったのでしょうか。アブラハムがいつ頃の人かは定かでありません。考古学的研究に照らして紀元前19世紀頃の人ではないか、と私は漠然と考えています。すると、6世紀の隔たりがあり、430年とは符合しなくなります。そういう問題は、今は不問に付しましょう。
大事なのは、《神がアブラハムに与えられた約束は、430年も後に「御使いたちを通して仲介者モーセの手で定められた」律法に優先するものである》ということです。パウロは、「私が言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効にされたりすることがないということです」(17節)と書いています。
ここでパウロは、遺言(ゆいごん)のことに言及しています。「契約」と訳されているギリシア語は、新改訳の脚注別訳のように「遺言」の意味もあるのです。15節の「人間の契約」は、別訳のように「人間の遺言」と読んだ方が文脈にかなっています。「人間の遺言でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。」 その通りですね。いったん定められた人間の遺言は、決して侵されない不可侵性を持っており、また、決して変えられない不可変性を持っているのです。そうすると、人間の遺言にはるかに優るものである、神がアブラハムに約束された約束は、決して侵されることがありませんし、決して変えられることもありません。このポイントをしっかり押さえてくだされば、よろしいのです。
アブラハムへの約束は、アブラハムだけでなく、その子孫にも告げられたものであります。そのことでパウロは、16節に「約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです」と書いています。ちょっとこれは無理な解釈をしているのではないか、と思われます。子孫というと、ひとりではなく多数をさすのが普通でしょう。子孫を子孫たちと複数形で用いることは滅多にありません。ですから、パウロは無理な言い方をしているように思われるのです。
しかし、パウロは無理な言い方をしているわけではなく、ユダヤ人にとっても、このような論理はそれほどおかしいものではない、ということを知る必要があります。アダムは全人類の代表者と考えられています。キリストは新しい人の代表者であり、アダムは古い人の代表者である、という考え方が聖書の背景にあるのです。パウロやユダヤ人は、そんな考え方に慣れていたと思われます。私たちは慣れていないので、それを理解するためには相当の努力が必要です。この論理を納得すると、キリスト者として歩みやすくなるでしょう。多くの日本のキリスト者は納得していないと思います。それでキリスト者としての歩み方が不安定になってしまうのです。
要は、代表的人格という考え方です。このような考えは日本にはないと思いますが、見方によっては、天皇がそのような地位にあり、《天皇は日本人の代表的人格だ》という日本的な神学があるのかもしれませんね。でも、私はそんな神学は断固拒否します。
神の約束を告げられたアブラハムの子孫とは、神の祝福を受けた新しい人として登場する人間を代表する存在であり、「その方はキリストです」と、パウロは言い切っているのです。「子孫」という言葉は集合名詞ですから、一人の人を指すわけではありません。しかし、それを一人の人によって代表させる代表的人格という考え方があるのです。そうだとするとパウロの断定も理解でき、納得もさせられるのではないでしょうか。
代表的人格について、とても分かりやすく説明してくれている本があります。私が監修者として翻訳に関わったブリッジズ氏の著書『恵みに生きる訓練』の第4章です。私たちキリスト者は、キリストと結び合わされています。この恵みの真理が私たちの血肉となることが、大事なのです。次回に話す箇所ですが、27節に書いてあるように、「洗礼を受けてキリストにつく者とされた」私たちはみな、「キリストをその身に着たのです。」 キリストをその身に着るように、しっかりキリストと結合させられているなら、キリストを脱ぎ捨てるようなことは起こりません。しっかりしたキリストとの結合の中で、「キリストの信仰」が生きて働いてくれるのです。
最後に述べたいのは、《約束の後に与えられた律法は、約束の真の受領者であるキリストが来られるまで、どういう役割を果たしていたか》ということについてです。律法は約束に違反するものではありません。では、約束との関係で、どういう役割を担っていたのでしょうか。何かの役割がなければ、与えられる必要もありませんでした。そのことが、19節以下に述べられているのです。
 「では、律法とは何でしょうか」と改めて問いかけ、「それは約束をお受けになった、この子孫(キリスト)が来られるまで、違反を示すためにつけ加えられたものです」と答えています(19節)。律法があると、それに従わないとき、違反者であることがはっきり示されます。決まりがあるから、それに違反したかどうかが分かるのです。教会にも律法があります。日本長老教会には、「日本長老教会憲法」があります。
 でも、大事なのはイエス・キリストの福音です。日本長老教会は、イエス・キリストの福音によって立っています。それでも、実際に即した様々な運営において、何が善いか悪いかという決まりがないと色々な問題が起こります。それで憲法が与えられているのです。そのことは、よく弁えていなければなりません。しかし、律法そのものには、人を生かすだけの力がありません。そのことを、パウロは指摘しているのです(21節参照)
 22節には、「しかし[律法と結びついた]聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました」書いてあります。「律法は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました」と言ってよいのです。「それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです」という説明が続いています。この説明でパウロが言いたいことは、《キリストが来られるまで、律法は人々に違反を示すという中間的な役割を果たしている》ということです。
そのように違反を示されて罪を自覚させられ、「どうしたら私は、この律法ののろいから解放されるのか」ということが、次の大きな課題となります。これは大きな課題というよりは、人間の切なる願いであります。この切なる願いに答えてくれるものが、約束の成就として来られたキリストの福音であり、「キリストの信仰」なのです。 
 23節は「信仰が現れる以前には」という言葉で始まりますが、「信仰」にはギリシア語原文に冠詞がありますので、特定の信仰を指します。せめて「その信仰」と訳してほしいのですが、もっと特定すれば「キリストの信仰」に他なりません。そのようにして23節から24節前半を読んでみます。「キリストの信仰が現れる以前は、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていました。それは、やがて示されるキリストの信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。」
 違反を示すだけでは、律法の役割は消極的なものに過ぎません。ですから、ここでパウロは「養育係」という積極的な律法の役割に言及しているのです。「養育係」とは、当時のローマの上流家庭で、その子弟が成人するまで養育に当たった「後見人や管理者」(4:2)のことであり、教養のあるギリシア人奴隷がその任に当たりました。その役割は、主人の子弟が成人するまで、その子弟の後見役として彼を見守り、監督し保護することでした。
日本長老教会憲法も、各地区教会が間違いを犯さないように監視するだけでなく、よりよい運営ができるように保護するために与えられているのです。それらは、律法の積極的な役割と理解すべきであると思います。
 ここには「キリストへ導くための私たちの養育係となりました」と訳してありますが、それはある程度意訳してあるのです。原文はもっと簡単で、直訳すると、「キリストまで私たちの養育係となりました」です。この「キリストまで」を、新改訳は「キリストへ導くための」と意訳しますが、私は「キリストが来られるまで私たちの養育係となりました」と訳すべきだと思います。そのように訳しますと、「しかし、キリストの信仰が現れた以上、私たちは養育係の下にはいません」と述べる25節とのつながりが、ずっとよくなるではありませんか。
 律法そのものに、私たちをイエス・キリストへ導くだけのものがあるのか。そのことは、よくよく検討してみなければならない課題であると思います。とにかく、はっきりしていることは、キリストが来られるまで、律法は養育係の務めを果たしてきたのです。そうしますと、私たちは、イエス・キリストを信じてから、もう養育係の下にはありません。言い換えれば、私たちは、もう律法の下にはないのです。それは、パウロが別の手紙に、「あなたがた(私たち)は律法の下にはなく、恵みの下にある」(ローマ6:14)と書いていることにぴったり当てはまります。
 すると、私たちは律法とはもう無関係なのでしょうか。無関係だと言えば問題はないのですが、パウロはそうは言いません。この手紙の6章2節で、私たちに「互いに重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と命じています。キリストと結ばれたからこそ、律法ののろいから解放されたからこそ、私たちキリスト者には、感謝と喜びをもって、それに従って生きる「キリストの律法」があるのです。そのことについては、5章以下で学ぶことになります。今は、そういう側面があることを覚えていただいて、終わることにします。 

(2007.4.15 村瀬俊夫)