ヘブル書連続説教は今日が30回目で、最終回であります。扱う箇所は13章18節以下ですが、最初の18-19節は「私たちのために祈ってください」という祈りの要請です。そこには「私のためにも祈ってください」という意味が込められていると思います。「私たちは(また私も)、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと願っているから」、そのために祈ってほしいのです。「正しい良心を持っている」とは、岩波訳を参照しますと、「内奥の意識が良い状態にあること」に他なりません。
「良心」というのは、すごく分かりにくいものですが、やはり心の奥深い所にあるものなんでしょうね。それが人間を動かす力にもなってくるんじゃないか、と思います。人は表面的に話していることと違う行動をする場合がよくあります。いざ人が行動する時には、その人の表面的な言葉ではなく、心の奥深い所で思っていることが現れる、いった場合が多く見られるのではないでしょうか。ですから、そういう心の奥深い所にある意識が良い状態にあるのは望ましいことであり、そうありたいと心から願います。
次に、飛んで22節以下を見ましょう。ここを読むと、この文書が手紙である体裁を整えていることが分かります。手紙らしい締めくくりの言葉、挨拶も見られます。「兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました」(22節)。その後に個人的な消息が続きます。「私たちの兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。もし彼が早く来れば、私は彼といっしょにあなたがたに会えるでしょう」(23節)。著者はこの文書の受け手たちのところへ行こうとしていたことが分かります。それから「すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています」(24節)と、挨拶の言葉を伝えているのです。
この22節以下が欠けている写本上の証拠はありません。それでも、手紙としての体裁を整えるために付け加えられたのではないか、という仮説が唱えられています。パウロが書いたものではないのに、パウロの手紙の一つに数えることが伝統的に行われてきました。パウロの手紙を示唆するためにテモテを登場させていると考えると、仮設の可能性が大きくなります。実際、ここにテモテが出てくるのは、この文書全体の流れから見て、唐突の感を免れないからです。
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私としては、この文書は20-21節の素晴らしい祝祷で終わったほうが相応(ふさわ)しいな、と思っています。この文書の性格は基本的には説教であり、説教の終わりは祝祷であるからです。この箇所で一番よく目に留まるのも、20-21節ではないでしょうか。また、私たちの心が一番惹かれるのも、20-21節ではないでしょうか。
読んでみます。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」「アーメン」で結ばれているので、これで終わってよいのではないでしょうか。
この文書の著者は、パウロやヨハネ福音書の著者に優るとも劣らない神学者であります。そういう人として、彼はヘブル書の中で勧めの言葉を述べながら、深くて鋭い神学的洞察を盛り込んでいます。その現れの一つが大祭司キリスト論です。それがヘブル書の主題であり、キリストが私たちの偉大な大祭司であることを知ってほしいとの熱い思いから、これを書いています。その大祭司キリスト論を柱として、あるいは土台として、いろいろ慰めに満ちた勧告の言葉を述べてきました。そういうことで、その語り口や切り口は、パウロと[またヨハネ福音書の著者と]違います。それにもかかわらず、本書の著者は、パウロやヨハネ福音書の著者が伝えたのと同じキリストの福音を伝えているのです。
本書の著者の特に優れている点は、終末論的な捉え方に見られます。それはパウロの手紙にもヨハネ福音書にも見られるもので、イエス・キリストの出来事は終末論的な出来事である、という捉え方です。ヘブル書の著者は冒頭から「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(1:1-2a)と書いています。「ただ一度」という言葉が9章や10章に何回も出てまいりますが、それは《一度で全部》という意味で、二度と繰り返す必要がない永遠的な出来事を表しています。イエス・キリストが十字架の死において成し遂げてくださった贖いは、一度で永遠的な意味を持つ、まさに終末論的な出来事であるのです。
イエス・キリストの復活のいのちも、一度で全部[終わりまで]をまかなう《終末論的いのち》であり、それこそが「永遠のいのち」であります。イエス・キリストを信じて、そのいのちをいただくということは、まさに「永遠のいのち」をいただいていることなのです。パウロもヨハネ福音書の著者も、そのことをよく教えてくれていますね。
13章8節を改めて見てください。前回の説教では、13章8節の聖句に焦点を合わせることをしませんでした。それで今回、この聖句に少しばかり言及しておきます。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」 この聖句は、ある意味で、ヘブル書のキー・ノート、まさに基調的な言葉なのです。ですから、前回はこの聖句に基づいて説教してもよかったのです。でも今回があり、その時にこの聖句にも触れて話したいと考えていましたので、前回は別の角度から説教をさせていただきました。
「きのうもきょうも、いつまでも同じ」ということは、いったいどういうことか。いつまでも同じだったら、ちっとも進歩がないではないか。そんなふうに私たちは考えやすいのですが、ここに終末論的な捉え方がよく示されています。一度で全部、一度で終わり、一度で永遠なんです。だから、イエス・キリストは、きのうもきょうも、いついつまでも同じなんです。そのことをしっかり覚えていただきたい。そういうイエス様を信じているのであり、そういうイエス様が私のための大祭司として、いつも私のために祈っていてくださるのだ、ということを覚えたいのです。それを覚える時に、感謝があふれ、喜び湧いてまいります。《私は本当に永遠のいのちにあずかっているんだ》ということが、よく分かってまいりますよ。
これはすごい聖句ですね。イエス・キリストは、きのうもきょうも、これから後も、私たちの救いのためには、同じ力・同じ愛をお持ちの方であります。私たちに現してくださった神の愛において、キリストはきのうもきょうも同じで変わらないのです。イエス様の愛はきょうよりもきのうのほうが多かった、というようなことはありません。それは満ち満ちた愛ですから、いつも同じです。これからも同じなんです。イエス・キリストの満ち満ちた愛、それは神の愛ですね。
イエス・キリストにおいて現された神の愛、それから私たちを引き離すものは何もありません。そのようにパウロはローマ8章39節で高らかに歌い上げました。これは私たちも心から歌うことのできる信仰の告白ではありませんか。キリスト・イエスにおいて神の愛は、きのうもきょうも、そして明日も同じです。少しも変わりません。これは本当にすばらしい真理です。
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さて、この祝祷の中で「羊の大牧者」という言葉が使われていますね。これは「永遠の大祭司キリスト」と同じことです。永遠の大祭司キリストを、別の言い方にすると、「永遠の契約による羊の大牧者」というになるのです。この大祭司は、神と人との間に立ってとりなしをしてくださいます。そのおかげで、私は神の御前に大胆に、憚(はばか)ることなく近づくことができるのです。そういう大祭司は、まさに大牧者ではありませんか。大祭司は大牧者なのです。
「永遠の契約」「永遠の大祭司」という時の「永遠の」というのは、先に話したように、《一度で全部》ということに支えられています。イエス・キリストは、ただ一度、十字架にご自身をささげてくださった。ただ一度、死からよみがえらされた。そして、ただ一度,高く天に上げられた。これらのことは、すべて永遠的な意味を持つのです。こうして立てられた新しい契約において、神は私たちの罪を思い出すことをしないほど徹底的に赦し、神の愛の律法を私たちの思いの中に記してくださっています。新約の時代は、まさにそのようであるのです。
パウロの言葉を参考にしましょう。コリント人への手紙第二の3章4節からを読みます。「私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊(聖霊)に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」 そして17-18節には、「主は御霊(聖霊)です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、……主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊(聖霊)なる主の働きによるのです」と言われています。
新しい契約の特色は、《神のことばが私たちの心に聖霊によって書き記されている》ということではないでしょうか。私たちは文字として与えられている聖書を大事にしています。けれども、本当に聖書を大事にすることは、文字をありがたがることだけではありません。文字は人を殺すとまで言われているではありませんか。文字だけでは足りないのです。聖霊こそ私たちを生かしてくださる要因であります。聖書の[文字としての]言葉には聖霊のお働きが伴っているのです。
私たちは聖書を読むときに、聖霊が語りかけてくださることばをしっかり聴かなければなりません。そのようにして聴いたことばが私の心に刻まれていくのです。そういう恵みの中に今の私たちは置かれています。そのことを可能にしてくれている新しい契約は、まさに「永遠の契約」であるのです。本当にありがたいことではありませんか。
それから祝祷は、「私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が……」と続きます。「平和の神」が主語であって、その前の長い句は「平和の神」を修飾しているのです。その修飾句である「私たちの主イエスを死者の中から導き出された」というのは、言い換えれば、「主イエスを死者の中からよみがえらせた」ということになります。ここにヘブル書で初めて、イエス・キリストの復活のことが言われているのです。これまで本書には、復活という言葉が直接使われることはありませんでした。
もう一度、1章3節を見てください。その後半に、御子キリストは「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」とありますが、そこには復活の出来事が当然あったわけで、それを前提にしてこう言われているものと考えられます。でも、「復活させられた」「よみがえらせられた」という表現はありません。パウロが本書の著者であるなら、復活(よみがえり)という言葉を使わないはずはありせん。それでも、ようやく最後の祝祷の中で、パウロではない本書の著者も、「主イエスを死者の中から導き出された」という言い方で、はっきり復活の出来事に言及してくれているのです。
この「平和の神」は、私たちに罪の赦しを賜り、永遠のいのちを賜り、私たちを神の子としてくださいます。このように私たちが神の子とされて、神との平和を持つようになることが、私たちの間で平和を実現する根本であるからです。そのために平和の神は、御子イエスを死者の中からよみがえらせ、高く天に上げてご自分の右の座に着かせ、さらに聖霊によって、そのイエス様を私たちのところに遣わしてくださっているのです。
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祝祷は、その平和の神が、「イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように」と、21節へ続きます。「完全な者としてくださいますように」は、壊れたもの繕(つくろ)う意味のカタルティゾーという動詞がギリシア語原文で使われているので、「整えてくださいますように」くらいの訳がよいと思います。
いつ、どのように整えられていくのか。それは朝ごとの神様、イエス様とのお交わりにおいてであります。いわゆるディヴォーションの時、アシュラムでいう朝ごとのレビの時・静聴の時に、平和の神の御前に近づき、永遠の契約に基づいて、活けるイエス様から御父の愛[具体的には、罪の赦し、永遠のいのち、神の子としての特権を与えられていること]を福音していただきましょう。そうすることにより、私たちはすべての良いこと(いつも喜び、絶えず祈り、どんな場合にも感謝すること)において整えられ、完全な者とされていくのです。朝ごとに、「平和の神」である御父の愛の福音をしっかり聴いて、完全な者となるように[種々の破れを繕われようにして]整えられてまいりましょう。
自分で完全な者なろうとして頑張るのではありません。いくら頑張っても完全な者にはなれません。肝腎なことは、恵みの御座の前に憚らず出ることです。憚ることなく恵みの御座に近づきましょう(4:16参照)! そして、永遠の新しい契約に基づく神様の愛を福音していただきましょう!
さて、その後に「どうか、この方[キリスト]に栄光が世々限りなくありますように」という頌栄が続き、これで祝祷が終わっています。
「この方」は「神」とも「キリスト」とも取れますが、この場合は新改訳にように「キリスト」でよいでしょう。「キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン」と言うとき、どんなことが具体的に考えられているのか。そのことが大事です。言葉だけが流れて行ったのでは何にもなりません。
「キリストに栄光が世々限りなくありますように」という人は、日ごと新たに、朝ごとに、いや折りあるごとに、キリストをしっかり見つめているのです。見つめるごとに、活けるイエス様から福音していただくことができます。そういう恵みを生活の中で豊かに経験させられているとき、「キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン」と唱える頌栄が、本当に生きたものとなるのです。 (村瀬俊夫 2006.7.2)