2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 21》 神 に 喜 ば れ る 信 仰 ヘブル 11:1〜7

 前回ヘブル書10章26節以下から説教したのは6週間前ですから、少し間があきましたが、今回は11章に進みます。この章は、これ独自でよく知られています。信仰の勇者列伝と名づけられることもあり、旧約聖書に登場する信仰の人の名前が次々に挙げられます。彼らがどのように信仰によって歩んだかが述べられていることで、有名な個所であります。それでヘブル書は、11章から新しい展開を見せていると考える人々もいます。しかし、実際はそうではなく、11章は10章19節から始まっている「勧告(勧めの言葉)」の続きなのです。
  特に10章の終わりの方に忍耐の勧めがあり、36節に「約束のものを受けるために必要なのは忍耐です」と言われています。その忍耐の勧告を受け継いでいるのが、11章以下なのです。忍耐の勧告そのものは、「こういうわけで、……私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とある12章1節に続けると、非常によくつながります。すると、11章は大きな挿入の部分とみなされます。そこに記されている信仰の人々にならって、私たちも前に置かれた競争を忍耐をもって走り続けるように勧めるため、11章が挿入されているのです。
  先にヘブル書の著者は、旧約は「年を経て古びたもの」で、「すぐに消えて行きます」という大変厳しい見方を示しておりました(8:13)。そのように消えて行くものなら、旧約聖書は要らないのではないか。そういう議論が生じてもおかしくありませんが、旧約聖書が不要になるのではありません。新しい契約の下に、キリスト教会は導かれてまいりました。そのキリスト教会は、古い契約を消えて行くものだから要らないと捨ててしまったのではなく、それを新しい契約とともに受け入れました。そして、旧約聖書と新約聖書を合わせたものを「聖書」と呼ぶようになったのです。
  ヘブル書の著者は、旧約は消えて行くものであるとの見方を一方でしましたが、他方で約束のものを待ち望む信仰に生きた人々の模範が記されている点で旧約を認めています。物事は一方だけを見てすべてだと思ってはなりません。他方には別の見方があるのだと知ることが大事です。「何事においても複眼をもって見ることが大切である」と言われた人の発言を読んで、私は深く共鳴させられているのです。
  「信仰」という言葉が、11章にはたくさん出てきます。冒頭の文章にも「信仰」という言葉が見られます。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです」(1節)。まるで信仰の定義のように記されている文章です。この信仰は、パウロがガラテヤ書やローマ書において強調している「イエス・キリストの信仰(キリストを信じる信仰、キリストからいただく信仰)」とは違います。私たちキリスト者にとって、大事なのはキリスト信仰です。ここで言われる信仰は、それとは別の視点からのものであると教えられます。
  それは「望んでいるものを保証する」信仰であり、「目に見えないものを確信させる」信仰であります。ここに「保証する」と訳されているギリシア語は名詞であり、1章3節に同じ言葉が使われています。そこでは「神の本質」と訳されています。この語の元の意味は、「下に置かれているもの」を指し、大事なものを意味することが分かります。プラトンやアリストテレスの哲学では、この語は「本質」とか「実体」とか意味で使われています。それが時には「保証するもの」という意味で、一般に使われることがありました。ここでも、その意味で使われています。
  それから、「目に見えないものを確信させる」信仰の「確信させる」も、ギリシア語は名詞であります。それは「確信」とか「確証」とか、あるいは「確認」と訳すことができるものです。ここで教えられている「目に見えないものを確信させる」信仰とは、きわめて未来志向的なものであります。まだ現れていないのに、それを望んでいるのですから。現れているなら、それを望む必要はありません。これから現れるものを待ち望んでいくのですから、目に見えないものも目に見えるようになる、ということが暗に言われているのではないでしょうか。イエス様は私たちの目には見えません。けれども、そのイエス様が私たちと共にいてくださることを、私たちは確信しています。それが、ここで言われている信仰にほかなりません。
  このように、信仰にも、いろいろな意味合いのあることが分かります。まず第一に、キリストを信じる信仰、あるいはキリストからいただく信仰があります。それが一番大事なものでありますが、ここに教えられているように、目に見えないものを確信させる信仰も私たちに与えられています。ですから私たちは、目には見えないけれども、聖霊によってキリストが共にいてくださる、そして、いつか目に見える形で相見(あいまみ)える時がくる、ということを確信させられるのです。  
  「昔の人々」すなわち旧約の人々は、「この信仰によって称賛されました」と2節にあり、続く3節に「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えないものからできたのではないことを悟るのです」と記されています。この3節から、「信仰によって」という語句が文章の初めに繰り返し出てまいります。4節も、5節も、7節も、8節も「信仰によって」で文章が始まります。以下31節までに、計十八回出てくるのです。
  この「信仰によって」という語句は、ギリシア語では一語であります。英語では前置詞を伴って二語(by faith)になります。ギリシア語では、信仰を意味する一語の名詞(ピスティス)の語尾を変化させることによって、「信仰によって(ピステイ)」という意味にもなるのです。このピステイで始まる文章は、リズム感のある特徴的な文章であります。そういう文章のことを「首語句反復」の文章と呼びますが、ヘブル書11章はその代表的なものとして知られています。
  その「信仰によって」という首語句反復の最初の文章が3節です。ここには、信仰によって生きた昔の人々のことではなくて、別のことが書いてあります。書いてあるのは、先に読みましたように、創世記1章に関すること、天地創造のことです。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたこと……を悟るのです」という文章の中の「世界」は、ギリシア語原文で、コスモスではなくアイオーンが使われています。アイオーンは、聖書で「世」と訳される場合が多いのです。ここでは単数形ではなく複数形(アイオーネス)が使われていますから、普通は「世々」と訳されます。しかし、ここでは、1章2節で使われている場合と同じく、時間と空間の世界を意味しているものと思われます。
  それから「神のことばで造られた」の「ことば」は、よく使われるロゴスではなく、実際に発せられた言葉を意味するレーマが使われています。ヘブル書の著者の頭の中にあったのは、創世記1章3節で、神が「光よ。あれ」と言われると、光が生じた、ということであったと思います。このように神が実際に発せられたことばによって、この時間・空間の世界が無から造られました。神は、ご自分の発したことば(創造的命令)によって、光を無から存在へと呼び出してくださったのです。このような無からの創造は、理屈で考えて分かるものではありません。信仰によって、まさに神からの啓示を受ける信仰によってのみ、神が無から時間・空間の世界をお造りになり、さらに造られた世界を導いていてくださる、といことがよく分かるのです。
  さて、続く4節以下に、昔の人々のことが例証として挙げられています。今回は7節までにしますが、信仰によって歩むことで神に喜ばれる生涯を送った何人かの証し人が、ここに登場します。アベル、エノク、そしてノアの三人です。
  アベルのことは、創世記4章に出てまいります。彼は弟であって、カインというお兄さんがいました。アベルは兄のカインに殺されてしまったのです。兄が弟を殺してしまうという悲惨な出来事であり、まさに人類最初の殺人事件でありました。なぜ殺したかというと、兄カインは弟アベルが憎らしくなったからです。アベルは羊を飼う者で牧畜に従事していました。カインは土を耕す者で、農耕に従事していました。
  それぞれが神に感謝のささげ物をします。カインは畑で取れた作物をささげ、アベルは家畜の羊をほふってささげました。そのとき、神はアベルのささげ物に目を留られたのに、カインささげ物には目を留められませんでした。それでカインは神に対して不信と怒りを覚え、弟を妬ましく思ったのでしょう。その妬みか憎しみに変わり、やがて殺意にまで高まります。そして、ついに弟を野に連れ出し、ひそかに殺してしまったのです。しかし、そのアベルの血が叫んでいます。その叫びを主が聞かれ、カインの弟殺しが分かってしまうのです。
  創世記4章にはその後の物語も記され、カインは罰を受けてさすらいの旅に出ます。彼は殺人犯なのに人々に注目され、彼に対する同情が寄せられる向きがあるのです。なぜカインのささげ物は受け入れられなかったのか。その決め手となる理由は判然としません。彼のささげ物には心がこもっていなかった、ということが指摘されます。そうかもしれませんが、そのように聖書が明言していないのに断定することはできません。ヘブル書の著者は、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物と証ししてくださったからです」と記しているのです。
  どのようにアベルは「信仰によって」いけにえをささげたのか。その基準はよく分かりません。ただアベルは「信仰によって」ささげました。そのことがカインには欠けていたのです。アベルは「死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」と言われています。では、彼は信仰によって何を語っているのか。彼の血が土の中から叫んでいます。何を叫んでいるのでしょうか。人間的に考えれば、復讐の叫びだと思います。しかし、信仰によって語る内容として、復讐はふさわしくありません。
  ヒントとなる言葉が、12章24節にあります。「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」 ここには、「新しい契約の仲介者イエス」の説明として、「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」と言われています。イエス様もアベルのように殺されて血を流されました。しかし、イエス様が十字架で流された血は、アベルの血よりもすぐれたことを語っています。このようにイエス様の血とアベルの血が比較されているのは、両者の血が「すぐれたことを語る」点においてなのです。もし復讐を求める叫びであったとしたら、「すぐれたことを語る注ぎかけの血」と言うことはできません。
  アベルの血の叫びは、復讐を求める叫びではありません。その叫びは、「私は兄に殺されて悲惨な最期を遂げました。それでも神は、この私を受け入れてくださっています」と語っていたのではないでしょうか。このように理解するのが、「信仰によって、今もなお語っています」と言われる、この文脈にぴったりであると思います。「私は完全に贖われ、義と認められる」ことを、アベルは確信していたに違いありません。そして、そのことを待ち望んでいたのです。
  なお「義人アベル」について言及している二つの個所を紹介します。第一に、マタイの福音書23章35節で、イエス様が「義人アベルの血」と言われています。第二はヨハネの手紙第一3章12節で、カインは「兄弟を殺しました。なぜ兄弟(アベル)を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです」と記されています。アベルの行いが「正しかった」のは、アベル自身の功績によるのではなく、神がアベルを義と認めてくださったこと、そして、彼がその恵みを受けたことによるのです。
  次にエノクに行きましょう。エノクについては、創世記5章に、ほんの少し記されているだけです。彼はアダムから数えると七代目になります。この「七」という完全数に意味があるのかもしれません。23節に「エノクの一生は三百六十五年であった」とあります。創世記の記録によると、当時の人々の寿命は千年に届くほどでしたから、エノクの生涯は短いものでした。24節に「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」とありますが、ヘブル書の著者は、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように……神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、証しされていました」(5節)と解説しているのです。
  それに6節の言葉が続きます。「信仰がなくては、神に喜ばれることができません。神に近づく者は、神がおられることと、神に求める者には報いてくださる方であることを信じなければなりません。」 「神に喜ばれる」信仰は、①神がおられること、②神は求める者に報いてくださること、を信じます。①と②は切り離すことができません。神がおられることを信じるなら、神が私たちに福音してくださり、私たちを義と認めてくださり、私たちを喜んでくださることを信じるのです。これは、1節の「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させる」信仰の内実にほかなりません。
  7節にノアが登場します。ノアは、「まだ見ていない事柄」である洪水が起こるとの警告を神から受け、神に喜ばれる[目に見えない洪水を確信させられる]信仰によって、自分と家族を救うために箱船を造りました。大洪水が起こっても、箱船に乗り移っていたノアとその家族は救われたのです。このことは、創世記6~9章に洪水物語として記されています。こうしてノアは、信仰によって義と認められることにより、「信仰による義を相続する者」となったのです。
  そういうことで、なくてならないものは、神に喜ばれる信仰であります。この「神に喜ばれる」ということは、私たちが何かをすることによるのでしょうか。そうではありません。神がキリストによって私たちを救い、私たちを義と認め、私たちの罪を贖ってくださることを、感謝して受けることにほかなりません。私たちに幸せを与えたいと願っておられる、その神の願いを単純に受けていく信仰ほど、神に喜ばれることはないのです。  (村瀬俊夫 2005.10.16)

《ヘブル書連続説教 20》 必 要 な の は 忍 耐 で あ る ヘブル 10:26~39

 ヘブル書の中心的主題は大祭司キリスト論であり、その重要な部分(5章から10章18節まで)は学び終えました。その教えを論じ終えた後の、それに基づく大事な積極的な勧めが、前回学んだ個所(19-25節)でした。大祭司キリスト論を導入するための勧めである4章14-16節に対応する部分であり、どちらも大祭司キリスト論の導入及び結びとして、それぞれ福音の恵みに満ちたすばらしい内容の勧めであります。
  そのすばらしい結びの勧めを学んで、今回は26節以下に進みます。ここからは、かなり調子が変わります。いや、がらりと変わると言ってよいかもしれません。厳しい内容になるのです。ちょっと、読みたくないという感じになる個所ではないでしょうか。厳しい警告の言葉が続いています。26-31節には、特に厳しい警告の言葉が述べられている、と言ってよいでしょう。
  こうした厳しい調子の言葉が語られている背景には、最初のほうで話したように、この文書の受け手の人々が置かれていた厳しい状況がありました。ローマ帝国内のキリスト教弾圧が進む中で、彼らも迫害に見舞われていたのです。言葉でののしられるだけでなく、物理的な暴力を受けることもありました。そういう中で信仰の動揺をきたす人々がいたのは、当然のことでありました。
  それから、ユダヤ教からキリスト教に転じた人々も少なくありません。そのような人々は、ローマ帝国で公認されていたために迫害を受けることのなかったユダヤ教へ戻るように勧誘されていたのです。そういう厳しい状況があったことを、もう一度思い起こしていただきたいと思います。まさに背教の危機にさらされている信者たちのことが考えられるのです。3章12節や6章4~8節に記されている厳しい警告の言葉も学び直してください。
  今回の個所の冒頭(26節)には、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません」とあります。これは大変厳しい言葉ですね。「真理の知識を受ける」とは、「聖霊にあずかる」(6:4)と同じ内容のことです。聖霊は私たちに真理の知識を授けてくださいます。聖霊は私たちを福音の真理に導き入れてくださるお方です(ヨハネ16:13)。そのように聖霊に導かれて福音の真理をしっかり受けとめながら、その真理に背くような罪を犯し続けるなら、「罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」すなわち、救われる道はなく、滅びがあるだけであります。
  29節には、「まして、神の子を踏みつけにし、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい」と警告されています。その中に「恵みの御霊を侮る」という表現があります。それは聖霊に導かれて受けた福音の真理に背いて罪を犯すことを意味します。このことに関連して思い起こすイエス様の御言葉があります。「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦されます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえに罪に定められます」(マルコ3:28-29)。
  これは難解な聖句として知られています。ここでイエス様が「聖霊をけがす罪」と言われたのは、いったい何を指すのか。その前の個所では、「神をけがすことを言っても、それはみな赦されます」と言われています。「しかし、聖霊をけがす者は、永遠に赦されない」というのは、どういうことなのか。注解書には、色々な説明が書いてあります。それらを読めば読むほど分からなくなります。分かりやすい説明は簡単明瞭でなければなりません。
  イエス様が私たちに与えてくださるのは、十字架と復活の福音に基づく、無条件・無制限の赦しであります。それを聖霊の導きと助けによって受けているのが、私たちキリスト者です。そのように受けている無条件・無制限の赦しを味わいながら、「もう私には罪の赦しは要らないのだ」と、それを公然と拒むような態度をとることが、「聖霊をけがす者」になることであると思います。
  イエス様は、私たちの罪を無条件に、また限りなく赦してくださいます。そのイエス様と共に歩むとき、私はいつも自分の罪深さを示されます。ですから、また新たに罪の赦しをいただき、その有り難さを深く感じてまいります。「恵みの御霊を侮る」ことは、「私の罪を赦してください」という祈りをする必要がないと感じていること、イエス様が与えてくださる「無条件・無制限の赦しなど要りません」と拒むような態度をとることにほかなりません。それでは「罪のためのいけにえは、もはや残されていません」と言われても仕方ないのです。
  それで私はこう思います。イエス様が私たちを裁いて地獄に落とすのではなく、私たち自身の側で、神のあわれみを拒んで地獄に落ちる道を選んでいるのです。もし地獄に落ちることがあるなら、神様の側に責任があるのではなく、神の恵みを拒む私たちの自己責任である、と言わなければなりません。
  26節以下の段落の最後には、「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」とあります(31節)。この言葉だけ取り出しますと、すごくインパクトがあり、とても怖(こわ)い感じがします。「生ける神には近づかないほうがよい」と思ってしまうかもしれません。「生ける神」は、旧約聖書によく出てくる表現です。「生ける神の手の中に陥る」ことは、<その神の手にすべてをお委(ゆだ)ねする>ということを意味します。それは確かに恐ろしいことです。
  恐ろしいことではありますが、罪を犯したなら、神の手にすべてをお委ねる以外に道はありません。そうすれば、神は必ず罪を赦してくださいます。そのことを心に深く刻んでいれば、この威嚇的と思われる厳しい言葉の中にも、神の愛の招きが秘められている、ということに気づかされるでしょう。そのように気づかされ、理解していくことが大事だと思います。
  さて、32節以下では、前の個所で厳しく言いすぎたためか、少し調子を和らげて、肯定的な勧めの言葉に転じています。その主眼は、説教題がそこから選ばれている36節にあります。そこには「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」と書いてあります。「必要なのは忍耐である」という説教題は、この大事な勧めの言葉の終わりの部分から採ったものです。
  この段落(32-39節)は、一言(ひとこと)で言うと、忍耐の勧告であります。この文書を受け取る人々は、長い信仰生活を経ている者たちが多かったと思われます。そして、その長い信仰生活の中で、数々の試練や戦いを経験してきたに違いありません。ここにおられる皆様[そして、読者である皆様]の多くも、そうであると思います。そういう試練や戦いの数々を経る中で、忍耐を学ばされ、また学び合ってきたのではないでしょうか。そこですぐに思い当たる、パウロの手紙の中の聖句があります。
  それはローマ人への手紙5章3節以下です。2節から読むほうがよいと思います。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が……希望を生み出すと知っているからです。」 続いて「この希望は失望に終わることがありません」と解説されているように、忍耐が生み出す希望は、<失望に終わることのない希望>であります。
  このパウロの言葉は、とても意義深いものですから、よく味わっていただきたい。患難・忍耐・練られた品性・希望と続いていますが、そこで学ぶのは、<この忍耐は希望につながる忍耐である>ということです。希望がないと「忍耐する、耐え抜く」ということは難しいでしょう。希望があるから、耐え抜くことができるのです。ですから、希望のもとにある忍耐であり、希望があるからこそ忍耐することができるのだ、ということを弁えておいてほしいと思います。
  この文書の受け手の人たちも、数々の患難や試練に会い、そこから忍耐を学ばされてきました。そういうことを思い起こしてほしい、と著者は訴えているのです(32節)。彼らは今も激しい試練の中に置かれていますが、その試練を耐え抜いてほしい、と励ましているのです。
  3章6節の後半の聖句を、もう一度読んでみましょう。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかり持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 「神の家」は教会のことですから、教会とは、「確信と、希望による誇りとを、しっかり持ち続ける」所であります。このことから、忍耐は希望による誇りと深く結びついているのだ、ということが分かります。希望による誇りなしには、忍耐することは難しいのです。
  希望による誇りを持ち、忍耐することができるように、互いに勧め合って礼拝を守ることが大切ですよ、という前回学んだ勧告(25節)に結びつきます。そして、33節に言われているように、苦しみを受けた人々の仲間になって、彼らを励ましていくことが求められています。そのようにして、愛と善行を促すように勧め合うことが大切なのです(24節)。一人だけの力で耐え抜いていくことはできません。お互いに励まし合い、助け合い、支え合う中で、忍耐の実を結んでいくことができるのです。
  それにつけても、「約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ということを学んで、結びとしたいと思います。「必要なのは忍耐である」ということは、何事においても言えることであります。私も幸い50年間、休まず伝道者・牧師として働くことが許されましたが、それも忍耐の実が結ばれていたからできたのだ、という思いを強くさせられています。人間的には、何度か「止めたいな」と思うことがありました。それでも止めずに来ることができたのは、忍耐することができたおかげであると思います。
  結婚生活も、継続の秘訣は忍耐であるかもしれません。しかも、結婚生活の場合、それは希望のある忍耐であると思います。希望がないのに、忍耐せよと言われても難しいですね。ですから、どうしても離婚しなければならないケースもあります。日本国憲法でも、離婚のことが認められています。いつも一緒にいて喧嘩(けんか)ばかりしているくらいなら、一緒にいないほうがましではないかと思うからです。
  キリスト者同士の夫婦でも離婚する場合があります。「神が合わせたものを人は離してはならない」と結婚式で言われたのに、離婚するのは神の命令に背くことではないか、とよく言われます。人間は間違うことがあります。司式する者も、新郎新婦も、その時は「神が合わせてくださった」と思って結婚式をします。しかし、実はそうでなかった、という場合もあり得るのです。<実は、神が合わせてくださった結婚ではなかった>というのなら、結婚生活を解消するほうが良いのではありませんか。そんなふうに話してあげると、離婚はけしからんと怒っている人や、離婚して苦しんでいる人が、妙に納得してくれることもあるのです。
 結婚生活は夫婦お互いの忍耐の結晶であると思います。結婚生活を全うして金婚式を迎えるような夫婦は、本当に仲の良い夫婦という希(まれ)な例外はあるでしょうが、お互いによく忍耐したのではないかと思います。私の場合も、妻は私のためにものすごく忍耐してくれたのであると思い、心から感謝しています。なかなか言えないでいるので、この機会に感謝の言葉を述べておきます。
  何事においても、忍耐が必要であると思います。就職してもすぐ止めてしまう人が最近多いのですが、やはり忍耐して職場に留まり研鑽(けんさん)を積まないと、仕事が自分の身につきません。スポーツの世界は、特に忍耐が要求される世界ですね。忍耐して訓練に耐え抜かないと、優秀な選手にはなれません。その忍耐への奨励として旧約聖書の預言の言葉が引用されているのです。
  その預言の言葉は、ハバクク書2章3~4節に記されています。ハバクク書は十二小預言書の一つで、全部で3章しかない短い預言書です。その本書への引用は、ヘブル語原典からではなく、ギリシア語に翻訳された七十人訳によっています。七十人訳の本文はヘブル語原典の本文とは少し違うのです。その七十人訳の本文の語順を多少変えて、ここに引用しています。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない」(37-38節)。
  この引用句の中でよく知られているのは、「わたしの義人は信仰によって生きる」という聖句です。パウロは、この聖句を別の文脈でガラテヤ書2章やローマ書3章に引用しています。ヘブル書の著者は、この聖句をパウロのように信仰義認の教理を述べる文脈で引用してはおりません。著者の関心事である「信仰」は、11章以下でさらに明らかにされるように、救いの信仰に含まれている待望の要素です。来るべき方は、しばらくすれば必ず来られます! その方が来られるのを待つ希望、そして、その希望を失わない信仰が、ここで強調されているのです。
  希望を失って「恐れ退く」ことがあってはなりません。引用句の最後に「もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない」とあり、39節にも「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、……」と言われています。この「恐れ退く」は、原文では一語の動詞であり、新共同訳は「ひるむ」と訳しています。「ひるむ」ことも、「恐れ退く」ことも、希望による誇りを捨て去ることになります。<希望による誇りを持ち続け、堅忍不抜(けんにんふばつ)の信仰に生きてほしい>というのが、著者の切なる訴えであると思います。
  お互いに、いろいろ苦しいこと・辛いことがあります。この世にある限り、私たちが艱難辛苦を味わう試練から全く解放されることはありません。時代の流れの中で、教会も様々の試練を受けなければなりません。その試練を乗り越えていくために、忍耐が必要なのです。この忍耐は、決して失われることのない希望と堅く結び合わされています。そのような忍耐を豊かに育まれて、お互いに、堅忍不抜の信仰に生きる者とされましょう。

  これで10章が終わり、11章から新しい個所に進むような感じですが、実は、堅忍不抜の信仰に生きた人々の事例が11章に列挙されているのです。11章以下は、<必要なのは忍耐である>という勧告の続きであります。               (村瀬俊夫 2005.9.4)

《ヘブル書連続説教 19》 眞 心 か ら 神 に 近 づ こ う ヘブル 10:19~25

 ヘブル書の主要なテーマである大祭司キリスト論が、今回学ぶ個所の前の10章18節で終わりました。前回学んだ個所は、そのクライマックス、あるいはフィナーレと言うべきところでした。それを受けて、大事な勧めの言葉が記されてまいります。10章19節以下は全部が勧めの言葉だといってよいくらいですが、その中でも今回学ぶ10章の19-25は、最も重要な勧めの言葉が記されている個所である、と言ってもよいでしょう。
  「こういうわけですから」という書き出しは、5章から10章18節にかけて述べてきた大祭司キリスト論の教えを受けています。19-25節は七つの節に分けられている段落ですが、文章を節に分けるのは後になって行われたことです。便利なので今では広く共通して使われていますが、節の区分など本来はありませんでした。実は、ギリシア語の原文で、この個所は一続きの文章なのです。
  日本語訳は、新改訳も新共同訳も、節ごとに切って一つの文章にし、それでも前後の関係が分かるよう工夫しています。しかし、先に述べたように、原文は一続きの長い文章です。それでも、ヘブル書の著者は優れたギリシア語の使い手でありますから、長い文章のどこが中心であるかはすぐに分かります。それは22節で、新改訳も新共同訳も文末に来ていますが、ギリシア語原文では文頭にある「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」という言葉です。
  この言葉が、ここの文章の要(かなめ)であります。この要の言葉から採りました説教題「真心から神に近づこう」が、これまで学んできた「キリストが私たちの大祭司である」ということから来る重要な結論であり、それに基づく勧めの言葉になるのです。そして23節に、「しっかりと希望を告白しようではありませんか」という勧めの言葉が続きます。22節と23節は、別々の文章と思われますが、ギリシア語原文では、かろうじてコロンでつながっています。「真心から神に近づこう」という勧めの流れの中で、「しっかりと希望を告白しよう」と勧められているのです。
  さらに24節にも、「愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか」という勧めが続きます。このように三つの勧告の言葉が、この個所の一続きの文章の主文章を構成していますが、その中でも最初の「真心から神に近づこう」が中心であることは言うまでもありません。その他の文章は、これら三つの勧告の理由を示すか、勧告と関係する具体的なことを扱っている内容であります。特に19節から21節までは、「真心から神に近づこうではありませんか」という勧告の根拠(あるいは理由)を述べているのです。
  それから、注目していただきたいことがあります。ヘブル書には滅多に出てこない「兄弟たち」という呼びかけが、19節に見られることです。ヘブル書で「兄弟たち」という呼びかけがされているのは、3回だけであります。最初は3章12節で、「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」と言われています。そして10章19節で、大祭司キリスト論を述べ終わって、最も重要な勧告をするに当たって、著者は再び「兄弟たち」と親しく呼びかけているのです。もう一回出てくるのは、結びの言葉を述べ始める13章22節で、「兄弟たち。このような勧めの言葉を受けてください」とあります。
  19-21節には、私たちが真心から神に近づける理由もしくは根拠が述べられています。19節に記されているのは、その第一の根拠です。「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」 このように新改訳は独立した文章にしていますが、構文上は「……できるのですから」と20節に続いています。「大胆に」という副詞は、これまでも何回か出てきましたが、「憚ることなく」あるいは「確信をもって」と訳すことができます。
  この第一の根拠は、これまで大祭司キリスト論を展開する中で、著者が力強く述べてきたことです。イエス様が十字架で流された血は、ただ一度で私たちの贖いを完全に成し遂げてくれました。そのようにイエス・キリストが、「ただ一度」ご自身の死によって永遠の贖いを成し遂げてくださったので、私たちは罪を赦され神の子とされた者として、何も憚ることなく、大胆に、確信をもって聖所に入り、神に近づくことができるのです。この聖所は《[そこに神が現臨される]至聖所》を指しており、それで新改訳は原文にはない「まことの」という形容詞を付して「まことの聖所」と訳しているのだのだと思います。
  第二の根拠は、少し飛んで21節に記されています。飛ばした20節は、19節についての補足説明でありますが、後回しにして第二の理由を先に見ましょう。「私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります」と、新改訳は独立した文章に訳しています。しかし、「……偉大な祭司がありますので」と訳すのが、原文に忠実であります。「神の家」は教会のことです。教会の上に立てられた、教会のかしらであるお方は、偉大な祭司であり、私たちのためにいつもとりなしをしてくださっています。だから大胆に、憚ることなく、確信をもって「真心から神に近づこうではありませんか」との勧めにつながるのです。
  飛ばした20節ですが、私たちが至聖所に入ることができることについて、補足的な説明をしています。原文に即して訳すなら、「その聖所に入ることを、イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、新しく設けられた生ける道として、新たに開いてくださったのです」となります。「垂れ幕」は、聖所と至聖所とを隔てる幕のことです。この垂れ幕の奥にある至聖所には、祭司も入ることができず、例外として年に一回、大祭司がいけにえの動物の血を携えて入ることができただけでした。この20節で言われているのは、イエス様がご自身の肉体を永遠の贖いとしてささげることにより、至聖所に入ることを妨げる垂れ幕を取り除いてくださった、ということであります。
  ここには当然、イエス様の死とともに復活との出来事が含蓄されています。ご自身の死と復活とによって、イエス様は神と人とを隔てる垂れ幕を通り過ぎて、あるいは乗り越えて行かれました。そのことは、「垂れ幕を取り去ってくださった」と言い換えてもよいと思います。こうしてイエス様は、私たちが大胆に[憚ることなく、確信をもって]神に近づける道、そういう意味での「新しく設けられた生ける道」を新たに開いてくださいました。それで私たちは、「大胆に至聖所に入ることができる」という確信を抱くことができるのです。
  そのような根拠と理由で、22節の主文章につながります。新改訳では文末に来ていますが、ギリシア語原文では「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」が文頭に来るのです。もっと厳密に表現すれば、「近づこうではありませんか、真心から、全き信仰をもって」という語順になります。その後に、原文では主文章である「真心から神に近づこうではありませんか」という勧めの言葉をさらなる根拠によって説明する副文章として、新改訳では22節の前半に記されている文章が続くのです。すなわち、「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから」と。
  新改訳は、22節の冒頭に「そのようなわけで」という原文には全くない言葉を入れています。これは19-21節を各節ごとに独立した文章に訳してしまったための応急処置のようなものでしょう。19-21節に述べたことを根拠ないし理由として22節の勧めの言葉が語られるのだ、ということを示すためにも、「そのようなわけで」という一句を入れなればならなかったのです。
  私たちが真心から神に近づける根拠には、さらに22節の[原文では]後半(新改訳では前半)に記されているように、「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われた」ということがあります。でも、この新改訳の文章は分かりにくいと思います。私なりに分かりやすく言い換えますと、「[洗礼によって]心をきよめられて罪責感から解放され、からだもきよい水で洗われたのですから」となります。
  「心に血の注ぎを受けて」という訳は適当ではありません。これは「心をきよめられて」で良いのです。原文を直訳すれば、「邪悪な良心から心をきよめられて」となります。この「邪悪な良心」という表現は分かりにくいですね。これは「罪責感」と言い換えたらぴったりではありませんか。この罪責感から[私たちが]解放されていることが、ここで言われているのです。それで「心をきよめられて罪責感から解放され」と訳すことができます。それがどんなにすばらしい恵みであるかということも、罪責感に悩まされていた者であればあるほど、身にしみてよく理解できるでしょう。
  そのように「心をきよめられて罪責感から解放された」上に、これは洗礼の恵みを表しているのだと思いますが、「からだをきよい水で洗われた」のです。ですから、少しも疑うことなく、「神の恵みに全く信頼して、真心から神に近づこうではありませんか」と勧められているのです。
  ここで、大祭司キリスト論が展開される前の個所(4:14-16)を思い起こしましょう。そこは大祭司キリスト論の導入部でもあると申しました。同時に、そこは2章から4章まで続く勧告の言葉のクライマックスでもあります。そしてそれは、今学んでいる大祭司キリスト論を述べ終わった後の重要な勧告と響き合っている内容なのです。
  4章14節の「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」という勧告は、10章では23節の「しっかりと希望を告白しようではありませんか」という勧告と響き合っています。4章16節の「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」という勧告は、10章22節のように「真心から神に近づこうではありませんか」と言い換えてもよいのです。「近づこうではありませんか」は、どちらも同じギリシア語の動詞が使われています。
  すると、ヘブル書の主要なテーマである大祭司キリスト論は、4章14-16節の大事な勧告の言葉と、それと響き合う関係にある10章19-25節のさらに重要な勧告の言葉との間に挟まれるようにして展開されている、ということが分かります。このようなヘブル書の構成に、改めて注目していただけたら幸いであると思います。
 25節は、23節と24節の勧告の具体的な事例を述べている、と見ることができるでしょう。25節の終わりが、新改訳では「ますますそうしようではありませんか」、新共同訳では「ますます励まし合おうではありませんか」という文章になっているので、第四番目の勧告のように見えます。しかし、そうでないことはギリシア語原文を見れば明らかで、25節は23節および24節の勧告の具体的事例を挙げている文章なのです。
  この構文を考えて私訳してみると、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合うようにして-かの日が近づいているのを見ては、なおさらそのようにして」となります。このように言われる背後には、一部の人々が共に集まることをやめてしまっていた、という情況がありました。前にも述べたように、ローマ帝国下でキリスト教会が迫害を受けるようになると、ユダヤ教からキリスト教に移った人々に、ユダヤ教側から戻って来るように強力な誘いがあったと思われます。ユダヤ教はローマ帝国の公認宗教でしたから、一応保護されていてあからさまな迫害を受けることがなかったのです。
  むしろローマの社会で、ユダヤ教は人々から尊敬されていたという一面があります。それでユダヤ人以外の人々(異邦人)がユダヤ教の会堂に来て、一緒に礼拝をしていたのです。中には男子の場合、割礼を受けてユダヤ人になった「改宗者」と呼ばれる人々もいました。そこまで行けない人々は、「神を敬う人々」と呼ばれていました。そういう人々が会堂に多く集まっていたという現実は、ユダヤ教がそれだけの信頼を当時のローマの社会の中で得ていたからではないでしょうか。ですから、「集まることをやめた」といっても、彼らが全く信仰を捨ててしまったというのではなく、ユダヤ教の集会に戻ってしまったというケースも考えられるのです。
  そういう中で、キリスト者たちは、主がよみがえられた日(週の初めの日、日曜日)を覚えて、礼拝のために集まっていました。そのようにキリスト者として、ユダヤ教の安息日(土曜日)にではなく、「週の初めの日に集まることやめないでほしい」という著者の切なる願いが披瀝されているのです。
  ここで使われている「集まること(集会)」という言葉について、少しコメントしておきます。ここでは、普通の集会を意味するよりも、その意味を強調する前置詞エピを前に付けた名詞(エピスュナゴーゲー)が使われているのです。それで日本語に訳すとき「集まること」だけでは物足りない感じがします。「叩くこと」を強調して「うち叩くこと」、「砕くこと」を強調して「うち砕くこと」と言うように、ここは「うち集まること」と表現したらぴったりではないでしょうか。ただ集まるのではなく、うち集まるのです。ヘブル書の著者は、「いっしょにうち集まることをやめないように」と、励ましながら警告しているのです。
  それは前の勧めと関係があります。23節には「しっかり希望を告白しようではありませんか」と勧められています。その希望の告白を堅持するために、主の日の礼拝に「うち集まること」をやめてはならないのです。24節には「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか」と勧められています。「愛と善行を促すように」という訳では物足りません。「愛と善行を鼓舞(あるいは激励)するように」と訳してほしいと思います。愛と善行へと鼓舞され、激励されていくためにも、週の初めの日の礼拝に「うち集まること」が必要なのです。
  さらにもう一つ、25節で注目したいのは、「かの日が近づいているのを見て」という一句です。一般的には、これは再臨の日を指すと解釈されています。その解釈を認めたうえで、私は再臨の日よりも、もっと身近な経験として、今の苦しい状況がいつまでも続くわけではない、トンネルから抜け出す日が必ず来るのだという、その日を指していると思います。その日を見ているのですから、ますます「真心から神に近づこう」ではありませんか、と著者は熱心に勧めているのです。(村瀬俊夫 2005.7.24)


《ヘブル書連続説教 18》 永遠に全うされた救いを見る ヘブル 10:1~18

 ヘブル書の一番大事な個所である大祭司キリスト論を学んできましたが、今回がその最後の個所になります。この10章1節から18節までは、大祭司キリスト論のクライマックスあるいはフィナーレと言ってよい所なのです。19節以下は、大祭司キリスト論に基づくすばらしい勧告であって、論述の部分は18節で終わります。
  前回の個所に出てきた「ただ一度」という言い方が、今回の個所にも10節に出てきます。そこでは「ただ一度だけ」という表現に新改訳ではなっていますが、この「だけ」は蛇足かもしれません。でも、「ただ一度」をさらに強調したくて「だけ」を添えたのでしょう。キリストはご自分のからだを、一度で全部という永遠的な意味で「ただ一度」ささげてくださいました。そのことによって、私たちは聖なる者とされていいます。徹底した罪のきよめと赦しが与えられ、さらに永遠のいのちが与えられ、それに神の子とされる恵が加わり、私たちは聖なる者にされているのです。
  14節を見ると、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」と言われています。「一つのささげ物」とは「ただ一度のささげ物」のことですね。それは永遠の贖いでありますから、それによって私たちは永遠に全うされるのです。このすばらしい恵みを、実際のところ、私たちはどれだけ理解しているでしょうか。あるいは、どれだけ理解できるのでしょうか。
  今回の説教題は、よく考えたすえ、「永遠に全うされた救いを見る」としました。このように、「永遠に全うされた救い」だけにしないで、あえて「を見る」を付け加えました。「見る」という言葉は、ただ見るだけでなく、見ているものを知るという意味があります。知ってその意味がわかると、知っていることを深く味わうことができるのです。そういう意味で、私は「見る」という言葉をここで用いています。
  カトリック教会には、「観想」という用語があります。祈りにも、言葉に出してする祈りのほかに、「念祷」と呼ばれる言葉にしない沈黙の祈りがあります。言葉にする祈りは「口祷」と言います。すると、プロテスタントの祈りはもっぱら口祷ではないでしょうか。先日、教職アシュラムで、イエズス会の黙想の家に行ってきました。そこで教えられましたが、念祷をカトリックでは三つに分け、瞑想・黙想・観想と言うのだそうです。
  瞑想は、何も考えずに漠然と心を静めていることで、そうすることも大事であります。黙想になると、そこに考える要素が加わり、何かを知る、その意味を考えるようになります。この聖句は何を意味するのか、私に何を求めているのか、私はどうすべきなのか、いろいろ考えます。さらに観想は、それを深く味わう段階にまで進むことになるのです。それで私たちは、イエス様が永遠に全うされた救いについて、まず瞑想しながら、それが何を意味するかを黙想するようにしましょう。その意味がわかって、それを深く味わう段階まで進んでいけたなら、どんなにすばらしいことでしょう。
  私は今、その段階まで導かれているのではないかと思い、感謝しています。永遠に全うされた救いを深く味わうまで観想させていただいています。それは本当にすばらしい恵みです。この恵みに多くの方々があずかってくださるように、心から願っています。
  「ただ一度」ご自身をささげられたイエス様は、それで終わったのではなく、よみがえらされました。そして今は、天において神の右の座に着いておられます。「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右に座に着き、……」(12節)としるされています。十字架においてイエス様は、「一つの永遠のいけにえをささげ」てくださいました。それだけでなく、永遠のいけにえとしてささげられたイエス様は、よみがえらされたお方です。ですから、「永遠に全うされた救いを見る」ことは、十字架につけられたイエス様を見るとともに、よみがえらされたイエス様を見ることでもあります。
  先ほど讃美した306番は、有名な黒人霊歌です。「あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき」と1節は歌います。2節は「主がくぎでうたれたとき」、3節は「主が槍でさされたとき」、4節は「主を墓におさめたとき」と、イエス様の十字架と死を歌っています。これまでは、この4節で終わっていたのですが、『讃美歌21』には、「主がよみがえられたとき」と歌う5節があります。これで良かったと思います。十字架の出来事は、復活の出来事と切っても切れない関係にあるからです。
  1節から4節までは、各節の最後が「深い深い罪にわたしはふるえてくる」と歌われますが、主の復活に言及する5節だけは、「深い深い愛にわたしはふるえてくる」と歌っています。原詩に忠実に訳していると思いますので、これはすごいと思います。まさに黒人霊歌の霊性の深さを証ししているものです。イエス様がよみがえらされたとき、私たちは自分の罪が赦されたことを本当に知ります。私たちが十字架につけたイエス様を、神はよみがえらせてくださいました。それこそ、イエス様を十字架につけた私たちの罪を、神が赦してくださったことの確かな証しであるのです。この確かな証しこそ、神の無限の愛にほかなりません。
  よみがえらされたキリストは、永遠の大祭司として、神の右の座に着いておられます。このキリストを私たちは礼拝しています。主の日の礼拝は、よみがえられて神の右の座に着いておられる大祭司である主を覚え、記念することが一番の主眼です。ここで本書の著者は、「座に着いておられる」ことを、とても重視しています。私たちの大祭司は、なぜ、すわっておられるのか。言い替えると、なぜ、立っておられないのか。
  旧約聖書を見ると、祭司は務めをするとき、すわっていてはいけません。それでは仕事にならないからです。仕事をするために祭司は立っていなければなりません。しかし、私たちの大祭司キリストは、神の右の座に着いて、すわっておられます。そのことについて,14節にすばらしい解説をしてくれているのが、このヘブル書です。キリストがすわっておられるのは、「聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされた」からであります。
  そういうわけで、18節の後半に書いてあるように、「罪のためのささげ物はもはや無用」となりました。それで復活の主である大祭司キリストは、神の右の座にすわっておられるのです。旧約時代の祭司は、罪のためのいけにえをささげなければなりません。ですから、すわっていては仕事になりません。立って忙しく働かなければならなかったのです。しかし、そのいけにえをささげる必要が全くなくなったので、イエス様は神の右の座にしっかり腰をすえ、いつも生きていて、私たちのためにとりなしをしておられます(7:25参照)。このイエス様との交わりにおいて、私たちは「永遠に全うされた救いを見る」のです。
  1節に戻ります。「律法には、後に来るすばらしいもの(イエス・キリストの出来事)の影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しはしなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです」(1-2節)。しかし、実際はそうではありません。旧約の律法による動物のいけにえは、それをささげる人たちの罪を完全に拭い去ることができません。それでくり返しささげられる必要があったのです。
  くり返しいけにえをささげる祭司は、そのために忙しく、立って務めを果たさなければなりません。11節に、「すべての祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません」と書いてあります。いけにえをささげて礼拝する者は、そのことによって罪を消し去られるのではなく、かえって罪の意識を増し加えられ、罪責感から抜け切れない状態にされる、という心配があったのです。
  これは決して旧約時代のことだと言って済ますわけにはいかない問題であり、キリスト者でも罪責感から抜け切れない人たちが少なくない、という現状があります。信仰が熱心でまじめなキリスト者ほど、その傾向が強いのではないかと思われます。先日行われた教職アシュラムは、20名の定員をオーバーして、私も含め22名が参加しました。現職の牧師の方々が多いのですが、そのほとんどの方が疲れていらっしゃいます。牧会活動が十分にできないということで自責の念に駆られている方々が少なくありません。そのような問題を解決して新しく出直したい、という思いで参加しておられるのです。そのことと、「永遠に全うされた救いを見る」ということは、どのように関わるのでしょうか。
  もちろん、罪の意識は大事です。私も自分が罪人であることを強く意識しています。しかし、そのことで自分が押しつぶされてしまうことはありません。私の罪をイエス様が赦してくださった、という恵みのほうが私に強く迫り、私を包んでいてくれるからです。ただ一度のイエス様ご自身のいけにえは、私たちの罪を永遠に贖って余りあります。それで「罪のためのささげ物(いけにえ)はもはや無用です。」そのように「永遠に全うされた救い」を深く味わうまでに見ることは、本当に大切なことですね。
 ヘブル書の著者は、ここの5-7節に「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです」と前置きして、詩篇の40篇6-8節を引用しています。引用した後で、著者は「あなた(神)は、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえを望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、それでキリストは「わたしは[自分を永遠の贖いとしてささげて]あなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです、と解説しています(8-9節)。
  もう一つ注目したいのは、詩篇引用句2行目の「わたしのために、からだを造って[備えて]くださいました」という表現です。そこをヘブル語聖書は「あなたは私の耳を開いてくださいました」と読んでいます(詩篇40:6)。ここに引用されているのは、ヘブル語聖書がギリシア語に翻訳された七十人訳聖書によるもので、それによると「あなたはわたしのために、からだを備えてくださいました」と読んでいるのです。
  初代教会は、主として七十人訳聖書を用いていました。新約聖書は全部ギリシア語で書かれました。パウロがギリシア語で書いた手紙に引用している旧約の聖句も、ほとんど七十人訳によっています。その七十人訳聖書とヘブル語聖書とでは、この場合のように、読み方に違いのあるケースが見られます。ここに七十人訳聖書から引用された「わたしのために、からだを用意されました」という一句は、イエス・キリストの受肉の出来事とぴったり一致するではありませんか。神であるキリストが人となって来られたのは、ただ一度ご自身のからだをささげることにより、永遠に全うされた救いを実現して、神のみこころを行うためであったのです。
  ここで、本書の著者は、もう一度、エレミヤ書31章31節以下の「新しい契約」の預言を引用します。このエレミヤの「新しい契約」の預言が最初に、しかも全文が引用されている8章から説教したとき述べたように、新約聖書の中で、エレミヤの「新しい契約」の預言を引用しているのは、ヘブル書の著者だけなのです。「新約」は「新しい契約」を縮めたものであり、この用語が定着するようになったのは、ヘブル書のおかげではないかと思います。
  この「新しい契約」は、イエス・キリストの出来事によって実現し、成就しました。その「新しい契約」のさわりの部分が、「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます」(15節)という導入句に続いて、16-17節に引用されています。「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける」(16節)。神の律法が私たちの心の中に置かれ、私たちの思いの中に書きつけられます。その神の律法の根本は愛です。イエス様がそれを明らかにしてくださいました。この神の愛の律法が、十字架と復活の出来事を私たちが深く受けとめるとき、私たちの心と思いの中に書きつけられ、刻みこまれるのです。
  もう一つ,「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法を思い出すことはしない」(17節)と、神による完全で徹底した罪の赦しが宣言されています。神が「私たちの罪を思い出すことはしない」と言われているのです。これほど徹底した、完全な罪の赦しがあるでしょうか。このように私たちの罪が赦されるところでは、「罪のためのささげ物はもはや無用です」と、18節に言われているのです。この断言的な言明で大祭司キリスト論の論述が結ばれているのは、本当にすばらしいことであると思います。
  私たち一人一人の罪を、神は思い出すことをせず、忘れ去るまでに赦してくださっています。そのように「永遠に全うされた救い」を本当に見る者と、キリスト者はされているのです。そのように、私たちはキリスト者として、「永遠に全うされたす救いを見る」者にさせていだきたい、と心から願います。「永遠に全うされた救いを見る」ときに、罪責感にさいなまれている[私の、あなたの]どんな思いも、消し去れていくのです。
  人間は罪を犯します。私も罪を犯します。でも、その罪を「思い出すことはしない」までに赦してくださる神の愛を身にしみて感じ、神の右の座にすわってとりなしをしていてくださる永遠の大祭司キリストを覚えるとき、まさに「永遠に全うされた救いを見る」ことができます。そして、パウロが「罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました」(ローマ5:20)と言ったことの真実性を確信させられるのです。


  そのように「永遠に全うされた救いを見る」霊性を養っていくことが、私たちの大切な課題であると思います。そのために主日の礼拝に集まることも大切です。各自の生活の中で、「永遠に全うされた救いを見る」修練をしていただきたい。イエス・キリストは、ただ一度ご自身をささげることによって永遠の救いを全うされた大祭司であられます。いつも生きていて私たちのためにとりなしをし、私たちを祝福していてくださる方です。そのことをいつも覚えている霊性を身につけていきましょう。    (村瀬俊夫 2005.6.12)

《ヘブル書連続説教 17》 ただ一度の決定的な救い ヘブル 9:15~28

 先ほど読んでいただいた個所は前回学んだ個所に続いており、新改訳聖書では段落がありません。新共同訳聖書はここで段落を設けていますが、内容的には段落がなくてもよいくらい連続しております。前回の個所の12節に、キリストが「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた」ことが、今回の個所にも、別の表現で繰り返し述べられているからです。
 そのことによって、旧約の下における違反も含めて、私たちのどんな罪も完全に赦され、「永遠の資産」を受けて(15節)、すなわち永遠のいのちをいただいて、私たちが神の子とされるという「新しい秩序」が立てられました。これは前回も学んだことであります(10節参照)。そういう意味で、15節冒頭に述べられているように、「キリストは新しい契約の仲介者」でいらっしゃるのです。この「新しい契約の仲介者」という言葉は、すでに8章に出てまいりした。
  ここで少し、前回語るつもりで語れなかったことを語らせていただきます。今憲法の問題がいろいろ論議されていますが、60年前の敗戦で日本の国は変わりました。それは憲法が変わったことではっきり表されています。明治憲法の旧い体制は、いわば旧約聖書のようなものでした。それが日本国憲法という新しい体制に国が変わったのです。新しい契約にも相当すると思われる日本国憲法は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という三つの柱から成っています。明治憲法は、逆に天皇(しかも神権天皇)主権で、平和主義では全くなく、国民は天皇の臣民としての義務を課せられて基本的人権の自由はほとんどありませんでした。
  その明治憲法とは全く対照的な新しい秩序の日本国憲法を制定させた仲介者ば、誰であったのか。新しい契約の仲介者はキリストです。そのためにキリストは、ただ一度、十字架において血を流ししてくださいました。そのことで私は思うのです。<あの戦争で、本当に平和を願いながら死んでいった多くの人々の流した血こそ、日本国憲法の仲介者であるのだ>と。そのように信じるので、<戦争を放棄し、平和に徹した新しい秩序で国造りをしようと歩んできた国是が揺らぐことのないように>と 、私は切に願っております。
  キリストは新しい契約の仲介者となられました。その「新しい契約」が何によって有効になるのか。そのことが大事なポイントとして、ここで言われているのです。新しい契約を有効にしているものは、何か。それはキリストの死であり、その死によって流されたキリストの血であります。
 「契約」はギリシア語で「ディアセーケー」と言いますが、それには「遺言」という意味もあるのです。そのように「遺言」と訳している個所が16節以下に見られます。その16節の「遺言には、遺言者の死が必要です」という文章の「遺言」と訳されたギリシア語は「契約」と訳されたものと同じなのです。本来は遺言という意味で、それが契約という意味にも使われています。契約は遺言にも相当するのであり、遺言が効力を発するのは遺言者の死によるように、新しい契約が効力を発するのもイエス・キリストの死によるのです。そういうことがここで言われている、ということになります。
  ところで、死とは人間に属することです。神は死すべき方ではありません。神は不死であられる。これは不変の真理であると言ってもよいことでしょう。死んだら神様ではなく、人間にすぎません。神は不死であるからです。それなのに、神の本質の現われであるキリストの死が必要であり、キリストは死ななければなりません。そのために、キリストは私たちと同じ血と肉をもつ人間となられたのです。死ぬのは神ではなく、人であります。ですから、神がキリストにおいて人となってくださったのです(2:14参照)。その「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして」ささげてくだいました(26節)。
  どうして新改訳が「今の世の終わりに」と訳したのか分かりませんが、ギリシア語原文を直訳すれば「世々の終わりに」(岩波訳)で、1章2節の「この終わりの時に」と同じ意味であると思います。この終わりの時に、<まことの神であり、まことの人である>キリストが、ただ一度、ご自身をいけにえとしてささげてくださいました。そのことのゆえに、新しい契約は効力を発して、<私たちの罪が無条件に赦され、永遠のいのちが私たちに与えられ、私たちが神の子にされる>という道が開かれるようになったのです。
  さて、ヘブル書の著者は、18節で「初めの契約(旧い契約)も血なしに成立したのではありません」と言っています。旧い契約の仲介者はモーセでした。このモーセについて彼はこう書いています。「モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、『これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である』と言いました」(20-21節)。出エジプト記24章6-8節からの自由な[かなり表現を変えた]引用であります。
  著者がこれを引用したのは、要するに、<旧い契約も血が注がれることによって有効になったのだ>ということを主張するためであります。そのことを私たちも、しっかり受けとめればよいのです。それにしても、その時に注がれた血はモーセ自身の血ではなく、動物の血でありました。
  21節には、「また彼(モーセ)は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました」と書いてあります。幕屋とそこで行われる礼拝の諸設備にも、モーセによって血が注がれました。「それで、律法(旧い契約)によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう」と言われます(22節前半)。これはおおまかな結論ですが、私は的を射ているのではないかと思います。「また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(22節後半)。旧い契約が立てられたのも、契約の民が神の民となるために罪がきよめられるためでした。この罪の赦しときよめのためには、血が注ぎ出されなければならないのです。これは旧約時代のことを言っているのですが、その通りだと思います。
  それに比べて新しい契約の場合は、どうであるか。そのことか改めて23節から述べられているのです。「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません」(23節)。ここには、<本当のものは天にある>という著者の神学(あるいは哲学)が反映しています。
  旧約時代の幕屋とか神殿とかの礼拝施設は、そこで行われる儀式も合わせて全部、天にあるものにかたどったものに過ぎません。本当のものは天にあるのです。前に申しましたように、プラトンのイデア論的な考え方が著者の背景にあったのではないか、ということが指摘されておりますし、私もそうではないかと思っております。
  地上にあるものは、天にあるものの写しに過ぎませんが、それもきよめられる必要がありました。そのために動物のいけにえの血が注がれたのであります。しかも、それは繰り返し、繰り返し注がれなければなりませんでした。毎日それをするのが祭司の任務でありました。そして、一年に一回は、大祭司が至聖所に入って贖罪蓋の上に血を注ぐことが行われました。それも毎年、繰り返し行われてきたのです。
  しかし、天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。天にある本物の聖所は、何によってきよめられるのか。それは旧約時代の動物のいけにえで間に合わすわけにまいりません。それよりももっとすぐれたいけにえによらなければなりません。それは何であるか。答えはお分かりのように、イエスご自身のいけにえであり、キリストご自身の血であります。
 「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです」(24節)。「天そのもの」とは神ご自身にほかなりません(黙示録21:22参照)。キリストは、十字架で流されたご自身の血を携えて、死からよみがえらされた方として、天の昇り、神ご自身の前に現れてくださいました。これは「死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」と使徒信条が告白している事実と一致することであります。
  動物のいけにえの「血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません」(25節)。「ただ一度」それをなさったのです。26節に「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう」とありますが、そんなことをする必要がないように、「ただ一度」、それで十分で完全であるように、ご自分をささげてくださいました。「ただ一度」に当たる英語の once for allが意味するように、一度で全部をまかなっているのです。
  キリストは「ただ一度」、この終わりの時に、「ご自身をいけにえとして罪を取り除くために」来られました。キリストが来られたのは、終わりの時の始まりです。終わりの時が新しい始まりとなる。これが聖書の終末論の特色であります。これが意味することの重要性を、よく黙想して、しっかり自分のものにしていただきたいのです。
  キリストが終わりの時に「ただ一度」ご自分をいけにえとしてささげられたことによって、旧約の神の民の罪も取り除かれました。旧約聖書の歴史は人間の罪の歴史です。アブラハムもダビデも信仰の人と呼ばれていますが、聖書をよく読めば、彼らも多くの罪を犯していたことがわかります。ダビデは戦いに勝ち抜いて王になっただけに、たくさんの人々の血を地に流しました。そのため彼は、神から「神殿を建ててはならない」と言われました(歴代Ⅰ22:8)。そうした旧約時代の人々の数々の罪も、<キリストの「ただ一度」の十字架の死によって赦されているのだ>と、ヘブル書の著者は宣言しているのです。
  キリストの「ただ一度」のいけにえは、新約時代に生きる私たちの罪を取り除くだけでなく、遡(さかのぼ)って旧約時代の人々の罪も取り除いてくれています。それだけの効力が「ただ一度」のキリストの十字架の死にはあるのです。[過去・現在・未来にわたる]すべての人々を救う力のある十字架の効力を、あなたがたも知り、それをしっかり体得してほしいと願っています。
  私たちのためにも、私たちの先祖のためにも、そして私たちの子孫のためにも、キリストの十字架における「ただ一度」のいけにえは有効であるのです。それほど<キリストの死は、ただ一度の決定的な救いである>ことを、しっかり受けとめていただきたい。「私が救われても、私の家族や先祖はどうなるのでしょうか」と心配し、「家族や先祖を見捨てて私だけ救われるわけにはいかないのです」と、洗礼を受けることを躊躇する方が、日本では少なくありません。しかし今、私はためらわず申し上げることができます。「あなたの家族にも、あなたの先祖にも、あなたがキリストを信ずれば、その救いの恵みは及ぶのです」と。キリストの《ただ一度の決定的な救い》は、あなたを救うのみならず、あなたの家族も、あなたの先祖も救ってくださるのです。
  ヘブル書13章8節の本当の意味が、この説教の準備をする過程で、はっきり分かるようになりました。これは有名な聖句ですから、暗唱している方もいるでしょう。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」 この新改訳の表現はギリシア語原文の直訳で、とても良いと思います。他の訳の聖書は、ほとんど「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも変わることがありません」と意訳しているのです。そのほうが、日本語として自然であり、美しい表現と思われるからでしょう。しかし、原文のギリシア語が用いているのは、新改訳のように「同じです」という表現であります。
  この聖句は、今でも私は文語訳で暗唱しているくらいで、心に刻まれている聖句の一つです。<イエス・キリストは、過去・現在・未来にわたって変わらない、同(おんな)じ方である>というくらいの意味でしか理解していなかったのですが、それでもすばらしいことだと思います。しかし、今はっきり分かったことは、これは《ただ一度の決定的な救い》との関連で言われている、本当に大事な聖句であるということです。<きのうもきょうも、いつまでも《ただ一度の決定的な救い》を有効ならしめることにおいて、キリストは変わることがない、全く同じである>ということを、この聖句は宣言しているのです。そのことに、私は改めて気づかせていただきました。
  このように、聖書を読んでいて、新しく学ばされることがたくさんあります。ヘブル13章8節の聖句も、ヘブル書全体をしっかり学んでいく中で、大祭司キリスト論の要(かなめ)でもある《ただ一度の決定的な救い》の教えとの関連で、著者が宣言している言葉なのだ、ということをよく分からせていただいたのです。この理解に間違いはないと確信しています。
  この「ただ一度」という表現は、神学的に言い替えると《終末論的出来事》ということになります。キリストの十字架の死と復活は、ただ一度で全部をまかなう出来事という意味で、まさに終末論的出来事であるのです。この終末論的出来事において、キリストは永遠の贖いを完成してくださいました。もう私たちのための救いは、神の救いのご計画において完成しているのです。

 「キリストも、多くの人の罪を負うために[ただ]一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(28節)。[復活の]キリストが二度目に来られるのは「救いのため」である、という後半の言葉に注目しましょう。これはキリストの再臨も視野に入れていると思いますが、それとともに<今ここで[ただ一度の決定的な救いを完成してくださった]キリストが私たちに二度目に[すべての日々に、マタイ20:28参照]現れて、私たちの救いを全うしてくださる>ことを教えてくれています。私も、あなたがた一人一人も、その恵みを日ごと豊かにいただいて、すでに受けている救いの完成へと導かれる、満ち足りた信仰生活を歩ませていただきましょう。      (村瀬俊夫 2005.5.8)

《ヘブル書連続説教 16》 永遠の贖いを成し遂げられたキリスト

   今回は9章に進みます。冒頭の「初めの契約」は、8章の終わりに「年を経て古びたものは、すぐに消え去ります」とある衝撃的な言葉に関係しています。それは旧い契約のことで、縮めれば旧約になります。その旧約聖書にも「礼拝の規定と地上の聖所がありました。」 いや、あり過ぎるくらいありました。特にモーセ五書の二番目の出エジプト記、それに続くレビ記、民数記、申命記には、礼拝の規定が「これでもか、これでもか」と感じさせられるほどたくさん記されています。当時は神殿ではなく幕屋でしたが、その聖所として設けられた幕屋のことも細々と述べられているのです。
 その幕屋の構造や様子が2節から5節の前半にかけて書いてあります。これは主として出エジプト記25章とその前後の個所から引用して書いたものです。もっと詳しいことを知りたい方は,出エジプト記25章やその前後をよく読んでください。ところで、このような細部にわたる記述の一つ一つに意味付けをする人々がおりますが、それは的外れなことではないかと思います。
  5節後半に「しかしこれらについては、今はいちいち述べることができません」とありますが、訳文があいまいなため、著者がここで何を言おうとしているのかよく分かりません。《本当はもっと述べたいのに、時間も紙面も足りないのでそれができない》というような意味にとれますね。すると、著者はこの書の朗読を聞く人々(今風に言えば本書の読者たち)がもっとよく出エジプト記25章とその前後を学んでほしい、と言っているのだと解釈されるわけです。
  しかし、私は全然違うと思います。むしろ逆で、《細部のことをいちいち述べるのはどうでもいいことなんですよ》と著者は言おうとしているのです。それは先に述べた8章の終わりの言葉と照らし合わせれば、納得していただけると思います。旧約の礼拝規定や聖所は古びて消えて行くものなのですから。そんなことを細かくいちいち述べる必要などないのです。そのような意図を岩波訳がよく表しているので紹介します。「今は個々にわたって述べる時ではない。」 それは述べる必要がないからなのです。  
  いちいち詳しく述べる必要はありませんが、一応こういう事実があったのだということで、幕屋の様子を伝えているのが2節から5節前半までの記述であります。燭台があり、机があり、供えのパンがありました。幕屋の中には垂れ幕があり、垂れ幕の奥が至聖所と呼ばれていました。これは大事なことであります。その至聖所の中に、金の香壇があり、全面金で覆われた契約の箱がありました。その箱の中には、マナの入ったつぼと、芽を出したアロンの杖と、[十戒を記した]契約の二枚の板かありました。その契約の箱の上は贖罪蓋と呼ばれ、年に一度、大祭司が至聖所に入り、携えていった動物のいけにえの血をその贖罪蓋の上に注ぎました。さらに贖罪蓋の上方を翼で覆うように栄光のケルビムが置かれていました。そのような状景を説明しているのです。
  そのように説明したから、《それが現代の私たちに特別な意義を持っているのです》と、著者は言おうとしているわけではありません。後で述べられるように、そういうことで私たちを救う(私たちのために贖いを成し遂げる)には不十分であったのです。それでキリストが来て、私たちのために「永遠の贖いを成し遂げられたのです」と、著者はこれから述べて行くわけですが、そのことのほうがはるかに重要であります。
  礼拝規定と聖所については、6節以下にも説明が続けられています。先の個所で述べたように、よく整えられた礼拝規定と聖所があり、「前の幕屋(幕屋の垂れ幕の前の聖所)」には、いつも祭司たちが[組みを作って当番制で]入って礼拝を行っていました(6節)。しかし、そこに神ご自身が現臨される「第二の幕屋(至聖所)」には、人々はもちろん、祭司たちも入ることがでませんでした。神の聖なる臨在の前に、彼らは近づけないし、立つこともできません。ただ例外として、年に一度だけ大祭司が入ることができました。そのとき大祭司は必ず、動物のいけにえの血を携えて入らなければなりません。その血については、「自分の[罪の]ために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです」と、すぐ後に説明があります(7節)。その血を大祭司は贖罪蓋の上に注いだのです。
  とても重要なのは、8節に「これによって聖霊は次のことを示しておられます」と前置きして以下に書いてある内容で、「すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所(至聖所)への道は、まだ明らかにされていないということです。」 神の聖臨在の前に近づく道がまだ明らかにされていないということは、その道が閉ざされていたということにほかなりません。それで本書の著者は、《この幕屋はなくなり、消えて行きます。そして新しい秩序が立てられました》という福音を力強く語り、それをしっかり聴いてほしいと願っているのです。
  9節は「この幕屋はその当時のための比喩です」という言葉で始まりますが、この訳よりも脚注の別訳のほうが適当であると思います。「この幕屋は今の時のことをさす比喩です」と読んでいます。イエス・キリストがおいでになった今の時、私たちが神の聖臨在の前に近づく道が完全に開かれました。《そういう時が来ることをさし示している、今の時のための比喩である》と理解していただけたらよいと思います。
  では、今の時の私たちに、どういうことを教えてくれているのでしょう。幕屋の規定に従って「ささげ物といけにえがささげられ」て礼拝が行われても、「それらは礼拝する者の良心を完全にすることができません。」このようにはっきり言われています。これは重大な発言ですね。《旧約のシステムの礼拝では、人間の良心は完全には清くされないのだ》と明言されているのでから。
  この「良心」という語について、「この日本語はよくない」と言われた先生のことを思い出します。すでに故人となれた方ですが、かつて新改訳聖書の旧約の部の翻訳主任をされた名尾耕作先生です。私も新約の部で仕事をさせていただいていた関係で、名尾先生とご一緒になることがありました。そんな時のことでしたが、「人間に良い心なんてないんじゃないですか。あるのは悪い心だけでしょう。だから良心という言葉はよくないですよ」と、名尾先生が言われたのです。
  でも、「良心」という言葉は、かなり深く根付いていますから、いまさら他の言葉で言い替えることが難しいと思います。この言葉が意味するのは、人間が善悪を判断する機能のことであると思いますが、その機能が多くの人の場合、極めて弱くなってしまっています。「良心」があるとしても、本当に弱いものになっているのです。その良心を完全にするということは、弱まった良心が健全にされて善悪の判断がしっかりできるとともに、悪を捨てて善に生きる決断ができるようになる、ということを意味するのではないでしょうか。
  そのように、この良心という言葉は、《善悪を見分けるだけでなく、悪を捨てて善に従うようになる決断と行動をもさせる概念として考えるのがよい》と、私は思います。この点で、岩波訳は「内奥の意識」という苦心の訳語を提示しています。人間の心の奥底にある意識、ということなのでしょうか。良心よりは適切な訳語だと思いますが、それでぴったりだという感じもしません。
  それにしても、人間を本当に動かしているのは、この内奥の意識ではないでしょうか。人間の行為は表面だけではわかりません。非常に熱心に見えるキリスト者でも、内奥の意識においてはそうではない、という場合がよくあります。キリスト者も恐ろしいほど偽善者になってしまう危険性があるのです。それを思うと、内奥の意識において清められ、完全にされるということは、本当に大事なことだと思います。それを可能にしてくれるのは、キリストが成し遂げてくださった永遠の贖いなのです。
  ヘブル書の著者は、そのことを力強く宣言してくれています。これこそ福音であり、喜びのおとずれであります。それを私たちは受けて,その喜びに本当にあずかる者にされたい、と切に願わされます。そう言うのは、そのような喜びにあずかれずにいるキリスト者が、福音の豊かさに触れていない信者が少なくない、という現実が残念ながらあるからです。知らぬ間に、キリスト教信仰というものが《何かを行っていく、何かの目標に向かってそれをやり遂げる》ということに摩り替わってしまいます。それは厳に警戒しなければならないことです。
  10節は、9節が旧約の礼拝の規定について言われたことを、さらに旧約の種々の規定(律法)にまで及ぼして述べています。「それら[の規定]は、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課された、からたに関する[すなわち外面的]規定にすぎないからです。」要するに、旧約とはそういうものに過ぎない、と断言しています。この理解をキリスト教会は、そしてキリスト者ははっきりと持つべきです。私たちが旧約聖書を受け入れるのは、そのような理解と限定の下においてであることを、忘れてはなりません。しかし、旧約聖書の中には、新しい秩序が必要であることを指し示す個所が多くあります。それが大事であります。それで私も《旧約聖書がなお必要である》という立場を表明しているのです。
 新しい秩序を立てるために来られたキリストのことが、11節以下に述べられます。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事柄の大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎや子牛との血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(11-12節)。重要なことが書いてあることが分かりますね。
 「すでに成就した」については、脚注に異本(異なる写本)の「来ようとしている」という読みが示されています。今に残されている四世紀頃の有力な(信頼性の高い)写本の読み方が両者に別れているのです。それでどちらの読み方がオリジナルか決め兼ねるのですが、私は両方とも真実だと思います。「来ようとしている」すばらしい事柄は、「すでに成就した」すばらしい事柄でもあります。大事なのは新しい秩序が立てられた「すばらしい事柄」なのです。
  そのための大祭司・新しい契約の仲介者としてキリストが来られました。キリストは、地上で人間の手で造られたどんな物より、はるかに偉大で完全な幕屋を通って、「ただ一度、まことの聖所(至聖所、神の聖臨在)に入り,永遠の贖いを成し遂げられた」のです。このことは、1章3節の言葉に照らすと、「また、罪のきよめを成し遂げて、優れて高い所の大能者の右の座に着かれました」という個所に相当します。キリストは十字架において贖いの死を遂げ、そして葬られて三日目によみがえらされ、天にあげられて神の右の座に着かれたのです。
  そのことが、ここでは、キリストは「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた」と表現されています。「ご自分の血によって、至聖所に入られた」復活のキリストは、《まさに十字架の血そのものである》と言うことができます。そのように《復活のイエス様は、十字架で流された血そのもののイエス様である》と、イメージすることが大切であり、そのようにイメージしていただきたいのです。その血とは、血なまぐさい凄惨なものではなく、光り輝くような聖なる血、まさに《栄光の血》であります。
 「ただ一度」という語句については、前に述べたことですが、英語の once for allが示すように「一度で全部(あるいは完全)」という意味です。そのようにキリストは、十字架の死と復活の出来事によって、まさに「[一度で完全な]永遠の贖いを成し遂げられ」ました。このことの重み、その内実(恵み)の豊かさと莫大な富を、本当に受けとめてほしい。いや、受けとめていただかなければなりません。ありていに言えば、受けとめなければ大きな損をしているのであり、そのように[恵みを受けずに]損をしている[そのためにいたずらに嘆き悲しんでいる]キリスト者がたくさんいるのではありませんか。
  先に日本語訳が刊行された『恵みに生きる訓練』と同じ著者のジェリー・ブリッジズ氏の新著の翻訳刊行の計画が進められており、ある方に翻訳を依頼してありました。その翻訳原稿の一部が最近私のもとに送られて来たのをチェックしていると、その中に、フルタイムで熱心に教会に奉仕しているのに、永遠の贖いの恵みをよく理解していない婦人の例が紹介されていました。彼女は「神が私を愛してくださることは分かっています。でも、時々、神が私に好意をもっておられないのでないかと不安になるのです」と告白しました。神が私を愛してくださることが本当に分かっているなら、そんな不安はありえないことです。「キリストが成し遂げられた永遠の贖いの意味が分かっていないから、そんな不安に駆られるのですよ」と、私は申し上げたいのです。
  「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」(14節)。私たちのどんなに重く深い罪も永遠に贖って余りあるキリストの血には、内奥の意識を本当に清めて完全にしくださる力があります。どんなに私たちが罪を犯しても、その罪は贖われ続けるのです。それだけの力のあるキリストの十字架の血による永遠の贖いの恵みを、《すべてのキリスト者がよく知り、十分に受けてほしい》というのが、本書の著者の熱い願いであると思います。キリストの血は、私たちの良心(内奥の意識)を清め、私たちを罪の中に死んだ行いから離れさせて、生ける神を心から喜び、生ける神に感謝をもって仕えるようにさせてくださるのです。
  私も、これまでしばしば話したことですから内容は省きますが、この「ただ一度」という恵みの体験をしました。それ以来、福音の豊かな恵みを味わうことを許されております。本当にありがたいことです。私は自分の罪深さを知っています。そのことを日々に覚えさせられています。けれども、《その深い罪をキリストは贖って余りある「永遠に贖い」でいらっしゃる》ということ思いますとき、感謝があふれてくるのです。永遠の贖いを成し遂げられたキリストを、私たちは永遠の大祭司として持ち、主と仰いでいるのですから、その測り知れない恵みと愛を日々に受け、感謝と喜びのうちに、互いに愛し合う生活へと導かれて行こうではありませんか。(村瀬俊夫 2005.4.10)

《ヘブル書連続説教 15》 新 し い 契 約 の 仲 介 者 ヘブル 8:1~13

 ヘブル書の主題は大祭司キリスト論であり、著者は7章で、キリストはメルキゼデクの位に等しい大祭司であると教えてくれています。そのことをさらに詳しく述べていくのが、8章以下であります。
 そのため8章の初めに、「以上述べたことの要点はこうです」と、その要点を述べてか論述を進めます。この「以上」とは、大祭司キリスト論の論述が始まった5章から7章までを指すものと思われます。その「要点」とは、「すなわち」以下に書いてあることで、「私たちの大祭司は天におられる大能者の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です」(1-2)ということ、さらに簡潔に言うと《私たちの大祭司は天におられ、天にある聖所で仕えておられるのだ》ということです。
  ここで、「天に神が設けられた聖所」こそ《まことの聖所》である、ということが言われています。このような発想の背景には、プラトン哲学の影響があると思います。プラトンの哲学はエジプトのアレキサンドリアで栄えるようになり、アレキサンドリア学派と呼ばれます。プラトンは、イデアの世界こそ本当の世界だと主張します。そのイデアの世界を言い換えれば、「天」ということになります。地上にあるものはイデアの世界を映し出す影にすぎません。5節に出てくる「天にあるものの写しと影」という表現が、それに当たります。ここでは、地上にあるエルサレム神殿は、天にある本当の神殿の写しであり、影にすぎないと言われているのです。
  その本物の天にある聖所で、イエス・キリストは大祭司として仕えておられます。そのことで著者が言いたいのは、《イエス・キリストこそ本物の大祭司なのです》ということであると思います。そのことを私たちも、聖霊によってしっかり心に刻ませていただきましょう。
  3節に、大祭司の務めは「ささげ物といけにえをささげる」ことであり、「この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません」と言われています。それは地上における旧約の律法制度の時代のこと、すなわち「律法に従ってささげ物をする人たちがいる」時のことですから、著者は「もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられなかったでしょう」と明言しています(4節)。地上において「ささげ物といけにえをささげる」祭司たちは、「天にあるもの[真実の聖所]の写しと影とに仕えている」にすぎないのです(5節)。
  そういうことで、イエス様が大祭司であるということは、旧約の律法制度の枠を破っていることなのです。その枠にしばられていたら、前に申しましたように、王が祭司になることもできません。イエス様がまことの王であるなら、まことの祭司であることはできません。旧約の枠を突破しなければ、イエス様が《まことの王であってまことの祭司である》ということは実現しないのです。そのためにヘブル書の著者が登場させた人物こそ、あのメルキゼデクであることは、すでに学んだ通りであります。
 「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです」(6節)。ここで「さらにすぐれた」と言われているのは、旧約に対してです。旧約よりさらにすぐれた、まさに旧約の枠を超えた「さらにすぐれた約束に基づいて」、イエス様は大祭司としての務めについておられます。そのイエス様は「さらにすぐれた契約(新しい契約)の仲介者」でいらっしゃるのです。
  新しい契約の仲介者であるイエス様は、大祭司としてどんなささげ物をささげられたのか。そのことは9章で詳しく述べられますが、すでに7章27節に書いてあるように、「キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられた」のです。ただ一度で完成した[それゆえ繰り返しささげる必要のない]ささげ物として、キリストはご自身をささげてくださいました。そのことの意味が9章で、さらに詳しく述べられます。《旧約がそのままでは不十分であることは、旧約聖書の中で言われていることなのですよ》という含みで、8節以下にエレミヤ書31章31-34節が引用されているのです。
 「もしあの初めの(第一の旧い)契約が欠けのないものであったなら、後のもの(第二の新しい、よりすぐれた契約)が必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、それ(旧約)に欠けがあったので、こう言われるのです」(7節と8節前半)と前置きして、エレミヤ31:31-34を引用します。このような言い方をしているのは、新約聖書の中ではヘブル書の著者だけです。私は旧約の不完全性には早くから気づいていて、「旧約聖書の限界を乗り越えて」といような題で説教したことがあります。《旧約聖書はそれだけでは欠けがある》とはっきり言ってくれているのは、ヘブル書の著者なのです。
  8節の3行目からがエレミヤ31:31-34の引用でありますが、著者はエレミヤの名を全く挙げておりません。私はエレミヤが好きですから、その名を挙げてほしかったと思います。おそらく著者の関心は、誰が言ったかではなく、神様が言われたということにあるのでしょう。それであえてエレミヤの名を伏せたのだ、と私は考えています。
  このエレミヤの新しい契約の預言を、このようにきちんと引用しているのも、新約聖書の中でヘブル書の著者だけなのです。旧約聖書と新約聖書という分け方、そういう概念を確立する基礎を据えてくれているのが、ヘブル書の著者であります。その意味でも、この著者は優れた神学者であるということができるのです。
  その引用句は、「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が」という言葉で始まります。この引用句は、ほとんど七十人訳によっています。ここの「新しい契約を結ぶ日が」は、七十人訳のままの訳になっています[新共同訳も同じです]が、新約聖書の原典では七十人訳とは違う言葉が使われているのです。それを正しく訳せば「新しい契約を成就する日が」となり、このように訳さなければなりません。岩波訳は、ここだけは七十訳とは違うという注までつけて「成就する」と訳しています。
 《新しい契約は、まさにイエス・キリストにおいて成就したのだ》というのがヘブル書の著者の思いであり、その思いから著者はエレミヤの預言を引用しているので、著者はそこだけは「結ぶ」を「成就する」と言い換えたのでしょう。それはとても大事なことですから、七十人訳は「結ぶ」であっても、ここは著者がわざわざ言い換えた言葉を、そのまま正確に「成就する」と訳すべきなのです。
  さて、「新しい契約」についてですが、先に13節に言われていることを見ましょう。それから、その内容の大事な点を学びたいと思います。「神が新しい契約と言われるときには、初めのものを古いとされたのです」と、新しい契約が結ばれて、それが成就した以上、初めの契約は「古いとされたのです」と、著者はここで、《初めの契約は旧い契約(旧約聖書)とされたのだ》と、はっきり言っているのです。
  そして驚くべきことに、著者は「年を経て古びたものは、すぐに消え去るのです」と言っています。ここまで断定的に言っているのは、本当にすごいですね。ヘブル書が新約聖書として認められるかどうか論議のある書とされたことには、このような断定的な言い方に一因があったのかもしれません。本書が論議の対象となった要因には、すでに学んだように、6章4節以下に「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことば……を味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をキリストに立ち返らせることはできません」と言われている厳しい言明をめぐる問題がありました。
  それとともに「年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます」と断言されたことが問題となったのは、教会は旧約聖書を捨てるどころか、それを新約聖書とともに聖書として受け入れていたからなのです。旧約聖書無用論は初代教会において早くからあり、いろいろと物議をかもしていました。そういう中で正統的キリスト教会は、旧約と新約とを合わせたものを「聖書」として受け入れるようになりました。そうであっても、13節後半の主張に照らして、《旧約は新約の前には消えて行く存在である》ということを、よく知っていなければなりません。
  私は《旧約聖書の役割は新約の福音を指し示すことにある》と考えています。ですから、指し示されている新約がなければ、旧約は不完全なものです。新約の福音の光に照らしてのみ、旧約は意味を持つものとなります。新約の福音を[預言や約束の形で]指し示す役割がある限り、旧約聖書は存在意義を有するのです。現にキリスト教会は、旧約聖書の律法的な戒めや教えの多くを無視し、それらに従うことをしておりません。旧約聖書の不完全性がここに明言されていることを心に留めたうえで、新しい契約の内容について学んでまいりましょう。
 さて、新しい契約には、二つの特色があります。これは折りに触れて申し上げてきたことですが、ここで改めて学びたいと思います。その特色の第一は、10節の中で、「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」と言われていることです。これは、9節に「わたしは彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に、[シナイ山で]彼らと結んだ契約のようなものではない」と言われるように、初めの契約との対比で言われています。その初めの契約を神と結んだイスラエルの民は、それを守ることができませんでした。その結果、彼らは亡国の憂き目を見ることになり、バビロン捕囚という大変な悲惨を経験することにもなったのです。
  そういう大変な悲惨を民族が経験する中で、エレミヤは悲嘆と絶望の中にある民に、《神は新しい契約を結んでくださる、そのような日が来るのだ》という希望を与える預言をしました。その新しい契約は、初めの契約とは違って、律法が彼らの思いの中に入れられ、彼らの心に書きつけられるのです。この新しい契約の仲介者がイエス様ですから、新しい契約を結ぶためにイエス様が重大な関わりと役割を持たれました。そのためにイエス様は、ご自身をただ一度ささげてくださったのです。それから、イエス様は神によって死からよみがえらされ、天に上げられて、大祭司として天の聖所で神と私たちとに仕えておられます。そのようにして新しい契約が本当に成就しているのです。
  そのことを思うとき、この第一の特色が私たちにとって意味していることは何か。それを知ることが大切なのです。それは《新しい契約の仲介者であるイエス・キリストによって現された神の愛が、私たちの思いの中に入れられ、私たちの心に刻まれるように書きしるされている》ということであると思います。新しい契約、それはイエス・キリストにおいて示された神の愛にほかなりません。十字架においてご自身をささげてくださったイエス・キリストによって、神は私たちの罪を赦してくださいます。これは新しい契約の第二の特色にも関わるのですが、これこそ神の愛なのです。
  その神の愛が私たちの思いの中に注ぎ込まれ、私たちの心に書き記されます。新しい契約の民とされたキリスト者は、何よりも神の愛が聖霊によって自分の思いの中に注ぎ込まれ、自分の心に書き記されている、という体験を豊かに持つ者でありたいですね。そのような体験に満たされるとき、その人はおのずから神を愛する者になるでしょう。
  旧約は神を愛せよと命じます。「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして神を愛せよ」と言われても、そうすることができないのが人間の弱さです。イエス様は旧約の戒めを、神への愛と隣人愛と、この二つに要約してくださいました。それなら、私たちがそれらを守り行うことができるでしょうか。できません。それでイエス様は私たちに、新しい戒めを与えてくださったのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と。
  イエス様が私を愛してくださったことが本当に分からないと、私は神を愛し、人を愛し、互いに愛し合うことができません。だから、イエス様は私たちを愛してくださいました、いや愛してくださっています。このことに、新しい戒めと新しい契約との接点が見られるのです。《イエス様が私を愛してくださっている。私はイエス様の愛に満たされているのだ》ということが、この私によく分かるということが、新しい契約の第一の特色と言ってよいでしょう。
  第二の特色は、第一の特色と深い関係がありますが、12節に「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからだ」と書いてあることです。「彼ら」と言われているのは、実際に罪を犯して亡国の悲運を招いたイスラエルにほかなりません。その彼らの不義に神はあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い出さない、とまで言われているのです。この約束が、新しい契約の仲介者であるイエス・キリストによって本当に成就しています。神は、キリストの愛を受けた者たちに、「もはやあなたがたの罪を思い出すことはしない」とおっしゃっているのです。
  なんと驚くべきこと、なんとすばらしいことでしょう! まさに無条件の赦し、そして無制限の赦しであります。この赦しの愛を本当に身に受けるときに、私たちはおのずから神を愛し、人を愛し、互いに愛し合うように導かれていくのです。
  このような「新しい契約の仲介者」であるイエス様は、私たちの大祭司でもあって、いつも私たちのためにとりなしの祈りをしておられます。いや、私たちと共にいて、私たちのために祈っていてくださいます。本当にありがたいことです。

  最後に、皆様が抱いておられるかもしれない疑問に答えておきます。イエス様が不滅の祭司職を遂行しておられる「天」は、どこにあるのか。《私たちが聖霊によって開かれた信仰の心と目をもって観るところ》、そこに「天」があるのです。私たちが聖霊によって開かれた信仰の心と目をもって福音書に描かれている地上のイエス様を観るとき、そのイエス様が即、天におられる大祭司のイエス様であることが分かるようになるでしょう。福音書の中で「あなたの罪は赦されています」と言われるイエス様は、あなたのためにいつも祈っていてくださる《天におられる大祭司キリスト》にほかなりません。このことがあなた自身の本当の知識と体験となるように、黙想と観想を深めていただけたら幸いです。  (村瀬俊夫 2005.3.6)