ヘブル書の一番大事な個所である大祭司キリスト論を学んできましたが、今回がその最後の個所になります。この10章1節から18節までは、大祭司キリスト論のクライマックスあるいはフィナーレと言ってよい所なのです。19節以下は、大祭司キリスト論に基づくすばらしい勧告であって、論述の部分は18節で終わります。
前回の個所に出てきた「ただ一度」という言い方が、今回の個所にも10節に出てきます。そこでは「ただ一度だけ」という表現に新改訳ではなっていますが、この「だけ」は蛇足かもしれません。でも、「ただ一度」をさらに強調したくて「だけ」を添えたのでしょう。キリストはご自分のからだを、一度で全部という永遠的な意味で「ただ一度」ささげてくださいました。そのことによって、私たちは聖なる者とされていいます。徹底した罪のきよめと赦しが与えられ、さらに永遠のいのちが与えられ、それに神の子とされる恵が加わり、私たちは聖なる者にされているのです。
14節を見ると、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」と言われています。「一つのささげ物」とは「ただ一度のささげ物」のことですね。それは永遠の贖いでありますから、それによって私たちは永遠に全うされるのです。このすばらしい恵みを、実際のところ、私たちはどれだけ理解しているでしょうか。あるいは、どれだけ理解できるのでしょうか。
今回の説教題は、よく考えたすえ、「永遠に全うされた救いを見る」としました。このように、「永遠に全うされた救い」だけにしないで、あえて「を見る」を付け加えました。「見る」という言葉は、ただ見るだけでなく、見ているものを知るという意味があります。知ってその意味がわかると、知っていることを深く味わうことができるのです。そういう意味で、私は「見る」という言葉をここで用いています。
カトリック教会には、「観想」という用語があります。祈りにも、言葉に出してする祈りのほかに、「念祷」と呼ばれる言葉にしない沈黙の祈りがあります。言葉にする祈りは「口祷」と言います。すると、プロテスタントの祈りはもっぱら口祷ではないでしょうか。先日、教職アシュラムで、イエズス会の黙想の家に行ってきました。そこで教えられましたが、念祷をカトリックでは三つに分け、瞑想・黙想・観想と言うのだそうです。
瞑想は、何も考えずに漠然と心を静めていることで、そうすることも大事であります。黙想になると、そこに考える要素が加わり、何かを知る、その意味を考えるようになります。この聖句は何を意味するのか、私に何を求めているのか、私はどうすべきなのか、いろいろ考えます。さらに観想は、それを深く味わう段階にまで進むことになるのです。それで私たちは、イエス様が永遠に全うされた救いについて、まず瞑想しながら、それが何を意味するかを黙想するようにしましょう。その意味がわかって、それを深く味わう段階まで進んでいけたなら、どんなにすばらしいことでしょう。
私は今、その段階まで導かれているのではないかと思い、感謝しています。永遠に全うされた救いを深く味わうまで観想させていただいています。それは本当にすばらしい恵みです。この恵みに多くの方々があずかってくださるように、心から願っています。
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「ただ一度」ご自身をささげられたイエス様は、それで終わったのではなく、よみがえらされました。そして今は、天において神の右の座に着いておられます。「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右に座に着き、……」(12節)としるされています。十字架においてイエス様は、「一つの永遠のいけにえをささげ」てくださいました。それだけでなく、永遠のいけにえとしてささげられたイエス様は、よみがえらされたお方です。ですから、「永遠に全うされた救いを見る」ことは、十字架につけられたイエス様を見るとともに、よみがえらされたイエス様を見ることでもあります。
先ほど讃美した306番は、有名な黒人霊歌です。「あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき」と1節は歌います。2節は「主がくぎでうたれたとき」、3節は「主が槍でさされたとき」、4節は「主を墓におさめたとき」と、イエス様の十字架と死を歌っています。これまでは、この4節で終わっていたのですが、『讃美歌21』には、「主がよみがえられたとき」と歌う5節があります。これで良かったと思います。十字架の出来事は、復活の出来事と切っても切れない関係にあるからです。
1節から4節までは、各節の最後が「深い深い罪にわたしはふるえてくる」と歌われますが、主の復活に言及する5節だけは、「深い深い愛にわたしはふるえてくる」と歌っています。原詩に忠実に訳していると思いますので、これはすごいと思います。まさに黒人霊歌の霊性の深さを証ししているものです。イエス様がよみがえらされたとき、私たちは自分の罪が赦されたことを本当に知ります。私たちが十字架につけたイエス様を、神はよみがえらせてくださいました。それこそ、イエス様を十字架につけた私たちの罪を、神が赦してくださったことの確かな証しであるのです。この確かな証しこそ、神の無限の愛にほかなりません。
よみがえらされたキリストは、永遠の大祭司として、神の右の座に着いておられます。このキリストを私たちは礼拝しています。主の日の礼拝は、よみがえられて神の右の座に着いておられる大祭司である主を覚え、記念することが一番の主眼です。ここで本書の著者は、「座に着いておられる」ことを、とても重視しています。私たちの大祭司は、なぜ、すわっておられるのか。言い替えると、なぜ、立っておられないのか。
旧約聖書を見ると、祭司は務めをするとき、すわっていてはいけません。それでは仕事にならないからです。仕事をするために祭司は立っていなければなりません。しかし、私たちの大祭司キリストは、神の右の座に着いて、すわっておられます。そのことについて,14節にすばらしい解説をしてくれているのが、このヘブル書です。キリストがすわっておられるのは、「聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされた」からであります。
そういうわけで、18節の後半に書いてあるように、「罪のためのささげ物はもはや無用」となりました。それで復活の主である大祭司キリストは、神の右の座にすわっておられるのです。旧約時代の祭司は、罪のためのいけにえをささげなければなりません。ですから、すわっていては仕事になりません。立って忙しく働かなければならなかったのです。しかし、そのいけにえをささげる必要が全くなくなったので、イエス様は神の右の座にしっかり腰をすえ、いつも生きていて、私たちのためにとりなしをしておられます(7:25参照)。このイエス様との交わりにおいて、私たちは「永遠に全うされた救いを見る」のです。
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1節に戻ります。「律法には、後に来るすばらしいもの(イエス・キリストの出来事)の影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しはしなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです」(1-2節)。しかし、実際はそうではありません。旧約の律法による動物のいけにえは、それをささげる人たちの罪を完全に拭い去ることができません。それでくり返しささげられる必要があったのです。
くり返しいけにえをささげる祭司は、そのために忙しく、立って務めを果たさなければなりません。11節に、「すべての祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません」と書いてあります。いけにえをささげて礼拝する者は、そのことによって罪を消し去られるのではなく、かえって罪の意識を増し加えられ、罪責感から抜け切れない状態にされる、という心配があったのです。
これは決して旧約時代のことだと言って済ますわけにはいかない問題であり、キリスト者でも罪責感から抜け切れない人たちが少なくない、という現状があります。信仰が熱心でまじめなキリスト者ほど、その傾向が強いのではないかと思われます。先日行われた教職アシュラムは、20名の定員をオーバーして、私も含め22名が参加しました。現職の牧師の方々が多いのですが、そのほとんどの方が疲れていらっしゃいます。牧会活動が十分にできないということで自責の念に駆られている方々が少なくありません。そのような問題を解決して新しく出直したい、という思いで参加しておられるのです。そのことと、「永遠に全うされた救いを見る」ということは、どのように関わるのでしょうか。
もちろん、罪の意識は大事です。私も自分が罪人であることを強く意識しています。しかし、そのことで自分が押しつぶされてしまうことはありません。私の罪をイエス様が赦してくださった、という恵みのほうが私に強く迫り、私を包んでいてくれるからです。ただ一度のイエス様ご自身のいけにえは、私たちの罪を永遠に贖って余りあります。それで「罪のためのささげ物(いけにえ)はもはや無用です。」そのように「永遠に全うされた救い」を深く味わうまでに見ることは、本当に大切なことですね。
ヘブル書の著者は、ここの5-7節に「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです」と前置きして、詩篇の40篇6-8節を引用しています。引用した後で、著者は「あなた(神)は、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえを望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、それでキリストは「わたしは[自分を永遠の贖いとしてささげて]あなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです、と解説しています(8-9節)。
もう一つ注目したいのは、詩篇引用句2行目の「わたしのために、からだを造って[備えて]くださいました」という表現です。そこをヘブル語聖書は「あなたは私の耳を開いてくださいました」と読んでいます(詩篇40:6)。ここに引用されているのは、ヘブル語聖書がギリシア語に翻訳された七十人訳聖書によるもので、それによると「あなたはわたしのために、からだを備えてくださいました」と読んでいるのです。
初代教会は、主として七十人訳聖書を用いていました。新約聖書は全部ギリシア語で書かれました。パウロがギリシア語で書いた手紙に引用している旧約の聖句も、ほとんど七十人訳によっています。その七十人訳聖書とヘブル語聖書とでは、この場合のように、読み方に違いのあるケースが見られます。ここに七十人訳聖書から引用された「わたしのために、からだを用意されました」という一句は、イエス・キリストの受肉の出来事とぴったり一致するではありませんか。神であるキリストが人となって来られたのは、ただ一度ご自身のからだをささげることにより、永遠に全うされた救いを実現して、神のみこころを行うためであったのです。
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ここで、本書の著者は、もう一度、エレミヤ書31章31節以下の「新しい契約」の預言を引用します。このエレミヤの「新しい契約」の預言が最初に、しかも全文が引用されている8章から説教したとき述べたように、新約聖書の中で、エレミヤの「新しい契約」の預言を引用しているのは、ヘブル書の著者だけなのです。「新約」は「新しい契約」を縮めたものであり、この用語が定着するようになったのは、ヘブル書のおかげではないかと思います。
この「新しい契約」は、イエス・キリストの出来事によって実現し、成就しました。その「新しい契約」のさわりの部分が、「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます」(15節)という導入句に続いて、16-17節に引用されています。「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける」(16節)。神の律法が私たちの心の中に置かれ、私たちの思いの中に書きつけられます。その神の律法の根本は愛です。イエス様がそれを明らかにしてくださいました。この神の愛の律法が、十字架と復活の出来事を私たちが深く受けとめるとき、私たちの心と思いの中に書きつけられ、刻みこまれるのです。
もう一つ,「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法を思い出すことはしない」(17節)と、神による完全で徹底した罪の赦しが宣言されています。神が「私たちの罪を思い出すことはしない」と言われているのです。これほど徹底した、完全な罪の赦しがあるでしょうか。このように私たちの罪が赦されるところでは、「罪のためのささげ物はもはや無用です」と、18節に言われているのです。この断言的な言明で大祭司キリスト論の論述が結ばれているのは、本当にすばらしいことであると思います。
私たち一人一人の罪を、神は思い出すことをせず、忘れ去るまでに赦してくださっています。そのように「永遠に全うされた救い」を本当に見る者と、キリスト者はされているのです。そのように、私たちはキリスト者として、「永遠に全うされたす救いを見る」者にさせていだきたい、と心から願います。「永遠に全うされた救いを見る」ときに、罪責感にさいなまれている[私の、あなたの]どんな思いも、消し去れていくのです。
人間は罪を犯します。私も罪を犯します。でも、その罪を「思い出すことはしない」までに赦してくださる神の愛を身にしみて感じ、神の右の座にすわってとりなしをしていてくださる永遠の大祭司キリストを覚えるとき、まさに「永遠に全うされた救いを見る」ことができます。そして、パウロが「罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました」(ローマ5:20)と言ったことの真実性を確信させられるのです。
そのように「永遠に全うされた救いを見る」霊性を養っていくことが、私たちの大切な課題であると思います。そのために主日の礼拝に集まることも大切です。各自の生活の中で、「永遠に全うされた救いを見る」修練をしていただきたい。イエス・キリストは、ただ一度ご自身をささげることによって永遠の救いを全うされた大祭司であられます。いつも生きていて私たちのためにとりなしをし、私たちを祝福していてくださる方です。そのことをいつも覚えている霊性を身につけていきましょう。 (村瀬俊夫 2005.6.12)
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