2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 13》 新しく立てられた祭司職 ヘブル 7:1~19

 ヘブル書の連続の学びをしていますが、著者が一番言いたいことが書いてある個所に来ているように思います。しかし、あまり聖書に親しんでない人が読むと、よく分からない所ですね。とても難しいことが書いてあると思われるでしょう。かなり聖書になじんでいる人にも分かりにくい点があるのです。それを分かりやすくお話しできたらよいなあ、と願っております。ここに書いてある教えが分かるということは、本当にすばらしいことであるからです。それは《イエス様がどんなにすばらしいお方であるか》、《イエス様は私たちにとって掛け替えのない、まさに最高の救い主でいらっしゃるのだ》ということであります。
 4節に「その人がどんなに偉大な方であるかを、よく考えてごらんなさい」と言われています。「その人」とは、ここではメルキゼデクを指しています。《そのメルキゼデクが本当に指し示していたのはイエス・キリストである》というのが本書の著者の考えであります。私たちもそう考えるべきだし、私もそう考えています。「その人」とは、結局イエス様なのです。メルキゼデクを通して、イエス様がどんなに偉大な方であるかを、よく考えてごらんなさい。ですから、この個所は通り一遍の読み方で済ましてはいけません。よく考え、言われていることをしっかり把握してほしいのです。
  6章の終わりで、著者は、イエス様が「永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司」となられたと、一番言いたいことをはっきり言いました。そのことをもっと詳しく、理論的に理解してほしいとの思いで、7章へと進んで行くのです。そこで、メルキゼデクとはいかなる人物であるのかを、まず紹介します。彼がどんなに偉大な人なのか、よく知って、よく考えてほしいからです。
  メルキゼデクのことは、旧約聖書には二ヶ所しか出てまいりません。すでに著者が引用してメルキゼデクに言及した詩篇110篇と、もう少し詳しくメルキゼデクのことを伝えている創世記14章と、であります。その後者も18節から20節までの短い個所にすぎません。その個所に、メルキゼデクは「サレムの王で、すぐれて高い神の祭司」である、ということが書いてあるのです。
創世記14章18節には、「シャレムの王メルキゼデク」と紹介されています。「シャレム」と「サレム」は同じことです。また「彼はいと高き神の祭司であった」とも書いてあります。そして、このメルキゼデクがアブラハムを祝福しているのです。続く19節以下に、彼がアブラム(アブラハムと呼ばれる前の名)を祝福した言葉が記されています。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」
  それから、ヘブル書7章2節に、「アブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました」とある文章は、創世記14章20節の終わりにある「アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた」という文章を受けています。「すべての物」とは「戦利品」のことです。そのことから戦争があった事実が分かりますね。アブラハムは争いを好まず、戦争とはほとんど無縁の人でした。平和を愛し、平和に生きることに努め、かなり平和に生き抜いた人であったと思います。彼は英雄とも見られていますが、戦いに勝ち抜いた武人ではなく、信仰に生き抜いた英雄です。しかも、その信仰は平和に生きる信仰でした。信仰にとって平和が一番ふさわしいのです。
  そのようなアブラハムの生涯に、ただ一回だけ、争いごと(戦争)に否応なく巻き込まれることがありました。それが創世記14章に書いてあるのです。彼は甥のロトに平地で暮らすことを許し、自分は山地に住みました。そのロトがいた平地のソドムが外敵に攻められ、占領されるという事態が起こりました。ロトたちは捕虜として連れていかれたのです。その知らせが山地のヘブロンにいたアブラハムに届いたとき、アブラハムは甥のロトたちを救い出したいと、一族郎党を招集しました。その数が318人と書いてあります(創世14:14)。この手勢を率いてアブラハムは、北のダンまで追いかけ、ついに敵を打ち破り、連れて行かれたロトをはじめとするソドムの人々とすべての財産を取り戻します。そして彼が凱旋して引き上げてくるのをソドムの王が出迎える場面が、17節に書いてあるのです。
  そのときアブラハムを出迎えたのは、ソドムの王だけではありません。話題のメルキゼデクもそこに居合わせました。創世記の物語でメルキゼデクが登場するのは、ここだけです。このメルキゼデクからアブラハムは祝福を受けましたが、そのあとアブラハムはメルキゼデクに戦利品の十分の一を献上したのです。そのほかのメルキゼデクについての情報は、《シャレムの王で、いと高き方の祭司であった》ということだけであります。
  メルキゼデクというのは、「義の王」という意味です。それからシャレムは、「平和」を意味するシャロームと関連があります。それでシャレムの王は、ヘブル書の著者が言うように「平和の王」なのです。義の王は平和の王であり、いと高き神の祭司である。そのような方からアブラハムが祝福を受けたというのは、とても重要なことであると思います。義と平和とが並んでいることにも、注目しなければなりません。
  義は神との正しい関係が基本でありますが、その正しい関係が成立するために、平和は必要不可欠の条件であるからです。
 アブラハムはユダヤ人から父祖としてあがめられていました。そのアブラハムに祝福を授けた人がいます。これは、すごく大事なことですね。ヘブル書の著者は、そのことに目を向けました。パウロでさえ、そのことには気がつきませんでした。彼はメルキゼデクのメの字も語っておりません。ヘブル書の著者だけが、その点に目を向けることができたのは、彼の卓越した神学的洞察によるものだと思います。
  さらに彼は、創世記14章には書いてない所から大事な真理を汲み取り、それをコメントしています。それが3節に書いてあるのです。「父もなく、母もなく、系図もなくなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」 これも著者の神学的洞察による理解である、と言うことができましょう。しかし、最後の「いつまでも祭司としてとどまっている(まさに永遠の祭司なのだ)」という主張は、すでに5章6節に引用が見られるように、詩篇110:4から示唆を受けたものと見て間違いありません。そこには「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえの祭司である」と書いてあるからです。
  ここで「あなた」と言われているのは、これが表題のように「ダビデの賛歌」であるとするなら、ダビデを指していることになるのでしょうか。「ダビデの賛歌」は「ダビデへの賛歌」だという理解もあるので、ダビデを指しているとは限りません。しかし私たちキリスト者は、もちろん私も、この「あなた」はイエス・キリストのことである、と解釈するのです。
  ダビデはユダ族の出身ですから、律法の規定によって、絶対に祭司にはなれません。イエス様がダビデの子孫であるとするなら、イエス様は祭司ではあり得ないのです。そのせいか、イエス様が祭司だと明言している個所は、新約聖書でも多くありません。それを明確に述べているのは、ヘブル書だけです。パウロの手紙の中に、それを示唆する表現がいくらか見られます。それから《イエス様があなたがたのために祈っておられる》という福音書の叙述も、イエス様が祭司であることを暗示してくれています。しかし、《大祭司キリスト論》を堂々と展開しているのは、ヘブル書だけなのです。
  4節以下で、著者は「その人(メルキゼデク)がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい」と言って、アブラハムがメルキゼデクに「一番良い戦利品の十分の一を与えた」こと、そのメルキゼデクがアブラハムを「祝福した」事実を述べています。この事実は、明らかにメルキゼデクがアブラハムの上位に立つことを示しています。「いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福される」(7節)からです。そのようにメルキゼデクの下位に立つアブラハムの曾孫(ひまご)の一人がレビであります。その「レビの子ら(子孫)」が祭司職を受け継ぐように定めているのが、モーセの律法なのです。それで「レビ系の祭司職」という言葉も見られます(11節)。
  ところで、著者は鋭い指摘をします。レビはアブラハムの子孫の一人ですから、あたかもアブラハムの「腰の中にいた」(10節)者としとて、「[祭司として]十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して[メルキゼデクに]十分の一を納めているのです」(9節)。もちろん、レビもメルキゼデクから祝福を受けたことになります。このように指摘する著者が言いたいことは何か。それは、《「いつまでも祭司としてとどまっている」メルキゼデクの祭司職は、レビ系の祭司職とは比べ物にならいほどすばらしいものだ》ということです。その祭司職は《永遠のもの》であるのですから。
  8節に「死ぬべき人間が十分の一を受けています」とありますが、レビ系の祭司たちはみな「死ぬべき人間」として死んでいくのであって、その子らへと代々受け継がれていかなければなりません。しかしメルキゼデクは、「生きているとあかしされている者」として、永遠に生きている祭司なのです。そして、すでに6章20節で言われていたように、イエス・キリストは「永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」 ここまで来て、ヘブル書の著者の言いたいことが、だいぶお分かりになっていただけたのではないかと思います。
  要するに、《キリストが受けておられる祭司職は、レビ系の祭司職よりもはるから優っているのだ》ということを、著者はここで論じてくれているのです。
 もう一つ、本書の著者の神学的に優れている面を紹介します。パウロは《キリストにあっては、ユダヤ人も異邦人もなく、みんな同じである》(ガラテヤ3:28参照)という真理を、信仰義認論を梃子(てこ)にして展開しました。これによって異邦人伝道への道が大きく開かれました。今なら当然のことでしょうが、第1世紀の時代を考えると、それはなかなか大変なことだったのです。異邦人に対するユダヤ人たちの誇りは、すごいものだった思います。そこで《系図もない、父もない、母もない》と述べている言葉を、別の角度から汲み取るなら、《この永遠の大祭司によって神に近づくことができるという点において、ユダヤ人も異邦人もない》ということが言われているのではないでしょうか。著者は大祭司キリスト論を梃子にして、《キリストにあっては、ユダヤ人も異邦人もなく、みんな同じである》と言っているのです。
 以上のここと関係して、著者が律法について大胆な発言をしていることに注目しましょう。11節に「民はそれ[レビ系の祭司職]を基礎として律法を与えられた」とコメントがあるように、レビ系の祭司職は律法と深いつながりがありました。このレビ系の祭司職が役を果たさなくなったことは、律法が役を果たさなくなったことと連動しているのです。レビ系の祭司職の下では、神に近づくために律法を守ることが義務づけられていました。しかし、律法を完全に守ることなんて、人間にはとうてい不可能です。
 12節に「祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません」と書いてあります。イエス様はレビ系の祭司職ではなく、メルキゼデクの位に等しい祭司職に就かれました。そうだとすれば、律法も変わったのです。どのように変わったのか。「一方で、前の戒め(律法のこと)は、弱く無益なために、廃止されました」(18節)。律法が変わることは、律法が廃止されることです。それは律法が「弱く無益なため」でした。《人がそれを守って神に近づけるだけの力を律法は人に与えていない》ということでしょう。だから律法は「弱く無益な」ものだ、と[大胆にも]言われているのです。
 19節には、「律法は[人を神に近づかせるために]何事も全うしなかったのです」とまで言われています。人間を神との交わりに導き入れることにおいて、律法は何もできませんでした。そのために、その律法とは無縁な、「メルキゼデクに等しい、別の祭司[職]が立てられる」ことになったのです(15節)。この《新しく立てられた祭司職》に召されるお方(イエス・キリスト)が、「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である」と言われているのです(17節)。
 すでに第2章で学んだように、キリストは私たちと同じ人間となり、私たちの兄弟と呼ばれることさえ恥とされませんでした。そして、私たちが味わうすべての苦しみを味わい尽くしてくださいました。ですから、私たちの弱さに本当に同情することのできるお方なのです(4:15参照)。このお方が、今後9章から10章にかけて学ぶのですが、十字架にご自身をいけにえとしてささげ、私たちの罪の完全な贖いを成し遂げてくださいました。そのことによって、私たちが憚ることなく神に近づくことができるように、私たちの罪を赦してくださいます。しかも無条件に、また無制限に赦してくださるのです。このキリストにある者は、もはや罪に定められることが決してありません(ローマ8:1参照)。
 私たちのためにいつもとりなしをしておられる永遠の祭司の下にあるならば(24-25節参照)、私たちの罪はいつも完全に赦され、私たちはいつも憚ることなく大胆に神に近づくことができます。そのことが、19節に「さらにすぐれた希望」と言われている内容なのです。そのように「さらにすぐれた希望」への道を開く永遠の大祭司としてイエス様が立てられています。そのお方が、次回に詳しく話しますが、いつも私たちのためにとりなしをしていてくださるのです。
 「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(ルカ22:32)と言われた主の言葉は、ペテロに対してだけでなく、私たち一人一人にも言われています。このイエス様の愛のとりなしが、私たちの身にしみて分かるとき、私たちは本当にうれしいのです。この恵みの体験がしっかり身についているなら、私たちが世間の荒波に押し流されるようなことは全くなくなるでしょう。自分の力で頑張っている信仰は、いつ駄目になるか分かりません。しかし、新しく立てられた祭司職をになう永遠の大祭司のとりなしの中にあることを、いつも覚えているなら、私たちはどんな苦しい境遇の中にあっても望みを失わず、神に近づくことのできる感謝と喜びもって歩むことができるのです。(村瀬俊夫 2005.1.9)

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