2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 7》 日々心を開いて御声を聴け ヘブル3:7~19

 前回は3章前半の1-6節を学びました。今回は続きの3章後半の7節以下を学びます。前回の学びにおける勧めの中心は、《大祭司であるイエスに思いを集中しなさい》という点にありました。今回はそのことを受け、私たちの思いをイエス様に集中していくために、《日々心を開いて主イエスが語ってくださる御声を聴きなさい》と勧められているのです。今回の学びの個所の主旨は、説教題の通り「日々心を開いて御声を聴け」ということになります。
 前半の個所では、モーセとイエス様が対比されておりました。そのことを受けて7節以下でも、モーセが主役を務める出エジプトの出来事が紹介されています。しかし、出エジプト記からではなく、詩篇95篇7節以下が引用されているのです。そこには出エジプトの時の出来事が歌われています。
 3章後半の冒頭で「ですから、聖霊が言われるとおりです」と記し(7節)、この導入句によって詩篇95篇が引用されています。パウロの手紙や他の新約聖書では、詩篇を引用する時の導入句は、「ダビデがこう言っています」という形式が多いのです。しかしヘブル書の著者は、「ダビデが言う」とは言わないで、「聖霊が言われる」と言っています。これは注目に値することです。
 この文書の表題が後に「ヘブル人への手紙」と付けられたので、本書は手紙のように思われています。しかし、手紙らしいのは最後の結びの部分だけで、書き出しからして内容は説教か、説教に基づく神学論文のようなものです。著者の名も伏せられていて、著者不明の文書でもあります。でも、この著者は「ここに述べることを本当に聴いてほしい」という思いがとても強いのです。著者は「ここで自分が語ることは神が語られるのだ。だから聴いてほしい」という思いでいるのです。人間のだれが語るかはそれほど重要な問題ではなく、大切なのは《神が語ってくださる》ということであります。
 そういう著者にとって、旧約聖書で《人間のだれが語ったか》ということよりも、「神が聖霊によって語られた」ということが、格段に重要と考えられたのではないでしょうか。それで「聖霊が言われるとおりです」という導入文になっているのだと思います。そのように私は考えます。
 引用されているのは、詩篇95篇7-11節であります。「きょう、もし御声を聴くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。……」と書かれています。「四十年の間」と言われるのは、出エジプトのために要した期間が40年間を越える長期になったからです。エジプトを出てから目的地のカナンに入るまでに、どうして40年もかかったのか。そんなにかかる距離ではありません。シナイ半島を回ってもせいぜい500キロですから、いくらもたついても一ヶ月あれば到着する距離です。それがどうして40年もかかったのか。これは真剣に問うべきことでしょう。
 なぜ「四十年の間」なのか。その理由が19節に書いてあります。「それゆえ、彼らが安息[約束の地カナン]に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」と。その理由とはズバリ、彼らの「不信仰」であったのです。18節には、「わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか」と書いてあります。神の御声に聴き従おうとしなかった不信仰のゆえに、彼らは出エジプトに40年間も費やし、その間にエジプトを出た当時の人たちはみな途中で死んでしまったのです。
 彼らの不信仰が「[神の]御怒りを引き起こした」と詩篇95篇7-11節の中で歌われています。それがヘブル書3章7-11節に引用されていますが、偶然にも同じ7-11節の各節がほぼ対応しているのです。しかし、両者を読み比べてみるなら、言葉や表現に少し違いがあることが分かります。ヘブル書が引用しているのはヘブル語原典の旧約聖書からではなく、ヘブル語原典がギリシア語に翻訳された《七十人訳聖書》と呼ばれるものから引用しているのです。
 実は、初代キリスト教会では、この七十人訳聖書が大いに用いられていました。パウロはローマ帝国の支配下にあった地中海沿岸の世界に伝道しましたが、媒体となった言語は共通語の役割を果たしていたギリシア語だったのです。その諸地域には離散のユダヤ人の共同体があり、会堂で安息日ごとに礼拝を守っていました。そこで読まれていた聖書は七十人訳聖書だったのです。
 その七十人訳聖書とヘブル語原典聖書とでは、少し(いや、かなり)言葉や表現に違いがあります。このことは、今まであまり表沙汰にはされてきませんでした。七十人訳聖書の日本語訳は存在せず、それを英訳で読む人も限られており、ましてギリシア語原典で七十人訳を読む人はほとんどいない状態(私も必要に応じて特定の個所を見るくらい)であり、日本人のキリスト者が七十人訳に接する機会は皆無に等しい状態であったのです。ようやく最近、河出書房新社から七十人訳聖書のモーセ五書だけの日本語訳が5分冊で刊行されました。それがまた、まことに行き届いた翻訳で、ヘブル語原典との違いが一目で分かるように太文字や強調文字で記され、注記が添えてあります。それを見ると、案外たくさん違いがあるのです。
 この問題を明るみに出すと、いろいろ難しい問題を投じることになります。〈七十人訳が登場するとキリスト教会に混乱を招くから、登場させないほうがいいのだ〉という空気が、なんとなくあったのではないでしょうか。しかし、翻って初代教会を見れば、初代教会は七十人訳聖書を用いて伝道していたのです。ならば、なぜ七十人訳聖書をそんなに警戒するのですか。そのように私は声を大にして申し上げたい。正直に言って、そういう気持ちが私のうちにあります。
 七十人訳とヘブル語原典との間には《あまり違いはない》という見方ができます。しかし《かなりの違いがある》ということも言えなくはありません。すると、特にバーバル・インスピレーション(逐語霊感説)の立場を採る人には、難しい問題が生じます。私は、かなり早い時期に、バーバル・インスピレーションの立場は(それを教えられたにかかわらず)採れないことを知りました。七十人訳聖書の存在とその実態を知ったからです。
 ところで、新約聖書における旧約聖書からの引用は、ヘブル書のように七十人訳によるものが圧倒的に多いのです。このことからも、聖書をめぐる学問的研究には未解決の問題がなお多くあることを、お分かりいただけると思います。しかし、ここで私たちは、ヘブル語原典との違いの問題には触れません。七十人訳聖書から引用したヘブル書の本文で学んでまいります。
 「きょう、もし御声を聴くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」 この引用句が何回か繰り返されています。3章15節に最初の繰り返しが見られ、さらに4章7節に少し短縮して3度目の引用がされています。このことから、この引用句をヘブル書の著者はすごく強調していることが分かります。
 この文書の受け手で、この文書の朗読を聴いている人たちの多くは、ヘブル人のキリスト者であったと思われます。その人たちの中に動揺が起こっていました。前に話したように、ユダヤ教側から「迫害でそんなに苦しんでいるならユダヤ教に戻って来なさい」という誘いの手が伸べられていたのです。その誘いに乗ってユダヤ教に戻る人たちがいたという状況を知っていて、著者は「きょう、もし御声を聴くならば、心をかたくなにしてはならない」と勧告しているのです。
 そして「だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」(12節)、「だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」(13節)と勧めています。《罪に惑わされてかたくなになる》あるいは《悪い不信仰の心になって生ける神から離れる》というのは、具体的には、キリストへの信仰・福音への信仰を捨ててユダヤ教に戻ることでした。そういうことが起こらないように、著者は懸命に勧告し警告しているのです。
 しかし、いくら「気をつけなさい」と警告されても、また「惑わされないようにしなさい」と勧告されても、すぐにそのようになれるわけではありません。この勧告に従って正しく歩むようになるためには、「御声を聴いたならば、それに従わなければなりません」ね。この文書の受け手たちは、イエスに思いを集中することを止めていました。イエスに思いを集中するためには、イエスが語ってくださる御声に耳を傾けていくことが肝要なのです。
 「きょう、もし御声を聴くならば……」と言われていますが、これは《まだ聴くことをしようとしない》または《もう聴くことを止めてしまった》人たちに対する勧めの言葉であります。《もう聴くことを止めてしまっていた》と思われる人たちに、著者は「御声を聴くことを止めないで、御声を聴くようにしましょう!」と、熱い思いで繰り返し呼びかけているのです。
 大事なのは主イエスの御声を聴くことでありますが、新改訳は「御声」とあるだけですから、神の御声か主の御声か分かりません。原文は「彼の御声」で、どちらの可能性もあります。どちらかと言えば、私たちは「主イエスの御声」を聴くのではないでしょうか。「きょう、もし主イエスの御声を聴くならば」と言われるとき、大事なことは「主イエスの御声は毎日聴くことができる」という恵みであると思います。
 主日礼拝に集まるとき、私たちは主の御声を必ず聴くことができます。この「きょう」という言葉には、毎日繰り返し巡ってくる〈きょう〉という日だけでなく、まさに〈永遠のきょう〉という意味があります。私たちにとって、いつもが「きょう」なのです。この礼拝の時も「きょう」であり、礼拝に参加している方々は「きょう、主の御声を聴いている」のです! だから、しっかり聴いて、聞き流さないようにしましょう。
 毎日が「きょう」でありますから、私たちは毎日を新たな「きょう」という思いで、主の御声を聴き続けてまいります。「今日(きょう)十分に聴いたから明日(あす)は聴かなくてもよい」と思わないでください。それは「永遠のきょう」であり、その意味で明日も「きょう」、明後日(あさって)も「きょう」なのです。ですから、明日も明後日も、その後の毎日も、新たな「きょう」として、主イエスの御声を聴いてまいりましょう。
 主イエスの御声を聴くとき、「心をかたくなにしてはならない」と言われています。心を開いて御声を聴きましょう。心がかたくなですと、御声が聞こえないのです。聖書を読むだけでは足りません。私たちはだれもが自分の聖書を手にできる幸いな時代に生きているので、聖書を読むだけの書物としてしまう危険性があるのです。聖書を読むという形をとりましても、大事なことは、聖書を通して《神(もしくはイエス様)が私に語ってくださる御声を、私が心を開いて聴く》ということであります。
 イエス様はいつも(毎日)語ってくださいます。イエス様が「きょう」はお語りにならない、という日はありません。日々に新たな「きょう」として、イエス様は私たち一人一人に語ってくださいます。それを私は心を開いて聴くのです。《心を開く》と言っても、私が決心すれば開けるものではありません。それは聖霊の導きよるのです。聖霊が私の心を開いてくださいます。そのとき、主イエスが語ってくださる福音の御声が聞こえてきます。そして、その福音の御声をしっかり聴くことができるのです。
 主イエスが私たちに語ってくださるのは、いつも《福音》であります。この福音について少し話したいのです。初めに触れたように、旧約時代の出エジプトの出来事について、40年間も荒野をさまよったのは「不信仰のためであった」(16節)と、ここに記されています。そのことで神の「御怒りを引き起こした」と、繰り返し述べています。その結果、エジプトを出た当時の人々は、カレブとヨシュアの二人を除いて、途中でみな死に絶えてしまったのです(16-17節参照)。それで旅の途中で生まれた新しい世代の者たちが約束の地に入ることになりました。指導者モーセも、約束の地を目前にしながら世を去らなければなりませんでした。
 それもこれも「御怒り」の結果であったと、ここには言われています。それを私たちは、うっかりすると新約の時代まで引きずってきてしまう危険があります。《モーセを通して神が語られた言葉に背くだけで、こんなに恐ろしい結果を招いたのなら、もし主イエスによって語られた言葉に背くなら、もっと恐ろしい目に会いますぞ》という、脅しの意味に解する人々もいるのです。私は、それは間違っていると思います。
 もっと福音的に、私たちは受けとめていかなければなりません。律法と福音との違いを明確にしましょう。律法には、それに背くなら神の御怒りを引き起こすという面があります。しかし私たちは、「終わりの時」と呼ばれる《新しい契約の福音の時代》に生かされています。そこには《無条件の赦し》があるのです。新しい契約の内容の一つは、《神が[この契約にあずかる]私たちの罪を思い出すことをなさらない》というもので、それほど神は徹底的に[イエス・キリストにあって]私たちの罪を赦してくださいます(8:8-12参照)。そして神は私たちに永遠のいのちと安息を与えてくださっているのです。
 そのためにイエス様は、十字架において神の御怒りを一身にお受けになりました。そのイエス様を神は死からよみがえらせて、「救いの創始者(開拓者)」(2:10)としてくださいました。それは私たちの罪が本当に(無条件に)赦されるためです。そして永遠のいのちと安息が与えられるという《福音》へと私たちは招かれています。私たちに語りかけてくださる復活の主イエスの御声は、この《福音への招き》にほかなりません。
 この《福音への招き》の御声を、私たちは日々心を開いて、しっかり聴く必要があります。イエス様が私たちに「こうしろ、ああしろ」と命じ、「背けば罰するぞ」と脅すようなことはありません。いつも私たちに「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを告げ、永遠のいのちと安息が与えられていることを保証し、「あなたはわたしの愛する子です」と宣言してくださるのです。愛する兄弟姉妹! そのようなイエス様の福音の御声を、聖霊によって開かれた心で、毎日[永遠のきょうとして]しっかり聴いてまいりましょう。(村瀬俊夫2004.7.18)

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