ヘブル書の中心的主題は大祭司キリスト論であり、その重要な部分(5章から10章18節まで)は学び終えました。その教えを論じ終えた後の、それに基づく大事な積極的な勧めが、前回学んだ個所(19-25節)でした。大祭司キリスト論を導入するための勧めである4章14-16節に対応する部分であり、どちらも大祭司キリスト論の導入及び結びとして、それぞれ福音の恵みに満ちたすばらしい内容の勧めであります。
そのすばらしい結びの勧めを学んで、今回は26節以下に進みます。ここからは、かなり調子が変わります。いや、がらりと変わると言ってよいかもしれません。厳しい内容になるのです。ちょっと、読みたくないという感じになる個所ではないでしょうか。厳しい警告の言葉が続いています。26-31節には、特に厳しい警告の言葉が述べられている、と言ってよいでしょう。
こうした厳しい調子の言葉が語られている背景には、最初のほうで話したように、この文書の受け手の人々が置かれていた厳しい状況がありました。ローマ帝国内のキリスト教弾圧が進む中で、彼らも迫害に見舞われていたのです。言葉でののしられるだけでなく、物理的な暴力を受けることもありました。そういう中で信仰の動揺をきたす人々がいたのは、当然のことでありました。
それから、ユダヤ教からキリスト教に転じた人々も少なくありません。そのような人々は、ローマ帝国で公認されていたために迫害を受けることのなかったユダヤ教へ戻るように勧誘されていたのです。そういう厳しい状況があったことを、もう一度思い起こしていただきたいと思います。まさに背教の危機にさらされている信者たちのことが考えられるのです。3章12節や6章4~8節に記されている厳しい警告の言葉も学び直してください。
今回の個所の冒頭(26節)には、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません」とあります。これは大変厳しい言葉ですね。「真理の知識を受ける」とは、「聖霊にあずかる」(6:4)と同じ内容のことです。聖霊は私たちに真理の知識を授けてくださいます。聖霊は私たちを福音の真理に導き入れてくださるお方です(ヨハネ16:13)。そのように聖霊に導かれて福音の真理をしっかり受けとめながら、その真理に背くような罪を犯し続けるなら、「罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」すなわち、救われる道はなく、滅びがあるだけであります。
29節には、「まして、神の子を踏みつけにし、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい」と警告されています。その中に「恵みの御霊を侮る」という表現があります。それは聖霊に導かれて受けた福音の真理に背いて罪を犯すことを意味します。このことに関連して思い起こすイエス様の御言葉があります。「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦されます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえに罪に定められます」(マルコ3:28-29)。
これは難解な聖句として知られています。ここでイエス様が「聖霊をけがす罪」と言われたのは、いったい何を指すのか。その前の個所では、「神をけがすことを言っても、それはみな赦されます」と言われています。「しかし、聖霊をけがす者は、永遠に赦されない」というのは、どういうことなのか。注解書には、色々な説明が書いてあります。それらを読めば読むほど分からなくなります。分かりやすい説明は簡単明瞭でなければなりません。
イエス様が私たちに与えてくださるのは、十字架と復活の福音に基づく、無条件・無制限の赦しであります。それを聖霊の導きと助けによって受けているのが、私たちキリスト者です。そのように受けている無条件・無制限の赦しを味わいながら、「もう私には罪の赦しは要らないのだ」と、それを公然と拒むような態度をとることが、「聖霊をけがす者」になることであると思います。
イエス様は、私たちの罪を無条件に、また限りなく赦してくださいます。そのイエス様と共に歩むとき、私はいつも自分の罪深さを示されます。ですから、また新たに罪の赦しをいただき、その有り難さを深く感じてまいります。「恵みの御霊を侮る」ことは、「私の罪を赦してください」という祈りをする必要がないと感じていること、イエス様が与えてくださる「無条件・無制限の赦しなど要りません」と拒むような態度をとることにほかなりません。それでは「罪のためのいけにえは、もはや残されていません」と言われても仕方ないのです。
それで私はこう思います。イエス様が私たちを裁いて地獄に落とすのではなく、私たち自身の側で、神のあわれみを拒んで地獄に落ちる道を選んでいるのです。もし地獄に落ちることがあるなら、神様の側に責任があるのではなく、神の恵みを拒む私たちの自己責任である、と言わなければなりません。
26節以下の段落の最後には、「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」とあります(31節)。この言葉だけ取り出しますと、すごくインパクトがあり、とても怖(こわ)い感じがします。「生ける神には近づかないほうがよい」と思ってしまうかもしれません。「生ける神」は、旧約聖書によく出てくる表現です。「生ける神の手の中に陥る」ことは、<その神の手にすべてをお委(ゆだ)ねする>ということを意味します。それは確かに恐ろしいことです。
恐ろしいことではありますが、罪を犯したなら、神の手にすべてをお委ねる以外に道はありません。そうすれば、神は必ず罪を赦してくださいます。そのことを心に深く刻んでいれば、この威嚇的と思われる厳しい言葉の中にも、神の愛の招きが秘められている、ということに気づかされるでしょう。そのように気づかされ、理解していくことが大事だと思います。
◇
さて、32節以下では、前の個所で厳しく言いすぎたためか、少し調子を和らげて、肯定的な勧めの言葉に転じています。その主眼は、説教題がそこから選ばれている36節にあります。そこには「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」と書いてあります。「必要なのは忍耐である」という説教題は、この大事な勧めの言葉の終わりの部分から採ったものです。
この段落(32-39節)は、一言(ひとこと)で言うと、忍耐の勧告であります。この文書を受け取る人々は、長い信仰生活を経ている者たちが多かったと思われます。そして、その長い信仰生活の中で、数々の試練や戦いを経験してきたに違いありません。ここにおられる皆様[そして、読者である皆様]の多くも、そうであると思います。そういう試練や戦いの数々を経る中で、忍耐を学ばされ、また学び合ってきたのではないでしょうか。そこですぐに思い当たる、パウロの手紙の中の聖句があります。
それはローマ人への手紙5章3節以下です。2節から読むほうがよいと思います。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が……希望を生み出すと知っているからです。」 続いて「この希望は失望に終わることがありません」と解説されているように、忍耐が生み出す希望は、<失望に終わることのない希望>であります。
このパウロの言葉は、とても意義深いものですから、よく味わっていただきたい。患難・忍耐・練られた品性・希望と続いていますが、そこで学ぶのは、<この忍耐は希望につながる忍耐である>ということです。希望がないと「忍耐する、耐え抜く」ということは難しいでしょう。希望があるから、耐え抜くことができるのです。ですから、希望のもとにある忍耐であり、希望があるからこそ忍耐することができるのだ、ということを弁えておいてほしいと思います。
この文書の受け手の人たちも、数々の患難や試練に会い、そこから忍耐を学ばされてきました。そういうことを思い起こしてほしい、と著者は訴えているのです(32節)。彼らは今も激しい試練の中に置かれていますが、その試練を耐え抜いてほしい、と励ましているのです。
3章6節の後半の聖句を、もう一度読んでみましょう。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかり持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 「神の家」は教会のことですから、教会とは、「確信と、希望による誇りとを、しっかり持ち続ける」所であります。このことから、忍耐は希望による誇りと深く結びついているのだ、ということが分かります。希望による誇りなしには、忍耐することは難しいのです。
希望による誇りを持ち、忍耐することができるように、互いに勧め合って礼拝を守ることが大切ですよ、という前回学んだ勧告(25節)に結びつきます。そして、33節に言われているように、苦しみを受けた人々の仲間になって、彼らを励ましていくことが求められています。そのようにして、愛と善行を促すように勧め合うことが大切なのです(24節)。一人だけの力で耐え抜いていくことはできません。お互いに励まし合い、助け合い、支え合う中で、忍耐の実を結んでいくことができるのです。
◇
それにつけても、「約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ということを学んで、結びとしたいと思います。「必要なのは忍耐である」ということは、何事においても言えることであります。私も幸い50年間、休まず伝道者・牧師として働くことが許されましたが、それも忍耐の実が結ばれていたからできたのだ、という思いを強くさせられています。人間的には、何度か「止めたいな」と思うことがありました。それでも止めずに来ることができたのは、忍耐することができたおかげであると思います。
結婚生活も、継続の秘訣は忍耐であるかもしれません。しかも、結婚生活の場合、それは希望のある忍耐であると思います。希望がないのに、忍耐せよと言われても難しいですね。ですから、どうしても離婚しなければならないケースもあります。日本国憲法でも、離婚のことが認められています。いつも一緒にいて喧嘩(けんか)ばかりしているくらいなら、一緒にいないほうがましではないかと思うからです。
キリスト者同士の夫婦でも離婚する場合があります。「神が合わせたものを人は離してはならない」と結婚式で言われたのに、離婚するのは神の命令に背くことではないか、とよく言われます。人間は間違うことがあります。司式する者も、新郎新婦も、その時は「神が合わせてくださった」と思って結婚式をします。しかし、実はそうでなかった、という場合もあり得るのです。<実は、神が合わせてくださった結婚ではなかった>というのなら、結婚生活を解消するほうが良いのではありませんか。そんなふうに話してあげると、離婚はけしからんと怒っている人や、離婚して苦しんでいる人が、妙に納得してくれることもあるのです。
結婚生活は夫婦お互いの忍耐の結晶であると思います。結婚生活を全うして金婚式を迎えるような夫婦は、本当に仲の良い夫婦という希(まれ)な例外はあるでしょうが、お互いによく忍耐したのではないかと思います。私の場合も、妻は私のためにものすごく忍耐してくれたのであると思い、心から感謝しています。なかなか言えないでいるので、この機会に感謝の言葉を述べておきます。
何事においても、忍耐が必要であると思います。就職してもすぐ止めてしまう人が最近多いのですが、やはり忍耐して職場に留まり研鑽(けんさん)を積まないと、仕事が自分の身につきません。スポーツの世界は、特に忍耐が要求される世界ですね。忍耐して訓練に耐え抜かないと、優秀な選手にはなれません。その忍耐への奨励として旧約聖書の預言の言葉が引用されているのです。
その預言の言葉は、ハバクク書2章3~4節に記されています。ハバクク書は十二小預言書の一つで、全部で3章しかない短い預言書です。その本書への引用は、ヘブル語原典からではなく、ギリシア語に翻訳された七十人訳によっています。七十人訳の本文はヘブル語原典の本文とは少し違うのです。その七十人訳の本文の語順を多少変えて、ここに引用しています。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない」(37-38節)。
この引用句の中でよく知られているのは、「わたしの義人は信仰によって生きる」という聖句です。パウロは、この聖句を別の文脈でガラテヤ書2章やローマ書3章に引用しています。ヘブル書の著者は、この聖句をパウロのように信仰義認の教理を述べる文脈で引用してはおりません。著者の関心事である「信仰」は、11章以下でさらに明らかにされるように、救いの信仰に含まれている待望の要素です。来るべき方は、しばらくすれば必ず来られます! その方が来られるのを待つ希望、そして、その希望を失わない信仰が、ここで強調されているのです。
希望を失って「恐れ退く」ことがあってはなりません。引用句の最後に「もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない」とあり、39節にも「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、……」と言われています。この「恐れ退く」は、原文では一語の動詞であり、新共同訳は「ひるむ」と訳しています。「ひるむ」ことも、「恐れ退く」ことも、希望による誇りを捨て去ることになります。<希望による誇りを持ち続け、堅忍不抜(けんにんふばつ)の信仰に生きてほしい>というのが、著者の切なる訴えであると思います。
お互いに、いろいろ苦しいこと・辛いことがあります。この世にある限り、私たちが艱難辛苦を味わう試練から全く解放されることはありません。時代の流れの中で、教会も様々の試練を受けなければなりません。その試練を乗り越えていくために、忍耐が必要なのです。この忍耐は、決して失われることのない希望と堅く結び合わされています。そのような忍耐を豊かに育まれて、お互いに、堅忍不抜の信仰に生きる者とされましょう。
これで10章が終わり、11章から新しい個所に進むような感じですが、実は、堅忍不抜の信仰に生きた人々の事例が11章に列挙されているのです。11章以下は、<必要なのは忍耐である>という勧告の続きであります。 (村瀬俊夫 2005.9.4)
0 件のコメント:
コメントを投稿