ヘブル書連続説教の第2回は、1章4節から14節までを扱います。
一般には1章1節から4節までがヘブル書の序文で、本論が5節から始まるとされています。しかし、それは適切ではないと思います。私は<4節から本論が始まっている、そして序文は3節で終っている>と見たほうがよいと思うからです。それでこの連続説教でも、そのように区分させていただきました。
前回のことを思い出していただきますが、今は神が御子によって福音を語られている時代であり、まさに恵みの時なのです。コリント人への手紙第二の6章2節で、パウロがそのことを強調しています。「神は言われます」と、『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた』という預言の言葉(イザヤ49:8)を引用して、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」と結論づけているのです。その証拠に、神は今、御子によって福音を語っておられます。
また、御子は「神の栄光の輝き」「神の本質の完全な現れ」であることも学びました。御子キリストは、まさに神でいらっしゃいます。御子は<まことの神>でいらっしゃるのです。それから「罪のきよめを成し遂げて」ということに関して、十字架につけられてご自分のいのちをささげる(そのように十字架を忍ぶ、12:2参照)ことにおいて、御子は<まことの人>でもあります。その御子が今は、天に上げられて神の御座の右に着いておられます。この御子イエス・キリストは、<まことの神であって、まことの人でもある>お方なのです。
この御子は言うまでもなく、復活の主であられます。ただし、このヘブル書に「復活」という言葉は一度も出てきません。それでヘブル書はパウロが書いたものとは言えないのです。長らく教会は伝統的に、ヘブル書をパウロの手紙の中に入れてきました。パウロの手紙を十四とする数合わせのためだったと思います。しかし早くから<本書がパウロの著作ではない>ということは知られていたようです。
本書がパウロの著作でない証拠はいろいろあります。本書のギリシア語の文章は最高に美しいのです。パウロもギリシア語はかなり達者でしたが、これほどの文章は書けません。そして本書には「復活」という言葉が出てきません。パウロの手紙だったら、「復活」あるいは「よみがえり」という言葉が出てこないはずがありません。しかし、本書の著者も復活の事実を知らなかったはずはなく、「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれた」御子は、もちろん復活の主を指し示しているのです。
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「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう」(5節)と言って、今回の個所の13節に「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい」という詩篇110篇1節が引用されています。<この詩篇の言葉は、まさに御子について言われたものであり、大能者の右の御座に着いておられる御子、復活の主において成就しているのだ>と、本書の著者は言おうとしているのであり、私もそのとおりだと思います。
そのような御子は明らかに「御使いよりもまさる」方である、という主張を展開し始めるのが4節以下なのです。新改訳は文語訳や口語訳と同様「御使い」と言います。これは「使者」を意味するアンゲロスというギリシア語の訳語ですが、神から遣わされた使者を指す意味で適訳だと思います。しかし、新共同訳のように「天使」と訳したほうが分かりやすいでしょう。<復活の主は天使よりまさる方だ>と主張しているのが、4節から14節までなのです。
ところで、私たち日本人にとって、天使はなじみのない存在です。私たちの生活の中で天使の存在など全く意識されていませんね。しかし、ヨーロッパではそうではなく、天使は今でもかなりリアリティを持っているようです。まして新約聖書が書かれた時代には、天使はものすごいリアリティを持っていました。そして天使が崇拝されることも普通でありました。天使礼拝という現象がかなり普遍的に見られたのです。
先にヨハネの黙示録を連続説教で学びましたが、最後の22章で著者ヨハネが彼に語りかける天使の前にひれ伏して、天使を礼拝している場面がありました。ヨハネはそれを止められたのですが、このヨハネすら天使礼拝に陥る危険性があったくらい、当時は天使礼拝がリアリティを持っていたのです。
18世紀のドイツに、イマヌエル・カントという偉大な哲学者がいました。彼はその著作の中で「人格的存在」について「それは神・天使・人間である」と述べています。カントにとっても、天使は神や人間と等しいリアリティを持っていたのではないでしょうか。
そのような天使の一人にイエスが扱われる心配がありました。ヘブル書が書かれた頃
に、実際に<主イエスは最高の天使である>という主張がなされていたものと思われます。そういう風潮の中で、ヘブル書は「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました」(4節)とはっきり言明しているのです。
御子はどの天使の名とも比べることのできない、「すべての名にまさる名」を与えられています(ピリピ2:9)。そのことを立証するため、以下「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょうか」(5節)と言って、7回にわたり旧約聖書の言葉を引用しているのです。そこには旧約聖書のキリスト論的解釈のお手本が示されている、という点にも注目していただきたいと思います。
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さて、第一と第二の引用句が5節に記されています。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」という第一の引用句は、詩篇2:7の言葉です。詩2篇は、王の即位式の時に歌われました。ここで「あなたは」と言われているのは即位する王であり、引用句は即位する王への神の祝福の言葉なのです。でも、そういうことを越えて、<この祝福を受けるに値する方は、地上のどの王でも天使でもなく、御子イエス・キリストだけである>というのが、本書の著者も(そして私も)言いたいことであります。
使徒の働き13章33節を見てください。パウロが第1回伝道旅行のとき、ピシデヤのアンテオケの会堂で説教している中に出てくる言葉です。パウロは「神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです」と、この聖句がイエスの復活において成就したことを明言しています。神がイエスをよみがえらせたとき、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを生んだ」との神の言葉が本当に成就したのです。イエスはメシアなる王として即位された! それが復活・昇天の出来事の意味なのです。
実は、その余韻を私たちキリスト者は豊かに受けています。それが私たちの恵みなのです。私たち一人一人にも、イエス・キリストを通して、「あなたはわたしの子」という神の言葉が語りかけられています。それこそ福音なのです。
第二の引用句は第一に附随するもので、詩篇以外から引用されています。サムエル記第二の7章14節で、神が預言者ナタンを通してダビデに語られた言葉です。「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」 これはダビデによって生まれる子孫のことを言っており、ダビデのたくさんの子たちのうちソロモンが次の王になるので、直接にはソロモンを指して言われていると解釈されるでしょう。しかし、神から「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と言われる方は、ソロモンよりもまさる方であります。「見よ、ソロモンよりもまさる者がここにいる」と言われたイエス様の言葉を思い出します(マタイ12:42)。ですから、このように言われているのは、ダビデの肉の子孫ではなく、神の御子イエス・キリストなのです。
そして6節には第三の引用句として、「神の御使いはみな、彼を拝め」とあります。このように神が天使たちに「拝め」言われる「彼」は、もちろん天使ではありません。この申命記32:43からの引用句は、ヘブル語原典からの引用ではありません。このヘブル語原典には、それに基づいて訳した新改訳聖書のように「諸国の民よ。御民のために喜び歌え」と書かれています。ずいぶん違いますね。実は、著者は「七十人訳」と呼ばれる[紀元前3世紀から2世紀にかけてエジプトのアレキサンドリアで]ギリシア語に翻訳された旧約聖書から引用しているのです。パウロが用いた聖書(もちろん旧約聖書)も七十人訳が多く、初代教会はほとんど七十人訳を用いておりました。この七十人訳は、細かく見ていくと、ヘブル語原典と違う部分がかなりあります。この七十人訳から引用して、<御使いたちに「彼を拝め」と言われる「彼」は、神の御子・復活の主のほかにはいないではないか>と、著者は言おうとしているのです。
この復活の主は、一つ飛ばした次の第五の引用句に言われているように、神の右の御座に着いて永遠に支配をなさるお方です。8節以下の第五の引用句は、詩篇45:6~7からされています。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。……」 これは王の婚礼の席で歌われた詩篇だと言われています。「神よ」という呼びかけも、王に対してされることもあったのです。王は地上において神を代表する者でありましたから。しかし、<このように呼びかけられ、「あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です」と言われているのは、地上の王ではなく、主イエス・キリストです>と、著者は言いたいのです。
地上の王が即位する時には、お祝いとして「あなたの御座は世々限りなく……」と言われるでしょう。しかし実際は、そのようにはなりません。このように本当に言われるのにふさわしいお方は、<復活の主イエス・キリスト、神の右の御座に着いておられる御子>の他にはありません。
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9節の2行目以下に「それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にもまして、あなたに注ぎなさいました」とあります。今回の説教は、ここに特に焦点を合わせて話したいと思っており、「喜びの油が注がれる」という題にさせていただきました。
この永遠の支配をされる方に、神は「喜びの油をあふれるばかり注いでくださっている」のです。「あなたとともに立つ者にまして、喜びの油をあふれるばかり注いでくださっている」お方は、復活の主イエス・キリストであります。イエス・キリストは、父なる神から喜びの油をあふれるばかり注がれているお方なのです。復活の主として神の右の御座に着いておられる御子は、喜びの油をあふれるばかりに注がれています。
油を注がれることは、王が即位する時に行われました。それから預言者が任職される時にも、祭司が任職される時にも、油が注がれました。それには神から特別の使命を授けられるという意味がありました。イエス・キリストは、その油をあふれるばかりに注がれています。そのことを思うとき、私たちの主イエス・キリストは、まさに≪喜びの主≫また≪喜びの王≫でいらっしゃるのです。≪喜びのキリスト≫とお呼びしてもよいでしょう。ですから、イエス・キリストは、私たちに喜びを与えてくださるのです。いつも福音してくださるのです。
イエス・キリストが私たちに与えてくださる喜びの福音は、「あなたはわたしの愛する子ですよ。わたしはあなたを喜んでいますよ」と、一人一人に語りかけてくださることにほかなりません。イエス・キリストが洗礼を受けられた時に、お聴きくださった天からの声を、私たちキリスト者も聴くことができるとは、なんという恵みでしょう。本当にすばらしい祝福です。
喜びの油をあふれるばかり注がれているお方が、イエス様の他にいるでしょうか。私はいないと思います。そして、私たちはそのイエス様から喜びの油を注いでいただくことができるのです。というのは、「あなたとともに立つ者にまして」と書いてあるように、イエス・キリストとともに立つ者たちがおり、まさに私たちがそのように「イエス・キリストとともに立つ者」とさせられているからです。この「イエス・キリストとともに立つ者」にも、喜びの油があふれるばかり注がれているに違いありません。
そのことをはっきりと注解の中で指摘してくれているのが、宗教改革者カルヴァンなのです。私たち長老教会は、カルヴァンの流れを汲んでいる教会ですから、カルヴァンの教えを大事にしております。そのカルヴァンのヘブル書注解の中で、<この喜びのキリストとともに立つことを許されているのが、私たちキリスト者である>ことがはっきり教えられているのです。「ともに立つ者」は「仲間」とも訳されます。それで私たちキリスト者は、キリストから喜びの油を注がれている≪喜びのキリストの仲間≫であるのです。
「仲間」であるだけでなく、続く第2章で言われているように「兄弟」でもあります。兄弟の間でキリストは長子であり、私たちはその弟分のようにされています。ですから、私たちも長子のキリストと同じく神の子であるのです。それでキリストは、復活の主として、私たちに「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と語りかけてくださっているのです。
10節以下の第六の句は、詩篇102:25~27から引用されています。「これらのものは滅びます」「すべてのものは着物のように古びます」(11節)とあるように、この世にあるものはみな滅びていきます。一時はどんなにはなばなしく見えても、いつかは古びていく運命にあります。しかし、イエス・キリストはいつまでも古びず、滅びることがない! 本書の13章8節に言われているように、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」
これはギリシア語の文章を直訳したものですが、他の訳では「同じです」を「変わることがありません」と言い換えています。見方を変えれば<いつまでも同じでは困る。少しずつでも成長してほしい>という場合もあるでしょう。しかし、ここで「同じです」と言われているのは、<決して古びない、決して滅びない>という意味です。イエス・キリストは、どれほど時が経過しても決して古びることがありません。その意味では、二千年前も今も、キリストは「同じです。」 同じ≪喜びの王≫なのです。
このように私たちが、決して古びることも滅びることもないキリストの喜びと愛の支配の中に歩ませていただいていることは、本当にありがたいことであります。 (村瀬俊夫 2004.2.8)
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