前回ヘブル書10章26節以下から説教したのは6週間前ですから、少し間があきましたが、今回は11章に進みます。この章は、これ独自でよく知られています。信仰の勇者列伝と名づけられることもあり、旧約聖書に登場する信仰の人の名前が次々に挙げられます。彼らがどのように信仰によって歩んだかが述べられていることで、有名な個所であります。それでヘブル書は、11章から新しい展開を見せていると考える人々もいます。しかし、実際はそうではなく、11章は10章19節から始まっている「勧告(勧めの言葉)」の続きなのです。
特に10章の終わりの方に忍耐の勧めがあり、36節に「約束のものを受けるために必要なのは忍耐です」と言われています。その忍耐の勧告を受け継いでいるのが、11章以下なのです。忍耐の勧告そのものは、「こういうわけで、……私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とある12章1節に続けると、非常によくつながります。すると、11章は大きな挿入の部分とみなされます。そこに記されている信仰の人々にならって、私たちも前に置かれた競争を忍耐をもって走り続けるように勧めるため、11章が挿入されているのです。
先にヘブル書の著者は、旧約は「年を経て古びたもの」で、「すぐに消えて行きます」という大変厳しい見方を示しておりました(8:13)。そのように消えて行くものなら、旧約聖書は要らないのではないか。そういう議論が生じてもおかしくありませんが、旧約聖書が不要になるのではありません。新しい契約の下に、キリスト教会は導かれてまいりました。そのキリスト教会は、古い契約を消えて行くものだから要らないと捨ててしまったのではなく、それを新しい契約とともに受け入れました。そして、旧約聖書と新約聖書を合わせたものを「聖書」と呼ぶようになったのです。
ヘブル書の著者は、旧約は消えて行くものであるとの見方を一方でしましたが、他方で約束のものを待ち望む信仰に生きた人々の模範が記されている点で旧約を認めています。物事は一方だけを見てすべてだと思ってはなりません。他方には別の見方があるのだと知ることが大事です。「何事においても複眼をもって見ることが大切である」と言われた人の発言を読んで、私は深く共鳴させられているのです。
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「信仰」という言葉が、11章にはたくさん出てきます。冒頭の文章にも「信仰」という言葉が見られます。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです」(1節)。まるで信仰の定義のように記されている文章です。この信仰は、パウロがガラテヤ書やローマ書において強調している「イエス・キリストの信仰(キリストを信じる信仰、キリストからいただく信仰)」とは違います。私たちキリスト者にとって、大事なのはキリスト信仰です。ここで言われる信仰は、それとは別の視点からのものであると教えられます。
それは「望んでいるものを保証する」信仰であり、「目に見えないものを確信させる」信仰であります。ここに「保証する」と訳されているギリシア語は名詞であり、1章3節に同じ言葉が使われています。そこでは「神の本質」と訳されています。この語の元の意味は、「下に置かれているもの」を指し、大事なものを意味することが分かります。プラトンやアリストテレスの哲学では、この語は「本質」とか「実体」とか意味で使われています。それが時には「保証するもの」という意味で、一般に使われることがありました。ここでも、その意味で使われています。
それから、「目に見えないものを確信させる」信仰の「確信させる」も、ギリシア語は名詞であります。それは「確信」とか「確証」とか、あるいは「確認」と訳すことができるものです。ここで教えられている「目に見えないものを確信させる」信仰とは、きわめて未来志向的なものであります。まだ現れていないのに、それを望んでいるのですから。現れているなら、それを望む必要はありません。これから現れるものを待ち望んでいくのですから、目に見えないものも目に見えるようになる、ということが暗に言われているのではないでしょうか。イエス様は私たちの目には見えません。けれども、そのイエス様が私たちと共にいてくださることを、私たちは確信しています。それが、ここで言われている信仰にほかなりません。
このように、信仰にも、いろいろな意味合いのあることが分かります。まず第一に、キリストを信じる信仰、あるいはキリストからいただく信仰があります。それが一番大事なものでありますが、ここに教えられているように、目に見えないものを確信させる信仰も私たちに与えられています。ですから私たちは、目には見えないけれども、聖霊によってキリストが共にいてくださる、そして、いつか目に見える形で相見(あいまみ)える時がくる、ということを確信させられるのです。
「昔の人々」すなわち旧約の人々は、「この信仰によって称賛されました」と2節にあり、続く3節に「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えないものからできたのではないことを悟るのです」と記されています。この3節から、「信仰によって」という語句が文章の初めに繰り返し出てまいります。4節も、5節も、7節も、8節も「信仰によって」で文章が始まります。以下31節までに、計十八回出てくるのです。
この「信仰によって」という語句は、ギリシア語では一語であります。英語では前置詞を伴って二語(by faith)になります。ギリシア語では、信仰を意味する一語の名詞(ピスティス)の語尾を変化させることによって、「信仰によって(ピステイ)」という意味にもなるのです。このピステイで始まる文章は、リズム感のある特徴的な文章であります。そういう文章のことを「首語句反復」の文章と呼びますが、ヘブル書11章はその代表的なものとして知られています。
その「信仰によって」という首語句反復の最初の文章が3節です。ここには、信仰によって生きた昔の人々のことではなくて、別のことが書いてあります。書いてあるのは、先に読みましたように、創世記1章に関すること、天地創造のことです。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたこと……を悟るのです」という文章の中の「世界」は、ギリシア語原文で、コスモスではなくアイオーンが使われています。アイオーンは、聖書で「世」と訳される場合が多いのです。ここでは単数形ではなく複数形(アイオーネス)が使われていますから、普通は「世々」と訳されます。しかし、ここでは、1章2節で使われている場合と同じく、時間と空間の世界を意味しているものと思われます。
それから「神のことばで造られた」の「ことば」は、よく使われるロゴスではなく、実際に発せられた言葉を意味するレーマが使われています。ヘブル書の著者の頭の中にあったのは、創世記1章3節で、神が「光よ。あれ」と言われると、光が生じた、ということであったと思います。このように神が実際に発せられたことばによって、この時間・空間の世界が無から造られました。神は、ご自分の発したことば(創造的命令)によって、光を無から存在へと呼び出してくださったのです。このような無からの創造は、理屈で考えて分かるものではありません。信仰によって、まさに神からの啓示を受ける信仰によってのみ、神が無から時間・空間の世界をお造りになり、さらに造られた世界を導いていてくださる、といことがよく分かるのです。
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さて、続く4節以下に、昔の人々のことが例証として挙げられています。今回は7節までにしますが、信仰によって歩むことで神に喜ばれる生涯を送った何人かの証し人が、ここに登場します。アベル、エノク、そしてノアの三人です。
アベルのことは、創世記4章に出てまいります。彼は弟であって、カインというお兄さんがいました。アベルは兄のカインに殺されてしまったのです。兄が弟を殺してしまうという悲惨な出来事であり、まさに人類最初の殺人事件でありました。なぜ殺したかというと、兄カインは弟アベルが憎らしくなったからです。アベルは羊を飼う者で牧畜に従事していました。カインは土を耕す者で、農耕に従事していました。
それぞれが神に感謝のささげ物をします。カインは畑で取れた作物をささげ、アベルは家畜の羊をほふってささげました。そのとき、神はアベルのささげ物に目を留られたのに、カインささげ物には目を留められませんでした。それでカインは神に対して不信と怒りを覚え、弟を妬ましく思ったのでしょう。その妬みか憎しみに変わり、やがて殺意にまで高まります。そして、ついに弟を野に連れ出し、ひそかに殺してしまったのです。しかし、そのアベルの血が叫んでいます。その叫びを主が聞かれ、カインの弟殺しが分かってしまうのです。
創世記4章にはその後の物語も記され、カインは罰を受けてさすらいの旅に出ます。彼は殺人犯なのに人々に注目され、彼に対する同情が寄せられる向きがあるのです。なぜカインのささげ物は受け入れられなかったのか。その決め手となる理由は判然としません。彼のささげ物には心がこもっていなかった、ということが指摘されます。そうかもしれませんが、そのように聖書が明言していないのに断定することはできません。ヘブル書の著者は、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物と証ししてくださったからです」と記しているのです。
どのようにアベルは「信仰によって」いけにえをささげたのか。その基準はよく分かりません。ただアベルは「信仰によって」ささげました。そのことがカインには欠けていたのです。アベルは「死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」と言われています。では、彼は信仰によって何を語っているのか。彼の血が土の中から叫んでいます。何を叫んでいるのでしょうか。人間的に考えれば、復讐の叫びだと思います。しかし、信仰によって語る内容として、復讐はふさわしくありません。
ヒントとなる言葉が、12章24節にあります。「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」 ここには、「新しい契約の仲介者イエス」の説明として、「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」と言われています。イエス様もアベルのように殺されて血を流されました。しかし、イエス様が十字架で流された血は、アベルの血よりもすぐれたことを語っています。このようにイエス様の血とアベルの血が比較されているのは、両者の血が「すぐれたことを語る」点においてなのです。もし復讐を求める叫びであったとしたら、「すぐれたことを語る注ぎかけの血」と言うことはできません。
アベルの血の叫びは、復讐を求める叫びではありません。その叫びは、「私は兄に殺されて悲惨な最期を遂げました。それでも神は、この私を受け入れてくださっています」と語っていたのではないでしょうか。このように理解するのが、「信仰によって、今もなお語っています」と言われる、この文脈にぴったりであると思います。「私は完全に贖われ、義と認められる」ことを、アベルは確信していたに違いありません。そして、そのことを待ち望んでいたのです。
なお「義人アベル」について言及している二つの個所を紹介します。第一に、マタイの福音書23章35節で、イエス様が「義人アベルの血」と言われています。第二はヨハネの手紙第一3章12節で、カインは「兄弟を殺しました。なぜ兄弟(アベル)を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです」と記されています。アベルの行いが「正しかった」のは、アベル自身の功績によるのではなく、神がアベルを義と認めてくださったこと、そして、彼がその恵みを受けたことによるのです。
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次にエノクに行きましょう。エノクについては、創世記5章に、ほんの少し記されているだけです。彼はアダムから数えると七代目になります。この「七」という完全数に意味があるのかもしれません。23節に「エノクの一生は三百六十五年であった」とあります。創世記の記録によると、当時の人々の寿命は千年に届くほどでしたから、エノクの生涯は短いものでした。24節に「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」とありますが、ヘブル書の著者は、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように……神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、証しされていました」(5節)と解説しているのです。
それに6節の言葉が続きます。「信仰がなくては、神に喜ばれることができません。神に近づく者は、神がおられることと、神に求める者には報いてくださる方であることを信じなければなりません。」 「神に喜ばれる」信仰は、①神がおられること、②神は求める者に報いてくださること、を信じます。①と②は切り離すことができません。神がおられることを信じるなら、神が私たちに福音してくださり、私たちを義と認めてくださり、私たちを喜んでくださることを信じるのです。これは、1節の「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させる」信仰の内実にほかなりません。
7節にノアが登場します。ノアは、「まだ見ていない事柄」である洪水が起こるとの警告を神から受け、神に喜ばれる[目に見えない洪水を確信させられる]信仰によって、自分と家族を救うために箱船を造りました。大洪水が起こっても、箱船に乗り移っていたノアとその家族は救われたのです。このことは、創世記6~9章に洪水物語として記されています。こうしてノアは、信仰によって義と認められることにより、「信仰による義を相続する者」となったのです。
そういうことで、なくてならないものは、神に喜ばれる信仰であります。この「神に喜ばれる」ということは、私たちが何かをすることによるのでしょうか。そうではありません。神がキリストによって私たちを救い、私たちを義と認め、私たちの罪を贖ってくださることを、感謝して受けることにほかなりません。私たちに幸せを与えたいと願っておられる、その神の願いを単純に受けていく信仰ほど、神に喜ばれることはないのです。 (村瀬俊夫 2005.10.16)
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