ヘブル書の主題は大祭司キリスト論であり、著者は7章で、キリストはメルキゼデクの位に等しい大祭司であると教えてくれています。そのことをさらに詳しく述べていくのが、8章以下であります。
そのため8章の初めに、「以上述べたことの要点はこうです」と、その要点を述べてか論述を進めます。この「以上」とは、大祭司キリスト論の論述が始まった5章から7章までを指すものと思われます。その「要点」とは、「すなわち」以下に書いてあることで、「私たちの大祭司は天におられる大能者の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です」(1-2)ということ、さらに簡潔に言うと《私たちの大祭司は天におられ、天にある聖所で仕えておられるのだ》ということです。
ここで、「天に神が設けられた聖所」こそ《まことの聖所》である、ということが言われています。このような発想の背景には、プラトン哲学の影響があると思います。プラトンの哲学はエジプトのアレキサンドリアで栄えるようになり、アレキサンドリア学派と呼ばれます。プラトンは、イデアの世界こそ本当の世界だと主張します。そのイデアの世界を言い換えれば、「天」ということになります。地上にあるものはイデアの世界を映し出す影にすぎません。5節に出てくる「天にあるものの写しと影」という表現が、それに当たります。ここでは、地上にあるエルサレム神殿は、天にある本当の神殿の写しであり、影にすぎないと言われているのです。
その本物の天にある聖所で、イエス・キリストは大祭司として仕えておられます。そのことで著者が言いたいのは、《イエス・キリストこそ本物の大祭司なのです》ということであると思います。そのことを私たちも、聖霊によってしっかり心に刻ませていただきましょう。
3節に、大祭司の務めは「ささげ物といけにえをささげる」ことであり、「この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません」と言われています。それは地上における旧約の律法制度の時代のこと、すなわち「律法に従ってささげ物をする人たちがいる」時のことですから、著者は「もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられなかったでしょう」と明言しています(4節)。地上において「ささげ物といけにえをささげる」祭司たちは、「天にあるもの[真実の聖所]の写しと影とに仕えている」にすぎないのです(5節)。
そういうことで、イエス様が大祭司であるということは、旧約の律法制度の枠を破っていることなのです。その枠にしばられていたら、前に申しましたように、王が祭司になることもできません。イエス様がまことの王であるなら、まことの祭司であることはできません。旧約の枠を突破しなければ、イエス様が《まことの王であってまことの祭司である》ということは実現しないのです。そのためにヘブル書の著者が登場させた人物こそ、あのメルキゼデクであることは、すでに学んだ通りであります。
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「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです」(6節)。ここで「さらにすぐれた」と言われているのは、旧約に対してです。旧約よりさらにすぐれた、まさに旧約の枠を超えた「さらにすぐれた約束に基づいて」、イエス様は大祭司としての務めについておられます。そのイエス様は「さらにすぐれた契約(新しい契約)の仲介者」でいらっしゃるのです。
新しい契約の仲介者であるイエス様は、大祭司としてどんなささげ物をささげられたのか。そのことは9章で詳しく述べられますが、すでに7章27節に書いてあるように、「キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられた」のです。ただ一度で完成した[それゆえ繰り返しささげる必要のない]ささげ物として、キリストはご自身をささげてくださいました。そのことの意味が9章で、さらに詳しく述べられます。《旧約がそのままでは不十分であることは、旧約聖書の中で言われていることなのですよ》という含みで、8節以下にエレミヤ書31章31-34節が引用されているのです。
「もしあの初めの(第一の旧い)契約が欠けのないものであったなら、後のもの(第二の新しい、よりすぐれた契約)が必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、それ(旧約)に欠けがあったので、こう言われるのです」(7節と8節前半)と前置きして、エレミヤ31:31-34を引用します。このような言い方をしているのは、新約聖書の中ではヘブル書の著者だけです。私は旧約の不完全性には早くから気づいていて、「旧約聖書の限界を乗り越えて」といような題で説教したことがあります。《旧約聖書はそれだけでは欠けがある》とはっきり言ってくれているのは、ヘブル書の著者なのです。
8節の3行目からがエレミヤ31:31-34の引用でありますが、著者はエレミヤの名を全く挙げておりません。私はエレミヤが好きですから、その名を挙げてほしかったと思います。おそらく著者の関心は、誰が言ったかではなく、神様が言われたということにあるのでしょう。それであえてエレミヤの名を伏せたのだ、と私は考えています。
このエレミヤの新しい契約の預言を、このようにきちんと引用しているのも、新約聖書の中でヘブル書の著者だけなのです。旧約聖書と新約聖書という分け方、そういう概念を確立する基礎を据えてくれているのが、ヘブル書の著者であります。その意味でも、この著者は優れた神学者であるということができるのです。
その引用句は、「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が」という言葉で始まります。この引用句は、ほとんど七十人訳によっています。ここの「新しい契約を結ぶ日が」は、七十人訳のままの訳になっています[新共同訳も同じです]が、新約聖書の原典では七十人訳とは違う言葉が使われているのです。それを正しく訳せば「新しい契約を成就する日が」となり、このように訳さなければなりません。岩波訳は、ここだけは七十訳とは違うという注までつけて「成就する」と訳しています。
《新しい契約は、まさにイエス・キリストにおいて成就したのだ》というのがヘブル書の著者の思いであり、その思いから著者はエレミヤの預言を引用しているので、著者はそこだけは「結ぶ」を「成就する」と言い換えたのでしょう。それはとても大事なことですから、七十人訳は「結ぶ」であっても、ここは著者がわざわざ言い換えた言葉を、そのまま正確に「成就する」と訳すべきなのです。
さて、「新しい契約」についてですが、先に13節に言われていることを見ましょう。それから、その内容の大事な点を学びたいと思います。「神が新しい契約と言われるときには、初めのものを古いとされたのです」と、新しい契約が結ばれて、それが成就した以上、初めの契約は「古いとされたのです」と、著者はここで、《初めの契約は旧い契約(旧約聖書)とされたのだ》と、はっきり言っているのです。
そして驚くべきことに、著者は「年を経て古びたものは、すぐに消え去るのです」と言っています。ここまで断定的に言っているのは、本当にすごいですね。ヘブル書が新約聖書として認められるかどうか論議のある書とされたことには、このような断定的な言い方に一因があったのかもしれません。本書が論議の対象となった要因には、すでに学んだように、6章4節以下に「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことば……を味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をキリストに立ち返らせることはできません」と言われている厳しい言明をめぐる問題がありました。
それとともに「年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます」と断言されたことが問題となったのは、教会は旧約聖書を捨てるどころか、それを新約聖書とともに聖書として受け入れていたからなのです。旧約聖書無用論は初代教会において早くからあり、いろいろと物議をかもしていました。そういう中で正統的キリスト教会は、旧約と新約とを合わせたものを「聖書」として受け入れるようになりました。そうであっても、13節後半の主張に照らして、《旧約は新約の前には消えて行く存在である》ということを、よく知っていなければなりません。
私は《旧約聖書の役割は新約の福音を指し示すことにある》と考えています。ですから、指し示されている新約がなければ、旧約は不完全なものです。新約の福音の光に照らしてのみ、旧約は意味を持つものとなります。新約の福音を[預言や約束の形で]指し示す役割がある限り、旧約聖書は存在意義を有するのです。現にキリスト教会は、旧約聖書の律法的な戒めや教えの多くを無視し、それらに従うことをしておりません。旧約聖書の不完全性がここに明言されていることを心に留めたうえで、新しい契約の内容について学んでまいりましょう。
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さて、新しい契約には、二つの特色があります。これは折りに触れて申し上げてきたことですが、ここで改めて学びたいと思います。その特色の第一は、10節の中で、「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」と言われていることです。これは、9節に「わたしは彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に、[シナイ山で]彼らと結んだ契約のようなものではない」と言われるように、初めの契約との対比で言われています。その初めの契約を神と結んだイスラエルの民は、それを守ることができませんでした。その結果、彼らは亡国の憂き目を見ることになり、バビロン捕囚という大変な悲惨を経験することにもなったのです。
そういう大変な悲惨を民族が経験する中で、エレミヤは悲嘆と絶望の中にある民に、《神は新しい契約を結んでくださる、そのような日が来るのだ》という希望を与える預言をしました。その新しい契約は、初めの契約とは違って、律法が彼らの思いの中に入れられ、彼らの心に書きつけられるのです。この新しい契約の仲介者がイエス様ですから、新しい契約を結ぶためにイエス様が重大な関わりと役割を持たれました。そのためにイエス様は、ご自身をただ一度ささげてくださったのです。それから、イエス様は神によって死からよみがえらされ、天に上げられて、大祭司として天の聖所で神と私たちとに仕えておられます。そのようにして新しい契約が本当に成就しているのです。
そのことを思うとき、この第一の特色が私たちにとって意味していることは何か。それを知ることが大切なのです。それは《新しい契約の仲介者であるイエス・キリストによって現された神の愛が、私たちの思いの中に入れられ、私たちの心に刻まれるように書きしるされている》ということであると思います。新しい契約、それはイエス・キリストにおいて示された神の愛にほかなりません。十字架においてご自身をささげてくださったイエス・キリストによって、神は私たちの罪を赦してくださいます。これは新しい契約の第二の特色にも関わるのですが、これこそ神の愛なのです。
その神の愛が私たちの思いの中に注ぎ込まれ、私たちの心に書き記されます。新しい契約の民とされたキリスト者は、何よりも神の愛が聖霊によって自分の思いの中に注ぎ込まれ、自分の心に書き記されている、という体験を豊かに持つ者でありたいですね。そのような体験に満たされるとき、その人はおのずから神を愛する者になるでしょう。
旧約は神を愛せよと命じます。「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして神を愛せよ」と言われても、そうすることができないのが人間の弱さです。イエス様は旧約の戒めを、神への愛と隣人愛と、この二つに要約してくださいました。それなら、私たちがそれらを守り行うことができるでしょうか。できません。それでイエス様は私たちに、新しい戒めを与えてくださったのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と。
イエス様が私を愛してくださったことが本当に分からないと、私は神を愛し、人を愛し、互いに愛し合うことができません。だから、イエス様は私たちを愛してくださいました、いや愛してくださっています。このことに、新しい戒めと新しい契約との接点が見られるのです。《イエス様が私を愛してくださっている。私はイエス様の愛に満たされているのだ》ということが、この私によく分かるということが、新しい契約の第一の特色と言ってよいでしょう。
第二の特色は、第一の特色と深い関係がありますが、12節に「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからだ」と書いてあることです。「彼ら」と言われているのは、実際に罪を犯して亡国の悲運を招いたイスラエルにほかなりません。その彼らの不義に神はあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い出さない、とまで言われているのです。この約束が、新しい契約の仲介者であるイエス・キリストによって本当に成就しています。神は、キリストの愛を受けた者たちに、「もはやあなたがたの罪を思い出すことはしない」とおっしゃっているのです。
なんと驚くべきこと、なんとすばらしいことでしょう! まさに無条件の赦し、そして無制限の赦しであります。この赦しの愛を本当に身に受けるときに、私たちはおのずから神を愛し、人を愛し、互いに愛し合うように導かれていくのです。
このような「新しい契約の仲介者」であるイエス様は、私たちの大祭司でもあって、いつも私たちのためにとりなしの祈りをしておられます。いや、私たちと共にいて、私たちのために祈っていてくださいます。本当にありがたいことです。
最後に、皆様が抱いておられるかもしれない疑問に答えておきます。イエス様が不滅の祭司職を遂行しておられる「天」は、どこにあるのか。《私たちが聖霊によって開かれた信仰の心と目をもって観るところ》、そこに「天」があるのです。私たちが聖霊によって開かれた信仰の心と目をもって福音書に描かれている地上のイエス様を観るとき、そのイエス様が即、天におられる大祭司のイエス様であることが分かるようになるでしょう。福音書の中で「あなたの罪は赦されています」と言われるイエス様は、あなたのためにいつも祈っていてくださる《天におられる大祭司キリスト》にほかなりません。このことがあなた自身の本当の知識と体験となるように、黙想と観想を深めていただけたら幸いです。 (村瀬俊夫 2005.3.6)
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