今回の個所は、前の第3章に続いているような内容であると思います。前にも述べたように、主イエス様はヘブル書において特に大祭司として捉えられています。大祭司である主イエス様! 私たちのために、神と人との間に立ってとりなしをする役目を担っているのが大祭司です。そういう大祭司であるイエス様が、何を私たちのためにしてくださるのか。これが一番大事なことであると思います。それは《私たちを導いて、私たちをもれなく神の安息に入らせてくださる》ということであります。
そのことが、ここでは旧約の時代、特に出エジプトの時と対比して述べられています。そのことについて、皆様にぜひ知っておいてもらいたいことを申し上げます。新約聖書は、イエス・キリストによる救いの出来事を、旧約聖書における出エジプトの出来事と対比しているのです。そして《イエス・キリストによる救いの出来事は、第二の出エジプトである》という捉え方をしています。「第二の出エジプト」という言い方は、新約聖書には出てまいりません。でも、新約聖書はそのような見方をしているのだ、と言うことができるのです。
「第二」と言ったのは、旧約聖書の出エジプトの出来事を「第一」と数えてのことであります。旧約聖書の「第一の出エジプト」の出来事に比べて、イエス・キリストによる救いの御業は「第二の出エジプト」である、という見方を新約聖書はしているのです。マタイによる福音書を読むと、そのような発想がよく分かります。時間の関係で詳しく述べることはできませんが、そのことだけ申し上げておきます。
第一と第二と言うとき、この世では第一が良いに決まっています。教会の名称でも、《○○第一教会》と呼ぶのが(特に第一の好きな米国には)多くありますが、《○○第二教会》というのは聞いたことがありません。しかし、聖書においては、第一よりも第二のほうが良いのです。イエス・キリストは、「第二のアダム」と呼ばれることがあります。それは最初に神に創られたアダムを「第一のアダム」と考えるからです。それに対してキリストは、新しい人の始まりであり、その意味で「第二のアダム」と呼ばれています。この場合は、第一と第二とを比べて、明らかに第二のほうがよろしいわけです。
どういう意味において「よろしい」のか。第一の不完全なところを第二が完成しているから、と答えることができます。第二は第一の未完成な部分を完成しているのだ、という意味合いがあるのです。このことは、ぜひ覚えておいてください。これは聖書の世界の中だけの真実であるかもしれませんが。
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旧約聖書の「第一の出エジプト」の時のリーダー(立役者)は、モーセでした。このモーセに率いられて、イスラエルの民はエジプトを出ました。約束の地カナンを目指して長途の旅をしたのです。それに40年もかかってしまい、モーセは約束の地を前にして天に召されてしまいました。彼は約束の地に入ることができず、後継者に選ばれたヨシュアに導かれてイスラエルの民は約束の地に入るのです。その民はエジプトを出てから40年も経ていますから、ヨシュアともう一人のカレブを除いて、全員が旅の途中で亡くなり、世代交替が行われていました。
ヨシュアによってイスラエルの民は約束の地に入り、その地を取得していきます(前13世紀)。それで神の安息がイスラエルに与えられたのでしょうか。そうではないことが、旧約聖書を読んでいくと分かります。その後にいろいろな混乱が起こるのです。
ヨシュア記に続く士師記を見ると、カナンに入ったイスラエルが混乱の渦の中に巻き込まれていく様子がよく分かります。やがて混乱に終止符を打つかのように王国の時代を迎え、ダビデ王朝が成立します(前1000年頃)。その安泰も束の間で、ダビデの子ソロモンの死後、王国は南北に分裂してしまいます。北のイスラエル王国が先にアッシリアに滅ぼされ(前722年)、残った南のユダ王国(ダビデ王朝)もバビロンに滅ぼされてしまいます(前587年)。そのときエルサレムにいた多くのユダヤ人が遠い異国のバビロンに捕囚民として連れて行かれました。まさに苦難の連続であり、いったい彼らはどこに安息を見いだしたのでしょうか。
しかし、イエス・キリストは、第二の出エジプトを私たちのために行ってくださいます。私たちを罪の奴隷状態から救い出し、私たちを神の子・神の民として神の国に導き入れて、神の安息を与えてくださるのです。イエス・キリストは、ご自分のもとに来る者をすべて、間違いなく神の全き安息に導き入れてくださいます。そのことをヘブル書の著者はよく知っているので、1節にあるように「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残されているのですから、あなたがたのうちの一人でも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか」と勧めているのです。
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このように勧められているのは、前に言ったように、ユダヤ教徒やユダヤ教に心を寄せる異邦人でキリスト者になった人々であると思います。そのうちの多くの者たちが、激しい迫害にさらされる中で、ユダヤ教側から「そんなに大変で安息がないなら、ユダヤ教に戻ってきて安息を得なさい」と誘いかけられていました。ユダヤ教はローマ帝国の公認宗教でしたから、まともに迫害を受けることはなかったのです。
しかし、今ここで勧めの言葉をかけられている私たちは、本書の最初の聞き手が置かれていたような立場にはありません。私たちは私たちが置かれている立場で、この勧めの言葉を聴いてまいりましょう。しっかり聴いてください。イエス・キリストは、私たちをもれなく神の安息に導き入れようとしていてくださるのです。ですから、万が一にも、神の安息に入れないようなことがないために、みんな必ず神の安息に入れるように努めましょう! そして、そうするために、「恐れる心を持とうではありませんか」と勧められているのです。
では、「恐れる心」とは何か。ズバリ私が考えていることを申します。それは《神のことばへの畏れの心》です。それは《神のことばをしっかり聴くこと》、なお大事なのは《神のことばを福音として聴くということ》であります。これが一番大事なことなのです。神のことばを聴くことは大事ですが、その聴き方を間違えるととんでもないことになります。何よりも大切なのは、神のことばを福音として聴くこと、すなわち《福音的静聴》であります。神のことばを福音として、しっかりと、心を静めて、心の奥深くで聴くようにしましょう。
「恐れる」ということは、何か心をなえさせるような事態を感じさせます。恐れると心がなえるどころか、心が失せてしまうように感じるのが、普通ではないでしょうか。しかし、ここでの「畏れ」とは、《いつも福音の恵みへと心と思いを集中させてくれるものである》と言いたいのです。
そして静聴とは、《聴いた福音の言葉を信仰によって自分の心に結びつけること》である、と言うことができます。2節に「信仰によって、結びつけられなかった」と否定的に言われていますが、要は(積極的に)信仰によって自分の心に結びつけていくことです。原語のギリシア語は「結びつける」とも訳せますが、本来は「混ぜ合わす」という意味なので、《聴いた神のことばを信仰によって自分の心に混ぜ合わせ、きっちり刻み込んでいく》ことであります。そのように神のことばをしっかり聴くことが、「畏れる心を持つ」ということの具体的な意味なのです。
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12節に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」と、神のことばについて説明されています。岩波訳には「事実、神のことばは生きていて活力があり、あらゆる諸刃の剣にまさって切れ味があり、……心の思いと考えを見分けることができる」とあります。この神のことばについての解説で大事なのは、神のことばは「生きていて活力がある」ということです。
続く13節を、新改訳は「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、……」と訳していますが、私は「神の前で」は「(その)神のことばの前で」とするほうが良いと思います。原語は男性単数の代名詞なので、「神の」とも「神のことばの」とも解されるのです。それでしたら、前節との関係から「その(生きていて活力のある)神のことばの」と解するのが自然ではないでしょうか。まさに、「生きていて活力のある」神のことばの前で、隠れおおせるものは何一つないのです。
13節の文章は、さらに「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明するのです」と続きます。これを読んで、そのことを思うだけで、〈そんな神(神のことば)の前に立てるだろうか。いや立ちたくない〉と思われてしまう方がいるでしょう。神のことばの前ですべてがさらけ出されたら、いったい私たちは神に対して何を弁明できるのでしょうか。そう考えると、〈そんな神のことばの前には立ちたくない。そんな神のことばは聴きたくない〉という思いに駆られてしまう人が少なくないと思うのです。
ですから、大事なのは、《神のことばを福音として聴く》ということ、まさに《福音的静聴》であります。神のことばの前で私のすべてが(自分の醜い罪の姿が)さらけ出されます。そのことについて私は何も弁明できません。しかし、そのさらけ出された醜い罪のすべてを、神はイエス・キリストによって清めてくださる方です。この福音を忘れず、しっかり聴かなければなりません。神のことばの前でさらけ出されたすべての醜いものを、イエス・キリストは恵みによって覆い、赦し、清めてくださるのです。
その赦しは、私たちの罪を神が思い出すことをなさらない(忘れ去ってくださる)、と言われるほど徹底しています。このあと第8章で、イエス・キリストは「新しい契約の仲介者」として紹介されます。この「新しい契約」の特色の一つが、《神は私たちの罪を思い出すことはなさらない》ということです。《それほどまで完全に(徹底して)神が私たちの罪を赦してくださる》というのが、新しい契約であります。イエス・キリストが私たちをこの新しい契約に導き入れて、その結果として神の安息を与えてくださるのです。そのことをしっかり覚えて、私たちは12-13節を読まなければなりません。
続く14-16節も〈今回の説教に含めたほうが良いかな〉と思いましたが、14-16節は次回の説教にゆだねました。そこは福音の香りの高い所であり、その福音の香りをかぎながら前の個所を読んでいかなければならないのです。私たちの偉大な大祭司は、私たちの弱さに同情し、おりにかなった助けを与えてくださいます。ですから「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と言われています。福音的静聴とは、私たちが大胆に恵みの御座に(神の御前に)近づくことができる、ということでもあるのです。
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3節に「信じた私たち[キリスト者]は安息に入るのです」と言われています。このようにはっきり言われているのは、(「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない」と神が言われたとおり)「第一の出エジプト」の時の神の民が安息に入れなかったことを考えると、なんと大きな慰めであり、福音でありましょう。
私たちが導き入れられる神の安息は、創世の初めに、神が創造のすべてのみわざを終えて七日目に休まれたという事実(4節、創世2:1-3参照)によって、きちんと備えられていたのです。その意味で「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです」と言われています(3節後半)。その安息に私たちを導き入れてくださるのが、創世の初めからの神の御心であるのです。
5節に「ここでは、『決して彼らをわたしの安息に入らせない』と言われたのです」とある「ここでは」は、3節にも引用されている詩篇95:11を指します。そのように言われているからには、《神が創世の初めから備えておられた安息は、なお他の人々のために残されているのだ》と、本書の著者は言おうとしているのです(6節)。〈どれだけ説得力のある論法かな〉と私たちは首をかしげたくなりますが、当時の人々にはそれなりの説得力があったのでしょう。
それで7節にまいります。「神は再びある日を『きょう』と定めて、……『きょう、もし御声を聴くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない』と言われたのです。」 「ある日を『きょう』と定めて」とある「きょう」は、この文書の朗読を聴いている人々の「きょう」であり、また、この説教を聴いているあなたがたにとっての「きょう」であります。もし御声を聴くなら、あなたがたの心をかたくなにせず、畏れる心をもって、福音として語られる言葉を聴きなさい。信仰によって、心に混ぜ合わせるように、御言葉を心に刻みつけなさい。そのように勧められているのです。
安息日の休みは、イエス・キリストに導かれる新しい神の民のために残されています(9節)。それで論旨は10節を越えて11節の勧めへと繋がります。「ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落伍する者が、一人もいないようにしようではありませんか。」 出エジプト記を読むと、旅の途中で滅びてしまった者たちがたくさんいます。そのように落伍する者が一人も出ないために、畏れる心をもって、神の福音をしっかりと聴いてまいりましょう。そのように著者は私たちに勧めてくれているのです。
ですから、最後に繰り返して申しますが、大事なことは、日々の福音的静聴であります。朝ごとに、日々に、私たちは聖書を通して、神がイエス・キリストによって語られる福音の言葉を、しっかりと聴いていかなければなりません。旧約聖書を読むときにも、旧約聖書が指し示しているイエス・キリストの福音の光に照らして読み、語られる御言葉を聴いていく必要があります。そうしないと、旧約聖書を間違って(それこそ律法的に)読んでしまうことになります。
いつも私たちは、聖書を通して、イエス・キリストによる福音に照らされ、その光をいっぱい受けながら、福音に示された神の愛を深く身に感じながら、御言葉を聴いていくのです。そうすることが、私たちが神の安息に入るための大切な要件であることを覚えて、そのようにしてまいりましょう。(村瀬俊夫 2004.8.8)
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