2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 22》 天 の 故 郷 に あ こ が れ る ヘブル 11:8~22

 今回の個所にはいろいろな人が出てきますが、その中での主要な人物はアブラハムです。旧約時代の信仰の人々の信仰は、約束のものを待ち望む信仰として特色づけられています。そのような信仰に生きた旧約の人々の模範として第一番に挙げられるのが、ここに登場するアブラハムであります。
  創世記15章5-6節を見てください。「そして、[主は]彼(アブラム)を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』 さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」このようにアブラハムは、「あなたの子孫は天の星のようになる」という主の約束を信じました。その信仰を、主は彼の義と認めてくださったのです。パウロは、これを根拠に、イエス・キリストへの信仰によって義と認められる、という信仰義認の教えを展開しました。
  そのパウロの言葉を読みます。「私たちは、『アブラハムには、その信仰が義とみなされた』と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか」(ローマ4:9-10)。このように問いかけて、さらにこう書いています。「彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼のないままで信じて義と認められる者の父となり、また割礼のある者の父となるためです」(11-12節)。
 割礼の問題が絡んでややこしくなっていますが、アブラハムが割礼を受けたのは創世記15章よりも先になってからです。アブラハムが神の約束を信じ、その信仰を義とみなされたのは、彼が割礼を受ける前のことでした。割礼は神の民として選ばれたイスラエル人のしるしでした。その割礼を受ける前に、アブラハムが神の約束への信仰によって義と認められたことは、パウロによると、割礼を受けない人たちも信仰によって義と認められることの根拠になるのです。
  11章8節以下のアブラハムについての記述には、「信仰によって」で始まる文章が4回出てきます。最初は8節「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」 第二は9節「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」
  第三の11節は、新改訳も新共同訳も、サラを主語として読んでいます。しかし、主語はアブラハムとして読むのが、前後関係からも首尾一貫しているのです。すなわち、「信仰によって、彼は[妻]サラもすでにその年を過ぎた身であるのに、子を設ける力を与えられました。約束してくださった方を真実な方と考えたからです」と。サラを主語として「子を宿す」と訳しているギリシア語は、男の立場から「子を宿させる、子を設ける」と訳すのが正確なのです。
  ここだけサラが主語になるのは唐突ですし、創世記18:11-15を見ると、サラは自分から男の子が産まれると聞いたとき、「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう[子など産めるものか]」と言って笑っています。「なぜ笑うのか」と言われると、「私は笑いませんでした」と言って打ち消しています。そんなサラを、この個所だけ主語にして読むのは適当でないと思います。
  もっとも、アブラハムも、この点に関しては、あまりほめられません。この約束をサラよりも先に聞いたとき、彼も心の中で笑いました。そして、「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえ[後継者となり]ますように」と神に申し上げているのです(創世17:16-19参照)。イシュマエルは、サラの女奴隷ハガルとアブラハムとの間に生まれた息子です。サラは自分に子が宿らないことを知り、当時の慣習に従って自分の女奴隷をアブラハムにそばめとして差し出し、自分に代わってアブラハムの子を産ませようとしました。その結果、誕生したのがイシュマエルだったのです。
  そのイシュマエルを自分の世継ぎにしてほしいとアブラハムは願いましたが、神から再度「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ」と言われます(創世17:19)。 そのときアブラハムは[創世記にははっかり書いてありませんが]信じたのではないでしょうか。ヘブル書の著者は、そのような理解をはっきり示しているのです。
  それから第四が17節で、「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです」とあります。このように、計四回、「信仰によって、アブラハムはこうこうした」ということが書いてあるのです。
  13節を見ていたただきます。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました」とある「この人々」は、アブラハムとその子イサク、さらにその子のヤコブを指していると思われます。しかし、その代表者はアブラハムです。「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」とある続きの文章も、代表者であるアブラハムに一番良く当てはまります。
  アブラハムは、「あなたの生まれ故郷を出て、わたしが示す地に行きなさい」という神の声を聞くと、すぐに出て行きました(創世12:1,4)。神のことばに無条件に従ったのです。彼は「信仰によって、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(8節)。その結果、導かれた地が現在のイスラエルあるいはパレスチナと呼ばれる所で、当時はカナンの地と呼ばれていました。しかし、彼はそこに定住者のように居着くことはせず、「約束された地に他国人のようにして住み」(9節)寄留生活をしたのです。
  いつでも移動できる天幕生活をし、土地を取得することもしませんでした。それは彼が「堅い基礎の上建てられた都を待ち望んでいたからです」(10節)。その神が「建築し設計された」都は、どこにあるのか。地上にはありません。それは天にある都であり、天の故郷を彼は待ち望んでいたのです。彼が土地を求めて定住することをしなかったのは、その証しにほかなりません。
  子孫が「天の星のように、また海べの数えきれない砂のように」増えるとの約束が果たされるためには、まずアブラハムと妻サラとの間に子どもができなければなりません。しかし、アブラハム夫婦にはなかなか子どもが授かりませんでした。夫婦とも年を取り、人間的には子どもを授かる見込みのない高齢者になっていました。そこで非常手段として、サラが自分の女奴隷ハガルに産ませて誕生したイシュマエルです。アブラハムも、このイシュマエルが約束を受け継ぐ者だと思いました。しかし、神から「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ」と言われたとき、彼は「約束してくださった方を真実な方と考えた」のです。
  子を設ける力を失っていた点で「死んだも同様の」と言われているアブラハムから数多い子孫が生まれるようになる始まりとして、アブラハムとサラとの間にイサクが誕生します。イサクはリベカという女性と結婚し、双子の男子が生まれます。エサウとヤコブです。この兄弟の間でいろいろなことがありましたが、神は弟のヤコブをイサクの後継者に定めておられました。13節に「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました」とある「これらの人々」は、アブラハム、イサク、ヤコブのことです。
  彼らが「約束のものを手に入れることはありませんでした」と言われるのは、数多い子孫が生まれるのをまだ見ていなかったからでしょう。ヤコブはちょっぴり見ていたと言えるかもしれません。彼は4人の妻(正妻は2人、他の2人は彼女らの女奴隷)から計12人の息子を授かったからです。でも、12人では「天の星のように数多い子孫」とは言えませんね。そのように彼らは約束のものをまだ見てはいませんでしたが、その実現を信じ、「はるかにそれを見て喜び迎える」(13節)ようにして死んだのです。
  それから、彼らが「地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」と言われている点に、注目してほしい。私たちの信仰生活にとって、とても大事なことが教えられているからです。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」(Ⅰペテロ2:11)。このように地上にある私たちキリスト者は、「旅人であり寄留者である」と教えられています。「私たち[キリスト者]の国籍は天にある」からです(ピリピ3:20)。
  キリスト者である私たちの国籍は天にあります。これは大事なことです。私たちの主イエス・キリストは、どこにおられるか。天におられます。天におられる父なる神の右に座しておられます。私たちはそのキリストに属する者ですから、私たちの国籍は天にあるのです。このことは、いつも肝に銘じておきましょう。そのことを真剣に受け止めて、地上の土地を買わず自分の家も建てずに過ごしたキリスト者たちがいます。自分の土地を買い自分の家を建てたとしても、そこが自分の最後の住み処(か)であるとは考えないのが、キリスト者なのです。
  そうであるなら、キリスト者として歩み始めることは、アブラハムのように、地上における自分の故郷を捨てることになると思います。カトリックの神父やシスターたちは、いつどこへでも、すぐに移動できるように、私有財産を持っておりません。<霊的な意味において、キリスト者は地上の故郷を捨てている者である>という心構えが大事なのです。また<精神的には、地上の国籍をも超えていなければならい>と思います。地上に故郷を求めず、地上では旅人また寄留者である歩みを貫いて、天の故郷にあこがれている者である、という証しの立つ歩みをさせていただきましょう。
  「彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています」(14節)。この「自分の故郷」とは、地上の故郷ではありません。そのことは、続く15-16節を読めば明らかです。「もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」 その見えない都(天の故郷)を見えるもののようにあこがれて歩んだ信仰者の模範こそ、アブラハムであったのです。
  17節を見ると、「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。」 この試みは筆舌に尽くしがたいものがあります。それは非情な上に不条理な試みです。神の約束の子であるイサクをささげたなら、神の約束はどうなるのか。神が御自ら約束を反古(ほご)にしてしまわれるのか。そういう恐れのある不条理な命令です。さらにアブラハムにとっては、約束の相続者である「ただひとりの子」を差し出せという非情も極まる命令でした。そのことを思うと、この非情な上に不条理な命令を受けて、アブラハムが神を捨ててしまったとしても、おかしくないくらいです。
  それにもかかわらず、彼はイサクをささげるため、指定の地へと出かけました。そのとき神はいけにえの羊を用意しておられたのですが(創世22章参照)、なぜ彼は、そのように「自分のただひとりの子をささげる」ことができたのでしょうか。その理由が18-19節に書いてあります。「神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。」 これは旧約聖書には書いてないことであり、ヘブル書の著者の聖霊に導かれた解説であります。
  アブラハムが悩み抜いたすえ、イサクをささげる決心がついたのは、たとえイサクが殺されても、神はイサクを死者の中からよみがえらせることがおできになる、と考えた(信じた)からです。そして実際、彼は死者[も同然の状態]の中からイサク取り戻すことができました。ヘブル書には、この19節以外に復活という言葉は出てきません。しかし、この事例からだけでも、ヘブル書には復活の信仰が息づいていることがよく分かります。復活の信仰のゆえに、アブラハムはイサクをささげることができたのです。 
  このことに関して、イエス様が「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」(ヨハネ8:56)と言われた言葉が、非常に重要になります。このイエス様の御言葉と、ヘブル書11章19節とが、まさに呼応し共鳴しているのです。アブラハムは復活の信仰によって、イエス様の復活の日を見ていたことになります。19節の終わりに「これは型です」とありますが、それは<キリストの死者の中から復活の予型である>という意味にほかなりません。
  最後に言っておきたい大事なことがあります。私たちは地上において旅人また寄留者として歩みます。私たちが真に求めているものは天の御国であり、その天の故郷に私たちはあこがれているからです。しかし、そのような歩み方にはまり込んでしまうと、地上のことはどうでもいい、ということになってしまうのではないか。そのような心配があります。キリスト者は、天の故郷のことばかり考えて、地上の煩(わずら)わしい問題から逃げているのではないか。そのように言われるようになる心配があるのです。
  ですから、そうではない、アブラハムは天の故郷にあこがれる歩み方をしたが、地上においても責任のある生活を全うしたのだ、ということも強調しなければなりません。愛する妻サラが死んだとき、彼はサラのための墓地を造りました。そのために彼は、マクペラという地にある小さい土地を手に入れたのです(創世23章)。
  そのように、天の故郷にあこがれるキリスト者は、地上の生活を顧みない[旅の恥はかき捨てのような生活をする]のではありません。地上のことへの執着から解放されている分だけ、それだけ自由になって、公平な見方をすることが許されて、地上の問題に責任をもって取り組むことができるのです。
  もう一つ大事なことを言い添えて終わります。いつも、天におられる大祭司キリストのことを深く思い、朝ごとの黙想と観想のうちに、そのキリストをしっかり見詰めていく生活を喜びとすることが、天の故郷にあこがれるキリスト者の生きた証しとなるのです。 (村瀬俊夫 2005.11.13)

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