昨年(2003年)末で蓮沼キリスト教会の現職牧師を引退しましたが、このように引退後も月に一回、蓮沼キリスト教会の講壇で説教する機会を与えてくださり、心から感謝しています。
この機会に何か有意義な連続説教を始めたいと、昨年のかなり早い時期から考えて準備し、ヘブル人への手紙(ヘブル書)を取り上げたいと願ってきました。この連続説教は、昨年からずっと心に温めてきたものであります。
この機会に何か有意義な連続説教を始めたいと、昨年のかなり早い時期から考えて準備し、ヘブル人への手紙(ヘブル書)を取り上げたいと願ってきました。この連続説教は、昨年からずっと心に温めてきたものであります。
ヘブル書は、新約聖書の中では存在感が割合薄いものだと思います。一番親しまれているのは四つの福音書であり、次いでパウロのローマ書、二つのコリント書、ガラテヤ書、エペソ書、ピリピ書などがよく説教に取り上げられます。
これまで私が連続説教をしたヨハネの黙示録は、説教される機会は少なくても、新約聖書の最後にある難解で特殊な書として知られています。
しかし、ヘブル書については、「そんな書が新約聖書の中にあるんですか」と言われかねません。ヘブル書は13章もある立派な文書でありますが、何となく影の薄い文書なんですね
これまで私が連続説教をしたヨハネの黙示録は、説教される機会は少なくても、新約聖書の最後にある難解で特殊な書として知られています。
しかし、ヘブル書については、「そんな書が新約聖書の中にあるんですか」と言われかねません。ヘブル書は13章もある立派な文書でありますが、何となく影の薄い文書なんですね
ヘブル書は内容的にもすばらしい文書なのです。
手紙と言われていますが、書き出しは全く手紙らしくありません。まるで論文か説教のような内容です。末尾だけが手紙らしくなっています。それで手紙と呼ばれていますが、本当に手紙であったのか疑問視されている文書でもあります。
手紙と言われていますが、書き出しは全く手紙らしくありません。まるで論文か説教のような内容です。末尾だけが手紙らしくなっています。それで手紙と呼ばれていますが、本当に手紙であったのか疑問視されている文書でもあります。
では、どういう意味で内容がすばらしいのか。何と言っても、神学的に内容が実に深いのです。そのために難解な文書だと言われるのかもしれません。それであまり取り上げられることがなかったのでしょう。このような文書の連続説教をするとなると、その神学的内容の深みを十分に把握していなければなりません。そのためか、ヘブル書の連続説教が行われた例はあまりありません。
私は引退するくらいの歳になるほど長く聖書に親しんで来ましたので、この神学的深みがあって難解と思われる文書も、私なりにかなり咀嚼できるようになったのではないか、といういささかの自信を持たされております。それでヘブル書の連続説教をぜひ実行したいという思いを強くされ、それをこのように実現させていただきました。
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この文書は、書き出しに発信者の名も受信者の名も見当たりません。著者が不明なのです。だれが著者であるかについて、いろいろな論議がありました。しかし、伝統的には永いことパウロの手紙の中に組み込まれ、パウロの手紙群の一書のように扱われて来ました。
しかし、パウロの著作でないことは、早い時期から分かっていたようです。その内容からも、また文体からも、パウロの手紙でないことがはっきりしています。
しかし、パウロの著作でないことは、早い時期から分かっていたようです。その内容からも、また文体からも、パウロの手紙でないことがはっきりしています。
では、だれがこれを書いたのか。いろいろな著者の名が挙げられましたが、決め手となるものはありません。2世紀の偉大な教父また神学者であるオリゲネスの言った有名な言葉があります。「ヘブル書の著者は神のみぞ知たもう」と。そのようにヘブル書は著者不明の文書なのです。
著者は不明ですが、この文書の著者はすばらしい神学者であります。新約聖書の著者たちの中で神学的に深いものを持っているのは、まずパウロであり、次にはヨハネの福音書の著者であると思います。この著者がイエスの弟子のヨハネかどうかは分かりませんが、彼は間違いなく優れた神学者です。そして、パウロやヨハネの福音書の著者と比べても劣らない神学者が、このヘブル書の著者である、と言ってもよいでしょう。新約聖書の中の三大神学者の一人に、ヘブル書の著者を数えることができると思います。
ヘブル書の中で、イエス・キリストは新しい契約の仲介者である、と明確に位置づけられています。その意味でヘブル書は大事な文書です。さらに著者の神学的なひらめきは、イエス・キリストを大祭司として捉え、それを旧約の創世記に出てくる伝説上の人物と見られるメルキゼデクの位に等しい大祭司と位置づけていることに見られます。キリストを大祭司に見立てることを、あまりパウロはしおりません。この点でパウロとの違いが見られます。メルキゼデクには系図がなく、それで父もなく子もありません。そのことからヘブル書の著者は、メルキゼデクの位に等しい祭司であるキリストは「永遠の大祭司」である、という主張を展開するのです。
ヘブル書の著者は、この書の中で大祭司キリスト論を堂々と展開しています。イエス・キリストは私たちの大祭司です。ですから私たちは、キリストの名によって祈りをささげるのです。イエスさまは、そんな仰々しいおっしゃり方はなさらず、ただ「わたしの名によって祈りなさい」とだけ言われました。それは「わたしがあなたの祈りを仲介してあげていますよ」と言われたのも同然です。そのような仲介役を務めるのは、まさに祭司であります。イエス・キリストは「永遠の大祭司」です。ですから私たちは、いつでもイエス・キリストによって神に近づくことができます。そうしたことをはっきり教えてくれているのが、このヘブル書なのです。
この書の終わりの方の12章で、信仰生活の勧めの言葉を告げる中で、イエス・キリストは「信仰の創始者であり、完成者である」と言っています。キリストは私たちの信仰を創り出してくださったお方です。だから、信仰は自分が作りだすものではありません。キリストが私の中に信仰を植えつけ、それを育んでくださいます。そしてキリストは、その信仰を完成させてくださるお方でもあるのです。そのことを私たちにはっきり示してくれている点も、著者の神学的力量を表している一面であると思います。
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さて、今回は書き出しの最初の三節だけを取り上げます。それは「神は……語られました」という文章で始まります。その間の部分に説明の言葉が挿入されているのです。神は「むかし先祖たちに、多くの預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました」というように。ここで「むかし」とあるのは、旧約時代のことを指しているのです。
この文章は2節に続きますが、そこで「むかし」と対比して「この終わりの時には」と言われています。「この終わりの時」とは、新約時代のことを指しているのです。イエス・キリストが新約時代を切り開いてくださいました。新約は「新しい契約」を縮めた言葉です。先に述べたように、キリストは新しい契約の仲介者であられます。その新約の時代が、ここで「終わりの時」と呼ばれているのです。
「この終わりの時には、〔神は〕御子によって、私たちに語られました」。この御子とは、もちろんイエス・キリストのことです。この終わりの時(新約の時代)には、新しい契約の仲介者である御子イエス・キリストによって、神が私たちに語っておられます。そのように、この書き出しの文章で教えられているのです。
この書き出しの文章はすばらしいですね。私が聖書の中で最も愛好する文章の一つです。これは旧新約聖書を要約しています。1節は旧約聖書のことを言っています。「神は、むかし、預言者たちを通して、多くの部分に分け、いろいろな方法で語られました」と。
その証拠が旧約聖書であります。「この終わりの時には、御子によって語られました」とある2節前半は、新約時代のことを言っており、その証拠が新約聖書であります。このように1節と2節前半は、まさに旧新約聖書のことを述べているのです。
そして、旧約と新約との関係も、はっきり述べられています。同じ神が語っておられるという面で、旧約と新約は連続しています。昔は、預言者たちを通して、特に預言と約束という形で、神は語られました。それで旧約聖書は預言と約束の書とみなされます。その預言と約束が成就しているのが新約の時代であり、それが「終わりの時」と呼ばれているのです。「終わりの時には、こういうことがあります」という預言者の言葉が、旧約聖書には何回も出てまいります。特にイザヤ、エレミヤという旧約の代表的預言者の書に、そのような言葉が繰り返し見られます。
そしてエレミヤ書31章31節以下には、「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」と、新しい契約のことが預言されています。その新しい契約がイエス・キリストによって成就し、ついに立てられたのです。イエス・キリストは新しい契約の仲介者となられました。そのことを明言しているのがヘブル書であることは、先に述べたとおりです。旧約の預言と約束が御子イエス・キリストによって成就していること、まさに、それ自体が福音ではありませんか。救いの約束が成就した! それこそが福音なのです。
1節から2節に続く文章は、「御子によって、私たちに語られました」という過去形の言葉で結ばれています。過去形で言われるので、過ぎ去ってしまったことだと考えてはいけません。「この終わりの時」は、今もずっと続いています。今も神は、御子によってお語りになっているのです。この御子は、十字架において死に、葬られ、そして死からよみがえらされたキリストです。ヘブル書には、復活という言葉がそのままでは出てきません。それでパウロの著作とは考えられないわけです。しかし、ヘブル書も復活のことを述べています。「すぐれて高い所で大能者の右の座に着かれました」という宣言は、明らかに復活のキリストが前提となっているのです。十字架につけられて死んで墓に葬られ、三日目によみがえらされた復活の主が,大能者の右の座に着いておられます。その主キリストが、今も私たちに語ってくださっているのです。
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ここで決定的に重要なことは、〈神が御子によって語られた、そして今も語られている〉という事実です。聖書の神は、語られるお方なのです。それを忘れている、あるいは、まるで知らないでいるかのようなキリスト者が少なくありません。神様にお願いすることはしても、神様の語りかけには耳を傾けることをしないとしたら、キリスト者として落第ではないでしょうか。本当のキリスト者は、〈私にとつて神は、いつも私に語りかけてくださるお方である〉ことをよく知っています。ですから、その神の語りかけを、私はいつも聴かなければならないのです。
神が人間を創られたのは、神が特に語りかける対象としてであったと思います。それで人間も、神の語りかけに応えて神に語りかけることができるのです。それこそ人間が「神のかたちに」に創造されたこと(創世記1:27)の意味であると思います。このことを現代的に表現すれば、〈神は人格的関係を持つものとして人間を創られた〉ということになるでしょうか。
神と人間との正常な関係は、神の語りかけを人間が聴いて、それに人間が応えていくことにあります。この関係が破れて神の語りかけを聞くことができなくなっている状態が、人間の罪にほかなりません。それは「神様、もう私に何も語らないでください。私は自分の思う通りにやりたいのです」という思いに現れています。そういう罪の状態から私たち人間を救い出し、旧約聖書の預言と約束を成就するために、御子が遣わされました。御子は「罪のきよめを成し遂げて」くださいました。このことの背後に、十字架と復活の出来事があるのです。
キリストが十字架においてご自身のいのちをささげ、死からよみがえらされることによって、私たち人間は罪を赦され、復活のいのちを与えられて神との関係を正しくされます。このイエス・キリストを介しての契約が「新しい契約」と呼ばれるのです。エレミヤが預言した新しい契約が、ヘブル書8章にそのまま引用されています。この新しい契約には二つの特色があります。第一に、神のことばが私たちの心に記されます。第二に、神が私たちの罪を赦して思い出すことをなさいません。それほど徹底した罪の赦しが与えられるのです。
復活の主は、私たちに語られるだけでなく、聖霊によって私たちのところに来て、私たちと共にいてくださいます。十字架と復活の主が共におられることによって、キリストによって語られた神のことばは私たちの心に確かに記され、私たちの罪のきよめは完全に成し遂げられているのです。私の罪は無条件に赦され、私は復活のいのちを豊かに与えられているのです。
神が今も御子によって語られる内容は、いつも福音であります。言い換えれば、神の愛です。〈神様の愛が私を支配してくださっている、私は神様に愛されている〉という福音です。神はキリストによって私たちを愛してくださっています。だから、キリストが私たちと共におられるのです。神はキリストによって私たちに語りかけてくださる。そのキリストが私たちと共にいてくださる。これは、なんとすばらしことでしょう。
イエス・キリストは、まことの人でもいらっしゃいます。ヘブル書の中には、キリストがまことの人であった、という事実もよく教えられています。しかし、この3節には「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである」と記されています。イエス・キリストは、まさに神ご自身でいらっしゃるのです。そのように御子は〈まことの神〉でいらっしゃいます。また同時に御子は〈まことの人〉でもいらっしゃいます。〈まことの神〉であり〈まことの人〉でもあるイエス・キリストをこれほどはっきり述べている文書は、新約聖書の中でヘブル書のほかにはない、と言ってもよいでしょう。
まことの神でいらっしゃるからこそ、御子は、私たちのために「罪のきよめ」のわざを成し遂げてくださることができました。また、まことの人であればこそ、私たちの身代わりになることができたのだと思います。「神の本質の完全な現れ」であり、また私たちと同じ〈まことの人〉でもあるイエス・キリストであるからこそ、私たち人間のために「罪のきよめ」のわざを完全に成し遂げてくださったのです。そのことを私たちは、ヘブル書からさらに詳しく学んでいくことができるでしょう。
復活の主・御子キリストによって、神が今も私たちに語っていてくださいます。それは特に新約聖書を通してであります。その意味で、私たちは新約聖書に親しむことが大事です。特に新約聖書を通して、神が御子によって私たちに語っておられます。その内容は、「罪のきよめを成し遂げて」くださったお方によって神が語ってくださるのですから、いつも、私たちの罪の完全な赦しの福音です。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と、慈愛のまなざしを私たちに向けて、御子が親しく語りかけてくださいます。この福音の語りかけを、私たちは毎日、朝ごとに、しっかり聴いてまいりましょう。(2004.1.11:村瀬俊夫)
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