2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 10》 叫 び 涙 す る キ リ ス ト ヘブル5:1~10

 5章を読んでいただきましたが、ヘブル書の大事なテーマである大祭司キリスト論がこの5章から10章18節まで具体的に展開してまいります。
その始まりの個所になりますが、その導入部が前回の4章14-16節でした。4章14節から大祭司キリスト論が展開していると見る人もおります。それでよいのではないかとも思います。
 5章から大祭司キリスト論が始まると見るとき、初めに旧約聖書を手がかりに祭司の務めが語られます。まず「大祭司はみな、人々の中から選ばれ」るので、大祭司は人間でなければなりません。イエス・キリストが大祭司であるとき、神だけではだめなのです。ですから、キリストが〈まことの人〉であることを、ヘブル書は非常に強調しています。そのことをヘブル書が新約聖書の中で一番強調していると思います。大祭司は人々の中から選ばれるのであって、大祭司は人間でなければならないからです。
 そして大祭司は「神に仕える事柄について人々に代わる者として」任命を受けます。人々の中から人々を代表する者として神に仕えるのが大祭司の務めであり、そのような務めに彼は神に任命されるのです。しかし、人間たる者は罪人であることを免れません。それで彼は他の人々を代表して神に仕える者として、だれよりも自分自身をきよめなければなりません。すなわち、自分自身のためにも、罪のためのささげ物をしなければならないのです(3節)。
 しかし、キリストが大祭司であるときには、ご自分のために罪のささげ物をする必要はありませんでした。キリストは罪を犯したことのない唯一の人でいらっしゃいました。そのようキリストが〈まことの人〉であったのは、〈まことの神〉でもあられたから可能であったのだと思います。それで罪のためのささげ物をする必要はなかったのですが、神から任命を受けるという点では、他の大祭司たちと同じくキリストも神によって立てられました。そのことについて、これから説明されるのです。
 2節に「彼[大祭司]は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです」とあります。大祭司は「無知な迷っている人々」の代表として彼らのためにとりなすとき、彼らの弱さを思いやることができなければ十分なとりなしができません。このように書いてあると、旧約時代の大祭司はみなそういう人だったのかと思いますが、これはヘブル書の著者がそう言っているだけでありまして、現実の旧約時代の大祭司がどうであったかは、別の問題であります。
  イエスの時代の大祭司たちは、肉欲にまみれた人たちが多かったのです。ですから、弱い人々を思いやることのできる大祭司など本当はいなかった、と言ってもよいのではないでしょうか。ヘブル書の著者は、そのこととは別に、あるべき大祭司の姿を旧約聖書のレベルで述べているだけでしょう。大祭司は弱さを身にまとう人々を思いやることができる必要があり、そのためには「自分自身も弱さを身にまとっている」ことをよく知らなければならないのです。
 さて、「思いやる」という言葉ですが、これは4章15節に出てきた「同情する」という言葉とは、ギリシア語の原語が違っています。5章2節の「思いやる」の原語はメテリオパセオーです。パセオーは、熱情や苦しみの感情を表す動詞であります。それにメテリオスという接頭語がついているのです。これは中庸の徳を示す言葉で、ギリシア人が大好きでした。ギリシア人が一番重んじたのは、偏らないことでした。ですから、メテリオパセオーは「適度に思いやる」という訳が一番ぴったりだと思います。それなのに「思いやる」としているのは、「適度に」という副詞をつけると聖書らしくなくなると考えたからではないでしょうか。
 4章15節の「同情する」の原語はシュンパセオーで、パセオーに「共に」を意味する前置詞シュンが接頭語としてついています。熱情や苦しみの感情を共にすることで、まさに「同情する」という意味です。キリストは、私たちを「適度に思いやる」のではなく、私たちと共に苦しみ、共に喜んで、私たちと共に感情を分かち合ってくださいます。その意味で、本当に私たちに同情してくださる方なのです。しかし、旧約時代の大祭司については、著者が手加減して「適度に思いやる」と言ったのではないでしょうか。
 このことで考えますのに、私なんか、適度に思いやっていることが多いのではないか、と恥ずかしく思います。いろいろな災害で悲惨な目に会った人々のことを知ると、ああ可哀相だなあ!と思います。でも、その感情は同情まで行かず、適度に思いやっているのです。そのために私が自分の身を投じて何かするところまでは、なかなか行きません。しかし、イエス様はそうではない。適度に思いやるのではなく、本当に私たちと同じ思いになって、私たちが苦しんでいる時に、イエス様も共に苦しんでくださるのです。
 イエス様は大祭司ですが、旧約の大祭司と同じではありません。神に選ばれ大祭司に立てられる点では同じですが、自分の罪のために罪のささげ物をする必要はイエス様には全くありませんでした。けれどもイエス様は〈まことの人〉として、すでに2章で学んだように、私たちのために死の苦しみを極みまで味わい尽くしてくださいました。そのようなイエス様ですから、私たちを思いやるとき、適度に距離を置いてではなく、ご自身をささげるまでに思いを向けてくださるのです。私たちと同じ苦しみを、キリストはとことん苦しんでくださいます。それほど主キリストの私たちに対する同情は深いのです。
 そういうことを踏まえて、特に7節に注目していただきます。まことに注目すべきことが書いてあります。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いとをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」 「人としてこの世におられたとき」と、スムーズに訳してありますが、かなりの意訳であります。ギリシア語の原文を直訳すると、「彼の肉の日々において」となります。彼はキリストを指しますから、週報の《今週の聖句》には「ご自身の肉の日々において」という私訳を載せておきました。
 この7節は、よくゲツセマネの体験だと言われます。もちろん、それが含まれています。そのことは否定できませんが、これをゲツセマネの体験だけに限定してはなりません。7節では、イエス様の「肉の日々において」のこと、イエス様が〈まことの人〉として地上を歩まれた全生涯を通じてのことが言われているのです。「自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いとをささげ」ていかれたのが、キリストの地上の全生涯でありました。そのようにヘブル書の著者は、地上のキリストのご生涯を見ているのです。
 ですから、ヘブル書の著者によると、《地上におけるキリストの全生涯は、ゲツセマネの祈りに等しいような戦いの日々であった》ということになるのではないでしょうか。そこまで地上のイエス様を描いて見ているのも、著者の神学的洞察の深さを示しているものだと思います。私たちも(皆様も、そして私も)そのように地上のイエス様のお姿を見てゆくことができたら、どんなにすばらしいことでしょう。要は《キリストの地上の全生涯がゲツセマネの祈りそのものであった》ということであります。
 その地上のキリストの大きな叫び声と涙との祈りが聞き入れられて、8節以下の解説へと続いてまいります。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」と。最後の「大祭司ととなえられた」は、「大祭司に指名された」とも訳されるので、「大祭司に任命された」と言い換えてもよいと思います。
 要は、キリストの大きな叫びと涙とをもった祈りと願いが「聞き入れられた」ということですね。これもゲツセマネの祈りに限定しますと、それも「この[苦き]杯をわたしから取りのけてください」という前半の祈りだけにとらわれますと、その祈りは聞き入れられなかったではないか、と批判する人々が起こります。19世紀の著名な自由主義神学者ハルナックは、ここは「聞き入れられませんでした」と読むべきだと主張しました。でも、それはおかしいですね。キリストの祈りは、8節以下に述べられているように、「その敬虔(神にお従いする態度)のゆえに聞き入れられた」のです。
  「キリストは御子であられるのに、お受けになった苦しみによって従順を学び、完全な者にされた」ということは、具体的にどういうことなのでしょうか。「完全な者にされた」前のキリストが不完全であった、という意味ではありません。神のご計画が全うされたという視点で、この表現を理解するのがよいと思います。キリストが十字架の死を経験し、死者の中からよみがえらされることによって、キリストは「彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者」となられ、神の救いのご計画が全うされるのです。そのことと照らし合わせて、キリストは「完全な者とされた」と言われているのだと思います。
  さらに著者は、独自の見解として10節を加えています。「神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」と。ここにメルキゼデクという人名が登場します。ヘブル書の主要なテーマは大祭司キリスト論であると前に申しましたが、その要(かなめ)になるのが「メルキゼデクの位に等しい大祭司」ということです。メルキゼデクが旧約聖書に物語として登場するのは創世記14章ですが、他にも1回、詩篇110:4に「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である」という表現で出てまいります。この表現を手がかりにヘブル書の著者は、メルキゼデクの位に等しい大祭司キリスト論を展開したものと思われます。その詩篇110:4が5節に引用されているのが、その何よりの証拠となるでしょう。
 5節の前の4節には、キリストが大祭司となる栄誉を得られたのは、父なる神から任命されたからであるとして、詩篇2:7の「あなたは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」という宣言が引用されています。これは王の即位で歌われた詩篇であり、即位する王が神から「きょう、わたしはあなたを[王として]生んだ」と言われているのでしょう。それをヘブル書の著者は、キリストが大祭司職に任じられたことに適用しているのです。
  これに関してパウロは、使徒の働き13章に記されているピシデヤのアンテオケの会堂でした説教の中で、神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったことに適用して、この詩篇2:7を引用しています(33節)。パウロによれば、神は十字架につけられたイエスを死者の中から復活させてくださることによって、詩篇2:7を成就してくださいました。そして復活のキリストは、ここでヘブル書の著者が言うように、《「とこしえの救いを与える者」となり、「メルキゼデクの位に等しい大祭司」として任命された》ということになるのです。
 ですから、簡単に言えば、復活の主イエス・キリストが、「メルキゼデクの位に等しい大祭司」になられたのです。神はキリストを死者の中からよみがえらせて、「メルキゼデクの位に等しい大祭司」に任命してくださいました。これはヘブル書しか教えていない教理でありますが、私はとても大事な教理であると考えております。
 メルキゼデクについては、7章で詳しく述べられますので、その個所の説教で詳しく話すのがよいと思います。でも、ここで少しばかり話しておきたいことがあります。それは《なぜメルキゼデクが登場したのか》ということです。旧約聖書の2ヶ所にしか出てこない影の薄い人物が、なぜ、ここに突如として現れるのでしょうか。
 キリストはダビデの子(子孫)として来られた王なるキリストである、という明確なイメージがありました。しかし、ヘブル書の著者は、その王なるキリストは祭司でもある、と宣言したのです。しかし、旧約の世界では、ダビデの子孫は決して祭司であってはなりません。王が祭司でもあろうとして失脚したのが、最初のイスラエルの王となったサウルでした。王が同時に祭司となることは許されず、祭司はアロンの家系に限られていました。ですから、ダビデの子として立てられた王なるキリストが、同時に祭司として神に任命されるためには、アロン直系の祭司ではいけないのです。そこでヘブル書の著者は、アロンの家系とは全く関係のないメルキゼデクを登場させたのです。
  それも系図もない、その生涯の初めも終わりもない、まさに永遠の祭司としてメルキゼデクを捉え、復活のキリストは「メルキゼデクの位に等しい」永遠の祭司として任命されたのである、と大胆に主張しています。こうしてヘブル書の著者は、《キリストは王であり、祭司である》ということの教理的裏付けを神学的に提示しているのです。これはキリスト教の教理史において、まさに画期的なことであり、そのことを可能にしたヘブル書の著者の神学的洞察に改めて敬意を表さなければなりません。
 今回の説教題は「叫び涙するキリスト」ですから、そのことにもう一度触れて終わります。キリストは地上のご生涯で、私たちの弱さと罪を深く思いやり、その私たちのために大きな叫びと祈りをもってとりなしをしてくださいました。そのようなお方が、私たちの大祭司でいらっしゃるのです。
 ところで、私たちも祭司として《叫び涙するキリスト者でありたい》と願うかもしれません。しかし、このことで現実に私たちがキリストと同じになる必要はありません。キリストが私たちに代わってくださっているのです。ですから、私たちはそのキリストにゆだねて、ただついて行けばよいのです。その中で、私たちも叫び涙することがありましょう。でも、私たちがキリストと同じことをする必要はないのです。
 イエス様は、叫び涙することで、「わたしが大きな叫び声を出したように、あなたも大きな叫び声を出しなさい。私が涙したように、あなたも涙しなさい」とは言われません。「もう、わたしがあなたの代りに叫んであげたのだ、涙してあげたのだ」とおっしゃってくださるイエス様です。この大祭司であるキリストに、私たちはひたすらおすがりして、ただついて行けばよいのです。 (村瀬俊夫 2004.10.10)

0 件のコメント:

コメントを投稿