本日はキリスト教の暦では受難週に入る日曜日、棕櫚の日曜日(パーム・サンデー)と呼ばれている日です。それに合うような聖書箇所を選んで説教するのがよいのでしょうが、私はヘブル書の連続説教をいたします。
この箇所は、ある意味では、ヘブル書のまとめのような所でもあるのです。よくよくこの文書の構造を見てまいりますと、そういうことが分かります。10章19節から「こういうわけですから、兄弟たち」と呼びかけて、すばらしい奨励が始まりました。「こういうわけですから」とあるのは、それまでに大事なことが論じられてきたのを受けています。この文書の主題である《大祭司キリスト論》が見事に論じ上げられたことを受けて、「……こうしようではありませんか」という奨励に進んでいくわけです。
特に10章19-25節には、まさに奨励のエッセンスが示されています。しかし、奨励はそれで終わるのではなく、ずっと続いてまいりまして12章にまで至るわけなのです。すると12章18節以下は、10章19節から始まる奨励のまさに結びに当たるような箇所であります。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」(10:22)と勧められているように、私たちは神に近づくことができるのです。これこそ、まさに喜ばしいおとずれであります。
この「神に近づこうではありませんか」という言葉が、12章18節から24節までに、新改訳では3回出てきます。19節に「ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません」と、否定の形で出てまいります。次に出てくるのは、22節で「無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。」 この「近づいているのです」は、ギリシア語原文では24節までかかっています。新改訳は22節で文章を切っているため、24節にも「近づいています」を補足しているのです。ギリシア語原文では「近づいている」という言葉は22節にあるだけです。それからギリシア語原文では、新改訳19節の「近づいているのではありません」は、18節の初めに出てきます。日本文では動詞が後になるため、こんなことが起こるのです。それでギリシア語原文では、「近づいている」という言葉が出てくるのは18節と22節の2回だけということになります。
この「近づこうではないか」というのは、神に近づくことですから、神を礼拝することを意味します。神様を礼拝するために近づいていくのです。そういう視点でここに書かれている場面を見ますと、一つは旧約聖書におけるシナイ山での律法の授与にかかわる礼拝の場面(出エジプト19章)であり、もう一つは私たち福音の恵みにあずかっている者たちの礼拝であります。簡単に言えば、旧約の礼拝と新約の礼拝とで、この両者が対比されているのです。
シナイ山で神がイスラエルの民を代表するモーセに律法を授けている旧約の礼拝の場面は、非常に厳粛であるというよりも、むしろ恐ろしいような情景です。手でさわれる山ですが、その山を登っていくと、「燃える火[火山だったのでしょうか]、黒雲、暗闇、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろき[これは神様のことばなのでしょうか]」に見舞われます。本当に恐ろしいですね。でも、「あなたがたは(もちろん私たちも)、そのように近づくのではありません」言われています。しかし旧約のモーセは、そのような恐ろしい情景の中で神に近づかざるをえ得なかった。「このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです」とありますが、そんなとどろきのような説教を礼拝で聞かされたら、皆さんは二度と礼拝に出たくなくなるでしょう。
20節に「彼らは、『たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない』というその命令に耐えることができなかった」とあるように、本当に重苦しい雰囲気でした。「その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、『私は恐れて、震える』と言いました」(21節)。これは出エジプト記19章に書いてはなく、モーセがそう言ったのは申命記の他の場面においてなのです。しかし、この場面でも、モーセは「私は恐れて、震える」という心境であったに違いありません。それが旧約の礼拝の姿なのです。
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しかし、私たちはそんなふうに近づいていくのではありません。それが22節以下に書いてあります。「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです」(22節)。ここに「シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム」と三つの言葉が並んでいますが、この三つは同じことを言っていると理解してよいと思います。シオンの山にエルサレム神殿がありました。その神殿は前六世紀に破壊され、エルサレムの都も陥落しました。まさに廃墟と化したのです。そういう地上のシオンの山が、ここで言われているのではありません。天にあるシオンの山、天にあるエルサレム、それこそが生ける神の都なのです。
そこに神が臨在すると旧約の民が信じていたエルサレム神殿まで焼かれてしまう。まさに彼らの精神的支柱を打ち倒されたような出来事だったのです。それでもイスラエル民族はくじけることなく生き残ってきました。どうしてか。彼らが地上にあるものを超えたもの見たからだと思います。本当に目指すべきものは、《地上のエルサレム神殿ではなく、天にあるエルサレム神殿である》と語ってくれていた人が、旧約の時代にもいたのです。私たちには、そのことがもっとよく分かります。私たちが近づいていく礼拝の場は、この地上にあるものを超えている、まさに天にあるエルサレム・シオンの山、そこにある霊的な神殿あり、そこでは「無数の御使いたちの大祝会」が開かれているのです。
この御使いたちについては、著者が1章14節で述べていることを心に留めなければなりません。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々(私たちキリスト者)に仕えるため遣わされているのではありませんか。」 普通は、御使い(天使)のほうが私たちより上位にあると考えます。ヘブル書の著者は、それを逆転させて、御使いたちを私たちキリスト者に仕える者と位置づけています。その「御使いたちの大祝会」が開かれている場所に私たちは近づいて、神を礼拝しているのです。
23節には、「天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊」とあります。「天に登録されている長子たちの教会」という言葉に注目しましょう。天には私たちの名を記した文書があります。伝道に遣わされて成果を挙げ、それを自慢げに報告する弟子たちに、イエス様は「[そんなことを]喜んではなりません。あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われました(ルカ10:20)。私たちの名は天に登録されているのです。
「長子たち」は、私たちに関係する言葉であります。この「長子」は神の財産を相続する者を意味します。前回の箇所の12章16-17節に、イサクの長子エサウが長子の権利を弟のヤコブに売ってしまったため、父の財産を相続する権利を失ってしまった故事が紹介され、「エサウのようになってはいけませんよ」と警告されています。そのことを考えると、この「長子」は《神の霊的な祝福を受ける資格を有する者》を指していることが分かります。すべてのキリスト者は[実際に長子であると否とにかかわらず]、霊的には「長子」であるのです。要するに、キリスト者はみんな、霊的には長男であり、長女であります。そして、神の霊的な祝福をしっかりと受け継ぎ、相続していくことができるのです。
そういう者たちの教会、それが天にある教会であり、その教会に私たちは近づいているのです。蓮沼キリスト教会も、《毎主日の礼拝において、そういう教会の姿を現させていただいているのだ》ということを、しっかり覚えさせていただきましょう。そうすると、次に出てくる「審判者である神」の「審判者」も、怖(こわ)い意味にとらないで、むしろ善い意味にとることができるでしょう。裁判官は、いつも悪いことを言うのではありません。善いこともたくさん言ってくれます。私たちにとっては、《いつも福音してくださる審判者である神》と理解することができます。この神の福音によって、私たちは「全うされた義人」とされているのです。
「さらに」と言って24節に続きますが、「新しい契約の仲介者イエス」がおられます。これが大事な決め手となるのです。私たちが近づく礼拝の場には、《新しい契約の仲介者・大祭司であるキリスト》がおいでになります。そのキリストの血が私たちに注ぎかけられています。それは「アベルの血よりもすぐれたことを語る」血である。アベルのことは11章の初めのほうで学びましたが、兄カインに殺されたアベルの血が叫んでいるのは、復讐を求めるような叫びでしょうね。しかし、キリストが流された血は、私たちの罪を無条件に、また限りなく赦してくださる血であります。その血の注ぎを受けているので、10章22節に言われているように、私たちは「全き信仰をもって真心から神に近づく」ことができるのです。
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25節に進みます。「語っておられる方を拒まないように注意しなさい」という勧告の「語っておられる方」とは、《新しい契約の仲介者・永遠の大祭司キリスト》だと思います。いつも福音し、福音を告げていてくださる方を拒まないように、この方にいつも福音していただくようにしなさい。何年か前に、私の監修と訳で『恵みに生きる訓練』が出版されました(2002年)。その中に「日々、自分自身に福音を告げよ」という章があります。福音は未信者に対してだけでなく、救われたキリスト者にも必要なものなのです。キリスト者も日々、自分自身に福音を告げていただいて、その福音に生かされていく。それこそがキリスト者の歩みであります。
旧約時代でも神の警告を拒んだなら厳しい裁きを受けたのですから、《ましてこの福音を拒むなら、その結果はもっと恐ろしいものになりますよ》と言われているのが25節後半ですが、これと同じ警告はすでに2章1-4節にも語られていました。ですから、いつもいつも新しい思いで福音を聴き、その恵みにあずかるようにして、福音に生かされる歩みをしてまいりましょう。
26節以下にまいります。「あのときは、その声が天を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。『わたしは、もう一度、地だけでなく、天も揺り動かす。』 この『もう一度』という言葉は、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか」(26-28節)。この終わりの28節前半の言葉から前のほうを見ていくとよろしいと思います。
神が私たちにイエス・キリストにあって与えてくださった御国は、もう決して揺り動かされることないものだ、ということをしっかり覚えたい。そのために神は、一度、地のみならず天も揺り動かしてくださったのです。いつ、そうしてくださったのか。これから先のことだ、という考えもあります。しかし、私たちは今、恵みの現実として揺り動かされない御国を受けているのです。だったら、すでに《地も天も、一度(ひとたび)揺り動かされたのだ。だから、もう揺り動かされないものがここにあるのだ》と教えられています。いつ地と天が揺り動かされたのか、私にはよく分かりませんが、《イエス様がよみがえられたとき、そして天に昇られたとき、そのことが起こった》と、私は信じております。昇天されたイエス様が、神の右に着座された時には、《揺り動かれない御国がそこに厳として存在していた》のではないでしょうか。
インドでアシュラム運動をキリスト教に取り入れ、それを日本にも伝えてくださったスタンレー・ジョーンズ博士の晩年の重要な著作に、『震われない御国と変わらない人格』(邦訳、1998年)があります。その中で彼は、《キリスト者は震われない(揺り動かされない)御国を受けていることをしっかり覚えていなければならない。しかし、世々の教会はそのことを軽んじてきた。使徒信条にもニケア信条にも神の国のことが書いてないのは残念だ》と言っておられるのです。
「神は、私たちを暗闇の支配(国)から救い出して、神の愛の御子のご支配(御国)に移してくださいました」(コロサイ1:13)。そのように神の愛の御国に移された者として、私たちは礼拝をささげています。そういう私たちは揺り動かされない御国を受けているのです。「私たちは揺り動かされることのない御国を受けている(まさに現在進行形である)のですから、感謝しようではありませんか。」どうか、このことを深く心に刻んで黙想し、その恵みの豊かさを味わってください。
「こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕することができるのです」(28節後半)。この「慎みと恐れ」は、週報に私訳を載せたように「敬虔と畏敬の念」とするほうがよいと思います。揺り動かされることのない御国を受けている恵みを深く味わうとき、感謝と喜びがあふれる中から、敬虔と畏敬の念が湧き上がってきて、神様に喜ばれるように奉仕をし、礼拝をすることができるようにされるのです。
最後に「私たちの神は焼き尽くす火です」(29節)とある一句は、旧約との関連で恐ろしいイメージを印象づけられるかもしれません。しかし、《罪を焼く尽くす火》であると考えるなら、ありがたいことに思えますね。神の火は私たちの罪を焼き尽くし、聖(きよ)めてくれるのです。それよりも、この火は神様の愛の火、《福音の愛の火》であると考えていただけたら、もっとよいと思います。
先週の月曜日から水曜日まで(4月3-5日)、教職アシュラムで上石神井の「黙想の家」で過ごしました。その「黙想の家」には瞑想の間があって、そこで深夜祈祷をささげることができるのですが、その床の間に立派な聖句の[横長の]額があります。「我は地上に火を投ぜんとて来れり、其(そ)が燃ゆるの他(ほか)何をか望まん」と書いてある字の配置が面白い。「われは地上に」と下に小さく書いて、行を改めて「火」が上に大きく書いてあります。「其が」は小さく下に、それから「燃ゆる」の「燃」が大きく上に書いてあります。
この「火」は、神の愛の火にほかなりません。福音の愛の火が燃えることのほか、神様は何も望んでおられません。まさに神は、福音の愛を完全燃焼させてくださる方です。そこで明言することができます。《焼き尽くす火とは、福音愛の完全燃焼である》と。とすれば、これは奨励のすばらしい結びの言葉であるのです。 (村瀬俊夫 2006.4.9)
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