2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 25》 信仰の創始者・完成者であるイエス

 この箇所はよく知られているところであり、特に2節の「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」という聖句は、多くの人の心に留められていると思います。新改訳は「イエスから目を離さないでいなさい」と訳していますが、この動詞は積極的な意味ですから、「イエスに目を注いでいなさい」あるいは「イエスに目を据えていなさい」「イエスを見つめていなさい」と訳すほうがよいでしょう。
  この箇所は、実は10章の後半から始まる勧めの延長線上にあります。その勧めのクライマックスとも言えるのですが、クライマックスはすでに10章19-25節にありました。ヘブル書の著者は、大祭司キリスト論を述べ終えた後、それに基づく勧めに入るなり、すぐクライマックスとも言うべき勧めを書いてしまいました。それに続く勧めは、その余韻をずっと引っ張っているような感じです。10章36節に「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」とあり、忍耐が非常に強調されています。その実例が11章に挙げられていて、今学んでいる12章の初めの部分が、忍耐の勧めの続きなのです。内容的には、10章の終わりから12章につながり、11章が間に挿入されていることになります。
 「こういうわけで」という書き出しは、11章に述べたことを受けています。「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから」と続きますが、「このように多くの証人たち」とは、11章に挙げられた旧約の信仰に生きた人々です。その人々が多くの証人として「雲のように私たちを取り巻き」、私たちを見守ってくれています。「ですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と、私たちも自分の前に置かれた競争を忍耐をもっては走り続けるように勧められているのです。
 ここで「忍耐をもって走り続けようではありませんか」という発破(はっぱ)をかけるような勧めが、気にかかる人がおられると思います。私もかなり気にかかっているのです。この世は、まさに競争社会であります。その中で生きている私たちは、疲れを覚えているのです。ですから、主の日には、教会に来て憩いたい、身も心も安らぎたいと思っています。それが教会の礼拝に出席して、説教で「競争を忍耐をもって走り続けよう」と発破をかけられたら、どうなるでしょうか。うんざりさせられて、「それでも福音なんですか」と心の底で問いかけたくなるでしょう。
 イエス様は、「疲れている人は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげます」(マタイ11:28)と言われています。それなのに「自分の前に置かれた競争を忍耐をもって走り続けなさい」と言われたら、《こんなに疲れているのに、また走り続けよといわれても無理ですよ》という気持になる、そんな人もおられるのではないかと心配するのです。
 信仰生活を競技における競争にたとえている事例が、聖書の中によく見られます。パウロがそうしている例が、コリント人への手紙第一の9章24-27節にあります。「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただ一人だ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」と、パウロも信仰生活を競技で走ることにたとえて、「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(24節)と勧めているのです。
 ヘブル書12章では、「走り続けよう」と言われているので、走る競技でも、短距離競争ではなく、マラソンのような競技を思い浮かべていただければよいでしょう。しかし、ここで「走り続けよう」と言い、パウロが「賞を受けるために」と言うのは、《金メダルを取らなければいけない》ということではありません。金メダルは一人しかもらえません。パウロも「賞を受けるのはただ一人だ」と言っています。それはこの世の競技のことですが、私たちの競争においては、優勝することよりも、落伍せずにゴールを目指して走り抜くことが重要なのです。たとい一時、調子を崩して脱落するようなことがあっても、競技を棄権することなく、歩いてでもゴールにたどり着くことが大切である、ということが教えられているのだと思います。
 マラソン競技を走り抜くためには、途中で何回も給水を受けなければなりません。途中で水を飲まずに42キロ余りを走り続けることはできません。マラソン競技にたとえられる私たちの信仰生活の競争においても、毎主日の礼拝に出席して十分に霊的な給水を受けるために、主の前に憩うことが必要なのです。「走り続けなさい」と言われるので、休憩してはいけないのかと思うかもしれません。しかし、休憩してはいけない、とは言われておりません。ゴールを目指して走り抜くことが大事であり、そのためには途中で給水を受け、新しい力をいただくために休むことも必要なのです。そういうことを、しっかり覚えていただきたいと思います。
 ゴールを目指して走り抜くことが大切だと言いましたが、そのために大事なのは、「信仰の創始者・完成者であるイエス」から目を離さないでいること、言い換えれば、「信仰の創始者・完成者であるイエス」にしっかりと目を注いでいることです。ゴールは何か。そのことは、ここではっきり教えられておりませんが、ゴールは「信仰の創始者・完成者であるイエス」ご自身であります。イエス様ご自身がゴールなのです。そのゴールであるイエス様をしっかり見つめていく、そのイエス様に目を注いでいく、ということが何よりも大事なことであります。
旧約の人々が信仰によって生き抜いた実例が11章に紹介されておりました。彼らの信仰は、約束されたものを待ち望んで生き抜いたことに示されています。でも、彼らは約束されたものを必ずしも十分に得たわけではありません。また、約束されたものをはっきり目で見たわけではないのに、それを見ているかのよう信じて、忍耐をもって走り抜いたわけです。それが旧約に出てくる信仰の人々の生き方でありました。
それに比べて私たちは、旧約の人々が待ち望んでいた約束のものを、すでに与えられているという立場にあります。このことは、私たちがよく覚えていなければなりません。まだ約束されたものを私たちは手にしていないのではなくて、約束されたものはすでに私たちに与えられているのです。その約束されてものとは、イエス様ご自身にほかなりません。旧約の信仰の人々が待望していた約束のものが実現している時代に、私たちは生かされているのです。
そのように約束のものが実現している時代に生かされている私たちが、さらに走ることを求められているのは、その完成を目指してということになるでしょう。すでに私たちは約束されたものを与えられています。その与えられているものの完成を目指して、なお走り抜くようにと勧められているのです。
11章27節にある聖句を、もう一度思い返しましょう。その後半の句「目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです」は、モーセについて言われていたことです。モーセは「目に見えない方」である神様を、まるで見ているようにして、種々の困難や試練を忍び通しました。私たちにとっても、復活のイエス様は肉の目には見えません。「目に見えない方」復活の主イエス様を、まさに私たちの目で見ているようにして走り続けることが、現実にはとても大切なことになるということを、ここで教えられるのです。
キリスト者は、復活の主イエス様を信じ、そのイエス様と共に歩んでいる者であります。十字架につけられて死んだイエス様は、よみがえらされて生きておられる方です。そのイエス様を、私たちは信じています。肉の目には見えないけれども、復活の主イエス様は現実に生きておられる。肉の目には見えないけれども、復活の主イエス様は、この私と共におられる。このイエス様を霊の目で見るようにして歩んでいるのが、私たちキリスト者が今おかれている立場なのです。このことは、しっかり覚えていただきたい。
そうするためには、忍耐が必要でありますから、「忍耐をもって走り続けようではありませんか」と言われています。この「忍耐」は霊的修練によって育(はぐく)まれますから、走り続けるためには霊的修練が必要になるのです。そのような霊的修練を妨げるものとして、1節に「いっさいの重荷とまつわりつく罪」ということが言われています。私たちがイエス様に目を注ぐことを妨げるもの、共におられる復活のイエス様を霊の目で見ることを邪魔するもの、それが「いっさいの重荷とまつわりつく罪」にほかなりません。
その「いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて」と言われるのですが、問題は、どうしたら捨てることができるか、ということです。自分の力で罪や重荷を捨てることができるのでしょうか。できないのです。それで、罪や重荷を捨て去るためにも、イエス様をしっかりと見つめていくことが大事になります。私たちキリスト者の霊的修練の要(かなめ)となるのは、私たちの走り抜くべき競争のゴールのところにおられるイエス様、いやゴールそのものであるイエス様をいつも見つめていく、そのイエス様に目を注いでいく、ということに尽きるのです。
ここには「信仰の創始者・完成者であるイエス」と言われているのですが、すでに学んだ大事な教えによるなら、「永遠の大祭司であるイエス様」と言うことができます。永遠の大祭司であるイエス様は、私たちのためにいつもとりなしをしていてくださる方です(7:25)。そのことを忘れず、そのことを覚えるための霊的修練であります。
  このイエス様は、復活される前には十字架の苦しみを忍び通された方です。私たちのために死の苦しみを味わい尽くしてくださいました。そのことは、すでに2章で教えられていましたが、ここで繰り返し「はずかしめをものともせず十字架を忍び」(2節後半)と言われています。十字架の処刑は恥辱の極みなのです。ですから、キリスト教会は最初、十字架をシンボルには用いませんでした。教会が十字架をシンボルにするようになったのは、キリスト教がローマ帝国の国教のようになった4世紀からのことです。 
 それまでキリスト教会がシンボルとしていたのは、ご承知の方も多いと思いますが、お魚です。「イエス・キリストは神の子、救い主」というギリシア語文章の五つの語の頭文字を綴(つづ)ると「魚」というギリシア語になります。初代教会の人々は、お魚を見て「イエス・キリストは神の子、救い主」という信仰告白を新たにされていたのです。
 はずかしめの十字架を忍び通し、死の苦しみを味わい尽くしてくださったイエス様は、死からよみがえらされ、死に対する勝利を得られました。このイエス様の十字架の死と復活の出来事を、私たちはいつもセットで受けとめなければならない。両者を切り離してはなりません。十字架の死の苦しみを味わい尽くし、死に勝利してくださったイエス様を見つめることによって、私たちも罪に勝利し、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる」ことができるのです。復活の主イエス様は、高く天に上げられて「神の御座の右に着座されました」が、永遠の大祭司として、いつも私たちのためにとりなしの祈りをしていてくださるのです。
「信仰の創始者・完成者であるイエス」について、私が気づいたことを話します。私はこれまで《イエス様は私たちに信仰を与え、その信仰を完成させてくださる方》と理解していました。その理解が間違っているわけではありません。信仰はイエス様から賜るものであり、その信仰を完成させてくださるのもイエス様なのですから。しかし、2節の後半と合わせて、この聖句を黙想していますと、イエス様ご自身が信仰の創始者であり、信仰の完成者である、と理解するほうがよいと思うようになりました。そうだとすると、「信仰の創始者」は、文語訳や最初の口語訳のように「信仰の導き手」と訳すほうがよい。イエス様ご自身が「信仰の導き手・完成者」であられ、そのイエス様を見つめるようにして、イエス様の後に続くようにと、私たちは招かれているのです。そのように理解するのがよろしい、と思うようになりました。
3節に「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」と書いてあります。この文書の受け手たちの間に、「心が元気を失い、疲れ果ててしまう」という現実が見られたのではないでしょうか。そうしたことは、私たちの信仰生活においても、しばしば見られます。牧師たちだけの会合で、よく話題になりますが、彼らは本当に疲れているのです。元気な私などは特別な存在に思われます。でも、私が元気なのは自分の力で元気なのではなく、いつもイエス様に目を注いでいるおかげなのです。
ですから、大切なことは、毎朝のディヴォーションと呼ばれる時間の過ごし方であります。あわただしく聖書を読んで少しお祈りして済ませるのではなく、何よりもイエス様に目を注ぐことです。私は、このことを一番大事にしています。朝起きて、洗面等を済ませたなら、イエス様ご自身に目を注ぐようにしましょう。私の罪のために十字架の苦しみを忍び通し、死を克服してよみがえらされたイエス様が、私の前にお立ちくださっている。そのイエス様のお口から語られる福音の言葉を聴くようにしています。
「あなたの罪は赦されています」「わたしはあなたにわたしのいのちを与えます」「あなたは私の愛する子、わたしはあなたを喜んでいます」と、イエス様が福音してくださるお声を心の耳で聴くのです。私は無条件に罪を赦され、永遠のいのちを与えられ、神の子とされています。そのために、イエス様は罪人である私のために死の苦しみを味わい尽くし、十字架を忍んでくださいました。そのことを深く黙想し、さらに観想しなければなりません。観想とは、深く思い巡らす黙想の域を越えて、そのことを本当に自分のものとして味わい尽くしていくことであり、それがとても大切なことなのです。

そのイエス様が、私に罪の赦しを宣言し、永遠のいのちが与えられていることを保障し、神の子にされていることを確証してくださいます。こんなにうれしいことはありません。これで元気が出なかったら、おかしいではありませんか。そのように「信仰の導き手・完成者であるイエス様」を、しっかり見つめていただきたい。信仰の完成は、復活であり昇天であると思います。私たちもイエス様の後について、復活と昇天の恵みにあずかるのです。それがゴールでありますが、その決め手はイエス様でありますから、イエス様ご自身がゴールでもあります。そのイエス様にしっかり目を注いでいくことを、何よりも大事にしていただきたい。  (村瀬俊夫 2006.2.5) 

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