2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 17》 ただ一度の決定的な救い ヘブル 9:15~28

 先ほど読んでいただいた個所は前回学んだ個所に続いており、新改訳聖書では段落がありません。新共同訳聖書はここで段落を設けていますが、内容的には段落がなくてもよいくらい連続しております。前回の個所の12節に、キリストが「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた」ことが、今回の個所にも、別の表現で繰り返し述べられているからです。
 そのことによって、旧約の下における違反も含めて、私たちのどんな罪も完全に赦され、「永遠の資産」を受けて(15節)、すなわち永遠のいのちをいただいて、私たちが神の子とされるという「新しい秩序」が立てられました。これは前回も学んだことであります(10節参照)。そういう意味で、15節冒頭に述べられているように、「キリストは新しい契約の仲介者」でいらっしゃるのです。この「新しい契約の仲介者」という言葉は、すでに8章に出てまいりした。
  ここで少し、前回語るつもりで語れなかったことを語らせていただきます。今憲法の問題がいろいろ論議されていますが、60年前の敗戦で日本の国は変わりました。それは憲法が変わったことではっきり表されています。明治憲法の旧い体制は、いわば旧約聖書のようなものでした。それが日本国憲法という新しい体制に国が変わったのです。新しい契約にも相当すると思われる日本国憲法は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という三つの柱から成っています。明治憲法は、逆に天皇(しかも神権天皇)主権で、平和主義では全くなく、国民は天皇の臣民としての義務を課せられて基本的人権の自由はほとんどありませんでした。
  その明治憲法とは全く対照的な新しい秩序の日本国憲法を制定させた仲介者ば、誰であったのか。新しい契約の仲介者はキリストです。そのためにキリストは、ただ一度、十字架において血を流ししてくださいました。そのことで私は思うのです。<あの戦争で、本当に平和を願いながら死んでいった多くの人々の流した血こそ、日本国憲法の仲介者であるのだ>と。そのように信じるので、<戦争を放棄し、平和に徹した新しい秩序で国造りをしようと歩んできた国是が揺らぐことのないように>と 、私は切に願っております。
  キリストは新しい契約の仲介者となられました。その「新しい契約」が何によって有効になるのか。そのことが大事なポイントとして、ここで言われているのです。新しい契約を有効にしているものは、何か。それはキリストの死であり、その死によって流されたキリストの血であります。
 「契約」はギリシア語で「ディアセーケー」と言いますが、それには「遺言」という意味もあるのです。そのように「遺言」と訳している個所が16節以下に見られます。その16節の「遺言には、遺言者の死が必要です」という文章の「遺言」と訳されたギリシア語は「契約」と訳されたものと同じなのです。本来は遺言という意味で、それが契約という意味にも使われています。契約は遺言にも相当するのであり、遺言が効力を発するのは遺言者の死によるように、新しい契約が効力を発するのもイエス・キリストの死によるのです。そういうことがここで言われている、ということになります。
  ところで、死とは人間に属することです。神は死すべき方ではありません。神は不死であられる。これは不変の真理であると言ってもよいことでしょう。死んだら神様ではなく、人間にすぎません。神は不死であるからです。それなのに、神の本質の現われであるキリストの死が必要であり、キリストは死ななければなりません。そのために、キリストは私たちと同じ血と肉をもつ人間となられたのです。死ぬのは神ではなく、人であります。ですから、神がキリストにおいて人となってくださったのです(2:14参照)。その「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして」ささげてくだいました(26節)。
  どうして新改訳が「今の世の終わりに」と訳したのか分かりませんが、ギリシア語原文を直訳すれば「世々の終わりに」(岩波訳)で、1章2節の「この終わりの時に」と同じ意味であると思います。この終わりの時に、<まことの神であり、まことの人である>キリストが、ただ一度、ご自身をいけにえとしてささげてくださいました。そのことのゆえに、新しい契約は効力を発して、<私たちの罪が無条件に赦され、永遠のいのちが私たちに与えられ、私たちが神の子にされる>という道が開かれるようになったのです。
  さて、ヘブル書の著者は、18節で「初めの契約(旧い契約)も血なしに成立したのではありません」と言っています。旧い契約の仲介者はモーセでした。このモーセについて彼はこう書いています。「モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、『これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である』と言いました」(20-21節)。出エジプト記24章6-8節からの自由な[かなり表現を変えた]引用であります。
  著者がこれを引用したのは、要するに、<旧い契約も血が注がれることによって有効になったのだ>ということを主張するためであります。そのことを私たちも、しっかり受けとめればよいのです。それにしても、その時に注がれた血はモーセ自身の血ではなく、動物の血でありました。
  21節には、「また彼(モーセ)は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました」と書いてあります。幕屋とそこで行われる礼拝の諸設備にも、モーセによって血が注がれました。「それで、律法(旧い契約)によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう」と言われます(22節前半)。これはおおまかな結論ですが、私は的を射ているのではないかと思います。「また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(22節後半)。旧い契約が立てられたのも、契約の民が神の民となるために罪がきよめられるためでした。この罪の赦しときよめのためには、血が注ぎ出されなければならないのです。これは旧約時代のことを言っているのですが、その通りだと思います。
  それに比べて新しい契約の場合は、どうであるか。そのことか改めて23節から述べられているのです。「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません」(23節)。ここには、<本当のものは天にある>という著者の神学(あるいは哲学)が反映しています。
  旧約時代の幕屋とか神殿とかの礼拝施設は、そこで行われる儀式も合わせて全部、天にあるものにかたどったものに過ぎません。本当のものは天にあるのです。前に申しましたように、プラトンのイデア論的な考え方が著者の背景にあったのではないか、ということが指摘されておりますし、私もそうではないかと思っております。
  地上にあるものは、天にあるものの写しに過ぎませんが、それもきよめられる必要がありました。そのために動物のいけにえの血が注がれたのであります。しかも、それは繰り返し、繰り返し注がれなければなりませんでした。毎日それをするのが祭司の任務でありました。そして、一年に一回は、大祭司が至聖所に入って贖罪蓋の上に血を注ぐことが行われました。それも毎年、繰り返し行われてきたのです。
  しかし、天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。天にある本物の聖所は、何によってきよめられるのか。それは旧約時代の動物のいけにえで間に合わすわけにまいりません。それよりももっとすぐれたいけにえによらなければなりません。それは何であるか。答えはお分かりのように、イエスご自身のいけにえであり、キリストご自身の血であります。
 「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです」(24節)。「天そのもの」とは神ご自身にほかなりません(黙示録21:22参照)。キリストは、十字架で流されたご自身の血を携えて、死からよみがえらされた方として、天の昇り、神ご自身の前に現れてくださいました。これは「死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」と使徒信条が告白している事実と一致することであります。
  動物のいけにえの「血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません」(25節)。「ただ一度」それをなさったのです。26節に「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう」とありますが、そんなことをする必要がないように、「ただ一度」、それで十分で完全であるように、ご自分をささげてくださいました。「ただ一度」に当たる英語の once for allが意味するように、一度で全部をまかなっているのです。
  キリストは「ただ一度」、この終わりの時に、「ご自身をいけにえとして罪を取り除くために」来られました。キリストが来られたのは、終わりの時の始まりです。終わりの時が新しい始まりとなる。これが聖書の終末論の特色であります。これが意味することの重要性を、よく黙想して、しっかり自分のものにしていただきたいのです。
  キリストが終わりの時に「ただ一度」ご自分をいけにえとしてささげられたことによって、旧約の神の民の罪も取り除かれました。旧約聖書の歴史は人間の罪の歴史です。アブラハムもダビデも信仰の人と呼ばれていますが、聖書をよく読めば、彼らも多くの罪を犯していたことがわかります。ダビデは戦いに勝ち抜いて王になっただけに、たくさんの人々の血を地に流しました。そのため彼は、神から「神殿を建ててはならない」と言われました(歴代Ⅰ22:8)。そうした旧約時代の人々の数々の罪も、<キリストの「ただ一度」の十字架の死によって赦されているのだ>と、ヘブル書の著者は宣言しているのです。
  キリストの「ただ一度」のいけにえは、新約時代に生きる私たちの罪を取り除くだけでなく、遡(さかのぼ)って旧約時代の人々の罪も取り除いてくれています。それだけの効力が「ただ一度」のキリストの十字架の死にはあるのです。[過去・現在・未来にわたる]すべての人々を救う力のある十字架の効力を、あなたがたも知り、それをしっかり体得してほしいと願っています。
  私たちのためにも、私たちの先祖のためにも、そして私たちの子孫のためにも、キリストの十字架における「ただ一度」のいけにえは有効であるのです。それほど<キリストの死は、ただ一度の決定的な救いである>ことを、しっかり受けとめていただきたい。「私が救われても、私の家族や先祖はどうなるのでしょうか」と心配し、「家族や先祖を見捨てて私だけ救われるわけにはいかないのです」と、洗礼を受けることを躊躇する方が、日本では少なくありません。しかし今、私はためらわず申し上げることができます。「あなたの家族にも、あなたの先祖にも、あなたがキリストを信ずれば、その救いの恵みは及ぶのです」と。キリストの《ただ一度の決定的な救い》は、あなたを救うのみならず、あなたの家族も、あなたの先祖も救ってくださるのです。
  ヘブル書13章8節の本当の意味が、この説教の準備をする過程で、はっきり分かるようになりました。これは有名な聖句ですから、暗唱している方もいるでしょう。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」 この新改訳の表現はギリシア語原文の直訳で、とても良いと思います。他の訳の聖書は、ほとんど「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも変わることがありません」と意訳しているのです。そのほうが、日本語として自然であり、美しい表現と思われるからでしょう。しかし、原文のギリシア語が用いているのは、新改訳のように「同じです」という表現であります。
  この聖句は、今でも私は文語訳で暗唱しているくらいで、心に刻まれている聖句の一つです。<イエス・キリストは、過去・現在・未来にわたって変わらない、同(おんな)じ方である>というくらいの意味でしか理解していなかったのですが、それでもすばらしいことだと思います。しかし、今はっきり分かったことは、これは《ただ一度の決定的な救い》との関連で言われている、本当に大事な聖句であるということです。<きのうもきょうも、いつまでも《ただ一度の決定的な救い》を有効ならしめることにおいて、キリストは変わることがない、全く同じである>ということを、この聖句は宣言しているのです。そのことに、私は改めて気づかせていただきました。
  このように、聖書を読んでいて、新しく学ばされることがたくさんあります。ヘブル13章8節の聖句も、ヘブル書全体をしっかり学んでいく中で、大祭司キリスト論の要(かなめ)でもある《ただ一度の決定的な救い》の教えとの関連で、著者が宣言している言葉なのだ、ということをよく分からせていただいたのです。この理解に間違いはないと確信しています。
  この「ただ一度」という表現は、神学的に言い替えると《終末論的出来事》ということになります。キリストの十字架の死と復活は、ただ一度で全部をまかなう出来事という意味で、まさに終末論的出来事であるのです。この終末論的出来事において、キリストは永遠の贖いを完成してくださいました。もう私たちのための救いは、神の救いのご計画において完成しているのです。

 「キリストも、多くの人の罪を負うために[ただ]一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(28節)。[復活の]キリストが二度目に来られるのは「救いのため」である、という後半の言葉に注目しましょう。これはキリストの再臨も視野に入れていると思いますが、それとともに<今ここで[ただ一度の決定的な救いを完成してくださった]キリストが私たちに二度目に[すべての日々に、マタイ20:28参照]現れて、私たちの救いを全うしてくださる>ことを教えてくれています。私も、あなたがた一人一人も、その恵みを日ごと豊かにいただいて、すでに受けている救いの完成へと導かれる、満ち足りた信仰生活を歩ませていただきましょう。      (村瀬俊夫 2005.5.8)

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