今回の聖書個所は、受難週を迎える主日礼拝にふさわしい個所です。すでに1章で学んだように、主イエス・キリストは、神の右の座に着いておられる方であります。そして「神の栄光の輝き」「神の本質の現れ」でいらっしゃいます。それは復活の主イエス・キリストでございます。そのキリストが「栄光と誉れの冠をお受けになりました」と9節に書いてありますが、これは復活のキリストが神の右の座に着かれた、ということと内容的にはほとんど同じなのです。
そのようにキリストが栄光と誉れの冠を受けられたのは、「すべての人のために味わわれた」「死の苦しみのゆえ」である、ということが、今回の聖書個所の終わりのほうに書いてあります。これはとても大事な福音のメッセージの一つです。「死の苦しみのゆえに」、しかも、その死の苦しみを「すべての人のために味わわれた」がゆえに、キリストは死から復活させられて「栄光と誉れの冠をお受けに」なったのであります。
そのことを深く考え合わせてまいりますと、受難週のゆえに復活祭があるのだ、ということになるのですね。次の主日はイースター(復活祭)です。その復活祭は受難週のゆえにあるのだ、ということを覚えさせられます。私たちは復活の主を仰いで礼拝をしておりますが、この復活の主は受難のゆえに復活の主であられるのだ、ということをはっきり覚えさせていただきましょう。キリストの受難と復活との出来事は、互いに切り離すことができません。
折りに触れて言ってきたように、日本のキリスト教は、キリストの十字架はとても強調するのに、キリストの復活を意識することが非常に乏しいのです。十字架が語られているなら、その説教はそれだけで良い説教だと評価される風潮があります。しかし、それでは福音の説教としては致命的に欠けているのです。復活のないキリスト教は死んだキリスト教も同然であり、復活信仰に欠けた日本のキリスト教の弱さが指摘されなければなりません。
受難のゆえに復活の主がおられます。十字架の出来事は復活の出来事と切り離すことができません。復活の光に照らし出されてこそ、十字架の深い意味が現れ出るのです。ですから、復活が重んじられていない日本のキリスト教は、十字架の深い意味を知らずにいるのかもしれません。そうだとすれば、これは深刻な問題ですね。
『讃美歌21』を蓮沼キリスト教会は早くから採用してきました。讃美歌21の良い所はたんさんありますが、その一つは受難と復活を結びつけている点です。先ほど歌った306番「あなたもそこにいたのか」は、有名な黒人霊歌です。それが『讃美歌第二編』177番に入れられていた時は、「あなたもそこにいたのか」に続いて「主が十字架についたとき」(1節)、「主が釘でうたれたとき」(2節)、「主が槍でさされたとき」(3節)、そして「主を墓におさめたとき」と歌う4節で終わっていました。それが讃美歌21では、5節があって「主がよみがえられたとき」と歌っています。このように十字架と復活を結びつけているのが特徴的なのです。
先ほど歌ったもう一つの317番は、ルターの作詞の讃美歌ですが、「主はわが罪ゆえ死にたまえども、主はよみがえりていのちたまえり」と歌い出しています。これは分類としては「復活・イースター」の項に納められていますが、その内容は受難と復活が結びついています。これこそ福音なのです。ですから、ルターは福音をよく体得していたのだ、ということが分かります。受難のゆえに復活の主がおられるのです。復活の主が栄光と誉れの冠をお受けになったのは、すべての人のために死の苦しみを味わわれたからにほかなりません。
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今回の個所の初めに、「神は、私たちが話している後の世を」という言葉が出てまいります。これは1章2節で「この終わりの時には」と言われているのと同じことです。今「私たちが話している後の世」とは、旧約の時代に続く「新約の時代」(今の私たちの時代)を指していることになります。
その続きを読むと、神はその新約の時代を「御使いたちに従わせることはなさらなかった」と書いてあります。では、だれに従わせることにされたのか。それは6節以下に書いてありますが、神は新約の時代を御使いたちにはまかせないで、復活の主である御子にまかせてくださったのです。旧約の時代に比べると新約の時代は、まさに新しい望みの世界が開かれている救いの時であります。その救いの世界は、御子キリストにまかされています。そのキリストは御使いたちにはるかに優るお方である、ということも言おうとしているのでしょう。
さらに本書の著者は、御子キリストを人の子として着目しています。人の子として現された御子キリストに注目してまいります。6節以下に、「ある個所で、ある人がこうあかししています」と言って、詩篇8篇4~6節を引用します。この引用は、ギリシア語に翻訳された七十人訳に基づくもので、ヘブル語原典から翻訳された旧約聖書とは少し違っています。
初代キリスト教会は、その七十人訳聖書を用いて伝道していたのです。パウロがテモテに「幼いころから聖書に親しんで来たことを知っている」と言っている「聖書」とは、間違いなく七十人訳だと思います。この七十人訳は、ヘブル語聖書と比べるとかなり違います。この両者の対比ということは、学問的にはかなり難しい問題を含んでおります。しかし、初代教会は七十人訳を用いて伝道した、ということは重要な事実です。それなら七十人訳がどんどん翻訳されて、もっと多くのキリスト者に読まれてもよいのではないでしょうか。
「人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」「しばらくの間」と訳された言葉は、「いくらか」という訳もできます。どちらか決めかねるのですが、新改訳は「しばらくの間」を本文にし、脚注の別訳に「いくらか」を挙げています。この詩篇の作者は、伝統的にダビデだと言われています。それには異説もありますが、この詩篇作者が「人の子」と言うとき、それは人間のことを指しているのです。「人の子は何者だと言うので、……」の前に「人間は何者だというので、……」と言われています。これはヘブル詩の並行法で、「人の子」は明らかに「人間」の言い換えであることが分かるのです。
この詩篇の背後には「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された」という創世記1章27節があったと思われます。人間は「神のかたち」に創造されたので、他の被造物と比べて大きな尊厳を与えられています。それで、人間は「御使いよりも、いくらか[注・この訳のほうがよいと私は思います]、低いものと」されたと、この詩篇で歌われているのです。ヘブル語聖書では、「御使いよりも」が「神よりも」になっています。神のかたちに創造された人間は、地上において神を代表し、神を証しする役割を与えられています。そういう人間の立場を歌い上げているのが、この詩篇なのです。
しかしヘブル書の著者は、この「人の子」を大胆にも、ダニエル諸7章13節の「人の子のような方」と同一視しています。「見よ,人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方[神]のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、……その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることもない」(ダニエル7:13~14)。このように言われる「人の子」は、来るべきメシア・救い主である、と解釈されているのです。イエス様がご自分を「人の子」と呼ばれたとき、このダニエル書の言葉を念頭に置いておられたにちがいない、と考えてよいと思います。
最初に創られた人間・最初のアダムに対して、イエス・キリストは新しく創られた人間・最後のアダムと呼ばれます。ヘブル書の著者は、詩篇8篇の「人の子」を、最初のアダムではなく最後のアダムであると解釈して、イエス・キリストに当てはめているのです。このことは、旧約聖書を読んでいるだけでは分かりません。このヘブル書を読んで初めて分かることなのです。
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神は最初のアダムを創って、この世界の管理を彼にまかされました。しかし彼は罪を犯して、その職務を果たすことができなくなったのです。その子孫である私たち人類はみな、その罪の結果を負っているため、神から託された使命を果たせずにおります。それではいけない。神から託された使命を果たす新しい人間が創られ、最後のアダムの出現が必要である。そういうことで、神は御子イエス・キリストを、この世に遣わされたのです。
この新しい人間・最後のアダムは、どういう方であるべきか。最初のアダムの子孫ではいけません。最初のアダムの堕落を引きずっている者では駄目なのです。その堕落を引きずるこのない、まことの人として来られる方でなければなりません。それで神は、そのような方として御子を人として地上に遣わしてくださったのです。
御子が人として遣わされたのは、地上の生活だけを見れば「しばらくの間」ということになります。しかし御子が人であられたのは、地上の生涯で終わったのではありません。今天に上げられている復活の主も、まことの人であられる御子にほかなりません。それで私は「しばらくの間」よりも「いくらか」と訳すほうがよいと考えます。イエス・キリストは、今も≪まことの神であり、まことの人である≫のです。
そして大事なことは、イエス・キリストが〈死の苦しみを味わわれた〉ことであります。まことの人として〈死の苦しみを味わわれた〉方こそ、最初のアダムに代わる最後のアダムとなることのできるお方であります。それは堕落した人間を罪から救い出すという使命がメシアにあるからです。最後のアダムは「罪のきよめ」を成し遂げてくださる方でなければなりません。そのために〈まことの人〉となった〈まことの神〉である御子キリストは、すべての人のために〈死の苦しみを味わわれた〉のです。
その死の苦しみを、イエスは十字架において極みまで味わい尽くしてくださいました。十字架をじっと心の目で仰ぎ見るとき、死の苦しみを極みまで味わい尽くしたイエスのお姿を私たちは見るのです。9節に「御使いよりも、いくらか、低くされた方であるイエスのことは見ています」と、少々ぎこちない訳文で書いてありますように、私たちもこのイエスのことを、聖霊によって開かれた心の目で見ているのです。
そのようにイエス・キリストは<死の苦しみを味わい尽くしてくださった>ので、私たちを罪の中から救い出すことがおできになるのです。私たちも死の苦しみを経験することがあります。人生はいつも楽しく明るくというわけにはまいりません。暗い谷間を、死の陰の谷を通るような時もあります。しかし、死の苦しみを味わい尽くされたイエス様を見る時に、私たちの死の苦しみの中にもイエス様が共におられることを知るのです。「たとい、死の陰を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなた[主イエス]が私と共におられますから」と、詩篇23篇の作者は歌い上げています。私たちが絶望する所にもイエス様は共におられる。これは本当に大きな慰めです。
死の苦しみを味わわれたイエス様を見る時に、私たちは同時に、「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになった」復活の主を見ることができます。そのことが私たちの救いとなり、私たちの力となり、私たちの希望となるのです。
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最後に、「万物を彼に従わせられたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見ていません」とある8節に触れておきます。今や主イエスは、天に上げられて神の右の座に着き、新しい時代をすべてまかされています。すると、復活の主の支配下に万物がある、ということになるのです。そのことを私たちは信じますが、それなのに私たちが肉眼で見ている世界は必ずしもそうではない、という現実を見させられています。さらに地上にある教会すら、はたしてキリストの支配下にあるのか、と思わされるような現状も見られるのです。
そのために教会から離れていく人たちが少なからずいる、という悲しい現実が見られるではありませんか。ヘブル書が書かれた背景には、〈万物がキリストの支配下にあるという状況はどこにあるのか〉とつぶやいて信仰がぐらつき、教会から離れていこうとする人たちがいた、ということが想像されます。そういう人たちに対して、この勧告の書が送られているのだと思います。
ここで言わなければならないのは、《神の支配の現実は人間の目に見える世界を越えている》ということであります。このことはしっかりと覚えておきたい。それは聖霊によって開かれた目にこそ、はっきり見える世界なのです。ですから、私たちはいつも、聖霊によって開かれた目で、受難と復活の主をしっかりと見つめていきたい。ぜひとも、そうしなければならないのです。
そうするとき、《受難と復活の主の愛のご支配の中に、すべて(万物)がまかせられている。これは福音の恵みによる揺るぎない現実なのだ》ということが、はっきり見えてまいります。それこそ聖霊によって開かれた眼(まなこ)がはっきりと見ることのできる世界なのです。そのことをキリスト者と教会は、いつも新しい思いをもって見つめていかなければなりません。そうしないと、教会もいつの間にか、この世のものと同じようになってしまう危険性があります。
教会がこの世の光となるために、この世にすばらしい福音の現実があることを証ししていくために、私たち教会とキリスト者は、週ごとの礼拝において、また日々の生活において、受難と復活の主をしっかりと見つめていきたいのです。
すべての人のために死の苦しみを味わい尽くしてくださったイエス・キリスト。そのことのゆえに三日目によみがえらされて栄光と誉れの冠を受け、神の右の座に着いておられる復活の主イエス・キリスト。しかも、聖霊によって私たちと共にいてくださるイエス・キリスト。このイエス・キリストを、しっかり見つめてまいりましょう!
そして教会の説教壇からは、いつもこの主イエス・キリストが指し示されていくようにしなければなりません。坂本牧師は、よくその務めを果たしてくださると信じ、私は主に心から感謝しております。(村瀬俊夫 2004.4.4)
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