2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 26》 聖められることを追い求めよ ヘブル 12:4~17

 この文書の受け手、あるいは読み手、もっと正確には、聴き手と言ったほうがよいかもしれません。当時は、多くの場合、文書というものは人々の前で朗々と読まれるものでした。それを人々は耳を澄まして聴いたのです。前にも述べたことですが、この文書の聴き手である人々は、非常に困難な状況に置かれていました。それで「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)と勧められても、なかなか忍耐をもって走り続けることができない状態に置かれていたのです。
  心の元気を失って疲れ果てている聴き手の状態を、本書の著者はよく知っておりました。そのような聴き手の人たちに対して、著者は彼らの目をイエス様に向けさせようとしています。そして「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい」(3節)と語りかけ、4節へと続くのです。この4節から新しい段落に入ると見ることができますが、そのように新共同訳は段落を設けています。しかし、新改訳では段落がありません。3節から4節へとつながる流れがよくわかって、これはこれでよいと思います。
 イエス様を見つめなさい。そのイエス様は、大祭司であるイエス様です。ただ一度、永遠の贖いを十字架で成し遂げ、復活させられ、天に挙げられている大祭司として、イエス様はいつも、私たちのためにとりなしをしてくださっています。さらに、死と罪に対する勝利者であるイエス様です。死からよみがえられたことは、イエス様が死に対して勝利し、同時に、罪を徹底的に処分してくださったこと意味します。そのイエス様によって、私たちの罪が無条件に赦される、という恵みが与えられるようになったのです。
 そのような大祭司であり勝利者であるイエス様を、いつもしっかり見つめていなさいよ、というのが前回の学びの中心でした。そのようにするとき、元気を失っている者も、立ち上がることができるのです。そこで少し飛びますが、12-13節を見てください。ここは教理的に重要な箇所であるとは言えませんが、本書が疲れ果てている者たちに勇気を与え、立ち上がる力を与えようとしている目的から見れば、この12-13節は大切な箇所である、と言ってよいでしょう。
 「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」ここは、週報の説教要旨に書いたように、「弱った両手と衰えた両膝をまっすぐにしなさい。不自由な足が脱臼せず、むしろ癒されるように、自分の足のためにまっすぐな道を造りなさい」と訳したいと思います。それには、「大祭司であり勝利者であるイエス様が、そうする力も与えてくださいますよ」という言葉が添えられています。そういう慰めに満ちた言葉が、この12-13節で語られているのです。
 そのことを覚えながら、4節に戻って考えてみましょう。いきなり4節を読むと、どのように感じるでしょうか。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」 だから「血を流すまで抵抗しなさい」と言われているのではないか、と思うでしょう。そう思うようになると、そんなこと自分にできるだろうか、と非常に不安になります。私も、長いこと、「ここまで言わなくてもよいのに」という思いで、この言葉に引っかかっていました。それから別の解釈では、これは殉教の勧めである、と言われていることを知っていました。
 とにかく、4節のこの言葉だけを見ていると、非常に厳しい言葉として私たちの心に響いてまいります。でも、3節の言葉や、12-13節の慰めに満ちた言葉を覚えながら、4節を読んで見ましょう。3節で「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい」と言われています。イエス様は血を流して、十字架のはずかしめと死を忍んでくださいました。血を流すまで抵抗してくださいました。そして永遠の贖いを成し遂げ、私たちが神の御前に近づける新しい生ける道を開いてくださったのが、イエス様です。
すでに学んだ10章19-20節に、こう書いてあります。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの[十字架で流された]血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕(十字架の死と復活の出来事)を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」 そういうすばらしいイエス様ですから、4節は、私たちに「罪と戦って、血を流すまで抵抗せよ」と命じている言葉ではありません。「あなたがたは罪と戦って、血を流すまで抵抗したことはないでしょう。それでよろしいのだ。イエス様が血を流すまで抵抗してくださったのだから。そのイエス様を見つめていなさいよ」と、呼びかけてくれている言葉なのです。
 さて、次の5節以下にまいります。「あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています[忘れてはいけませんよ]」という導入で、箴言3章11-12節が5節後半から6節にかけて引用されています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」 ここに「むちを加える」という言葉があるので、とても気になります。 
新改訳は、「むちを加える」ことに合わせて、「主の懲らしめ」と訳しているのでしょう。それが的外れな訳であるとは思いません。この「懲らしめ」と訳したギリシア語のパイデイアは、子どもを意味するパイスから派生しています。パイデイアは名詞で、その動詞パイデウオーは親が子を「訓育する、躾(しつ)ける」という意味です。それで私は、パイデイアの一番よい訳は「躾(しつけ)」であると考えます。岩波訳聖書は、この「躾」という訳語を用いていますが、それが一番ぴったりするように思います。「わが子よ。主の躾を軽んじてはならない。 ……主は愛する者を躾けられる」と読むのです。 
躾は懲らしめとは違います。ギリシア語辞典を見ると、パイデイアの意味として第一に挙げられているのが躾です。しかし、続いて訓育・訓導、そして懲罰・懲らしめという意味も出てまいります。そのように、パイデイアは幅広い意味で使われていたようで、懲らしめという意味もあるのです。それで「懲らしめ」という訳も可能ですが、ここでは適当でないと思います。新共同訳は「鍛錬」という訳語を用いていますが、これも適当とは思われません。ここでは「躾」という訳語が最適であると、私自身は考えております。
子どもをむち打つことが躾の代表のように考えられていますが、そうではありません。イエス様は、そのような考えに賛成しておられません。その証拠に、子どもは抱いて祝福してあげなさい、と身をもって教えておられるのです(マルコ10:16参照)。ですから、ここは7節から11節までも、すべて「懲らしめ」ではなく「躾」と訳すのがよいでしょう。躾の基本は行儀作法を身に着けさせることです。そのように躾けられることは、子どもにとって喜ばしいものではありません。しかし、きちんと[愛のうちに]躾けられるなら、大人になって非常に役立ちます。躾けられていないために、大きくなってから、いろいろ問題を起こすことにもなるわけです。
むち打たれて育った子どもは、大人になると、自分の子どもを必ずむち打つようになります。そうしないと精神衛生的にバランスがとれないからでしょう。ですから、愛情をもって躾することが大事です。神はキリストにあって、これでもかこれでもかと豊かに愛を注ぐようにして、私たちをキリスト者らしく躾してくださっています。そういう躾は面倒くさいと思うことがあるかもしれません。でも、そのような躾が後になって、すばらしい平和の実を結ばせてくれるのです。
11節の終わりに、「これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」とあります。この表現は少し意訳してあります。直訳すれば、「義の平和(平安)の実」です。義は神との正しい関係を意味し、それは《私は神に愛され、また神を愛している》という愛の関係にほかなりません。そういう《愛の関係である義に基づく平和の実》が結ばれるようになります。そのため「霊の父」である神は、神の子とされた私たちを愛のうちに躾してくださっているのです。教会は、そういう霊的な躾を行う場所でもある、と言ってよいでしょう。その躾に一番役立つのは、福音であります。教会の説教壇からは、いつも福音が語られていなければなりません。
「肉の父」は、その子どもたちに躾をしますが、10節に書いてあるように、「自分が良いと思うままに」そうします。しかし「霊の父」である神は、もっと大切な目的のために、すなわち「私たちをご自分の聖(きよ)さにあずからせようとして」霊的な躾をし、霊的に導いてくださいます。その結果、私たちは《義に基づく平和の実》を結ぶようにされるのです。この目的のために神が私たちを「懲らしめる」という新改訳の表現は、あまりにも不釣合い[従って不適切]ではありませんか。
以上のことを受けて、14節の勧めに来るのです。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」 この14節は、私の納得のいく訳文を週報に掲げておきました。「すべての人との平和を、また聖別された生活を追い求めなさい。聖別された生活を離れては、だれも主を見ることがないでしょう。」 
ここで「聖別された生活」と訳したギリシア語は、「聖なること」あるいは「聖化」と訳してよい言葉です。それを私は少しばかり意訳して、「聖別された生活を追い求めなさい」としました。神が私たちを躾してくださるのは、ご自分の聖(きよ)さに私たちをあずからせるためで、それは私たちが聖別された生活ができるようになるためなのです。
「聖められることを追い求めなさい」という訳文も、悪くはありません。神学用語としてサンクティフィケーションという英語の言葉があり、それが日本語では「聖化」と呼ばれています。この「聖化」については、二つの意味合いがあります。そのことを皆様にも、よく理解していただきたいと思います。少々教理的なことに立ち入りますが、よく聴いて、正しく理解してください。
一つは、義認と直結した聖化であります。私たちが信仰によって義と認められたとき、同時に、私たちは聖なるものとされているのです。これが聖化に関する第一の教えでありますが、それに関する証明聖句を引用しておきましょう。それはコリント人への手紙第一の6章11節 です。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような[正しくない]者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ(洗礼を受け)、聖なる者とされ(聖化され)、義と認められたのです。」「義と認められた」とある前に「聖なる者とされた(聖化された)」と書いてあります。この両者は、実は、同時に起こったことなのです。
洗礼を受ける、聖なる者とされる、そして義と認められる。これらは、実は、時間的経過を経て、段階的に起こることではありません。それらみな、同時に起こることです。そのように、義認と同時に与えられている聖化が、ここで教えられています。私たちは、洗礼を受けてキリストと結び合わされることによって、義と認められるとともに、すでに聖化(聖別)されています。義と認められたとは、無罪と認められたことであり、無罪であることが聖くされたことになるのです。
もう一つ、聖化には、信仰生活の過程で、漸進的に達成されていく面があります。先に私の監訳で出版されたジェリー・ブリッジズ著『恵みに生きる訓練』は、この意味での聖化を扱い、教えてくれている書物です。このように私たちが、すべての人との平和を追い求め、聖別(聖化)された生活を追い求めることは、決して容易ではありません。そのような生活を何が困難にしているか、カルヴァンは示唆に富んだ説明をしています。「だれでも自分自身に熱中しており、自分の習性は忍んでもらおうとし、他人の習性には合わせようとしないものである。そこで、私たちは非常な苦労をして平和を求めなければ、平和を保持して行くことはできない。」
人と平和に過ごすためには、相手の習性を受け入れて、それに自分を合わせることをしなければなりません。それがなかなか難しいのです。結婚すると、夫は自分の習性に妻を合わせたくなり、妻も自分の習性に夫を合わせたくなります。それが高じると、性格不一致ということで離婚に至るケースもあります。すべての人との平和を追い求めるためには、「われら互いに受け入れ合おう」(讃美歌21・542番)と歌ったように、互いの習性を認めて受け入れ合うことが大切なのです。
私は韓国にしばしば行かせていただきますが、日本と韓国との間には非常に深刻なことがありました。でも、私は今、韓国へ行くととても歓迎されます。韓国の人々を受け入れる気持が私の中に大きくなってきたからだと思います。それは私が努力してそうなったのではなく、イエス様の愛を深く感じ、イエス様がこの私を受け入れてくださったのだ、ということが身に滲(し)みて分かったとき、私もどんな人も受け入れるべきだ、韓国の人々も受け入れるべきだ、と自然に思えるようになりました。心が広くされていくのも、自分の努力では難しい。心が広くされるのは、イエス様の愛、ただ福音によるのです。
互いに受け入れ合って平和を追い求めることができるとき、聖別された生活を追い求めることができるようになります。「聖別された生活」とは、互いに愛し合う生活を意味しています。神が私たちをご自分の聖さ(聖性)にあずからせようとしおられる「聖性」とは、「愛」にほかならないからです。
残りの15-17節にも触れておきます。15節は14節に続いている文章であり、「よく監督して」という訳語は適切でありません。「よく注意して」と訳すべきで、次のことに「よく注意して」平和と聖別された生活を追い求めなさい、と14節を受けているのです。何を注意するのか。平和をつくることを妨げる「苦い根が芽を出して悩ましたり」しないように、よく注意しましょう。その「苦い根」である自己中心的な思いがなくなるように、絶えずイエス様の愛をいただかなければなりません。この世の俗悪な思いに押し流されないように、日々の生活の中で、大祭司であり勝利者であるイエス様を見つめ、イエス様の愛を豊かに受け続けましょう。そうすれば、私の中にある「苦い根」は取り除かれ、俗悪な思いも消え去っていくのです。

そうするとき、相手を尊重して心から受け入れることができるようになります。そして平和をつくり、聖別された生活(聖められること)を実現していくことができるようになるのです。         (村瀬俊夫 2006.3.5) 

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