2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 14》 とこしえに祭司であるキリスト

 ヘブル書の連続説教で、今回は7章の後半(20節以下)を学びます。この書の中心テーマである大祭司キリスト論の大事な部分に入っていますが、今回は、そのキリストが「とこしえに祭司である」ことを、しっかり学びたいと願っています。
 祭司の務めには、祈りをささげること、特にとりなしの祈りをささげることがあると思います。永遠の祭司であるキリストは、いつも私たちのためにとりなしの祈りをささげていてくださる方です。このことをしっかり覚えていただきたい。イエス様はどういうお方か。そのイエス様に対する私たちキリスト者のイメージは、とても大切です。いつも私たちのために、いや、私のために祈っていてくださるイエス様を思うことができる、そのイエス様のお姿がしっかり私の心に、そして瞼(まぶた)に刻まれているということが、本当に大事なことであります。
  祈るイエス様のお姿を一番よく描いているのは、ルカの福音書です。イエス様が祈っておられる場面がたくさん出てまいります。そのルカの福音書22章は、イエス様が弟子たちと最後の食事をされている場面を記しています。その食事の中でイエス様は、今私たちが教会の礼拝で守っている聖餐式の最初の形を制定してくださいました。その後で、イエス様は弟子たちの裏切りを予告なさるのです。特にペテロには、「あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われています。そういうことが書いてあるルカの福音書22章に、この福音書にしか見られないイエス様のシモン・ペテロに対するお祈りが記されているのです(31-32節)。
  「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」
  本当にペテロはふるいにかけられ、「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(33節)と豪語していたのに、三度もイエス様を「知らない」と否認してしまいます(54-62節)。そういうシモンの弱さをイエス様はよくご存知で、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように祈ったよ」とおっしゃってくださるのです。これはルカの福音書にしか記されていないものですが、私たちの心に残るイエス様のお祈りでございます。
  サタンがふるいにかけるのは「あなたがた」全員に関わることであり(31節)、イエス様は間違いなく全員のために祈っていてくださいます。そのイエス様のお祈りを、まさにこの私に対して「わたしは、あなたのために祈りました」と言われているものとして聴き、私自身のためのお祈りとしてしっかり受けとめる必要があるのでないでしょうか。そのことがとても大切であることを、ここで教えられるのです。
  ペテロのためにイエス様は祈っておられた。だから、ペテロは立ち直ることができました。このイエス様のお祈りが聞かれた証拠は、復活のイエス様がシモン・ペテロに親しく現れてくださったことによるのです。ルカの福音書は間接的な表現で、そのことを伝えています。エマオ途上の弟子たちに復活のイエス様が現れてくださった24章の物語の終わりに、彼らが「エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、『ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された』と言っていた」(33-34節)と記されているのです。
  ルカの福音書の最後に記されている、復活のイエス様が天に昇って行かれる時のお姿も、しっかり瞼に刻みたいと思います。「それから、イエスは、彼らをベテニヤまで連れて行き、[両]手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行き、天に上げられた」(24:50-51)。復活のイエス様は、両手を挙げて弟子たちを祝福しながら、彼らを離れて天に上げられたのです。
  それでは、ルカの福音書の続編である使徒の働きを見てください。使徒の働きの書き出しで、「私は前の書で、……」と書いている「前の書」とは、ルカの福音書のことです。その続編である使徒の働きの1章11節を見ると、イエス様が天に昇って行くのを見ていた弟子たちに、御使いたちは「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」と告げています。この「あなたがたが見たときと同じ有様」とは、どんな有様か。前編のルカの福音書の終わりを知っている人には、すぐ分かりますね。両手を挙げて祝福しながら、イエス様は天に上げられています。その同じ有様で、両手を挙げて祝福しながら、イエス様はまたおいでになるのです。
  ですから、イエス様が私たちのところに、どういう有様で来てくださるか、よく分かりますね。両手を挙げて私たちを、いや私を祝福しながら来てくださるのです。私の信仰がなくならないように、私のために祈っていてくださるイエス様は、いつも両手を挙げて私を祝福してくださっているイエス様である。そのことをはっきり心に留めておいてください。
  さて、イエス様が祭司に任命されたのは特別な神様の誓いによるのだ(「そのためには、はっきりと誓いがなされています」20節)、ということをヘブル書の著者は強調しています。その根拠は詩篇110:4の言葉です。それが21節に、「主[キリスト]に対しては次のように言われた方の誓いがあります」という導入句に続いて引用されています。「主(神)は誓ってこう言われ、みこころを変えられことはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」  このように、「あなたはとこしえに祭司である」と神が誓われる中で、イエス様は祭司に任命されているのです。
  それで「イエスは、さらにすぐれた契約の保証となれたのです」(22節)。旧約時代の祭司たちは、神がモーセを通してイスラエル民族に与えてくださった旧い契約のもとで、祭司として任命されていました。しかし、イエス様は旧い契約の枠を超えて[いや、むしろ「破って」と言ったほうがよいかもしれません]、「さらにすぐれた契約の保証」となってくださったのです。8章6節では「さらにすぐれた契約の仲介者」と言われていますが、「保証(人)」と「仲介者」とは同じような役割を担っていると考えてよいでしょう。「さらにすぐれた契約」とは、もちろん「新しい契約」のことです。今回は「新しい契約」の内容には触れません。それは次の8章に詳しく書いてありますので、次回の説教で話したいと思います。
  今回は、イエス様が「とこしえに祭司である」こと、永遠の祭司であられることをしっかり学び、そのことをはっきり心に刻ませていただきたいと願っています。23節を見てください。「彼ら(旧約時代の祭司たち)の場合は、[ただの人間である以上]死ということがあるため」に、祭司の務めにいつまでも留まることができません(そうです。私も牧師の務めにいつまでも留まれないので、引退させていただきました)。ですから、次から次へと新しい人が祭司として立てられていかなければなりません。そのようにして「大ぜいの者が祭司となりました。」 
  24節を見ましょう。「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。」この「変わることのない」と訳されたギリシア語は、いろいろな訳が可能であり、週報に掲載の説教要旨には、「不滅の(廃止されることのない)祭司職」という岩波訳を紹介しておきました。決して滅びることない、決して廃止されることない、永遠の祭司の務めをキリストは担っていてくださるのです。
  ですから、キリストは「ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(25節)。「完全に救う」と訳されている「完全に」は、「とこしえに」と訳すことができます。原語のギリシア語には、「いつでも」「いつまでも」という意味も含まれています。今は救ってくださるが、明日は分からないというのではありません。明日も明後日も、いつまでも救ってくださる。そういうことが「完全に救うことがおできになる」ということですね。
  私たちの大祭司であるキリストは、「いつも生きていて」くださる復活の主です。よみがえらされて永遠に生きておられる主イエス様!  このお方が私たちの大祭司、不滅の祭司の務めを担っていてくださるキリストです。ですから、いつもこのお方によって、私は完全に救われるのだ、完全に守られているのだ、ということを覚えさせていただけるのです。私のために、いつも「とりなしをしておられる」イエス様!  私が夜寝ているときも、イエス様は私のために祈っていてくださる。私が何かするときに、食事をしているときにも、イエス様は私のために祈っていてくださる。そのことを本当に覚えたいのでございます。
  「黙想の家」というのが練馬区の上石神井にあります。西武新宿線の「武蔵関(むさしせき)」という駅の近くです。イエズス会の神学院がある敷地の一角にあります。そこで教職アシュラムが毎年開かれていますが、今年(2005年)は京浜アシュラムも11月にそこで開くことになっています。沈黙を大切にする施設で、一緒に食事をするときも沈黙なのです。最初はとても苦痛に思われましたが、私のために祈っていてくださるイエス様を覚えながら、そのイエス様に感謝しながら食事をするのだと分かってきたとき、沈黙の食事のすばらしさを私なりに体験できるようになりました。
  私は夜よく眠れるほうですが、年のせいで明け方早く目覚めることが多くなりました。その時に、感謝なことに、イエス様が私ために祈っていてくださることが、すぐ思い浮かぶのです。そうすると安心して、また自然に眠りに誘われてまいります。私たちが寝ている時も休まずに祈っていてくださるイエス様が、私たちの瞼に焼き付けられるようになると良いですね。私がそうさせていただいているのですから、皆様もそうさせていただけると思います。
 さて、次の26節以下の段落にまいります。「このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方なのです」(26節)。「きよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ」と言うと、私たちとは全く関係のない方のように思われますが、すでに学んだように、イエス様は私たちと同じ人間になって、私たちと同じように苦しみを味わい、最後は十字架において死の苦しみを極みまで味わい尽くしてくださいました。けれどもイエス様は、まことの神として、同時に「悪も汚れもなく、罪人から離れ」たお方であられます。そのようなお方が、私たちの弱さを知って私たちに同情し、私たちを助けてくださるのです。この「大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方」であり、そのような方を私たちは与えられています。ですから、すでに4章の終わりで学んだように、私たちは大胆に、憚ることなく、恵みの座に近づくことが許されているのです。
  27節に進みます。「ほかの[旧い契約のもとにある]大祭司とは違い、キリストには、まず自分の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」 ここに、「ただ一度」というとても大事な副詞が出てきます。これはヘブル書のキーワードの一つと言ってもよろしいでしょう。最大のキーワードは「メルキゼデクの位に等しい大祭司」ですが、それとの関連で「ただ一度」も重要な言葉なのです。
  これは英語では once for all で、「一度で全部」という意味になります。一度で全部を完成している事柄ですから、繰り返し行う必要がありません。そのような意味で、イエス様は「ただ一度」ご自身をささげてくださったのです。ですから、もう繰り返しご自身をささげる必要はありません。イエス様ご自身は罪を犯したことのないお方ですから、「自分の罪のために」いけにえをささける必要はありませんでした。それでも、もしイエス様が旧い契約の枠の中の祭司であったなら、私たちの罪のために毎日いけにえをささげなければならなかったでしょう。しかし、イエス様は「ただ一度」しかも「自分自身を[十字架に]ささげ」てくださいました。それで私たちの罪のためのいけにえは、全部果たされたのです。これはすごいことではありませんか。本当にすばらしい、まさに驚くばかりの恵みであります。
  この恵みのすばらしさに、私たちは気づかないでいることがあります。イエス様が十字架においてご自分をささげてくださったそのいけにえは、「ただ一度で」完全なものなのです。私たちの罪を十分にきよめて余りあるいけにえであります。このイエス様のいけにえを覚えるのが、聖餐式であると思います。聖餐式でパンをいただき、またぶどう酒(汁)をいだくとき、この「ただ一度」のいけにえの尊さ・ありがたさを覚えさせられ、そのすばらしさを私たちの心に刻むように味わうことができるのです。 
  この「ただ一度」ということが、実は、聖書の終末論と深く関わっていることも、ぜひ知っていただきたい。終末論というと、世の終わりの事柄を論じる分野である、と一般に考えられています。でも、聖書の終末論はそれだけの単純なものではありません。もう終末は来ている! 「ただ一度」イエス様がご自身をささげてくださったことによって、私たちの救いが全うされている!  これも終末論なのです。一度で完全ですから、それで終わりなのです。《そういう救いの恵みを私は受けている、私のための救いは完全に為されている》ということを、はっきり心に刻むように覚えていただきたい。
  「律法(旧い契約)は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことば(新しい契約)は、永遠に全うされた御子を立てるのです」(28節)。この「永遠に全うされた」は、特に私たちの救いに関して言われています。この御子は、ご自身を「ただ一度」ささげることによって、私たちの救いを永遠に全うされているのです。この御子を仲介者として立てているのが新しい契約ですが、そのことは8章を扱う次回の説教で詳しく学びましょう。
  今回は、とこしえに祭司であるキリスト、ご自身を「ただ一度」ささげて私たちの救い全うしてくださったイエス様が、いつも私の信仰がなくならないように、両手を挙げて祝福しながら、私のために祈っていてくださることを、はっきり覚えてください。そして、そのイエス様のお姿を、あなたの瞼にしっかり刻んでいただきたいと願っています。  (村瀬俊夫 2005.2.13)

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