2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 19》 眞 心 か ら 神 に 近 づ こ う ヘブル 10:19~25

 ヘブル書の主要なテーマである大祭司キリスト論が、今回学ぶ個所の前の10章18節で終わりました。前回学んだ個所は、そのクライマックス、あるいはフィナーレと言うべきところでした。それを受けて、大事な勧めの言葉が記されてまいります。10章19節以下は全部が勧めの言葉だといってよいくらいですが、その中でも今回学ぶ10章の19-25は、最も重要な勧めの言葉が記されている個所である、と言ってもよいでしょう。
  「こういうわけですから」という書き出しは、5章から10章18節にかけて述べてきた大祭司キリスト論の教えを受けています。19-25節は七つの節に分けられている段落ですが、文章を節に分けるのは後になって行われたことです。便利なので今では広く共通して使われていますが、節の区分など本来はありませんでした。実は、ギリシア語の原文で、この個所は一続きの文章なのです。
  日本語訳は、新改訳も新共同訳も、節ごとに切って一つの文章にし、それでも前後の関係が分かるよう工夫しています。しかし、先に述べたように、原文は一続きの長い文章です。それでも、ヘブル書の著者は優れたギリシア語の使い手でありますから、長い文章のどこが中心であるかはすぐに分かります。それは22節で、新改訳も新共同訳も文末に来ていますが、ギリシア語原文では文頭にある「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」という言葉です。
  この言葉が、ここの文章の要(かなめ)であります。この要の言葉から採りました説教題「真心から神に近づこう」が、これまで学んできた「キリストが私たちの大祭司である」ということから来る重要な結論であり、それに基づく勧めの言葉になるのです。そして23節に、「しっかりと希望を告白しようではありませんか」という勧めの言葉が続きます。22節と23節は、別々の文章と思われますが、ギリシア語原文では、かろうじてコロンでつながっています。「真心から神に近づこう」という勧めの流れの中で、「しっかりと希望を告白しよう」と勧められているのです。
  さらに24節にも、「愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか」という勧めが続きます。このように三つの勧告の言葉が、この個所の一続きの文章の主文章を構成していますが、その中でも最初の「真心から神に近づこう」が中心であることは言うまでもありません。その他の文章は、これら三つの勧告の理由を示すか、勧告と関係する具体的なことを扱っている内容であります。特に19節から21節までは、「真心から神に近づこうではありませんか」という勧告の根拠(あるいは理由)を述べているのです。
  それから、注目していただきたいことがあります。ヘブル書には滅多に出てこない「兄弟たち」という呼びかけが、19節に見られることです。ヘブル書で「兄弟たち」という呼びかけがされているのは、3回だけであります。最初は3章12節で、「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」と言われています。そして10章19節で、大祭司キリスト論を述べ終わって、最も重要な勧告をするに当たって、著者は再び「兄弟たち」と親しく呼びかけているのです。もう一回出てくるのは、結びの言葉を述べ始める13章22節で、「兄弟たち。このような勧めの言葉を受けてください」とあります。
  19-21節には、私たちが真心から神に近づける理由もしくは根拠が述べられています。19節に記されているのは、その第一の根拠です。「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」 このように新改訳は独立した文章にしていますが、構文上は「……できるのですから」と20節に続いています。「大胆に」という副詞は、これまでも何回か出てきましたが、「憚ることなく」あるいは「確信をもって」と訳すことができます。
  この第一の根拠は、これまで大祭司キリスト論を展開する中で、著者が力強く述べてきたことです。イエス様が十字架で流された血は、ただ一度で私たちの贖いを完全に成し遂げてくれました。そのようにイエス・キリストが、「ただ一度」ご自身の死によって永遠の贖いを成し遂げてくださったので、私たちは罪を赦され神の子とされた者として、何も憚ることなく、大胆に、確信をもって聖所に入り、神に近づくことができるのです。この聖所は《[そこに神が現臨される]至聖所》を指しており、それで新改訳は原文にはない「まことの」という形容詞を付して「まことの聖所」と訳しているのだのだと思います。
  第二の根拠は、少し飛んで21節に記されています。飛ばした20節は、19節についての補足説明でありますが、後回しにして第二の理由を先に見ましょう。「私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります」と、新改訳は独立した文章に訳しています。しかし、「……偉大な祭司がありますので」と訳すのが、原文に忠実であります。「神の家」は教会のことです。教会の上に立てられた、教会のかしらであるお方は、偉大な祭司であり、私たちのためにいつもとりなしをしてくださっています。だから大胆に、憚ることなく、確信をもって「真心から神に近づこうではありませんか」との勧めにつながるのです。
  飛ばした20節ですが、私たちが至聖所に入ることができることについて、補足的な説明をしています。原文に即して訳すなら、「その聖所に入ることを、イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、新しく設けられた生ける道として、新たに開いてくださったのです」となります。「垂れ幕」は、聖所と至聖所とを隔てる幕のことです。この垂れ幕の奥にある至聖所には、祭司も入ることができず、例外として年に一回、大祭司がいけにえの動物の血を携えて入ることができただけでした。この20節で言われているのは、イエス様がご自身の肉体を永遠の贖いとしてささげることにより、至聖所に入ることを妨げる垂れ幕を取り除いてくださった、ということであります。
  ここには当然、イエス様の死とともに復活との出来事が含蓄されています。ご自身の死と復活とによって、イエス様は神と人とを隔てる垂れ幕を通り過ぎて、あるいは乗り越えて行かれました。そのことは、「垂れ幕を取り去ってくださった」と言い換えてもよいと思います。こうしてイエス様は、私たちが大胆に[憚ることなく、確信をもって]神に近づける道、そういう意味での「新しく設けられた生ける道」を新たに開いてくださいました。それで私たちは、「大胆に至聖所に入ることができる」という確信を抱くことができるのです。
  そのような根拠と理由で、22節の主文章につながります。新改訳では文末に来ていますが、ギリシア語原文では「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」が文頭に来るのです。もっと厳密に表現すれば、「近づこうではありませんか、真心から、全き信仰をもって」という語順になります。その後に、原文では主文章である「真心から神に近づこうではありませんか」という勧めの言葉をさらなる根拠によって説明する副文章として、新改訳では22節の前半に記されている文章が続くのです。すなわち、「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから」と。
  新改訳は、22節の冒頭に「そのようなわけで」という原文には全くない言葉を入れています。これは19-21節を各節ごとに独立した文章に訳してしまったための応急処置のようなものでしょう。19-21節に述べたことを根拠ないし理由として22節の勧めの言葉が語られるのだ、ということを示すためにも、「そのようなわけで」という一句を入れなればならなかったのです。
  私たちが真心から神に近づける根拠には、さらに22節の[原文では]後半(新改訳では前半)に記されているように、「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われた」ということがあります。でも、この新改訳の文章は分かりにくいと思います。私なりに分かりやすく言い換えますと、「[洗礼によって]心をきよめられて罪責感から解放され、からだもきよい水で洗われたのですから」となります。
  「心に血の注ぎを受けて」という訳は適当ではありません。これは「心をきよめられて」で良いのです。原文を直訳すれば、「邪悪な良心から心をきよめられて」となります。この「邪悪な良心」という表現は分かりにくいですね。これは「罪責感」と言い換えたらぴったりではありませんか。この罪責感から[私たちが]解放されていることが、ここで言われているのです。それで「心をきよめられて罪責感から解放され」と訳すことができます。それがどんなにすばらしい恵みであるかということも、罪責感に悩まされていた者であればあるほど、身にしみてよく理解できるでしょう。
  そのように「心をきよめられて罪責感から解放された」上に、これは洗礼の恵みを表しているのだと思いますが、「からだをきよい水で洗われた」のです。ですから、少しも疑うことなく、「神の恵みに全く信頼して、真心から神に近づこうではありませんか」と勧められているのです。
  ここで、大祭司キリスト論が展開される前の個所(4:14-16)を思い起こしましょう。そこは大祭司キリスト論の導入部でもあると申しました。同時に、そこは2章から4章まで続く勧告の言葉のクライマックスでもあります。そしてそれは、今学んでいる大祭司キリスト論を述べ終わった後の重要な勧告と響き合っている内容なのです。
  4章14節の「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」という勧告は、10章では23節の「しっかりと希望を告白しようではありませんか」という勧告と響き合っています。4章16節の「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」という勧告は、10章22節のように「真心から神に近づこうではありませんか」と言い換えてもよいのです。「近づこうではありませんか」は、どちらも同じギリシア語の動詞が使われています。
  すると、ヘブル書の主要なテーマである大祭司キリスト論は、4章14-16節の大事な勧告の言葉と、それと響き合う関係にある10章19-25節のさらに重要な勧告の言葉との間に挟まれるようにして展開されている、ということが分かります。このようなヘブル書の構成に、改めて注目していただけたら幸いであると思います。
 25節は、23節と24節の勧告の具体的な事例を述べている、と見ることができるでしょう。25節の終わりが、新改訳では「ますますそうしようではありませんか」、新共同訳では「ますます励まし合おうではありませんか」という文章になっているので、第四番目の勧告のように見えます。しかし、そうでないことはギリシア語原文を見れば明らかで、25節は23節および24節の勧告の具体的事例を挙げている文章なのです。
  この構文を考えて私訳してみると、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合うようにして-かの日が近づいているのを見ては、なおさらそのようにして」となります。このように言われる背後には、一部の人々が共に集まることをやめてしまっていた、という情況がありました。前にも述べたように、ローマ帝国下でキリスト教会が迫害を受けるようになると、ユダヤ教からキリスト教に移った人々に、ユダヤ教側から戻って来るように強力な誘いがあったと思われます。ユダヤ教はローマ帝国の公認宗教でしたから、一応保護されていてあからさまな迫害を受けることがなかったのです。
  むしろローマの社会で、ユダヤ教は人々から尊敬されていたという一面があります。それでユダヤ人以外の人々(異邦人)がユダヤ教の会堂に来て、一緒に礼拝をしていたのです。中には男子の場合、割礼を受けてユダヤ人になった「改宗者」と呼ばれる人々もいました。そこまで行けない人々は、「神を敬う人々」と呼ばれていました。そういう人々が会堂に多く集まっていたという現実は、ユダヤ教がそれだけの信頼を当時のローマの社会の中で得ていたからではないでしょうか。ですから、「集まることをやめた」といっても、彼らが全く信仰を捨ててしまったというのではなく、ユダヤ教の集会に戻ってしまったというケースも考えられるのです。
  そういう中で、キリスト者たちは、主がよみがえられた日(週の初めの日、日曜日)を覚えて、礼拝のために集まっていました。そのようにキリスト者として、ユダヤ教の安息日(土曜日)にではなく、「週の初めの日に集まることやめないでほしい」という著者の切なる願いが披瀝されているのです。
  ここで使われている「集まること(集会)」という言葉について、少しコメントしておきます。ここでは、普通の集会を意味するよりも、その意味を強調する前置詞エピを前に付けた名詞(エピスュナゴーゲー)が使われているのです。それで日本語に訳すとき「集まること」だけでは物足りない感じがします。「叩くこと」を強調して「うち叩くこと」、「砕くこと」を強調して「うち砕くこと」と言うように、ここは「うち集まること」と表現したらぴったりではないでしょうか。ただ集まるのではなく、うち集まるのです。ヘブル書の著者は、「いっしょにうち集まることをやめないように」と、励ましながら警告しているのです。
  それは前の勧めと関係があります。23節には「しっかり希望を告白しようではありませんか」と勧められています。その希望の告白を堅持するために、主の日の礼拝に「うち集まること」をやめてはならないのです。24節には「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか」と勧められています。「愛と善行を促すように」という訳では物足りません。「愛と善行を鼓舞(あるいは激励)するように」と訳してほしいと思います。愛と善行へと鼓舞され、激励されていくためにも、週の初めの日の礼拝に「うち集まること」が必要なのです。
  さらにもう一つ、25節で注目したいのは、「かの日が近づいているのを見て」という一句です。一般的には、これは再臨の日を指すと解釈されています。その解釈を認めたうえで、私は再臨の日よりも、もっと身近な経験として、今の苦しい状況がいつまでも続くわけではない、トンネルから抜け出す日が必ず来るのだという、その日を指していると思います。その日を見ているのですから、ますます「真心から神に近づこう」ではありませんか、と著者は熱心に勧めているのです。(村瀬俊夫 2005.7.24)


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