ヘブル書連続説教も最後の章に入ります。もう終わりが近づきました。ヘブル書の主要テーマである大祭司キリスト論が、5章1節から10章18節までに述べられています。それに基づく大事な勧めの言葉が、その前後の4章16節から18節までと、10章19節から25節までとに記されています。その後にも奨励が続くのですが、大祭司キリスト論の余韻の中で行われている勧めであり、それが12章で一応終わっております。
そうしますと、13章は付け足しのような感じがしなくもありません。本書の著者は、前に言いましたように、パウロやヨハネの福音書の著者と並ぶ神学者です。そういう優れた神学者の片鱗が、これまで学んできた12章までには、随所に輝き出ていました。読み始めたばかり方には、少し難しい書だと思われるかもしれません。しかし、何度も読んでいる方には、ヘブル書の著者は本当にすばらしい神学者だなあ、という感想を強く抱かれるようになるでしょう。しかし、13章にはそういう著者の偉大な神学者らしいひらめきが感じられない、ということが言えるのかもしれません。
見方によってはそうではなく、8節やその後に出てくる言葉も大祭司キリスト論の余韻の中で書かれていると言えるでしょう。しかし、今回学ぶ箇所に関しては、その勧めの内容が平凡ではないか、という感じがします。ごく当たり前のことを述べているに過ぎないのではないか。ここに勧められていること、《兄弟愛を実践せよ。困っている人々のことを思いやり、助けてあげよ。結婚生活を大事にせよ。金銭の奴隷にならないようにせよ》ということは、キリスト教と関係のない世界でも言われることです。
しかし、こういう当たり前のことが、どれだけ実行できているでしょうか。そのことを厳しく自らに問いかけられるとき、このような勧めは決して平凡なものではなく、意味のある勧めであるんだ、ということを改めて思います。こういう当たり前の日常生活がきちんと行われていくためにも、これまで述べてきた大祭司キリスト論が必要である、というように著者は考えていたのではないか。そのように私は思わされているのです。
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最初に兄弟愛のことが言われています。「兄弟愛をいつも持っていなさい」という新改訳の文章は、だいぶ意訳されています。ギリシア語原文は「兄弟愛」が主語ですから、原文に即して、「兄弟愛がいつもとどまるようにしなさい」と訳せばよいのです。残念なことに、兄弟愛がなかなかとどまらない、という現実があります。それで「兄弟愛がいつもとどまるようにしなさい」と勧められているわけです。
兄弟愛については、パウロもペテロもヨハネも述べています。パウロは、テサロニケ人への手紙第一の4章9-10節に「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対してあなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであって(兄弟愛にとどまって)ほしい」と書いています。
神から教えられた福音の教えは、この兄弟愛に凝縮されています。それを裏づけているのが、「わたしがあなたがたに与える新しい戒めは、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたが互いに愛し合うことである」と言われているイエス様ご自身の御言葉です(ヨハネ13:34)。先ほど「主われを愛す」の歌詞で親しまれている讃美歌(『讃美歌21』484番)を口語訳の歌詞で歌いました。「聖書は言う、イェスさまは愛されます、このわたしを」と。それはイエス様に愛されているこの私が、そして私たちが、互いに愛し合うようになるためなのです。
5節の後半に、「主ご自身がこう言われます」と言って、旧約聖書の言葉が引用されています。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と。これは申命記31章6節、それからヨシュア記1章5節にある言葉です。エジプトを出たイスラエルの民が、40年の荒野放浪の後、天に召された指導者モーセの後継者であるヨシュアに率いられて約束の地に入ろうとするとき、神がヨシュアに語られている言葉であります。ヨシュア記1章5節の後半を見てください。「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束して、神はヨシュアを励ましておられるのです。
イエス様は十字架につけられる前の夜、ヨハネの福音書では、とても大事なことをお話しになっています。そのお話が始まるのが14章からですが、16節から18節にかけてこう言われます。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。……その方は真理の御霊です。……あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。」
弟子たちは地上に残されますが、イエス様は彼らを孤児にはしない、そして「わたしはあなたがたのところに戻ってくる」とまで言われています。この「戻ってくる」という約束は、聖霊降臨によって実現しているのです。今イエス様は、聖霊によって私たちの中に住み、私たちと共におられます。その方が大祭司キリストでもいらっしゃいます。いつも私のためにとりなしをしていてくださる。それはイエス様の私に対する大きな愛であり、イエス様を遣わしてくださった父なる神の測り知れない愛でもあるのです。
そういうイエス様の愛、神様の愛を深く深く覚えさせられていくときに、私たちが兄弟愛を実践することはそんなに難しいことでなくなるばかりか、自ずから兄弟愛を実践するようにさせられていくのではないでしょうか。そのように思うのですが、思うだけでなく、そのことを体験させられていきたい。イエス様が共にいてくださる、その愛を私が深く深く感じている。だから私も兄弟を愛せずにはいられない。そういう思いが自ずから行動に現れるようになりたいのです。
ペテロの手紙第一の1章22節を見てください。「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」 真理は福音です。福音に生かされることによって、偽りのない兄弟愛を抱くようにされた。私のためにいのちを捨ててくださり、そのいのちを私に与えてくださっているイエス様が共にいてくださる。それほどまでに私はイエス様に愛され、神様の大きな愛の中に私が包まれている。そのことを思う時に、私たちは兄弟愛を自ずから抱かされ、熱く愛し合うようにされていくのではないでしょうか。
そしてヨハネも、その手紙第一の3章16節で、こう言います。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と。このように私たちが互いに熱く愛し合う兄弟愛を実践していくべきであるし、実践することができるのだ、と教えられているのです
ヘブル書2章で学んだことを思い出してください。大祭司は人間でなければなりません。大祭司イエス様というとき、イエス様の人間性が必然的に強調されています。大祭司キリストは、私たちと同じ血と肉を持つ人間になってくださいました。そして、私たちの兄弟と呼ばれることをも恥となさらなかった、と書いてありました。私たちは軽々しくイエス様を兄弟とはお呼びできない気持ちですが、イエス様は私たちから兄弟と呼ばれてもよい方になってくださったのです。まさに大祭司キリストは、私たちの兄弟として、私たちのためにとりなしをしてくださっています。そのようなヘブル書の教えは本当にすばらしい、と改めて思わされるのです。
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この兄弟愛は、さらに展開して2節では「旅人をもてなすことを忘れてはいけません」と言われます。今日は、家庭で旅人をもてなすことがなくなったようで、私も地方に御用で旅をしますが、牧師や信徒のお宅に泊めてもらうことが最近は絶えてありません。ビジネスホテルが多くあるせいか、そんな所に案内されるのです。
イエス様の時代は旅館など今日のように発達していなかったでしょうから、旅する人は知人や関係者の家に宿泊することが圧倒的に多かったものと思われます。ここで「旅人をもてなしなさい」と言われるとき、限定されているわけではありませんが、第一義的にはキリスト者の旅人のことが考えられているでしょう。キリスト者の旅人をもてなすことが、キリスト者にとって兄弟愛の実践の大切な課題の一つであったからです。
そのことは、事情や状況が変わっても、忘れてはならないことだと思います。2節後半に「こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」と書いてあります。これはアブラハムの故事によっています。創世記18章を開いてみてください。「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入り口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏した。そして言った。『ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないで[お泊り]ください』」(1-3節)。このようにしてお泊めした三人の人が、実は御使いたちであったのです。
ここには、旅人をもてなすときは、イエス様を迎えるようにもてなしなさい、という意図が込められているのではないかと思います。そんなに気安く旅人をもてなすことができたわけではありません。騙されたり、被害にあったりすることもあったでしょう。それでも、御使いを(そしてイエス様を)迎える思いで、旅人を迎えるのだという心構えは、しっかり学びたいものです。
兄弟愛は、旅人のように目に見える人に対してだけではなく、目に見えない人たちにも及ぼされていく。それが次に言われているのです。「牢(刑務所)につながれている人々を、自分も牢(刑務所)にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい」(3節)。「苦しめられている人々」は、飢餓や病気、貧困や戦争による惨禍等で、世界中にたくさんいます。そういう人たちにも及んでいく兄弟愛であることが、ここでは教えられているのです。
これをどのように実践していくかは、一概に言えない難しい課題ですが、私たちの家庭のことを少し話します。1994年から現在まで12年、里親をさせていただいています。最初の8年の里子はフィリピンの娘さんで(小学5年から高校卒業まで)、その後の4年間の里子はカンボジアの少女で現在小学4年生です。毎月わずかの送金ですが、それで彼女たちは学校に通えるのです。その他、国境なき医師団やグリーンピース、ユニセフ等に自動的に銀行口座から引き落とされるようにして支援させていただています。
刑務所にいる人たちの中には、罪がないのに罪を負わされて苦しんでいる方も少なくないことを覚えましょう。その人たちのことを思いやることは、大事なことだと思います。カール・バルトという20世紀最大の神学者と呼ばれた方は、優れた説教者でもありましたが、大学教授を引退した晩年、教会に招かれても断り、刑務所でしか説教しませんでした。深く教えられることですね。
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それから結婚のことが4節で言われています。夫婦はある意味で一番近い兄弟姉妹ですから、結婚生活は兄弟愛の最も具体的な実践の場です。夫婦の間で愛し合うことができなかったら、兄弟愛の実践はどうなるのでしょう。だから勧められているのです。「結婚[生活]がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです」と。
結婚生活が大切にされるためには、節操と節制が必要になります。不品行や姦淫に陥らないためにも、節操と節制が必要です。こういうことも、イエス様の愛を豊かに受けることがなければ、絵に描いた餅で、実践することなどできません。私は最近、割合よく節制していると思っていますが、そうすることができるのも、イエス様の愛を日々新たに、深く思わされているからなのです。結婚生活を祝福されたものにしていくためにも、夫婦お互いが、イエス様の愛をしっかり受けていかなければなりません。
そして5節に、「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい」と勧められています。テモテへの手紙第一の6章9-10節を見てください。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」 性や金銭への欲望から解放されるためにも、やはりイエス・キリストの愛を豊かに身に受けていくことが決め手になるのです。
お金儲けが絶対に悪いわけではありません。ただ溜め込めばいい、という考えではいけない。お金が有効に使われるようにし、多く与えられたなら、多くよいことに献げていく。そういう気持ちが大事であり、その意味で献金はとても意味のあることです。献金が喜んでできることは、金銭欲に自分が縛られていないことの証しになります。
このような勧めを実行していくことは、言うほどに易くはない。そのことがよく分かっていたヘブル書の著者は、二つの旧約聖書の言葉を引用しているのです。その一つは先に取り上げましたから、第二に引用している詩篇118篇6節の言葉を見ることにします。それを引用する前に、著者が「そこで、私たちは確信に満ちてこう言います」(6節)と言っていることに注目しましょう。著者は確信して、この言葉を引用しているのです。
「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」 この言葉に対応するものが、ローマ人への手紙8章31、34節であると思います。「神が[現に]私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。……死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」 ここに大祭司キリスト論との接点がありますね。このイエス様がいつも共にいてくださる「私の助け手です。」 ですから、私たちも確信に満ちて言うことができます。「私は恐れません。……」と。 (村瀬俊夫 2006.5.14)
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