新しい年を迎えて2006年の二度目の主日ですが、ヘブル書の連続説教をさせていただきます。今回は11章の最後の個所を学びます。11章には、旧約聖書に見られる信仰に生きた人々が取り上げられています。特にアブラハムについて、モーセについて詳しく述べられている箇所を学んでまいりました。そのことで著者はかなりの字数と時間を費やしましたので、32節に「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すなら、時が足りないでしょう」と書いています。
ここに名が挙げられた人々について詳しく述べていたら時が足りなく、また紙も足りなくなります。当時、紙は大量生産することができず、とても貴重品だったのです。それで、この人たちについては、33節と34節に一括して、「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃(は)をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」と書いてあるだけなのです。
32節に名が記されている六人についてですが、最初の四人は士師記に、あとの二人はサムエル記に出てまいります。それから二人ずつ組み合わせて見てみます。ギデオンとバラク、サムソンとエフタ、ダビデとサムエル。この三組とも年代順には逆になっています。バラクのほうがギデオンより先、エフタのほうがサムソンより先であり、ダビデとサムエルでは、サムエルのほうが先であることは誰にでも分かります。どうして三つの組み合わせで年代順が逆になっているのか。意図的にそうしているのでしょうが、その理由はよく分かりません。最後に「預言者たちについても」と出てくる「預言者たち」には、エリヤやエリシャ、イザヤやエレミヤという人たちが含まれるのではないでしょうか。
以上の人たちについて「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、……」と言われているあたりは、大体そうかなと思われます。「国々を征服し」が一番よく当てはまるのはダビデです。しかし、続く「獅子の口をふさぎ」となると、以上の人たちには該当しません。このことですぐ思い当たるのはダニエルです。ダニエルを預言者と考えれば、問題はありません。ユダヤ教の聖書では、ダニエル書は預言書ではなく詩篇を代表とする諸書の中に入れられています。しかし、ヘブル書の著者が親しんでいた七十人訳聖書では、私たちの聖書と同じように、ダニエル書は預言書の仲間に入れられていたので、おそらくダニエルを預言者の一人とみなしていたのでしょう。
ダニエルは獅子の檻(おり)に投げ込まれましたが、獅子はダニエルに襲いかかることをしませんでした。神が獅子の口をふさいでくださったのです(ダニエル6章)。続く「火の勢いを消し」もダニエル書の物語に関係があります。ダニエルと共にバビロンに連れて来られた三人の仲間たちは、彼らの信仰を曲げることがなかったので、火の燃える炉の中に投げ込まれました。しかし、彼らは焼け死ぬどころか、火の勢いを消すかのように生き延びたのです(ダニエル3章)。彼らの信仰は、「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。……たといそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えることはしません」(ダニエル3:17-18)と、ネブカドネツァル王に向かって言い放った言葉によく表されています。
それから「剣の刃をのがれ」とありますが、これには預言者エリヤやエリシャの場合が考えられます。エリヤはアハブ王の后(きさき)イゼベルの剣からのがれ(Ⅰ列王9:2以下)、エリシャはヨラム王の剣からのがれることができました(Ⅱ列王6:31以下)。さらに時代を下るなら、エレミヤがエホヤキム王の剣からのがれることができた事例を見ることができます(エレミヤ36:19,26)。
次の「弱い者なのに強くされ」は、多くの人たちに該当するのでしょうが、特に女性たちのことが考えられているという見方があります。その場合、考えられる一人は王妃エステルです。彼女は「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」と言い(エステル4:16)、死を覚悟して行動しました。一世紀末に書かれた[使徒教父文書の一つである]クレメンスの手紙Ⅰの中には、神の恵みによって強くされた女たちの筆頭に、ユディトが挙げられています(55:3-5)。ユディトは、旧約聖書には登場しません。旧約聖書の外典の中にあるユディト記の女主人公です。
このユディト記は、新共同訳聖書の中に、旧約聖書続編の一つとして収録されています。紀元前二世紀ころ、ユダヤの国はシリアのセレウコス王朝に支配されていました。その支配をはねのけてユダヤを独立させようとする運動が行われていたのです。そのユダヤ独立戦争が歴史的背景になっていたのですが、ユディト書の物語の舞台はバビロンのネブカドネツァル王の時代にさかのぼらされています。その点では、ダニエル書と似ている面があります。
物語では、ユダヤを攻めるのはネブカドネツァル王ですが、実際はシリアの王アンティオコス四世(彼は自らを神の「顕現」であるとしたので、アンティオコス・エピファネスとも呼ばれる)が攻めてきた時のことです。
ユダヤのある町が包囲され、餓死寸前に状態に追いやられました。そのとき、夫に先立たれて喪に服していたユディトが立ち上がります。彼女は「私には策がありますから敵の陣営に行かせてください」と自ら願い出ると、喪服を脱いで見違えるほど美しく着飾り、敵の陣営に降伏するように見せかけて入って行きます。ユディトの弁舌と容色に魅せられた敵将ホロフェルネスは、彼女が勧める酒に泥酔して寝入る間に、彼女に首をかき切られてしまいます。このユディトの勇気ある行動によって、餓死寸前にあった同胞ユダヤ人の多くのいのちが救われたのです。このユディトの物語は、「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」とある記述の格好の事例とみなされます。
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続いて35節に「女たちは、死んだ者たちをよみがえらせていただきました」とあるのは、預言者エリヤとエリシャの時代に、その事例を見ることができます。エリヤは、ツェレファテの貧しいやもめの男の子が重い病にかかり死んでしまった、その男の子を生き返らしています(Ⅰ列王17章)。そしてエリシャは、シュネムの裕福な女の男の子を、彼が急病で死んでしまった時に生き返らしています(Ⅱ列王4章)。そのように、ここで言われる「女たち」は、ツェレファテの貧しいやもめとシュネムの裕福な女のことである、と考えてよいでしょう。
次に「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放を願わないで拷問を受けました」とある事例は、これも旧約聖書には見られません。こ事例がはっきり認められるのは、外典(旧約聖書続編)のマカバイ記Ⅱにおいてであります。このことからも、ヘブル書の著者やその読者や聴き手である人々にとっては、外典の世界が身近にあったように思われます。彼らはユディト記やマカバイ記、このマカバイ記にはⅠとⅡがありますが、それらの書に普段からなじんでいたのではないでしょうか。
マカバイ記Ⅱ7章には、「七人兄弟の殉教」の物語が記されています。シリア王のアンティオコス・エピファネスの攻撃を受け、捕虜とされた七人兄弟と母親がいました。彼らは暴行を受けたうえに、律法で禁じられた豚肉を食べるように強制されます。しかし、彼らは毅然(きぜん)として王に言い放ちます。「我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ」(2節)と。最初の者が無惨な姿で殉教した後、二番目の者は、むごい拷問のすえ息を引き取る間際に言い放ちました。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々のいのちを消し去ろうとしているが、世界の王(神)は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しいいのちへとよみがえらせてくださるのだ」(9節)と。
三番目の者から六番目の者まで、どの兄弟もむごい拷問のすえ息を引き取る前に、「神は我々を新しいいのちへとよみがえらせてくださるのだ」と言って、迫害する者たちを驚嘆させます。七番目の者(末の弟)の場合、迫害する王もあわれに思い、母親に「少年を救うために一役買うように勧めた」(25節)のです。母親は、末の息子を説得することを承知しましたが、説得するのではなく、「この死刑執行人を恐れてはなりません。兄に倣って、喜んで死を受け入れなさい。そうすれば、憐れみによって私は、お前を兄たちと共に、神様から戻していただけるでしょう」(29節)と言って、殉教するように励ましてしまったのです。なんという母親でしょう! 20節には、このように書いてあります。「それにしても、称賛されるべきはこの母親であり、記憶されるべき模範であった。わずか一日のうちに七人の息子が惨殺されるのを直視しながら、主に対する希望のゆえに、喜んでこれに耐えたのである」と。
この末の息子は、母親が語り終えると、すぐ王に向かって言いました。「何を待っているのだ。私は王の命令などに耳は貸さない。私が従うのは、モーセを通して我々の先祖に与えられた律法の命令である。……私たち兄弟は、永遠のいのちのために、つかの間の苦痛を忍び、神の契約の下に倒れたのだ」(30,36節)と。こうして七番目の息子も殉教し、最後に七人の息子の母親も殉教します。この七人の兄弟とその母親は、何を望んでそのような拷問に耐え、殉教することができたのでしょうか。それは、彼らを《新しいいのちへとよみがえらせてくださる》という信仰であります。それこそ、ヘブル書11章35節に「さらにすぐれたよみがえりを得るために」とあることの事例なのです。
36節以下には、「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられる目に会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました」と書いてあります。このようなすさまじい情景は、「のこぎりで引かれ」(37節)とあることを除けば、マカバイ記ⅠとⅡの随所によく描き出されているものです。
「のこぎりで引かれた」という事例については、旧約聖書にも外典の旧約聖書続編にも見ることができません。外典にも数えられていない偽典の一つに『イザヤの殉教』という書があります。それには、預言者イザヤが、ゼデキヤの後にユダ王国の王となったマナセの下で、のこぎりに引かれて殉教したことが記されているのです。そのような偽典の物語は、伝説として流布していました。それでヘブル書の著者や読者たちも、それを知っていたのではないでしょうか。
なお38節には、「この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした」という注が挿入されています。彼らにふさわしい所は、この世ではなく天にある都でありますが、それは具体的には何か。それが39節と40節に書いてあるのです。
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39節には「約束されたもの」、40節には「さらにすぐれたもの」とあります。しかし、彼らは「得ませんでした」と言われているように、その実現を見ることはありませんでした。それなのに、それを望み見て、それが有るかのごとくに信じて、彼らは喜んで殉教したのです。39節には、そのことが「この人々はみな、信仰によって証しされました」と書いてあります。それでも、彼らは「約束されたもの」を得てはいませんでした。それにもかかわらず、彼らは《約束の実現を見なくても、その実現を見ているかのように確信して生きた》と言われているのです。
40節を見ると、「神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられた」と書いてあるではありませんか。その「神があらかじめ用意しておられた」「さらにすぐれたもの」を、私たちは今いただいており、今まさに観ているのです。それは具体的には、何でしょうか。すでに学んできた大祭司キリスト論の教えである、と言ってもよいでしょう。12章2節には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」と言われています。大祭司イエス・キリストは、信仰の創始者であり、完成者でもいらっしゃいます。私たちは、その方をいただいています。そのお方を持っているのです。
しかし、旧約の人々は、また旧約続編に登場する人々は、その「約束されたもの」をまだ手にしていなかったし、その実現を目で見ていたわけではありません。約束の実現を見なくても、彼らはここまで信仰によって生きてまいりました。そういうことが、ここで言われているのです。
最後に大事なことを述べて、結びにいたします。そういう旧約や旧約続編の時代の人々の信仰は、すばらしい信仰だと思います。でも、そのすばらしい信仰も、私たちに与えられているイエス・キリストの信仰をあらかじめ示している《予型》にすぎませんでした。私たちは、その予型が実際に現れた本物の「約束されたもの」を受けているのです。この「約束されたもの」は、ギリシア語原文では、もちろん単数形であります。
ところで、33節で「約束のものを得」と言われている「約束のもの」は複数形なのです。旧約時代でも、信仰に生きた人々は、《約束された数々のもの》を得ています。出エジプトをしたイスラエルの民は約束の地カナンに入ることができました。ダビデはさらに周囲の国々を征服し、イスラエル王国を形成しました。アブラハムの子孫が増えることも、ある程度まで実現しています。しかし、そういうことは、どれも完成された姿で実現しているわけではありません。いわば未完成の状態にとどまっているのです。
それに対して、新約時代に生きる私たちには、その「約束されたもの」が完成された姿で与えられています。その完成された姿における実現は、イエス・キリストによるものです。ヘブル書において、このイエス・キリストは、《メルキゼデクの位に等しい永遠の大祭司キリスト》であります。このお方によって完成された姿で実現している「さらにすぐれたもの」を、私たちは受けているし観てもいるのです。そういう私たちは、《旧約の人々にまさる信仰の人々として生き抜きましょう》と、強く勧められているのです。
そのように「約束されたもの」「さらにすぐれたもの」が完成された姿において実現しているのを観て、私たちは憚(はばか)ることなく[大胆に]神の御前に近づくことのできる恵みに生きています。その喜びと感謝に満ちた姿を私たちが見せることこそ、旧約の人々の未完成の部分を完成させることになるのです。そのことが、40節の終わりに「彼らが私たちと別に全うされるということはなかったからです」と言われていることの意味であると思います。 (村瀬俊夫 2006.1.8)
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