ヘブル書連続説教の第3回は、2章1~4節から話します。「ヘブル人への手紙」と言われるので、手紙であると思わされるのですが、本書の内容は少しも手紙らしくありません。第1回の説教の時に触れましたように、末尾の個所が手紙らしくなっているだけです。学者の多くは、本書を手紙らしくするために最後の数節を加えたのではないか、という仮説を立てています。現存する写本のすべてに末尾の個所が含まれているので、写本上の証拠はありません。ヨハネの福音書の21章のように、古い写本には欠けていて後代の写本にだけあると、後代の補遺であることが明白なのですが。
本書は手紙ではなく、きちんとしたメッセージを伝えたいという論文のようなもので、メッセージを論文の形で述べている文書であります。冒頭の書き出しから、そのことが分かりますね。「神は、……この終わりの時には、御子によって語られました」と、核心を突くことが述べられているのです。旧約時代には、神は預言者たちを用いて、いろいろな方法で、多くの時代にわたって語ってこられました。しかし、イエス・キリストが来られた今は、神はこの御子によって語ってくださいました。それは決定的(まさに終末論的!)な神の語りかけなのです。そして御子は今も、よみがえられた主として、私たちに語り続けておられます。
そして、≪その御子はどんなに偉い天使よりも優っているのだ≫ということが、前回の個所(1:4~14)で論じられていました。私たちにとって、天使はほとんど縁がないようなものですが、キリスト教の伝統の厚いヨーロッパの世界では、天使は今でもリアリティを持っています。カトリック教会や聖公会では、キリスト者一人一人を守ってくれる天使(守護天使)がいる、という素朴な信仰が今でも生きているというのが、ヨーロッパではないでしょうか。そのような天使たちにはるかに優るキリストによって語られた神の言葉(まさに福音の言葉)は、決定的に重要な意味を持っているのです。
私たちを罪から救ってくださる神様の熱い思いが、御子によって私たちに語られました。御子の地上の生涯のお働き、特に十字架と復活の出来事を通して、私たちの罪を赦してくださる神の愛が示され、その神の愛が私たちに与えられるのだ、という福音が語られているのです。
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この文書は、これからも論述を展開してまいりますが、ある論述から次の論述へと進む時に、警告の言葉や勧めの言葉を入れていきます。それが、この文書の特色です。本書には、随所に警告や勧めの言葉があります。それが本書ではとても重要な個所なのです。今回学ぶのは、その最初の警告ないし勧告の言葉であります。どういうことが警告され,勧告されているかと言えば、説教題の通り≪福音から押し流されるな≫ということです。
この文書を受け取る人々がだれかということは、あまりよく分かりません。ユダヤ人(ヘブル人)のキリスト者だと一般に言われています。それでヘブル書と呼ばれているのです。しかし、本書の中に、そのようにはっきり書いてあるわけではありません。書いてある内容から、ヘブル人でキリスト者となった人々が聞き手として想定されているのではないか思われます。しかし、ユダヤ人でないキリスト者が聞き手にはいなかった、とは言えません。ですから、限定してしまわないほうがよいと思います。
ユダヤ人ではない異邦人の中にも、ユダヤ教に関心を寄せる人々がかなりおりました。そういう異邦人の中からキリスト者になった人々が、意外に多くいたように思われます。パウロの伝道によって設立された諸教会の信徒たちの多くは、そういう人々であったと考えられるのです。
そのようことを頭に入れておいていただいて、どういう問題が起っていたか、ということを考えてまいります。そのためにも、この文書がいつごろ書かれたのか、という著作年代を見極めなければなりません。イエス・キリストの十字架と復活の出来事があったのは、紀元30年のことです。ヘブル書は、それから数十年後(80年代以降)の文書ではないかと思われます。数十年というと半世紀以上ですから、相当の期間が経過したことになります。
キリスト教会は、≪十字架と復活の出来事こそ、私たちを罪から救ってくださる神の愛の福音である≫と信じる人々によって創り上げられてきました。復活のキリストは、天に挙げられて神の右に座しておられます。≪そのキリストが再びおいでになる≫という確信を、最初の教会は強く抱いておりました。そして最初のキリスト者たちは、彼らの生存中にキリストは天から再臨されるのだ、という希望を持っていたようです。
ところが、数十年も過ぎると、そういう希望を持った人々がどんどん死んでしまいます。それなのにキリストの再臨は起らない、どうなるのだろうか、という心配が高まります。再臨の遅延がもたらす不安と混乱は、私たちの想像を絶するほどのものであったと思います。
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パウロの手紙を執筆年代順によく見てまいりますと、再臨についての論述の調子が微妙に変わってきていることが分かります。一番早く(51年頃)書かれたテサロニケ人への手紙は、彼の第2回伝道旅行で設立されて間もないテサロニケ教会へ、コリントで伝道していた時に書き送ったものです。ですから、設立されて間もない教会の様子がよく分かります。その中でパウロは、キリストの再臨を見ることなく死んでいったキリスト者たちの出現に衝撃を受け、彼らのために歎き悲しむ人々を慰め励ますために、一生懸命答えています。その背後には、パウロがテサロニケで伝道したとき、キリストの再臨が近いことを熱心に語ったという事情があったもの思われます。
それからパウロは、第3回伝道旅行のとき、ガラテヤ人への手紙、コリント人への手紙、ローマ人への手紙等を相次いで書きました(54~57年頃)。これらの手紙の中では、注目に値することですが、キリストの再臨が近いという言及があまり見られません。明らかにパウロの再臨観に変化が見られます。その後のパウロの手紙と言われるもので、パウロ後に彼の弟子たちが書いたものとも言われるエペソ人への手紙やコロサイ人への手紙になりますと、再臨のことがほとんど触れられていないのです。
第3回伝道旅行以降のパウロの手紙を見ると、強調点がキリストの再臨よりも≪今、私たちと共におられるキリスト≫に置かれている、ということがはっきり分かります。≪天に上げられた復活のキリストが聖霊において私たちと共におられ、そのキリストに私たちは結び合わされているのだ≫ということが、非常に強調されているのです。ローマ人への手紙は、その典型であると言ってもよいでしょう。
ところで、今私たちが学んでいるヘブル書には旧約時代の献げ物のことが出てきます。それはエルサレム神殿での行事であると早合点して、ヘブル書はエルサレム神殿が存在した紀元70年前に書かれたのだ、という説を唱える人々がいます。でも、この説を採用するのは難しいと思います。ここで言われているのは、エルサレム神殿における行事ではなく、神殿が造られる前の幕屋の時代の献げ物のことだからです。それと十字架にご自身を献げられたキリストとを比較して、キリストご自身の犠牲の献げ物のほうがどれほど優れているかを論じているのが、このヘブル書なのです。
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今回学んでいる個所の3節に、「私たちがこんなすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう」とあり、続いて「この救いは最初主(イエス・キリスト)によって語られ、それを聞いた人たち(十二使徒を初めとする弟子たち)が、確かなものとして私たちに示しました」と述べられています。どういうようにして示したかは書いてありませんが、最初は口頭の伝承によってであると思います。それから口頭伝承が文書化されてまいります。それが新約聖書にほかなりません。そういう中で福音書が次々に作られます。最初のマルコの福音書が成立したのは70年頃です。その後にマタイの福音書とルカの福音書が作られ、最後にヨハネの福音書が作られます。
この3節後半の文章は、そういう福音書の存在を何となく知っていることを思わせます。≪主が語られた福音を聞いた人たちが、それを確かなものとして私たちに示してくれた≫という記述は、福音書の成立と無関係ではありません。そのことを考えますと、このヘブル書が成立したのは、マルコの福音書だけでなく、マタイやルカの福音書の成立を著者が知っていたものと思われることから、80年代後半から90年にかけての頃ではないでしょうか。私はそのように考えるのが一番よいと思っております。
その頃、キリスト教会は非常に振るわれて、激しい試練の中に置かれていました。最初の頃の活気のある信仰がだんだん失われて、信仰にふさわしい熱気が冷めてきている深刻な状況にあったのではないか、と想像されるのです。そういう中で、ヘブル人でキリスト者になった人や、ユダヤ教に心を寄せていてキリスト者になった異邦人が多くいたので、そのような人たちに対するユダヤ教側からの巻き返しが強く行われていたのではないでしょうか。
「ユダヤ教に戻っていらっしゃい」という呼びかけが強くなされていたことは、疑う余地がありません。それを聞いて「ユダヤ教のほうがよかったなあ」という思いなるキリスト者が少なからずいたのではないか。そういうユダヤ教への逆戻り現象が見られる状況の中で、この文書が書かれているのだと考えていただくと、一番分かりやすいのではないかと思います。
そのような誘惑と試練の中にあるキリスト者たちに、本書の著者は、≪キリストによって語られた福音がどんなにすばらしいものであるか≫を、改めて強調しています。このことを知ってほしい、という著者の必至の気持ちが伝わってまいります。
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「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」(1節)。この訳は原文を少し変えてしまっています。原文のように、「[福音から]押し流されないために、聴いたこと(福音)をしっかり心に留めなければなりません」と訳すのがよいと思います。福音から押し流されようとする人々に、必死の思いで語りかけているのです。
2節に「もし、御使たちを通して語られたみことばさえ、……」とあるのは、モーセの律法が天使を仲介して与えられたとするユダヤ教の伝承に基づく記述でして、旧約聖書のことを指しています。その旧約聖書でさえ「堅くして動かされることがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受ける」力を持っていたとするなら、≪主によって語られた福音はもっとすばらしい力をもっているのですよ≫ということを、ここでは言っているのです。
「不従順」と訳している語は、「聞き流し」と直訳できます。福音の言葉を聞いても聞き流すのが不従順です。福音を聞き流すなら、≪福音の恵みにあずかれない≫という当然の報いを受けることになります。福音の恵みにあずかるためには、福音をしっかり聴き、心に留め、心に刻んでいかなければなりません。≪神が御子によって語られたすばらしい福音の言葉を聞き流すようなことがあったら、その受ける損失は計り知れないものがある≫ということが、ここで教えられているのです。
「神の本質の現れ」である御子によって神が語られた福音の言葉は、天使を仲介にして語られた言葉よりはるかに権威があります。神の栄光の輝きに包まれた福音の言葉の前で、旧約に基づくユダヤ教の言葉はたちまち光を失ってしまいます。≪そんなユダヤ教に今さら心を寄せて、どうなるのですか≫と戒め、警告しているのです。≪神が御子によって語られた救いの言葉は決定的な福音であり、それを聞き流してどこに救いがあるのですか≫。そのように私たちにも問いかけられているのです。
この福音は、最初キリストによって語られ、それを聞いた弟子たちがしっかり受けとめ、確かなものとして私たちに伝えてくれました。それが新約聖書であり、今学んでいるヘブル書もその一つなのです。私たちは新約の諸文書を通して福音を聴くことができます。その福音をしっかり聴いて、深く心に留めてまいりましょう。
神が私の罪を赦すために、私に永遠のいのちを与えるために、キリストの十字架と復活の出来事を通して語ってくださった福音を、私がしっかり聴いてそれに応えていくのです。そうするとき、私が受けている救いの恵みがどんなにすばらしいものか、本当によく分かります。
イエス・キリストは、復活の主として、私たちキリスト者一人一人のところに来てくださいます。そして、私たち一人一人と共にいてくださるお方なのです。そのようにして、私たち一人一人の罪を無条件に赦してくださり、私たち一人一人を愛してくださいます。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜んでいます」と、私たち一人一人に語りかけてくださるお方です。「わたしがあなたと共にいる。恐れることはない」「わたしはあなたに永遠のいのちを与えた」とおっしゃってくださる、そのイエス・キリストがいつも私たち一人一人と共にいてくださるのです!
なんと感謝なこと、なんとすばらしい恵みではありませんか。こんな福音がどこにありますか。ほかのどの宗教にこんなすばらしい救いがありますか。この福音に比べることのできるものは、他に何もありません。ですから、私たちは、この福音から押し流されてはいけないのです。
今も、私たちを福音から押し流そうとする力が、いろいろ働いています。だから押し流されないように、いつも福音の言葉に耳を傾け、福音に生きる喜びを新たにしてまいりましょう。そうすると、福音から押し流されるどころか、≪この福音に一人でも多くの人々を招き入れたい≫という思いに駆られてまいります。「あなたも福音の恵みにあずかってくださいよ」と、押し流されるどころか、この福音に人々を招き入れるような役割を喜んでさせていだくようになるのではないでしょうか。
私自身も、なお残された生涯、≪福音から押し流されることなく、福音の恵みに一人でも多くの人々を招き入れる働きをさせていただきたい≫と切に願っています。(村瀬俊夫 2004.3.14)
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