2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 5》 私 た ち の 兄 弟 イ エ ス

 今回の聖書個所は、前の個所と内容的には密接につながっており、新改訳聖書では段落を設けておりません。前の個所は「死の苦しみを味わわれたイエス」と題して説教したように、イエスが<まことの人>として死の苦しみを極みまで味わい尽くしてくださったことを強調しており、そのことを学ばせていただきました。
 そのことを受けて、この個所の初め(10節)で、このイエスを神は「救いの創始者」としてくださったのだ、と言われています。ここの文章には修飾語がたくさん並べられているため、読んでいて紛らわしくなりますが、その骨子は《死の苦しみを味わわれたイエスを神は救いの創始者としてくださった》ということなのです。
 「救いの創始者」と訳されている「創始者」は、他の訳語も可能です。「導き手」と訳している聖書もあります。もっと適切ではないかと思われるのは、「開拓者」という訳語です。「救いの開拓者」というのは、一番ぴったりかもしれません。神が苦しみを味わわれたイエスを「救いの導き手・開拓者・創始者」としてくださった目的が、10節の初めに書いてあります。それは「神が多くの子たちを栄光に導く」ためです。この「多くの子たち」の中に私たちも含まれているのですが、神はすべての子たちを救いの栄光に導きたい、と願っておられるのではないでしょうか。そのために死の苦しみを味わわれたイエスを、神は「救いの開拓者」としてくださったのです。
 この10節の終わりのほうで、神のことが「万物の存在の目的であり、また原因でもある方」と説明されています。これと関連のある表現がローマ書11章36節に見られます。「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」 このように神は、すべてのことの発生の原因であり、すべてのことがそこへと向かう目的なのだ、と言われています。要するに、この10節では、《死の苦しみを味わわれたイエスを「救いの創始者」とされたことは、神にふさわしいこと、神の御心にかなうこと、神のご計画の中にあったことなのです》、と言われているのです。
 「多くの苦しみを通して全うされたということ」については、その詳細な解説が14節以下に述べられている、と見てよいでしょう。また後で触れたいと思います。
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 11節以下に進みましょう。そこには《神がイエスを「救いの創始者」とするために、どのようなことをされたのか》ということが書いてあります。
 初めに「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです」という文章があります。ここでは神を「聖とする方」と表現しています。「聖とされる者たち」は、私たちキリスト者のことです。私たちが「聖とされる者たち」であるのは、「聖とする方」である神の恵みによります。その恵みの核心にあるのは罪の赦しですから、「聖とされる者たち」は「罪を赦される者たち」でもあるのです。「聖とする方」は神であると申しましたが、救いの導き手・開拓者であるイエス様を指す、と見ることもできます。
 そのように私たちを「聖とする方」であるイエス様も、イエス様によって罪を赦されて「聖とされる者たち(私たち)」も、ここで「すべて元は一つです」と言われています。なぜ「すべて元は一つ」なのか、分かりにくい表現ですね。「一つ」と訳されたギリシア語は、この文章では文法的に男性とも中性ともとれます。新改訳は中性にとって「一つ」と訳していますが、男性にとって「一人の方から出ている」「一人の方に属している」とも訳せるのです。《イエス様も、イエス様に救われた私たちも、一人の方から出ている》という意味で、私は男性にとる読み方のほうがよいと思います。私たちも神のかたちに創造されたのですから、「一人の方である神から出ている」と言ってよいのです。
 ですから、「聖とする方[イエス様]」も「聖とされる者たち[救われる私たち]」も、同じ神に属するものであります。「それで、主は彼ら[救われる私たち]を兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます」と12節以下に続きますが、そのように、主イエスはその救いにあずかる私たちを「兄弟」と呼ぶことを、少しも恥とはされません。イエス様は私たちをためらうことなく兄弟と呼び、ご自分と同じレベルに置いてくださいます。なぜなら、聖とするイエス様も、聖とされる私たちも、同じ神に属しているからです。
 このことから、私たちもイエス様を「兄弟」と呼ぶことをためらわなくてもよいのだ、ということを教えられます。それで今回の説教題を「私たちの兄弟イエス」とさせていただきました。私たちキリスト者はキリストを兄弟と呼ぶことができるのです。キリスト者は敬虔であるべきで、主イエスに対しては恭(うやうや)しい態度でいるべきだ、と考えている人が多いと思います。私たちは主イエスのしもべであることを決して忘れてはなりません。しかし同時に、私たちはイエス様を兄弟とお呼びすることをためらうべきではありません。そのことを明らかにしてくれているヘブル書は、神学的にも大事な文書だと思います。深い神学的洞察の中で、私たちはイエス様を兄弟と呼ぶことができるのです。
 そのことに関連して12節以下に、旧約聖書から三つの引用句が掲げられます。12節の「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう」は、詩篇22:23の引用です。詩22篇は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉で始まります。それは本来、苦難の中に置かれたイスラエル民族の叫びでありました。それをイエス様はご自分の身に当てはめて、この言葉を十字架で叫ばれたのです。この言葉で始まる詩22篇は、重苦しい内容の詩かというとそうではなく、途中から神への信頼を歌い上げる内容に変わります。
 冒頭で「どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んだ同じ詩篇作者が、23節では「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会(旧約聖書に即して言えば「集会」)の中で、わたしはあなたを賛美しよう」と言っているのです。この言葉の中に「わたしの兄弟たちに告げよう」という語句が見られます。この23節の言葉をヘブル書の著者が引用したのは、それを《イエス様の口を通して語られた言葉である》と神学的に洞察したからに他なりません。
 福音書には、この通りの主エスの言葉は記されていません。十字架においてイエス様は、詩22篇冒頭の言葉を口にされましたが、23節の言葉は口にしておられません。しかし、ヘブル書の著者は、神学的洞察を深める中で、イエス様が十字架の苦しみを味わい尽くして死からよみがえられた時点では《このような言葉を口にされたに違いない》という判断から、ここに詩篇22:23の言葉を引用しているのです。ですから、この引用句での「わたし」はイエス様を指します。イエス様が私たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼んでおられるのです。そして、ここに著者がこの聖句を引用している一番のねらいは、イエス様が私たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼んでおられる事実にあった、と見ることができます。
 さらに13節で、二つの旧約聖書の聖句が引用されます。「わたしは彼に信頼する」と、「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは」とです。「わたしは神に信頼する」という言葉は、旧約聖書のあちこちにありますので、どこから引用したのか明らかにするのは難しく思われます。しかし、後者の「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは」はイザヤ書8:18の引用でありますから、それとの関係で前者の「わたしは神に信頼する」は18節の前の17節の引用であろう、と推測することができます。
 旧約聖書を開いて見ましょう。イザヤ書8:17~18には、こう書いてあります。「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。見よ、私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。」 18節の初めに「見よ、私と、主が私に下さった子たちとは」とある言葉は、ヘブル書2:13の後半に引用された聖句と同じですね。すると、前半に引用された「わたしは神に信頼する」は、17節の「私は主を待つ」あるいは「私はこの方に、望みをかける」を言い換えた表現ではないでしょうか。
 ついでに、もう1節前の16節を見ていただきます。「このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ」とあります。このことが続く17~18節の理解に大切なので、特に読ませていただきました。イザヤはエレミヤとともに、旧約時代の偉大な預言者でした。イザヤもエレミヤも、非常に多くの苦難を味わった人であります。エレミヤの苦難については前に話したことがありますが、イザヤの味わった苦難とは、人々が自分を通して語られる主の言葉に耳を傾けようとしないことでした。預言者として語る彼の言葉を、人々が聞いてくれなかったのです。これは本当に辛いことだったと思います。
 そこでイザヤは、主から「このあかし[預言の言葉]をたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちのうちに封ぜよ」と言われました。《後の世の人々に、その時が来たならば、彼が預言者として語った言葉が真実であったことを知ってもらえるように、今はその言葉を弟子たちのうちに封じておけ》という意味の言葉であります。そういう情況の中でイザヤは、《今はどんなに絶望的であっても、いつか必ずこの預言の言葉に人々が耳を傾けてくれる時が来る》という思いで、「私は主を待つ。私はこの方に、望みをかける」と言っているのです。また、「見よ、私と、主が私に下さった子たちとは,……イスラエルのしるしとなっている」と、自分の弟子たちに期待をかけたのです。イザヤには、たくさんの弟子たちがいました。この弟子たちが師イザヤの預言を大事に守り伝えて来ました。それが今のイザヤ書となっているのです。
 このイザヤの預言を、イエス様がご自分の身に当てはめて口にされたかのように、ヘブル書の著者は引用しています。それはもちろん、著者の神学的洞察によるものです。「見よ、わたし[聖とする方]と、神がわたしに賜った子たち[聖とされる者たち]は。」 そのどちらも「元は一つ」で、すばらしい神の恵みのしるしに他なりません。
 14節以下に目を転じましょう。「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」と、私たち人間が血肉を備えているように、主イエスも同じ血肉を備える方、すなわち<まことの人>となられました。「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(14後半~15節)。このように、イエス様が死の苦しみを極みまで味わい尽くしてくださったこと、そして救いの開拓者・創始者となられたことの意味が、よく説明されています。死の苦しみを味わい尽くすことによって、主は死の力を持つ悪魔を滅ぼしてくださいました。その確かな証しが、復活の出来事です。
 イエス様がご自分の死によって死の力を持つ悪魔を滅ぼしてくださったとき、同時に罪の力も滅ぼされました。罪と死との間には深い関わりがあるのです。死が滅ぼされる時には、死をもたらす罪も滅ぼされます。ここには復活のことが直接言われていませんが、死の力を滅ぼした復活の出来事が当然のこととして背後にあるのです。
 17節を見てください。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」 主イエスが死の苦しみを味わって死の力を滅ぼし、私たちの罪のために「なだめがなされるために」は、私たちと同じ血肉を持つ者とならなければなりませんでした。そういうわけで、主は「すべての点で兄弟たちと同じように」なってくださいました。そうならなければならないので、なってくださったのです。
 「なだめ」とは、罪に対する神の怒りが解かれることであり、その結果として私たちの罪が赦されるのです。第8章で、神がエレミヤを通して預言された新しい契約の思想が紹介されます。それは、神が私たちの罪を「思い出さない」と言われるように、神が私たちの罪を忘れてくださる、という福音そのものであります。そのためにイエス様は「すべての点で兄弟たちと同じように」なり、死の苦しみを味わい、死の力を滅ぼしてくださったのです。
 18節には、「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たち[私たち]を助けることがおできになるのです」と記されています。この世で様々の苦難、とりわけ罪と死の恐怖の中で「試みられている」私たちを助けるために、イエス様ご自身も「試みを受けて苦しまれた」のです。その苦しみを極みまで味わい尽くして、ついに死を滅ぼしてくださいました。今や御子イエスは、「神の栄光の輝き」(1:3)に包まれた復活の主として、いつでも私たちを助けるために「あわれみ深い、忠実な大祭司」(17節)となっていてくださるのです。
 ここに本書で初めて「大祭司」という言葉が出てまいりました。前に話しましたように、ヘブル書の特色はイエス・キリストを大祭司とみなす視点を展開して行くことにあり、「大祭司キリスト論」が本書の主要なテーマになっているのです。
 祭司は、神と人との間にあって両者の仲介をします。それが祭司の主要な役割なのです。それで祭司は仲介する両者の要素を持っていなければなりません。イエス・キリストは、神の御子であり「神の本質の現れ」(1:3)である方なのに、<まことの人>となって、「私たちと同じように、試みに会われた」(4:15)のです。このお方以上に、人間を代表して神の前に立つ祭司として、ふさわしい方はおられません。そのことに着目しながら本書の著者が大祭司キリスト論を展開して行こうとする、その伏線がここに見られるのだと思います。


 今回は「私たちの兄弟イエス」ということにテーマをしぼりました。イエス様は私たちと同じように血肉を持つ者となり、私たちと同じように試みにも会われ、死の苦しみを味わい尽くしてくださいました。しかし、そのことによって死の力を滅ぼし、復活の主となっておられます。このイエス様を、私たちが兄弟とお呼びできる恵みを深く心に刻み、イエス様を一層近くて親しい方として覚え、日ごと新たに主によりすがって歩んでまいりましょう。       (村瀬俊夫 2004.5.9)

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