今回は5章から6章にまたがる個所を読んでいただきました。章とか節は、後から付けたものです。大体よく付けられていますが、時々どうしてそうなのかな、と思うことがあります。ここもそうで、むしろ5章11節から6章にしたほうがよかったのではないかと思われる個所です。
前の5章10節で「神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」と言われている主語は、キリストです。これは前に述べたように、著者が一番言いたいことでした。この勧告の文書で、著者が一番主張したいことは、《キリストはメルキゼデクの位に等しい大祭司なのですよ》ということです。それをここで言うことができたのですから、著者はいよいよこれから、その内容を詳しく述べていきたいと思っていたに違いありません。この文書の一番大事な、まさに核心的な部分に入っていくことになるわけですから。
でも、そのとき著者は、ちょっとためらいを感じたように思われます。このまま直ぐ《メルキゼデクの位に等しい大祭司キリストについて論じていって良いものだろうか》と。そのためらいと不安が、5章11節以下に書いてあることなのだと思います。
まず著者は「この方(メルキゼデクの位に等しい大祭司キリスト)について、私たち(手紙文の複数で実際は私、著者自身)は話すべきことをたくさん持っています」と言います。 著者はそのことを話したいのですから。それは著者が長年[神学的に]考え抜いてきたことであり、まさに満を持して話し出したいと思っていることなのです。しかし、「あなたがたの耳が鈍くなっているため、解き明かすことが困難です」と、著者は、これから解き明かす《大祭司キリスト論》を、はたして読者が(いや、それが朗読されるのを聴く人々が)分かってくれるだろうか、という心配をしております(以上11節)。
続く12節で「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならない」と言われているように、この文書の受け手たちは、信者になりたての人々ではなく、もう教える立場にあっても良いくらい年数を経た信者たちでした。それにもかかわらず、彼らは「神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです」と言われています。これは著者が、その時の受け手たちの情況をよく知って書いていることだと思います。「あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています」とも言われていますが、《年数を経ているのに、いまだに乳を必要とするようになっているようでは、これから語ろうとすることが本当に理解してもらえるだろうか》という心配を抱いたわけなのです。
13節、14節も同じようなことを述べています。「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです」(13節)。年数は経ていても、その精神状態[信仰的な状態]は幼子のようでした。14節に「堅い食物はおとなの物であって」とありますが、その堅い食物をとることができないのは、彼らが精神的に[信仰の状態において]おとなではないということになります。それでせっかく堅実な教理を教えられても、それをよく噛み砕いて自分の栄養にしていくことが難しいのではないか、という心配を著者はしているのです。
同じようなことがパウロの手紙にも書かれていることに、お気づきの方がいるかもしれません。コリント人への手紙第一の3章で、パウロは「私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした」と書いているのです。
この「堅い食物」というのは、難解な教理のことではありません。ヘブル書の著者がこれから述べようとする《大祭司キリスト論》も、単に高度の教えであるというのではなく、霊的に見て福音の恵み豊かな内容であるのです。それをよく噛んで食べて自分の栄養にしてほしい、というのが著者の熱い願いであるのです。14節は、何となく受け手の人々を叱責している感じのする表現にも取れますが、私はそう思いません。「堅い食物を食するおとなになってください」という著者の熱い願いが、この言葉の中に込められているのです。
そのように読み取ることができる、と私は思います。早く「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たち」(14節)になってください。そのように成熟してください。そういう熱い願いが著者にあるからこそ、「ですから」という言葉で、6章へと続いていくことになるのです。
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もし《受け手の人たちは幼子で堅い食物など食べられない》という思いであったら、この「ですから」という接続詞はふさわしくありません。いろいろ論議があり、ここは「それにもかかわらず」という言葉がふさわしい、と言う人々もいます。しかし、著者は受け手の人たちを責めるどころか、堅い食物を食べてほしいと心から願っているのですから、まさに「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟をめざして進もうではありませんか」と筆を進めているのです。
「キリストについての初歩の教え」とはどんなものか、1節後半から2節にかけて「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなどの基礎的な教え」と書いてあります。「死んだ行いからの回心」と「神に対する信仰」、「きよめの洗いについての教え」と「手を置く儀式」、「死者の復活」と「とこしえのさばき」が、それぞれ対(つい)になっています。「死んだ行いからの回心」は、「神に対する信仰」と共に、罪の中に死んでいた者が救われてキリスト者となることで経験しているものと同じである、と考えてよいでしょう。「きよめの洗いについての教え」が洗礼のことで、そのとき「手を置く儀式」を行っていたのか、よくは分かりません。しかし、ここで注目しておきたいのは、《こうした「基礎的なこと」はユダヤ教でもすべて行っていたことである》ということです。
ここで著者が言いたいのは、《ユダヤ教と同じ教えのレベルに留まっているだけでは、成熟(信仰の完成)をめざして進むことはできませんよ》ということではないでしょうか。成熟をめざして進むためには、キリストについてのもっと深い、もっと豊かな理解を必要としています。大事なことは、もっと豊かにキリストを知り、もっと深くキリストの福音を味わうことなのです。そうしなければ、ユダヤ教とキリスト教との区別がつかなくなってしまいます。
3節に「神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです」とある言葉は、文章の流れから見ると、1節の前半につながります。神がお許しになるならば、私たちは成熟をめざして進むべきなのです。「神がお許しになるなら」は、文法的には未来への期待(または条件)として言われています。しかし、《神は必ずお許しになるのだから》と理解してよいのです。神がお許しになるのですから、私たちは成熟をめざして進み、もっと豊かに[メルキゼデクの位に等しい大祭司として]キリストを知るようになりましょう! このように勧められているのです。
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4節からは調子が変わり、4~8節にはちょっと厳しいと思われる言葉が記されています。「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです」(4-6節)。これは本当に厳しい言葉ですね。
この文書の背景にある事情を思い起こしてください。受け手の人たちの多くは、ユダヤ教あるいはユダヤ教の影響の中からキリスト者になったのです。その人たちが迫害にさらされるようになると、彼らの中から[ローマ帝国の公認宗教であるがゆえに表立った迫害を受けることのなかった]ユダヤ教に戻って行く者たちが多く出てまいりました。そういうことが背景にあって、このような厳しい言葉が語られているのです。
そうしますと、1~2節に言われている「キリストについての初歩の教え」がすべてユダヤ教でも行われていたものだとするなら、ユダヤ教に戻って行った人たちは、それほど自分たちが背信行為をしている(信仰的に罪を犯している)という意識がなかったのではないでしょうか。それほど良心の責めを感じないでユダヤ教に戻って行ったのではないかと思われます。しかし、《それは実に「自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える」という大変な行為なのだ》と、著者は指摘しているのです。
実は、ヘブル書が新約聖書の一書として認められることについては論議ありました。27の書から成る新約聖書の多くの書は文句なく正典と認められましたが、幾つかの書は論議の対象になりました。ヘブル書もその一つなのです。こんなに神学的に豊かな内容の文書がなぜ論議の対象にされたのか、私たちには不思議に思われます。その原因が、実はこの個所にあったのです。
ローマ帝国によるキリスト教迫害は、4世紀の初めで終わります。なんとローマ帝国は、それまで迫害していたキリスト教を取り込み、利用する政策に転じます。こうしてキリスト教はローマ帝国の国教のようになるのです。すると、迫害下で教会から離れていた人たちの多くが、日が当たるようになった教会へ戻りたくなります。そのとき、この個所を厳格に受け取る人々は、彼らの教会復帰を安易に認めてはならない、と主張しました。それに対して彼らの復帰を歓迎したい人々は、この個所を含むヘブル書を正典と認めることに難色を示したわけです。そのような問題を通り抜けて、ヘブル書は正典として新約聖書の中に含められました。それは本書の優れた神学的内容からも当然でのことあったと思います。
4~6節の言葉についての私の見解ですが、迫害を避けてユダヤ教に戻ろうとしている人たちを何とか思いとどまらせたい、という熱い思いで著者は書いています。そのことから、《ここで言われているのは彼らに対する厳しい警告の言葉である》と受けとめるのがよいと思います。キリストは、「一度信仰に入って信仰を捨てた者には絶対に帰ることを許さない」というお考えの方ではありません。「七度を七十倍するまで赦しなさい」「あなたの敵をも愛しなさい」と言われているイエス様なのです。
9節を見ると、著者の心がよく分かります。「だが、愛する人たち。私たちはこのように(4-8節のように)言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」 このように言う著者の暖かい心に、私たちは慰められますね。さらに10節で、「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです」と言っています。
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信仰において成熟をめざして進まないと堕落する危険性がある。警告の言葉をそのように理解するとよいと思います。12節に「なまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続する」という言葉がありますが、その「なまける」は、5章11節にあなたがたの耳が「鈍くなっている」とあるのと同じ言葉が使われています。「怠けている」とは「耳が鈍くなっている」ことで、《福音を聴く耳が鈍くなっている》ことにほかなりません。
何が原因で鈍くなるのか。信仰的に怠けているからではありません。信仰の熱心な人の耳が鈍くなることがあるのです。それは信仰が律法主義化することによるのだと思います。《教会生活をきちんと守る、毎朝聖書を読む、祈りに励むこと》はみな良いことです。しかし、そうすることだけが良いとなったら、信仰が停滞しているのであり、むしろ信仰的に怠けている(鈍くなっている)のではないでしょうか。
何がその原因かといえば、それは高ぶった思いであります。《これでもう自分は良いのだ》と思い、高を括っているのです。これは信仰生活が長くなると陥りやすい、大きな危険性ではないでしょうか。《もうこれで良いのだ》と開き直ってしまうのです。そうすると、もっともっと豊かなキリストの福音の恵みが分からなくなってしまいます。このことの重大性に、いつも私たちは気づいていなければなりません。
ヘブル書の著者は、この書の受け手たちに(そして私たちに)、「メルキゼデクの位に等しい大祭司キリスト」のことを、ぜひ知ってほしいと願っています。それこそキリストについての豊かな理解(神学的洞察)であるからです。イエス・キリストをもっともっと恵みに満ちた方として知り、深く味わってほしい。ただ知るだけでなく、本当に味わって自分自身の栄養にし、確実に信仰に成長し、成熟をめざして進んでほしい。その著者の熱い願いを、しっかり受けとめましょう。
私は50年余りの信仰生活を経験して、今もそのことの重要性を深く思います。そして本当に感謝しているのは、《私がこの段階においても成熟をめざして進ませていただいている》ということです。そのことを私はすごくうれしく思っています。下手をすれば、私は開き直っていてもよかったのかもしれません。《もう私は信仰生活50年のキャリアがあるのだ。今更もう学ぶことなんかない》と。もしそうであったら、私は信仰的に怠けていることになります。
もっと深くキリストを知り、その豊かな福音の恵みにあずかり、その恵みを本当に味わっていくことが、信仰が成熟をめざして進むことなのです。信仰はそのように成熟をめざして進まないと駄目になってしまいます。堕落してしまうことだって、本当に起こりうるのです。そうだとすると、先の4~8節は《そうならないようにと戒める厳しい警告の言葉であるのだ》ということを、改めて確認させられます。
ですから、いつも心を開いて(へりくだった思いで)、耳を澄ませて、日々新たに(朝ごとに)福音の言葉を聴いてまいりましょう。大切なことは、福音の御言葉をしっかり聴き続けていくことです。その福音の御言葉の要(かなめ)の一つに《メルキゼデクの位に等しい大祭司キリスト論》があることを覚え、「この豊かな福音の真理を知り、それを深く味わってほしい」というヘブル書の著者の熱い願いに応えるために、この先の個所の学びに期待し、それを楽しみにしてください。 (村瀬俊夫 2004.11.14)
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