ヘブル書の内容は、前にも述べたように、説教であり、説教を基にした神学論文と言うことができます。本書の著者が不明であることも最初に申しましたが、その不明の著者は優れた神学者です。
繰り返しになりますが、27の文書から成る新約聖書の著者たちの中で優れた神学者といえば、使徒パウロが第一に挙げられます。パウロの手紙が難しく感じられるのは、その内容が神学的に深いからでしょう。パウロに次いで挙げられるのはヨハネの福音書の著者ですが、このヨハネの福音書も深い神学的内容の文書です。表面的には読みやすい福音書でありますが、その深い内容を汲みとろうとすると、かなりの努力(神学的洞察力)を要します。そして第三に挙げられる神学者がヘブル書の著者なのです。そのようにヘブル書は新約聖書の三大神学者の一人の著作ですから、それほど読みやすい文書でありません(むしろ難解な文書です)ね。
それにしても、この書の中で著者は何を述べようとしているのか。それについては、はっきり言えることが一つあります。著者はイエス・キリストを大祭司として捉えており、大祭司であるキリストを紹介したい、大祭司であるキリストを知ってほしい、そのために《大祭司キリスト論》を展開したい、という熱い思いを込めて書いています。その大祭司キリスト論は、著者の長年の神学的研鑚の中で、またイエス・キリストとの深い交わりの中で、暖められてきたものです。
私たちにとって、キリストが祭司であるということは、知識として与えられています。特に私たちが親しんでいるカルヴァンの流れを汲む改革派・長老派の神学は、キリストの三職(預言者・祭司・王)を明確に教えてくれています。しかし、新約聖書をよく読んでみると、《イエスは祭司、いや大祭司である》ということをはっきり述べているのは、ヘブル書だけなのです。パウロの手紙でも、《キリストは私たちのためにとりなしをしておられる》という言い方で間接にキリストが祭司であることを示してはいても(ローマ8:34参照)、じかにキリストが祭司(または大祭司)であるとは書いておりません。ヨハネの福音書17章にはイエスの長い祈りが記されていて、それがよく《大祭司の祈り》と呼ばれたりしますが、それは後代の注解者たちが名づけたものにすぎません。
イエスが大祭司であると明言しているのはヘブル書だけであり、今回の聖書個所にもそのことが言われています。「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」(14節)。ここで「私たちの信仰の告白」とは、「私たちのためには、偉大な大祭司である神の子イエスがおられる」ということなのです。この信仰の告白を堅く保ってほしい、というのが著者の熱い願いであることが分かります。
この《大祭司キリスト論》が第5章から本格的に展開されます。これがヘブル書の本論で、5章から10章18節に及んでいます。1章から4章まではそれに先立つ部分でありますが、1章は全体が序文的内容です。そして2章から4章にかけて、いろいろな勧めや警告の言葉(それは説教と呼んでもよいもの)が記されています。そのような警告を盛り込んだ勧めの言葉が多いのも、本書の特色の一つです。特に11章以下は、そのような勧めの言葉に満ちています。
この文書を受け取ったのは、ユダヤ人かユダヤ教に心を寄せていた異邦人で[いわばユダヤ教を離れて]キリスト者になった人々であったと思われます。本書が記されたのは80年代後半で、彼らはドミティアヌス帝の迫害にさらされていました。それで迫害を受ける心配のないユダヤ教に戻ってくるように誘いかけられ、それにつられて彼らの中からユダヤ教へ戻る者たちが現れていた状況が背景にあったことは、前回も話しました。そのようなユダヤ教からの誘いに負けないで信仰の告白を堅く保ってほしい、というのが著者の切なる願いなのです。
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今回の4章14~16節は、警告や勧告の言葉がたくさん記されている2章から4章までのクライマックスであります。そして、それは同時に、5章から始まる大祭司キリスト論の導入部にもなっています。それで《この個所はヘブル書の中でも特に重要な個所である》と言うことができるのです。
2章から4章12節までの勧告や警告の言葉を読んでくると、時に非常に厳しい言葉に出くわします。自分が激しく責められている感じにさせられる方が少なくないでしょう。私も以前はそういう思いにさせられたので、ヘブル書は好きになれませんでした。しかし今は考え方が変わりました。一見厳しく思われる警告も、私たちを脅すためというよりも、私たちを何とか福音の恵みの中に留まらせたいとの著者の熱い思いから出ているものと見るべきなのです。厳しく思われる言葉からも私たちは福音を聴くこと(福音的静聴)ができるし、《福音的静聴》をしていかなければなりません。
そのことが、今回の聖書個所の学びでよく分かります。この勧告の言葉には、福音の恵みが満ちあふれています。そのクライマックスの言葉である「大胆に恵みの座に近づこう」を、今回の説教題にしました。私たちは「偉大な大祭司である神の子イエスを持っています」(ギリシア語原文の直訳)。私たちには大祭司キリストがおられるのです。だから、私たちの信仰の告白を堅く保ち、大胆に恵みの座に近づきましょう! これは本当に慰めと励ましに満ちた勧めです。
先ほど迫害のことに触れましたが、私たちの場合はどうでしょうか。この文書の受け手である人々が直面していたような状況に、私たちは必ずしも置かれておりません。けれども、私たちが苦しい状況に巡り合わないわけではありません。日本でキリスト者になった人が、信仰の告白を保ち続けていくことは決して容易でない、という状況があるからです。50年の伝道牧会の歩みを通して、私もそのことを感じさせられます。同じくキリスト者になって歩み出した人々の中で、何人がキリスト者として残っているか。脱落して行ったと思われる人々のことを思うと、淋しい気持ちになります。外的な迫害がそれほどあるわけではないのに、日本には信仰の告白を堅く保つことを難しくする要因があるのだ、ということを思わされるのです。
それからキリスト教に対する厳しい批判が、現代はいろいろな面から向けられています。神が愛であるなら、どうしてこんな混乱や破壊が起こるのか。私たちキリスト者が答えに窮する場合もしばしばあるのです。ヘブル書の聞き手たちが直面していた迫害とは違うけれど、《私たちもいろいろな困難や迫害に直面しているのだ》ということを思うとき、私たちも新しい思いで著者の勧めの言葉を聴きたいと思いますし、ぜひ聴かなければなりません。
今回の個所は、これから著者が《大祭司キリスト論》を展開していく、その導入部に当たります。大祭司(また祭司)は、神と人との間で両者を取り持つ役目をします。そのため祭司は、人間の立場を持つ者でなければなりません。ですから、神の子イエスを大祭司として位置づけるとき、著者は《イエスがまことの人であった》ということに、すごく強調を置いています。新約聖書の中で〈イエス・キリストは人である〉ことを、これほど強調している文書はありません。同時に〈イエス・キリストは神である〉ことも強調して、著者は本書の冒頭部分で、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである」(1:3)と明言しているのです。
イエス・キリストは〈まことの神〉でいらっしゃる。そのキリストが同時に〈まことの人〉でもあり、私たちと同じ血肉を持つ身となってくださった。そのことに言及する第2章では、さらに、そのお方が《死の苦しみを極みまで味わい尽くしてくださった》ことが述べられています(2:9)。ですから、この大祭司である神の子イエスは、私たちの苦しみを本当に思いやることのできるお方なのです。15節に「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」とありますが、言い換えれば、私たちの弱さに同情できるお方であるのです。
同情されることは、時には、うとましいことがあります。大きな苦しみの中にある人に「あなたに同情します」と言うのは、易しいことではありません。「そんな同情なんか要らない。あなたには私の苦しい気持ちなんか分からない!」と言われてしまいそうです。だけど大祭司である神の子イエスは、私たちが味わうどんな大きな苦しみよりも苦しい苦しみを、十字架において味わい尽くしてくださいました。「パッション」という映画をご覧になった方は、それをリアルに感じてくださると思います。そのようなお方として大祭司イエスは、私たちのどんな弱さをも、どんな苦しみをも、同じ思いで受けとめ、私たちのそばに寄り添ってくださるのです。
同時に、このお方は「神の栄光の輝き」「神の本質の現れ」であるので、15節後半にあるように「罪は犯されませんでした。」 しかし「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」 試みに会われても、神の子イエスは試みに勝ち、すべての試みを乗り越えて行かれたのです。
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14節に戻りまして、「もろもろの天を通られた」という言葉に注目していただきます。私も以前は、これを文字通りに解し、復活のイエスが昇天して行かれる[まさに勝利の凱旋の]光景を考えておりました。しかし、聖書の黙想的な学びを深める中で、そうではないことを教えられたのです。
「天」と言うと、私たちは即座に、澄み切った明るい世界を連想します。しかし当時の人たちにとって、「天」とは、決して明るく澄み通った世界ではありませんでした。そこには悪の勢力がうごめいていたのです(エペソ2:2参照)。大祭司である神の子イエスが「もろもろの天を通られた」ということは、そこにうごめいている悪の力と戦いつつ、それに勝利して行かれたことにほかなりません。それはイエスが試みに会い、それに勝利しつつ歩まれた地上のご生涯と重ね合わされます。イエスが「もろもろの天を通られた」ことは、15節の「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」ことと、まさに重複していることなのです。
イエスがもろもろの天を通られたことを、イエスの地上のご生涯と重ね合わせて考えるようにしてください。イエスは地上の生涯における最大の試練である十字架の死の苦しみをも味わい尽くし、復活させられることによって、それを乗り越えて「もろもろの天を通られた」のです。そのようにして、大祭司である神の子イエスは、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれ」(1:3)ました。そのことを受けて、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(16節)と熱心に勧められているのです。
イエスはいろいろな試みに会い、それに勝利されました。イエスを試みに会わせた張本人は悪魔です。ですから、イエスが試みに勝利したと言うのは、イエスが悪魔に勝利し、悪魔のわざを滅ぼしてしまわれたことを意味します。イエスが十字架で死の苦しみを味わい尽くした瞬間、悪魔は自分が勝ったと思ったかもしれない。しかし、そうではない。真相は、イエスが悪魔を打ち破って勝利されたのです。その証しが、死からの復活(神がイエスを死からよみがえらせてくださったこと)にほかなりません。
そのような大祭司である神の子イエスは、私たちの弱さに本当に同情してくださるお方です。ですから、私たちは大胆に恵みの座に近づきましょう。「恵みの座」とは、恵みが支配している場所のことです。それはどこにあるのか。一番現実的に「恵みの座」を現しているのは、この主日礼拝の場ではないでしょうか。そして福音が語られる説教壇ではないかと思います。ここで語られる説教は、恵みに支配され、恵みに満ちあふれているものでなければなりません。恵みの福音が語られる説教壇の前に、皆様が礼拝のために大胆に近づいてくるのです。どうぞ、大胆に近づいてください!
「大胆に」という言葉は、その通りの意味なのですが、文語訳聖書は「憚(はばか)らずして」と訳しています。それを口語にすれば「憚ることなく」です。これも適切な訳語であると思います。私はあえて「憚ることなく近づこうではありませんか」と訳したい思いです。「憚る」というのは、《幅を置く》という意味から来ています。
幅は縦にも横にも置けます。横幅を取りすぎると狭い所を通るのに困ります。無理に通ると左右を押しのけることになりますね。〈憎まれっ子,世に憚る〉というのは、この例だと思います。しかし、ここでは縦に幅を置く場合です。近づきたい相手との間に幅を置くと、近づくことができません。私たちは神と自分との間に幅を置いてしまいやすいのです。あまり近づいては恐れ多いという気持ち(遠慮)から、距離(幅)を置いてしまうのかもしれません。そのような《幅を置かない》ということが、「憚ることなく」という言葉の意味なのです。
神と私との間に幅を置かないで、憚ることなく恵みの座に近づきましょう。そうすることができるのが、私たちに与えられている福音の恵みではありませんか。毎主日の礼拝に喜んで出席し、大胆に、憚ることなく恵みの座に近づいてください。そして、恵みをいっぱい受けてください。どんな私たちの弱さにも、どんな私たちの苦しみにも、大祭司である神の子イエスは同情してくださいます。私たちに寄り添うようにして、私たちの弱さを覆ってくださり、私たちの苦しみを癒してくださいます。どんな私たちの罪も無条件に赦してくださり、弱い私たちを強くしてくださるのです。
そういう偉大な大祭司である神の子イエスを私たちは与えられています。それなのに大祭司イエスと私たちとの間に幅を置いてしまうのは、私たちが自分のだらしなさに余りにも目を奪われてしまうからです。こんなだらしない私をもイエスは救い出してくださいます。その恵みの座に憚ることなく近づいてまいりましょう。
そうするのは、毎主日の礼拝においてだけでなく、私たち一人一人の信仰生活において毎日実行したいことですね。私は、毎日朝ごとに恵みの座に憚ることなく近づき、私の弱さを知り、私の苦しみを担ってくださる大祭司イエス様にお会いし、赦しの愛をいっぱい受けて歩み出すようにさせていただいております。皆様も、そのようにして日々の生活を歩み出すようにしてください。そうするとき、どんな試練をも乗り越えさせていただけるのです。 (村瀬俊夫 2004.9.5)
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