2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 6》 希望による誇りを持ち続ける ヘブル3:1~6

 ヘブル書の連続説教は3章に入り、今回は1-6節から学びます。最初に話したように、本書の著者は不明ですが、新約聖書でパウロとヨハネの福音書の著者と並ぶ三大神学者に数えられるほど、優れた神学者であります。その著者が本書で一番知ってほしいと願っていることは、キリストが私たちの大祭司である、ということです。神学者である著者は、《大祭司キリスト論》というテーマをしっかり持っています。
 私も文章を少しは書くようになり、次第に心得てきたことなのですが、文章を書く人は必ずテーマを持っています。テーマなしには読ませる文章は書けません。テーマなしに書かれた文章は、魅力がなく、訴えるものがありません。まともな文章には必ずテーマがあり、そのテーマに向かって書かれているのがまともな文章なのです。
 本書でキリストが大祭司であると初めて言われたのは、「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い,忠実な大祭司となるために、主はすべての点で兄弟と同じようにならなければなりませんでした」とある2章17節です。それまでの論述で著者は、御子キリストは「神の本質の現れ」であり、まさに神ご自身であると主張するとともに、全く私たちと同じ人間になられたことも強調しています。イエス・キリストは〈まことの神〉であって〈まことの人〉である、ということをはっきり述べていてくれるのです。この点でも、著者はすばらしい神学者だと言うことができます。
 神の本質の現れであるお方が私たちと同じ人間になり、私たちの兄弟と呼ばれることをためらわれなかったのは、「あわれみ深い、忠実な大祭司」となるためでした。ここに初めて登場した「大祭司」という言葉を受けるようにして、著者は3章1節で「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」と勧め、これから「大祭司であるイエス」のことを論述して行く意図を更に明確に表しているのです。
 私たちが読んでいる新改訳聖書は、「大祭司であるイエスのことを考えなさい」と、まことにあっさりと訳しています。しかし、このギリシア語の動詞は、「考えなさい」と簡単に訳すだけではあまりにも物足りないのです。この動詞の意味を十分に汲み取って日本語にすると、「大祭司であるイエスに思いを集中しなさい」となります。この動詞の本体のノエオーは「考える」という意味ですから、新改訳の訳語は間違っているわけではありません。しかし、この動詞にはカタという強調の接頭語が付いています。それでカタノエオーは、ただ「考える」では物足りなく、《考える思いをそこに集中していく》という意味になるのです。
 ここにはイエスについて「私たちの告白する信仰の使徒である」とも書いてあるので、そのことにも注意を向けておきましょう。この「使徒」はペテロやヨハネ、またパウロを指して使徒と言うのと同じ言葉ですが、その原意は「遣わされた者」であります。イエスはまさに神から「遣わされた方」であり、その意味で「使徒である」と言われているのです。イエス様は、福音を伝える(私たちに福音する)ために、神から遣わされました。そのイエス様は人々の間で神を代表する者、また神の御前で人間を代表する者でありました。そういう意味で、まことにイエス様は、「私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司である」のです。
 イエス・キリストは、神ご自身の完全な現われであり、神ご自身をご自分の身によって示していてくださいます。もし私たちが神を見たいと願うなら、イエス・キリストを見ればよい。イエス・キリストに私たちの思いを集中するということは、私たちが神ご自身を見ることにも通じるのです。旧約時代は、人が神を見ることなど許されず、それは死を意味することでした。それなのに今、私たちがイエス・キリストを通して神を見ることができるのは、なんと大きな恵みであり幸いでありましょう。
 このイエスは、神ご自身の完全な現われであるとともに、神に対する人間の従順な在り方を完全に示してくださいました。神のかたちに創られた人間は、神に対して従順でなければなりません。しかし、現実の人間は神に背いて罪を犯してしまっています。そういう罪深い人間たちの間で、神に完全に従った人間のあるべき姿を、イエス様がはっきり示していてくださいます。以上をまとめて、改めてイエス・キリストは、〈まことの神〉であり〈まことの人〉である方、と言うことができるのです。
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 この大祭司であるキリスト・イエスに私たちの思いを集中しなさい。そのように私たちは熱心に勧められています。それは私たちに、「確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続ける」ことができるようにさせるためなのです。6節の後半に「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」と書いてあります。本書の著者は《大祭司キリスト論》を述べることを大きな目的にしていますが、それとともにもう一つの目的があったことを忘れてはなりません。
 本書の読者である多くのユダヤ人キリスト者は、激しくなるローマ帝国の迫害下で数々の試練に会い、ローマの公認宗教としてあまり迫害を受けることのなかったユダヤ教から「戻ってくるように」との誘いを受ける中で、信仰の動揺を覚えていました。そういう者たちの信仰の動揺を止め、彼らを福音の信仰にしっかり立たせてキリスト教会を守り抜いていきたい、という思いが著者の内にはありました。それで本書の中には勧告がたくさんあり、まさに《勧告の書》と見られるような一面もあるのです。
 そのことから、本書には警告を含んだ厳しい調子の勧告も見られ、いつも叱咤激励されているようで、それが煩わしく感じられることがあります。それはイエス様の福音の言葉とはかなり調子が違うのです。「わたしのもとに来なさい。休ませてあげますよ」と言われるイエス様は、叱咤激励するようなことは滅多になさいません。この違いは、先に述べたような状況があったからだと知れば、理解していただけるでしょう。
 1節の「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」という呼びかけに注目してください。これはキリスト者に対する呼びかけであり、私たちキリスト者はこう呼ばれる者であることを教えられます。「天」はそこに神がおられる場所ですから、キリスト者とは、《神からの召しにあずかり、恵みによって聖なる兄弟たちとされている》のです。そのようにされているのは、全くイエス・キリストのおかげであり、その福音の恵みによるのであります。
 そういう私たちキリスト者が、その確信を持ち続けていかなければなりません。神に召されて聖なる兄弟たちとされているという確信は、感謝と喜びではありませんか。感謝と喜びに満ちた確信を、私たちは持ち続けていかなければならないのです。先に述べたように、本書の読者と目されていた人々の多くが、その確信を失いかけているという厳しい現実がありました。その人々に確信を持ち続けてほしいと心から願い、そのために「大祭司であるイエスに思いを集中しなさい」と強く勧めているのです。
 確信とともに、著者は「希望による誇り」をも持ち続けてほしい、と勧めています。この「希望による誇り」は、「確信」という言葉を言い換えたものだと思います。確信とは、どんな確信か。それは「希望による誇り」です。これをイエス様の福音の言葉と照合して学んでみたいと思います。
 イエス様の私たちに対する招きの言葉は、愛に満ちあふれています。「疲れている者、重荷を負って苦しむ者は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげますよ。わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。わたしがどんなに柔和で謙遜であるかを」と語りかけておられます(マタイ11:28-29)。「柔和と謙遜」は、新改訳では「心優しく、へりくだっている」と訳しています。この表現のほうが私たちの心にぴったり来ますね。イエス様が私たちキリスト者に求めておられる、その在るべき姿とは、イエス様ご自身がそうであられるように、「心優しく、へりくだっている」ことなのです。
 この柔和と謙遜でありますが、それは決して確信と誇りを欠如したものではありません。私たちキリスト者が身につけるべき柔和と謙遜は、《確信と誇りに裏打ちされた柔和と謙遜》であるのです。このような柔和と謙遜を私たちが身につけるためにも、大祭司キリストに思いを集中していくことが大事なのだ、ということを教えられます。
 この確信と誇りについて、もう少し洞察を深めてみたいと思います。確信を持つこと、誇りを持つことは、とても大事なことです。確信がなければ何かをすることができません。誇りがなければ生きていくことが難しくなります。ですから、誇りと確信を持って生きることは大切でありますが、あまりにも確信や誇りが強すぎると問題を起こします。では、キリスト者にふさわしい確信や誇りとは、どういうものなのか。それをしっかり教えられ、そういうものを私たちは身につけたいと願います。
 それは《自分への執着心から解放されている確信と誇り》です。確信や誇りは、よく自分自身の確信や誇りになってしまいます。そのように自分自身の確信や誇りが強くなると、それは自分への執着心と密着していますから、必ず傲慢になるのです。自分への執着心、それが罪の奴隷状態であると思います。その罪の奴隷状態から解放されているのが、イエス様の救いにあずかったキリスト者ではありませんか。自分へのとらわれから、そして罪の奴隷状態から解放される-それこそイエス・キリストによる救いの現実ではないでしょうか。
 ですから、大祭司キリストに私たちの思いを集中していくとき、そしてキリストの福音をしっかり私たちが受けとめていくとき、私たちは罪の奴隷状態から解放され、自分への執着心から解き放たれていくのです。これは言葉では今のように簡単に言えてしまいますが、「では、村瀬先生はどうですか」と聞かれると、〈私は本当に自分への執着心から解き放たれているだろうか〉と、深く心を探られます。ですから、〈自分への執着心から解放されるのは、そんなに簡単なことではない〉と思わされるのです。
 しかし、大祭司イエスに思いを集中し、その「心優しく、へりくだっている」お姿を見詰めるとき、この私も自分への執着から解放されていくことを感じます。それは自分の努力でできることではなく、ただ恵みによるのです。そのように自分への執着心から解放された確信と誇りこそ、キリスト者にふさわしい《柔和と謙遜と一体化した確信と誇り》であり、それを持ち続けていくようにと勧められているのです。
 これで今回の説教で話すべきこと話し終えたのですが、飛ばしてしまった2~5節についても少し触れておきたいと思います。ここではモーセとイエス様とが比較されています。それでこの聖書個所(3:1-6)について「イエスはモーセに優る」という見出しをつけている注解書もあるのです。
 「モーセが神の家全体(イスラエル)のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方(神)に対して忠実であったのです」(2節)。3節では、家と家を建てる者との比較で、「家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つ」と言います。家が建てられても、《称賛を受けるのは建てられた家よりも、その家を建てた者である》と、著者は主張しています。ここで「イエスがモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしい」と言われるのは、《モーセは建てられた家に対して忠実であったが、イエスは家を建てた方(神)に対して忠実であられたからである》ということになります。イエス・キリストの福音から離れて、モーセが代表するユダヤ教へ戻ろうとするユダヤ人キリスト者たちを思い止まらせようとして、このように著者は述べているのです。
 「家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は神です」(4節)。ここで教えられるのは、家を建てるのは人間でも、その背後にあって「すべてのものを造られた方(神)」が一番大事なのだ、ということであると思います。教会を建てるのに多くの人が参与するでしょう。しかし、本当に教会を創建してくださったのは、父なる神であるとともにイエス様です。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と、イエス様が言われています(マタイ16:18)。このイエス様が一番大事である、ということを忘れてはなりません。
 5節にまいりますが、ここは前節とのつながりが悪いので、4節を括弧に入れる注のような文章と見るとよいでしょう。文章は3節から5節へとつながります。「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られることをあかしするためでした」(5節)。この後半の言葉が、とても大事な意味を持つのです。
 「後に語られること」とは、何でしょう。それは神が、終わりの時に御子キリストによって語られることなのです。モーセが神の家全体に対して忠実であったのは、そのことを「あかしするためでした。」 ここで参考にしたいのは、モーセが代表する律法について言われた次の言葉です。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのです」(10:1)。律法と共にモーセも、「後に来るすばらしいものの影」に過ぎず、そのすばらしいものの「実物」ではありません。その実物とは、もちろん、イエス・キリストです。
 するとモーセは、「後に来るすばらしいもの」を予告しているのです。その「すばらしいもの」が、イエス・キリストによって現実のものとなっています。そのキリストが、今や「御子として神の家を忠実に治めて」おられます。もちろん「神の家(教会)」は大事ですが、「神の家(教会)を治められる」キリストはもっと大事なのです。
 このイエス・キリストに、私たちの思いを集中していきましょう。これは何よりも、私たちの日々の生活の中で実践していきたいことです。朝ごとに神との交わりを持つ中で、神が遣わしてくださった方であり、大祭司であるイエス様に、私の思いを集中する黙想の時を大切にしましょう。そして、イエス・キリストの福音の恵みを自分の身にいっぱい受けましょう。そうすることによって、私たちは「確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかり持ち続ける」者にさせていただけるのです。(村瀬俊夫 2004.6.13)

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