今回は9章に進みます。冒頭の「初めの契約」は、8章の終わりに「年を経て古びたものは、すぐに消え去ります」とある衝撃的な言葉に関係しています。それは旧い契約のことで、縮めれば旧約になります。その旧約聖書にも「礼拝の規定と地上の聖所がありました。」 いや、あり過ぎるくらいありました。特にモーセ五書の二番目の出エジプト記、それに続くレビ記、民数記、申命記には、礼拝の規定が「これでもか、これでもか」と感じさせられるほどたくさん記されています。当時は神殿ではなく幕屋でしたが、その聖所として設けられた幕屋のことも細々と述べられているのです。
その幕屋の構造や様子が2節から5節の前半にかけて書いてあります。これは主として出エジプト記25章とその前後の個所から引用して書いたものです。もっと詳しいことを知りたい方は,出エジプト記25章やその前後をよく読んでください。ところで、このような細部にわたる記述の一つ一つに意味付けをする人々がおりますが、それは的外れなことではないかと思います。
5節後半に「しかしこれらについては、今はいちいち述べることができません」とありますが、訳文があいまいなため、著者がここで何を言おうとしているのかよく分かりません。《本当はもっと述べたいのに、時間も紙面も足りないのでそれができない》というような意味にとれますね。すると、著者はこの書の朗読を聞く人々(今風に言えば本書の読者たち)がもっとよく出エジプト記25章とその前後を学んでほしい、と言っているのだと解釈されるわけです。
しかし、私は全然違うと思います。むしろ逆で、《細部のことをいちいち述べるのはどうでもいいことなんですよ》と著者は言おうとしているのです。それは先に述べた8章の終わりの言葉と照らし合わせれば、納得していただけると思います。旧約の礼拝規定や聖所は古びて消えて行くものなのですから。そんなことを細かくいちいち述べる必要などないのです。そのような意図を岩波訳がよく表しているので紹介します。「今は個々にわたって述べる時ではない。」 それは述べる必要がないからなのです。
いちいち詳しく述べる必要はありませんが、一応こういう事実があったのだということで、幕屋の様子を伝えているのが2節から5節前半までの記述であります。燭台があり、机があり、供えのパンがありました。幕屋の中には垂れ幕があり、垂れ幕の奥が至聖所と呼ばれていました。これは大事なことであります。その至聖所の中に、金の香壇があり、全面金で覆われた契約の箱がありました。その箱の中には、マナの入ったつぼと、芽を出したアロンの杖と、[十戒を記した]契約の二枚の板かありました。その契約の箱の上は贖罪蓋と呼ばれ、年に一度、大祭司が至聖所に入り、携えていった動物のいけにえの血をその贖罪蓋の上に注ぎました。さらに贖罪蓋の上方を翼で覆うように栄光のケルビムが置かれていました。そのような状景を説明しているのです。
そのように説明したから、《それが現代の私たちに特別な意義を持っているのです》と、著者は言おうとしているわけではありません。後で述べられるように、そういうことで私たちを救う(私たちのために贖いを成し遂げる)には不十分であったのです。それでキリストが来て、私たちのために「永遠の贖いを成し遂げられたのです」と、著者はこれから述べて行くわけですが、そのことのほうがはるかに重要であります。
礼拝規定と聖所については、6節以下にも説明が続けられています。先の個所で述べたように、よく整えられた礼拝規定と聖所があり、「前の幕屋(幕屋の垂れ幕の前の聖所)」には、いつも祭司たちが[組みを作って当番制で]入って礼拝を行っていました(6節)。しかし、そこに神ご自身が現臨される「第二の幕屋(至聖所)」には、人々はもちろん、祭司たちも入ることがでませんでした。神の聖なる臨在の前に、彼らは近づけないし、立つこともできません。ただ例外として、年に一度だけ大祭司が入ることができました。そのとき大祭司は必ず、動物のいけにえの血を携えて入らなければなりません。その血については、「自分の[罪の]ために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです」と、すぐ後に説明があります(7節)。その血を大祭司は贖罪蓋の上に注いだのです。
とても重要なのは、8節に「これによって聖霊は次のことを示しておられます」と前置きして以下に書いてある内容で、「すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所(至聖所)への道は、まだ明らかにされていないということです。」 神の聖臨在の前に近づく道がまだ明らかにされていないということは、その道が閉ざされていたということにほかなりません。それで本書の著者は、《この幕屋はなくなり、消えて行きます。そして新しい秩序が立てられました》という福音を力強く語り、それをしっかり聴いてほしいと願っているのです。
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9節は「この幕屋はその当時のための比喩です」という言葉で始まりますが、この訳よりも脚注の別訳のほうが適当であると思います。「この幕屋は今の時のことをさす比喩です」と読んでいます。イエス・キリストがおいでになった今の時、私たちが神の聖臨在の前に近づく道が完全に開かれました。《そういう時が来ることをさし示している、今の時のための比喩である》と理解していただけたらよいと思います。
では、今の時の私たちに、どういうことを教えてくれているのでしょう。幕屋の規定に従って「ささげ物といけにえがささげられ」て礼拝が行われても、「それらは礼拝する者の良心を完全にすることができません。」このようにはっきり言われています。これは重大な発言ですね。《旧約のシステムの礼拝では、人間の良心は完全には清くされないのだ》と明言されているのでから。
この「良心」という語について、「この日本語はよくない」と言われた先生のことを思い出します。すでに故人となれた方ですが、かつて新改訳聖書の旧約の部の翻訳主任をされた名尾耕作先生です。私も新約の部で仕事をさせていただいていた関係で、名尾先生とご一緒になることがありました。そんな時のことでしたが、「人間に良い心なんてないんじゃないですか。あるのは悪い心だけでしょう。だから良心という言葉はよくないですよ」と、名尾先生が言われたのです。
でも、「良心」という言葉は、かなり深く根付いていますから、いまさら他の言葉で言い替えることが難しいと思います。この言葉が意味するのは、人間が善悪を判断する機能のことであると思いますが、その機能が多くの人の場合、極めて弱くなってしまっています。「良心」があるとしても、本当に弱いものになっているのです。その良心を完全にするということは、弱まった良心が健全にされて善悪の判断がしっかりできるとともに、悪を捨てて善に生きる決断ができるようになる、ということを意味するのではないでしょうか。
そのように、この良心という言葉は、《善悪を見分けるだけでなく、悪を捨てて善に従うようになる決断と行動をもさせる概念として考えるのがよい》と、私は思います。この点で、岩波訳は「内奥の意識」という苦心の訳語を提示しています。人間の心の奥底にある意識、ということなのでしょうか。良心よりは適切な訳語だと思いますが、それでぴったりだという感じもしません。
それにしても、人間を本当に動かしているのは、この内奥の意識ではないでしょうか。人間の行為は表面だけではわかりません。非常に熱心に見えるキリスト者でも、内奥の意識においてはそうではない、という場合がよくあります。キリスト者も恐ろしいほど偽善者になってしまう危険性があるのです。それを思うと、内奥の意識において清められ、完全にされるということは、本当に大事なことだと思います。それを可能にしてくれるのは、キリストが成し遂げてくださった永遠の贖いなのです。
ヘブル書の著者は、そのことを力強く宣言してくれています。これこそ福音であり、喜びのおとずれであります。それを私たちは受けて,その喜びに本当にあずかる者にされたい、と切に願わされます。そう言うのは、そのような喜びにあずかれずにいるキリスト者が、福音の豊かさに触れていない信者が少なくない、という現実が残念ながらあるからです。知らぬ間に、キリスト教信仰というものが《何かを行っていく、何かの目標に向かってそれをやり遂げる》ということに摩り替わってしまいます。それは厳に警戒しなければならないことです。
10節は、9節が旧約の礼拝の規定について言われたことを、さらに旧約の種々の規定(律法)にまで及ぼして述べています。「それら[の規定]は、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課された、からたに関する[すなわち外面的]規定にすぎないからです。」要するに、旧約とはそういうものに過ぎない、と断言しています。この理解をキリスト教会は、そしてキリスト者ははっきりと持つべきです。私たちが旧約聖書を受け入れるのは、そのような理解と限定の下においてであることを、忘れてはなりません。しかし、旧約聖書の中には、新しい秩序が必要であることを指し示す個所が多くあります。それが大事であります。それで私も《旧約聖書がなお必要である》という立場を表明しているのです。
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新しい秩序を立てるために来られたキリストのことが、11節以下に述べられます。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事柄の大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎや子牛との血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(11-12節)。重要なことが書いてあることが分かりますね。
「すでに成就した」については、脚注に異本(異なる写本)の「来ようとしている」という読みが示されています。今に残されている四世紀頃の有力な(信頼性の高い)写本の読み方が両者に別れているのです。それでどちらの読み方がオリジナルか決め兼ねるのですが、私は両方とも真実だと思います。「来ようとしている」すばらしい事柄は、「すでに成就した」すばらしい事柄でもあります。大事なのは新しい秩序が立てられた「すばらしい事柄」なのです。
そのための大祭司・新しい契約の仲介者としてキリストが来られました。キリストは、地上で人間の手で造られたどんな物より、はるかに偉大で完全な幕屋を通って、「ただ一度、まことの聖所(至聖所、神の聖臨在)に入り,永遠の贖いを成し遂げられた」のです。このことは、1章3節の言葉に照らすと、「また、罪のきよめを成し遂げて、優れて高い所の大能者の右の座に着かれました」という個所に相当します。キリストは十字架において贖いの死を遂げ、そして葬られて三日目によみがえらされ、天にあげられて神の右の座に着かれたのです。
そのことが、ここでは、キリストは「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた」と表現されています。「ご自分の血によって、至聖所に入られた」復活のキリストは、《まさに十字架の血そのものである》と言うことができます。そのように《復活のイエス様は、十字架で流された血そのもののイエス様である》と、イメージすることが大切であり、そのようにイメージしていただきたいのです。その血とは、血なまぐさい凄惨なものではなく、光り輝くような聖なる血、まさに《栄光の血》であります。
「ただ一度」という語句については、前に述べたことですが、英語の once for allが示すように「一度で全部(あるいは完全)」という意味です。そのようにキリストは、十字架の死と復活の出来事によって、まさに「[一度で完全な]永遠の贖いを成し遂げられ」ました。このことの重み、その内実(恵み)の豊かさと莫大な富を、本当に受けとめてほしい。いや、受けとめていただかなければなりません。ありていに言えば、受けとめなければ大きな損をしているのであり、そのように[恵みを受けずに]損をしている[そのためにいたずらに嘆き悲しんでいる]キリスト者がたくさんいるのではありませんか。
先に日本語訳が刊行された『恵みに生きる訓練』と同じ著者のジェリー・ブリッジズ氏の新著の翻訳刊行の計画が進められており、ある方に翻訳を依頼してありました。その翻訳原稿の一部が最近私のもとに送られて来たのをチェックしていると、その中に、フルタイムで熱心に教会に奉仕しているのに、永遠の贖いの恵みをよく理解していない婦人の例が紹介されていました。彼女は「神が私を愛してくださることは分かっています。でも、時々、神が私に好意をもっておられないのでないかと不安になるのです」と告白しました。神が私を愛してくださることが本当に分かっているなら、そんな不安はありえないことです。「キリストが成し遂げられた永遠の贖いの意味が分かっていないから、そんな不安に駆られるのですよ」と、私は申し上げたいのです。
「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」(14節)。私たちのどんなに重く深い罪も永遠に贖って余りあるキリストの血には、内奥の意識を本当に清めて完全にしくださる力があります。どんなに私たちが罪を犯しても、その罪は贖われ続けるのです。それだけの力のあるキリストの十字架の血による永遠の贖いの恵みを、《すべてのキリスト者がよく知り、十分に受けてほしい》というのが、本書の著者の熱い願いであると思います。キリストの血は、私たちの良心(内奥の意識)を清め、私たちを罪の中に死んだ行いから離れさせて、生ける神を心から喜び、生ける神に感謝をもって仕えるようにさせてくださるのです。
私も、これまでしばしば話したことですから内容は省きますが、この「ただ一度」という恵みの体験をしました。それ以来、福音の豊かな恵みを味わうことを許されております。本当にありがたいことです。私は自分の罪深さを知っています。そのことを日々に覚えさせられています。けれども、《その深い罪をキリストは贖って余りある「永遠に贖い」でいらっしゃる》ということ思いますとき、感謝があふれてくるのです。永遠の贖いを成し遂げられたキリストを、私たちは永遠の大祭司として持ち、主と仰いでいるのですから、その測り知れない恵みと愛を日々に受け、感謝と喜びのうちに、互いに愛し合う生活へと導かれて行こうではありませんか。(村瀬俊夫 2005.4.10)
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