2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 29》 讃美のいけにえを絶えずささげよう

  今日はペンテコステ礼拝です。蓮沼キリスト教会は、毎年ペンテコステを覚えて、この日の礼拝を大切に守っています。しかし、プロテスタント教会では、ペンテコステ礼拝が忘れられているような気配がします。クリスマスを忘れることはありません。かなり前からクリスマスを迎える準備を始めています。イースターも忘れることはないでしょう。それなりの行事を計画している教会が、ほとんどですね。それに比べると、ペンテコステは忘れてしまわないまでも、軽視されている現状があるのではないでしょうか。
ペンテコステは、クリスマス・イースターと共に、キリスト教の三つの大きな祝祭日の一つです。私は、この三つの中でペンテコステが一番大事だと思っています。それで蓮沼キリスト教会は、そのために特別に行事をするわけではありませんが、この日を大切に守ってきております。本日の週報にも、坂本牧師がペンテコステについて、とてもよい解説を書いていてくれます。
 通俗的にペンテコステは教会の誕生日と言われており、この意味でペンテコステを大切にしている教会もあるのです。しかし、聖書をよく読んでいきますと、ペンテコステ以前に教会はなかったのか、という疑問が生じます。聖霊降臨を待ち望んで50日間、特にその終わりの10日間、120人ほどの弟子たちが一ヶ所に集まって熱心に祈りをささげていました(使徒1章参照)。その群れは教会ではなかったのでしょうか。そんなことはありません。復活されたイエス様によって[躓き倒れていた]弟子たちが呼び集められた、その時にイエス・キリストの教会は、まさに[間違いなく]存在していたのです。
ですから聖霊降臨には、教会の誕生日ではなく、もっと別の意味があります。週報には「ユダヤ教という民族宗教を越え、キリスト教が普遍的な宗教となったことに意義があります。民族や身分の壁を超えた教会に生まれ変わった日が、今日(ペンテコステ)なのです」と解説してあります。聖霊降臨以前の教会の状況は、民族や身分の壁の中にあったかもしれない。しかし、聖霊降臨によって教会はそのような壁を超えた。これは、一つの重要な見解であると思います。
もう一つ、聖霊降臨のとき、そこに世界の各地から集まっていた人々が、いろいろな国の言葉で語り始めたという事実は、《教会の世界宣教を宣告している》ものと思わずにはいられません。私は、ペンテコステは教会の世界宣教開始の日であり、《教会の世界宣教がこのペンテコステの日に始まったのだ》と理解するのが、聖書に一番即した受けとめ方であると確信しています。皆様も、そのように受けとめてください。今日は、そのペンテコステであることを覚えつつ、ヘブル書の連続説教をさせていただきます。
 今日の箇所は、もう終わりに近い13章7~17節です。7節には、本書の朗読を聴く人々に、「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末を見て、その信仰にならいなさい」と勧めています。迫害が厳しくなっていた当時の状況から、「彼らの生活の結末」には殉教の死ということも十分に考えられたでしょう。このような勧めを自分に当てはめ、《私にとって、その信仰にならうべき指導者とは誰なのか》と考えてみました。
 それで週報の説教要旨に、お二人の名前を挙げておきました。昨年の秋に天に召された、アシュラムセンター主幹牧師であった田中恒夫先生は、私がいつも見習っていた指導者の一人であったと思います。年齢的には私のほうが一回り上なのですが、霊的な事柄において年功序列はあまり関係がありません。私より一回り若い田中先生から、私はアシュラムを通してたくさんのことを学ばせていただきました。そして今も、田中先生の信仰に学びたい、という熱い思いでおります。
 もう一人は、私が若い頃に影響を受けた方で、東大総長もされた有名な矢内原忠雄先生です。無教会主義の信仰に立ち、ご自身で日曜日に集会を開いて聖書の講義を続け、また『嘉信』という月刊誌を出し続けてこられました。無教会主義の指導者の方々の多くは、主筆として月刊誌を出しておられます。それには他の人の寄稿も許されます。しかし『嘉信』は、全部矢内原先生が書いておられました。それに私はとても惹かれて、いつか私もそんなものを出したいな、という思いがあったのです。現職の牧師の間は忙しくて個人誌など出すことは不可能でしたが、二〇〇三年末の引退を待って四ヶ月ほど間を置き、二〇〇四年五月から念願の刊行に漕ぎつけたのが『西東京だより』であります。これを全部私が書いていますが、それは矢内原先生の影響であり、その信仰に少しでもならいたいという思いの表れでもあるのです。
 矢内原先生は戦時下、軍部の圧力に屈せず闘われ、そのために東大教授の職を追われました。植民地政策が専門でしたから、満州事変以後の日本の侵略行為に対する批判的論稿を書き、また講演をされました。それで軍部から睨まれていたのですが、ある講演会で「日本の理想を生かすために、ひとまずこの国を葬ってください」と結んだ言葉が、当局の怒りに触れてしまったのです。
 私が知った矢内原先生は、戦後東大に迎えられて総長になられた時ですが、毎年3月下旬の日曜日午後に開かれていた「内村鑑三記念講演会」で必ず講師の一人として講演されました。それを私は毎年欠かさず聴きに行きましたが、それがどれほど私の信仰の糧になったか分かりません。私も微力ながら、正義と理想のために闘わなければならないという思いを心に刻まれたことも確かです。私自身、そういう指導者の一人になれるだろうかと思うと心もとないのですが、できるだけ良い指導者にさせていただきたい、という思いだけは忘れずにおります。
 17節を見ると、「あなたがたの指導者の言うことを聞き、また服従しなさい」勧められています。その理由として、「この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです」と述べられています。「見張りをしている」は少し意訳した表現で、直訳すれば「眠らないでいる」で、それを岩波訳は「不眠の努力をしている」とうまく訳しています。牧師たる者は、群れのたましいを守るために「不眠の努力をする」のだ、と教えられているのです。私など、どれだけそうしてきたかを顧みるとき、忸怩(じくじ)たる思いにさせられます。
 そういう牧師たちのため、群れの信徒たちが支えていく義務があることも忘れてはならない。それで「この人(牧師)たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることがないようにしなさい」と、信徒は牧師の指導によく従うように勧められているのです(17節後半)。
 さて、「信仰にならいなさい」と7節に言われていますが、その「信仰」の根源と対象はイエス・キリストです。8節に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです」と言われています。週報には、ギリシア語原文に即した私訳を示しておきました。キリストは「きのうもきょうも同じ方、そしていついつまでも。」「いつまでも」でもかまいませんが、原文は複数形なので「いついつまでも」と言ったほうがよいでしょう。私たちのためにとりなしをしてくださる大祭司キリストは、きのうもきょうも、いついつまでも同じ方で、変わることがありません。そのキリストの恵みも愛も、いくら時と所が変わっても、決して変わることがありません。イエス・キリストは、いつも変わりなく、いつも同じ方として、神がいつも[そして、いついつまでも]私たちと共にいてくださるインマヌエルなのです。
 9節には、「さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を受けませんでした」とあります。旧約聖書の食物規定について言われていることでしょうが、大事なのは「恵みによって心を強める」ことです。ここも私訳を説教要旨に載せました。「恵みで心がしゃんとするのはすばらしいことです」と。「強める」と新改訳が訳したギリシア語は「堅固にする、確立する」という意味で、恵みによって心が堅固にされることは「心がしゃんとする」ことなのです。
 きのうもきょうも、いついつまでも同じ方である活けるイエス様。そのイエス様の恵みと愛によって「心がしゃんとする」という、すばらしい経験を日々に味わうようにさせていただきたい。いつも私のことを心にかけてとりなしをしていてくださる、そのイエス様の愛によって私の心が堅固にされ、しゃんとさせられるのは、本当にすばらしいことです。思わず喜びと感謝があふれ、讃美が湧いてくるではありませんか。心がしゃんとしないと讃美が湧いてまいりません。心がなえていたのでは讃美は湧いてこない。恵みによって心がしゃんとしているからこそ、その心から讃美が湧いてくるのです。
15節へ飛びます。「ですから、私たちはキリストを通して、讃美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」 これは勧めの言葉ですが、勧められずとも、恵みで心がしゃんとすれば、自ずから讃美が湧き上がってきます。恵み深い神をほめたたえずはおられなくなるのです。
 ここで「讃美のいけにえ」と言われていますが、「讃美」と「いけにえ」を結びつけるのはどうか、と思われる方がいるかもしれません。それにしても「讃美のいけにえ」と言うと、「いけにえ」もずいぶん美化される感じがします。十字架もネックレスになると、あんまり悲惨さを感じさせないでしょう。本当の十字架は悲惨で残酷なものです。「いけにえ」も同じではないでしょうか。「いけにえ」は生きているもの(動物)が殺されてささげられるのです。ですから、「讃美のいけにえ」と言うとき、《私たちの讃美は私たちの「いのち」を神にささげるものなのだ》ということを教えられているのです。そのことをここで学び取るこが大事だと思います。
 私たちのいのちを神にささげると言っても、それは自分が自分をささげるのではなくて、「キリストを通して」ささげるのです。「キリストを通して」ささげる私のいのちは、キリストの血によって聖別された「新しいいのち」にほかなりません。その「新しいいのち」を神にささげるのが、私たちの「讃美のいけにえ」なのです。《「キリストを通して」私のいのちを神にささげていくのだ》という思いをもって、私たちも礼拝の時の讃美をささげるようにしましょう。
 10節に戻ります。「私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。」 私たちの教会にも祭壇があります。その祭壇の上に、本日はペンテコステ礼拝で聖餐式が行われるため、イエス・キリストのからだを表すパンと流された血を示すぶどう汁の入った杯が置いてあります。旧約時代は、幕屋で仕えている者たちも、祭壇から食べる権利がなかった。聖所の中には動物のいけにえの血しか持って行くことができず、いけにえの肉は宿営の外で焼き尽くされてしまった(11節)。それで肉を食べることができなかった。しかし私たちは、この礼拝において、聖餐のパンをぶどう汁の杯と共にいただくことができます。それはすばらしい特権です。
 その聖餐のパンにおいて示されているお方は、きのうもきょうも同じお方、いついつまでも同じお方です。そのキリストのからだを表すパンを食べることができる。そのことによって、キリストが永遠の大祭司としていつも私と共にいてくださることを、私のからだで知ることができる。これは本当にすばらしいことです。この恵みで私の心はしゃんとし、讃美が湧き上がってまいります。
 12節には、「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」とあります。イエス様が十字架につけられたゴルゴタの丘は、エルサレムの門の外にありました。「門の外」にいる人々は罪人を表しているので、キリストは門の外で罪人のためにご自身のいのちをささげ、血を流してくださった、という意味もあります。その血によって罪人を聖なるものとしてくださっています。聖餐式は、そのことを実感できる時であり、讃美のいけにえをささげさせてくれるのです。
 続く13節の勧めに目を留めましょう。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」 
キリスト者はみな、キリストの辱めを身に負っているのではないでしょうか。キリスト者である以上、私もパウロのように、「私は福音を恥とは思いません」(ローマ1:16)、「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)と言うことができる、《そのように確信をもって言える自分でありたい》と、いつも思っています。それにもかかわらず、《自分がキリスト者であることを大きな声で言いたくない》という気持ちにさせられことがあるのですね。皆さんは、どうでしょうか。
そんなジレンマを感じているとき、《キリストも辱めを受けられたのだ、その辱めを私も負っているのだ》と分かると、ずいぶん慰められ、とても励まされます。私たちが生きている現実の世界である「宿営」の中で、キリスト者であるがゆえに受ける辱めがあるのは当然である、と思わされるのです。それだから、「宿営の外に出て、[神の]みもとに行こうではありませんか」と勧められているのではないでしょうか。
これは《アシュラムで言う毎朝の「レビの時」「静聴の時」「密室の時」を大切にしなさい》という勧めにほかなりません。この勧めに従って、日ごとのアシュラムで神との交わりを深め、イエス・キリストとの交わりを親密にして行くとき、私たちは現実の生活の場である「宿営」の中において、キリストの辱めを[堂々と]身に負っていくことができるようにされるのです。
 14節「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです」については、先にアブラハムの信仰において学びました。アブラハムは「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていた」(11:16)。私たちキリスト者も同じで、私たちが本当にあこがれているものは地上にはありません。天にある永遠の都を、私たちはあこがれているのです。朝ごとのアシュラムにおいて、聖霊がいつもそのことを私たちに教え、そうすることができるように私を導いていてくださるのではありませんか。

 そのような永遠の大祭司であるキリストとの日ごとの親密な交わりが、この世においてキリストの辱めを身に負いつつも、讃美のいけにえを絶えずささげさせてくれる原動力となるのです。     (村瀬俊夫 2006.6.4)

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