2015年9月2日水曜日

《ヘブル書連続説教 12》 神 の 誓 い と 約 束 は 不 変 ヘブル 6:13~20

 今回の個所は、初めの方から見ていくと少し難しいかと思います。ヘブル書は難解な文書として知られています。神学的には深い洞察に満ちていますが、論述の仕方に少し難しい点があるのです。それで適切な解説を必要とする文書であると思います。今回の個所も、終わりの方から見ていくと比較的よく分かるのです。
  多くの書物について、そのように言える場合が多いと思います。カントの哲学書など初めから読んでいくと難しくてさっぱり分からないのですが、終わりの結論を知って、そこからさかのぼって見ていくとかなりよく理解できるものなんだ、といことを私もちょっぴり[カント哲学を少しばかり学んだときに]経験しています。それもやはり先達の解説を聞いて初めて分かることなのですね。この個所も、終わりの方(19-20節)から見てまいりましょう。
 20節に「イエスは私たちの先駈けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司になられました」とありますが、これこそヘブル書の著者が一番言いたかったことなのです。そのことを私たちはしっかり捉えておかなければなりません。この「永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司」になられたイエス様が、私たちの揺るぎない望みなのです。
それで前の19節を見ると、「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです」と書いてあります。「幕の内側」とは、旧約時代の幕屋のことを前提に言われています。幕屋の中に垂れ幕があり、その奥へは普通の祭司も入ることができません。大祭司が年に1回だけ入ることができたのです。そこは全体が聖所である幕屋の中でも《至聖所》と呼ばれました。そこに神が現臨される、まさに神がおられる、という場所なのです。
その至聖所には、ユダヤ人でも一般の人はもちろん、普通の祭司も、また王も預言者も入ることができません。そういう場所に、イエス様は、メルキゼデクの位に等しい大祭司として入っていかれたのです。このことは、1章3節で言われている、イエス様が「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」と同じことを言っているのだと思います。「メルキゼデクの位に等しい大祭司」になられたイエス様は、まさに罪のきよめの業を成し遂げておられたのですから。
 さて、これまで述べたことはさかのぼって18節に関係しています。もちろん18節は17節を受けている説明文なのですが、今は19節との関係で見てまいります。ここに「変えることのできない二つの事柄によって」という語句があります。今回はここから説教題を選ばせていただきました。「変えることができない」は、17節の「ご計画の変わらないこと」の「変わらない」と原文のギリシア語では同じ言葉なので、17節と同じく「変わらない二つの事柄」と素直に訳せばよいのです。「変えることができない」という持って回ったような言い方はよくありません。
  まさに「変わらない二つの事柄」によっている私たちの望みなのです。その二つの事柄とは何か。これから説明してまいりますが、説教の題にその答えが書いてあるように、神の誓いと約束にほかなりません。その変わらない神の誓いと約束に裏付けられているところの望みなのです。18節を見ると、変わらない神の誓いと約束によって「前に置かれている望みを捕らえるために逃れてきた私たちが、力強い励ましを受けるためです」とい書いてあります。《この書の朗読を聴く人々が力強い励ましを受け、動揺しないようになってほしい》との著者の熱い願いから、このように書いているのです。この願いを実現するために、《キリストは私たちの先駈けとして、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司になられました》と、著者は強く訴えています。それこそ、すばらしい福音の告知にほかなりません。
  ここに「望みを捕らえるために逃れてきた私たち」とあるのは、文書の受け手をはじめ著者を含めて言っているのですが、現在の私たちも含まれると思います。「逃れる」とは、世を捨てることではなく、主日礼拝に集まるよう《日常生活の場から離れる》ということを意味しています。そうするのは、「前に置かれている望みを捕らえ[その望みに生きるようにな]るため」です。この「望み」について、19節は「私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たして」いるのだ、と説明しています。
  錨は舟が停泊するときに下ろして、舟が押し流されないようにするものです。しかし、余りにも強い風が吹くと錨ごと引き上げられて舟が移動し、岸壁に打ち付けられたりして大変なことになります。この世の舟の錨は完全ではありません。しかし、この錨は「安全で確かな」錨です。この錨にしっかり繋がっているならば、私たちは決してふるわれません。イエス様がペテロに「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられた」と言われたように(ルカ22:31)、サタンは私たちをしばしばふるいにかけることがあります。でも、いくらふるいにかけられても、「メルキゼデクの位に等しい大祭司」になられたイエス様の錨に繋がれていれば、私たちは決して吹き飛ばされることがありません。断じて動かされることがありません。
  錨がお魚の口に深く刺さっている絵があり、その絵を週報のカットに掲載したことがあります。錨がお魚の口に刺さった絵ですから、何も知らない人が見たらびっくりするでしょう。しかし、それは初代教会の人々が大事にしていたシンボルの絵なのです。魚は初代教会がとても大事にしたシンボルでした。それが「イエス・キリスト、神の子、救い主」という信仰告白を意味したからです。魚という意味のギリシア語「イクシュス」の五つのギリシア文字を、それぞれの語を頭文字とする五つの語として「イエス・キリスト、神の子、救い主」と読みました。初代教会では、お魚はイエス・キリストを示すものであったのです。ですから、先の絵は、イエス・キリストにしっかり錨が下ろされていることを表しています。その錨が「安全で、確かな」ものであるのは、それがイエス・キリストにしっかり下ろされているからなのです。
  イエス・キリストは、幕の内側に私たちの先駈けとして入って行かれました。「幕の内側」は神の聖なる臨在を意味するのですから、幕の内側に入って行かれたのは、神の右の座に着いておられることにほかなりません。しかも、イエス様は私たちの先駈けとして幕の内側に入って行かれたのですから、私たちもその後に続いて入って行くことができるのです。これこそが福音であります。私たちの先駈けとして幕の内側に入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司になってくださいました。そのお方こそ「安全で確かな錨」であり、この錨に繋がれることで私たちも幕の内側に入って行くことができ、神の聖なる現臨の前に立ち、神との交わりを楽しむことができるのです。
  旧約聖書の時代は、いろいろな意味で不完全なところがあります。旧約聖書だけでは、神の恵みは決して完成されておりません。その一つが幕屋の至聖所には入れないことでした。そのことはソロモンによって造られた神殿においても変わらず、神殿の聖所の垂れ幕の奥にある至聖所には入れませんでした。イエス様が十字架につけられて「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで、息を引き取られた時に何が起こったのか。そのことを共観福音書が伝えてくれています。
  神殿の聖所の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けました(マルコ15:38)。だれが、それを見ていたのでしょうか。そんな疑問が起こりますが、確かめようもありません。現実はどうであったかよく分かりませんが、これは大事な真理を表そうとしています。その真理こそ重要です。それは《神と人とを隔てる幕が取り去られて、いつでも私たちは神の聖臨在の前に近づける》ということであります。すでに4章16節で、「恵みの御座に憚ることなく近づこうではありませんか」と勧められていたとおりです。
  メルキゼデクの位に等しい大祭司としてキリストが、私たちの先駈けとして恵みの御座に入り、そこにご自分を錨として下ろしておられます。その錨にしっかり繋がることによって私たちも幕の内側に入ることができ、聖なる神との交わりができるのです。そこにおいては、三つの恵み(霊的祝福)がすでに与えられています。罪の赦し、永遠のいのち、神の子とされることです。これらの三つの祝福が与えられているので、私たちは神の御前に近づくことができます。錨であるイエス様に繋がれていることは、この三つの祝福を与えられていることにほかなりません。まさに福音なのです。 
 さて、変わらない二つの事柄とは、神の誓いと約束であります。それでアブラハムのことが出てきます。今回の個所の最初の13節に戻ります。神はアブラハムに約束をされました。アブラハムは神の約束を信じ、忍耐強く約束の実現を待ち望んだ人でした。15節に言われているように、「アブラハムは、忍耐強く待って(この部分は私訳)、約束のものを得ました。」 彼はそういう人の模範なのです。その意味で、私たちもアブラハムに倣うようにと勧められています。そのアブラハムのことは、創世記の12章以下の多くの章にわたり、相当な部分を占めて記されているのです。
 アブラハムはカルデヤのウルに生まれました。そこである時、彼は神の声を聞いてウルを出ていきますが、そのとき「あなたの子孫は大いなる国民となり、全世界の祝福の基となる」との約束を与えらます(創世12:2-3)。そのようにして行き着いた場所がカナンの地、今のイスラエルなのです。そのカナンの地においても、彼は「あなたの子孫は天の星のように増える」という約束を重ねて受けます。それを信じて彼は義と認められたという言葉も見られ(創世15:6)、そこからパウロは信仰義認の教理を発展させ、「アブラハムは信仰によって義と認められる人の手本である」と述べているのです(ローマ4章)。
  でも実際は、いろいろ大変なことがありました。アブラハムにサラという素敵な奥さんがいましたが、男の子が生まれなかったのです。それでアブラハムは、忠僕のエリエゼルに自分の財産を託そうと考えました。しかしサラは当時の慣習に従い、彼女の侍女ハガルを夫に差し出して、自分の代わりにイシュマエルという男の子を産ませました。するとサラとハガルとの間に確執が生じ、サラは夫にせがんでハガルとイシュマエルを追い出してしまいます。そのとき再び神の約束が彼に示され、年老いたサラに男の子が授かるという約束を与えられるのです。その約束が成就して生まれたのがイサクであります。
 ところが、このイサクをいけにえとして献げよという[それこそ無茶な]要求を、神がアブラハムになさるのです。彼はこの命令に従ってイサクを定められたモリヤの山(ここは後にエルサレム神殿が建てられた場所で、今はイスラムのモスクが建っている)へ連れて行き、まさにイサクをいけにえとして屠ろうとしました。その瞬間に神は待ったをかけ、備えておかれた羊をイサクの代わりにいけにえとして献げるように命じられたのです。
 その後に神がアブラハムに言われた「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いに増やす」という約束の言葉が、14節に引用されています。そのとき神は、特に「自分にかけて誓う」と言って、この約束の言葉を告げられた次第が創世記22章16節に書いてあるのです。
 私たちは「神にかけて誓う」と言いますが、まことの神を知る者にとって、この誓いの言葉は重みがあります。多くの日本人は、聖書の神がよく分かりませんから、「自分の良心にかけて誓う」と言いますね。自分の良心なんかそれほど確かなものではありませんから、そう言いながら平気で[というよりも義理人情から仲間や会社の上司たちを守るために]うそを言う場合が多く、むしろそれを良しとする風潮がある、ということに皆さんは気づいておられるでしょう。しかし、聖書の神が知られている欧米では事情が違うように、私は感じています。欧米の人も悪事を隠し、うそをつくことをします。でも、ついに法廷の場に立たされて「神にかけて誓う」という段になると、正直に罪を告白してしまうケースが多いのではないでしょうか。「神にかけて誓う」ことの重みが現実性を持っているからだと思います。
 ご自分以上の存在はない神が、「ご自分にかけて誓う」とまで言って約束されたことは、本当に間違いなく成就することなのです。《アブラハムの子孫が増え、世界の祝福の基となる》という約束は、ずっと長い歴史を経ても有効でありました。それがついにイエス・キリストによって実現を見たのです。神がご自分にかけて誓われた約束が成就して、イエス・キリストが先駈けとして幕の内側に入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司になられました。このようにして、「メルキゼデクの位に等しい大祭司」として、イエス・キリストは間違いなく全世界の祝福の基となっておられるのです。
 神がアブラハムに誓いをかけて約束された、その変わらない誓いと約束は、ついにイエス・キリストにおいて成就しています。この成就した望みこそ、決して揺るがない「安全で確かな」望みなのです。
 17節に、「神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです」と書いてあります。アブラハムに神がご自分にかけて誓われた約束は、いつ成就したのでしょうか。アブラハムの子孫が増える第一歩は、イサクの誕生で成就を見ました。しかし、その子孫が全世界の祝福の基となるという約束の成就は、イエス・キリストによるのです。ですから、17節の「約束の相続者たち」というのは、私たちキリスト者のことを指していると見なければなりません。神の誓いと約束は不変であることを知り、そのことを経験しているのは、私たちキリスト者のほかにはおりません。この恵みの福音を知り、それを豊かに経験している者たちこそ、私たちキリスト者であるのです。

 神が御子キリストによって語られた福音は、神の変わらない誓いと約束の成就にほかなりません。神の誓いと約束は不変であり、それが実現した望みは決して揺るぎない「安全で確かな錨」です。この錨にしっかり繋がれて、私たちは主日の礼拝ごとに、先駈けとしてキリストがそこに入られた「幕の内側」に入ることを許され、この望みに生かされて新たなる力を受け、慰めと励ましをいただいて、これからの歩みを続けさせていただきましょう。            (村瀬俊夫 2004.12.5)

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