2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 10》 「アバ、父」と呼ぶ御子の聖霊を

  ガラテヤ書の連続説教を月に一回させいてだき、今日は第10回になります。説教する箇所は4章1~7節ですが、とても大事な所です。いつも「ここは大事な所だ」と言っているようで、どこが本当に大事なのか分からない、とおっしゃる方がいるかもしれません。しかし、今日の所も本当に大事なのです。それで、しっかり心に刻むように聴いていただけたら、うれしく思います。
 《イエス・キリストがおいでになった》ということは、ただの出来事ではありません。これは天地がひっくりかえるような、大きな出来事であったのです。そう思わない人にとっては何でもないことですが、そう思う人にとっては、パウロにとってもそうでしたが、まさに驚天動地、天がびっくりし地が動くような出来事でありました。それには旧約聖書という背景があります。
 神は、イスラエル民族をお選びになり、アブラハムに約束をなさいました。それが、神が罪に陥った人類を救うお働きをなさる最初の重要な出来事でした。旧約聖書から新約聖書に至る神のお働きの歴史は、救いの歴史、すなわち私たち人類を罪から救い出そうとする神のお働きの歴史であります。この救いの歴史を、少し難しい言葉では《救済史》と言います。イエス・キリストが来られたという出来事は、救済史のクライマックスの出来事であったのです。
 アブラハムに対する神の約束が、イエス・キリストの到来によって、本当の意味で、まさに充実した意味で成就したのです。神は、《アブラハムの子孫を祝福し、その子孫が全世界の民の祝福の基となる》と約束されました。アブラハムの子孫は、肉においてはイスラエル民族です。その《イスラエル民族が全世界の民の祝福の基となる》ということは、誰によって実現したのか。もちろん、イエス・キリストです。アブラハムの子孫としてエス・キリストがおいでになり、イスラエル民族だけではなく、すべての人々の祝福の基となってくださいました。
 神の約束が成就するということは、《終わりの出来事》と言ってもよいのです。「終わり」は、少し難しい言葉で「終末」と言います。そして終末論的という言葉があります。イエス・キリストがおいでになったことは、まさに救済史における終末論的出来事でありました。だから、それは驚天動地の出来事
であったのです。「パウロにとっては、そうだったのかなあ」という思いで、お聞きになった方もいるかもしれません。しかし、この私にとりましても《まさに同じように驚天動地の、天を驚かせ地を動かすような出来事なのだ》ということが実感できるようになれば、本当にすばらしいのです。
 パウロがこれを書いたのは、自分だけがそういう体験をして、自分だけが喜び満足するためではありません。この手紙はガラテヤの諸教会に送られましたが、その諸教会の信者たちも、自分が体験したのと同じような体験をしてほしい、自分のこの体験を共有してほしい、という願いを込めて書いています。このパウロの願いは、二千年後にガラテヤ書を読んでいる私たちにも、同じように向けられているものと思います。イエス・キリストがおいでくださったことは、《私たちにとっても、救いの歴史におけるクライマックス、まさに終末論的出来事である》という認識をしっかり持ちたい。また、そのことが、《私にとっては、驚くべき、まさに感動的な出来事なんだ》ということを、この説教を通して感じていただければ、うれしいです。
終末論的出来事の特色は、それが終わりの出来事であるため、決定的な意味を持ち、変わることがありません。神の約束は、イエス・キリストの、とりわけ、その十字架と復活の出来事において、決定的な意味において成就しているのです。説教壇の後ろに十字架が掲げられ、その両脇から光が当てられています。復活の光に照らされた十字架です。十字架につけられて死んだイエス様を、父なる神は死からよみがえらせてくださることによって、《私たちの罪を赦し、私たちに永遠のいのちを与え、私たちを神の子としてくださる》という救いの恵みに、私たちをあずからせてくださっています。《この復活の光に照らされた十字架によって、私の救いが全うされているのだ》という感謝と感動を、私はいつも[説教壇の後ろの十字架を見つめながら]新たに覚えさせられているのです。
 さて、4節を見てください。「定めの時が来た」という新改訳の訳文は、2節の「父の定めた日まで」に合わせた感じがしますが、ギリシア語原文の両者は全く違う言葉です。ここは原語に忠実に《時の充満が来た》、すなわち「[神がアブラハムへの約束を実現しようと歴史の中に働いて来られた]時が[ついに]満ちた」と読むべきでしょう。そうすると、新共同訳が「時が満ちると」、口語訳が「時が満ちるに及んで」と訳しているのは、どちらも適切な訳文であると思います。
そのように時が満ちると、神はご自分の御子を遣わしてくださったのです。「しかし時が満ちると、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。」 キリストは神の御子ですから、神と同じ性質を持ち、まさに神であられます。そのような方が「女から生まれた者」とされたのは、すべて女から生まれる人間と等しい者とされた、ということに他なりません。また「律法の[のろいの]下にある者」も、人間のことを言っています。ですから、神はご自分の御子を、まさに普通の人間として、言い換えれば《まことの人》として、この世に遣わしてくださったのです。
 その目的が、5節に書いてあります。これは「律法の下にある者(すなわち私たちを含むすべての人)を贖い出すため」です。3章13節を思い起こしましょう。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」 私たちを律法ののろいから贖い出すために、キリストが私たちのためにのろわれたものとなってくださったのです。それこそ、キリストが十字架につけられたことの大事な意味であります。
私たちがのろわれて置かれるべき所に、イエス・キリストが身を置いてくださったのです。私たちが受けるべきのろいをキリストが十字架の死において受けてくださいました。そのようにして、キリストは私たちを律法ののろいから贖い出して[すなわち律法の奴隷状態から自由の身とするために買い戻して]くださったのです。そのことを、ただ「そうか」というくらいで簡単に済まさず、よくよく自分の身に当てはめて、じっくりと黙想してほしいと思います。
 先週、私は郡山アシュラムに参加して、ヤコブ書の静聴をしました。そしてヤコブ書から、とても良い言葉を教えられました。それは、神の言葉を聴いて、それを私の「心に植えつける」ということです(ヤコブ2:21参照)。これは本当に良い言葉ですね。なぜ私は、この言葉に今まで気づかなかったのか。そんな思いを強くさせられました。神の言葉をしっかり私の心に植えつけていく。植えつけられるなら、それが芽を出して、やがて幹となり、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結んでまいります。イエス・キリストが私のために十字架につけられ、私の受けるべきのろいをご自分の身に負ってくださった。このことを深く自分の心に植えつけるように受けとめていただきたい、と願っているのです。
 そんなことはどうでもいいと考える人と、それを実行する人とでは、キリスト者生活の質が全く違ってしまいます。神がキリストにあって望んでおられるように(Ⅰテサロニケ5:16-18参照)、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する生活をしたい(ウェストミンスター小教理問答第1問から教えられるように、神の栄光を現す生活をするために、永遠に神を喜ぶ生活をしたい)と願うなら、キリストが私のために十字架につけられ、私の受けるべきのろいをご自分の身に負ってくださった事実と、その事において示された福音の恵みを、自分の心に植えつけるようにしてください。ぜひ、そうしてほしいのです。
さらに5節後半に、神が御子を遣わされた目的に伴う結果が書いてあります。「その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」と。その結果が大事ですね。それは「私たちが子としての身分を受けるようになるためで」あります。私たちは罪の奴隷から買い戻されて、神の子としての身分を授けられ、神の子として受け入れられるのです。そのためには、罪の赦しだけではなく、永遠のいのちが必要であります。そのためキリストは、死者の中からよみがえらされて、死に打ち勝ったいのち(それこそが永遠のいのち)を持つ方となり、その永遠のいのちをご自身とともに私たちに与えてくださるのです。そのように、神はキリストにあって罪の赦しと永遠のいのちを私たちに与え、私たちを神の子としてくださいます。
イエス・キリストは、初めから神の子であられます。永遠の神の御子と呼ばれてよいお方です。私たちは初めから神の子であったのではありません。罪ののろいの下にあった者であり、悪魔の子とさえ呼ばれた者でありました。そういう私たちが神の子とされたのです。イエス様が神の実子であるならば、私たちは神の養子ということになります。でも、養子であっても、特権と身分においては実子と変わりありません。たとい養子であっても、子としての身分と特権は百パーセント享受しているのです。神の相続人としては、実子も養子も変わりがありません。「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人である」のです(ローマ8:17)
そのように神の子としての身分を与えられた証しとして、説教題に掲げたように、神は「『アバ、父』と呼ぶ御子の聖霊を」私たちの心に遣わしてくださっています。6節に「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊(聖霊)を、私たちの心に遣わしてくださいました」と書いてあるとおりです。
どうして私は神の子であるのか。その証拠あるいは保証どこにあるのか。その証拠と保証は、聖霊を私が与えられていることにあります。聖霊は御子の霊であって、それを与えられた者の内に働いて、神を「アバ、父」と呼ばせてくだるのです。イエス様ご自身、神を親しく「アバ、父」と呼んでおられました。これは、神の子たる者の神に対する信頼の呼びかけであります。
神を「父」「お父さん」と呼ぶことができるのは、子であるからです。この父には、母の意味も含まれていると思います。父・母を合わせた父と考えていただいてかまいません。神が私の父・母であるのは、聖霊を与えられて私が神の子とされているからです。聖霊が私たちに「アバ、父」と呼ばせてくださいます。ですから、朝、神様とお交わりするときに、「アバ、父」と親しく呼びかけていただきたい。《神様、あなたは私のお父さんです。私はあなたの子です。》こんなにうれしいことは、ないじゃありませんか。
イエス・キリストは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けたとき、天からの声を聴かれました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)という声です。イエス様は、洗礼など受ける必要がありませんでした。それは罪の悔い改めの洗礼であったからです。それでもイエス様があえて洗礼を受けられたのは、私たちのためでした。それは、《私たちがイエス・キリストの御名によって洗礼を受けるとき、その声を聴くことができるように、というご配慮であった》と思うのです。
私たちも今、一人一人が、その天からの声を聴きます。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という、父なる神[イエス・キリスト]の御声を聴くことができるのです。こんなにうれしいことはありません。その御声を朝ごとに、神との交わりの中で、聴いてほしい、聴き続けてほしいのです。
 7節には、「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です」とあります。神の子である私は、神の財産(永遠の祝福、永遠のいのち)を相続することができるのです。なんとすばらしい恵みでしょう。キリストがおいでになることによって、パウロはそのことを深く体験させられたのですが、私たちも同じように体験させていただくことができるのです。
 1~3節にも触れて終わります。1~2節についてですが、キリストが来られるまで、ユダヤ人(イスラエル人)も父の全財産を受け継ぐ相続人としての資格を、まだ十分持ち得ておりませんでした。まだ子ども(未成年者)であって、後見人や管理者の下に置かれ、実は奴隷と少しも違わない状態にあったのです。それでユダヤ人も[異邦人と同じように]、キリストによって奴隷状態から解放されなければなりません。
 3節は、私たち異邦人について言われています。それなのに、パウロは自分を異邦人の立場において、「私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました」と言います。「幼稚な教え」は、ストイケイアというギリシア語の訳です。このストイケイアは、初歩的・原理的なものに関わるので、原理的なものを意味することもあります。私たち日本の国に生まれ育った者たちは、どんなストイケイアの下にあるのでしょうか。私は思い切って言いたいのですが、多くの日本人は、天皇制というストイケイアの下に奴隷となっているのではありませんか。
多くの日本人は、知ると知らざるとに関わらず、天皇制のとりこになっています。そのことは、明治維新以降、昭和の十五年戦争の敗北に至る70年余りの間に、顕著になった事実であったのです。天皇の権威を前面に出して国民を統治しようとする明治政府の政策で、《天皇は神である、現人神(あらひとがみ)である》という教育が徹底的に[1945年まで]施されました。私もそのような教育を16歳まで受けたものですから、天皇制のストイケイアが私の中にも滲み込んでいるなあ、と思わされることがあります。その影響力は戦後の民主主義の時代になっても消滅することなく、それを復活させようとする反動的勢力が絶えず頭をもたげて来ているのです。

 そういうものからも、私たち日本のキリスト者は、イエス・キリストによって贖い出され、解放されて自由にされていなければなりません。どこかに「天皇は主です」という思いを隠し持ち(天皇制というストイケイアの下にあり)ながら、「イエスは主です」と言っても、どれだけの力があるのか。そのことが、日本にいるキリスト者には厳しく問われています。《私は天皇の赤子(せきし)ではない。私は神を「アバ、父」と呼ぶ神の子です。神様、あなたは慈愛の父として、この私を子として愛し、喜んでくださっています。あなたの子であることを感謝します》、という喜びを日ごと新たに体験しながら、歩ませていただこうではありませんか。(2007.6.17 村瀬俊夫)

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