2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 14》 愛によって働く信仰への自由

  前回は「キリストにある自由と愛」と題して5章1-6節から話しました。キリストにあって自由にされた者は、その信仰が愛によって働くようにされるのです。この《愛によって働く信仰への自由》というテーマは、6節から13節へと展開します。7-12節は、この主要なテーマの文脈の間に挿入された特別な箇所ということになります。
 ここでパウロは再び―「再び」と言うのは、一度前の箇所(4:8-20)で、自分の感情をかなり表に出してガラテヤの信徒たちに迫る形で訴えたからですが―感情をあらわにして、情熱的にガラテヤの人々に訴えています。私たちにも、あなたがたにも訴えているのだ、と受けとめてください。
「あなたがたはよく走っていたのに……」と言われる「よく走っていた」とは、正しい信仰の道を走っていたということです。パウロに導かれて福音の真理に従い、ガラテヤの諸教会の信徒たちはよく歩んでいました。それなのに異変が起こったのです。「だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか」(7)。その「だれか」に対して、ここでパウロは厳しい批判を向けているように思われます。彼らは、パウロから見れば―いや、だれでも公平に見れば―明らかに偽教師です。この偽教師たちにガラテヤの人々は惑わされてしまいました。
そのような偽教師は、「わずかのパン種」(8)と言われるように、ごく少数の者たちであったと推測されます。その人々の「勧めは、あなたがたを召してくださった方[神またはキリスト]から出たものではありません」(8節)。キリストにおいてご自身を現してくださった神が、ガラテヤの人々を福音の真理へと召してくださったのです。その福音の真理に従わなくさせる偽教師の勧めは、神から出たものでは断じてありません。
そのような偽教師は少数であっても、「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させる」(8節)ように、ガラテヤの諸教会全体をかき乱すようになったのです。この場合、「パン種」は悪い意味で使われています[善い意味で使われる場合もある]。このようにガラテヤの諸教会は、悪いパン種によってかき乱されましたが、それでもパウロは、迷わされたガラテヤの信徒たちをあくまで信じていたように思います。「私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています」(10節)と、彼らが必ず迷いから覚めて立ち直ってくれるという確信をもって、この手紙を書いているのです。
「しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです」(10節後半)と、偽教師たちには、厳しい言葉を投げかけています。福音の真理を乱す者に、パウロは激しい憤りを感じたのです。その極め付けと思われる痛烈な皮肉を、彼は12節に書いています。偽教師たちは福音を信じるだけでは足りず、割礼も受ける必要があると主張したのです。割礼は何をするのか、私たちにはよくわかりませんね。聖書辞典の説明によると、男根の先の包皮を切除する一種の外科手術です。それをすることが大事であるなら、「いっそのこと男根を切り取ってしまうほうがよい」とまで、パウロは言っているのです(新改訳は「男根を」を省いていますから、痛烈な皮肉がもろには伝わりません)
11節に戻ります。「もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう」とパウロが語る背景には、彼の福音宣教が相当な抵抗を受ける中で進められて行ったという事実があるのです。キリスト教はユダヤ教を母体として生まれました。パウロがローマ世界の各地で福音を伝えたとき、必ずユダヤ人の会堂に、会堂がなければユダヤ人たちが集まる祈り場に行きました。使徒の働きを読むと、そのことがよくわかります。その会堂には、ユダヤ人だけではなく、ユダヤ教に惹(ひ)かれる異邦人も集まっていました。パウロが語る福音を聴いて信じた人々は、その中にユダヤ人もいましたが、そういう異邦人のほうが多かったと思われるのです。
ユダヤ人のようにならなくても、異邦人のまま救われるという福音ですから、異邦人でキリスト者になった人が多かったのは、自然の成り行きであったかもしれません。それに対するユダヤ人のパウロ批判は、かなり強いものがあったでしょう。パウロの福音宣教は、いつも強い迫害を受ける中で進められていました。もしパウロが、割礼を受けることも大事だと言ったなら、そんな迫害は受けずにすんだ、ということになるのです。
さらに11節後半に、「十字架のつまずきも取り除かれているはずです」と言われています。十字架につけられるのは極悪人か政治犯です。イエス様が十字架につけられた表向きの理由は、ローマ帝国に逆らう政治犯ということでしょう。十字架につけられるような人が、なぜ救い主(キリスト)なのか。これは大きな疑問であり、「つまずき」でありました。その十字架の前に立つとき、私たちはいろいろなことを思います。イエス様が十字架につけられたのは、私たちの罪の身代わりであった。このように思うのは、イエス様の復活の光に照らされたからです。復活の光に照らされなければ、わからないことですから。
それがわかって、《イエス様が十字架につけられたのは私の罪の身代わりである》ということを深く黙想するとき、自分自身の罪深さをもっと深く示されるようになります。キリスト者は罪を知り、罪を悔い改めて、罪を赦されている者です。そのキリスト者が十字架を仰ぎ見るとき、改めて自分の罪深さを覚えさせられ、《この私の罪がイエス様を十字架につけてしまったのだ》と、しみじみ思わされるようになります。それとともに自分の無力さをも思い知らされるのです。
自分の無力さを思い知らされるとき、律法の行いの無力さを新たに示されます。ユダヤ教は律法を行うことで救われると教えており、旧約聖書もある意味でそう教えている面があります。しかし、それが旧約聖書のすべてではありません。旧約聖書には、新約の福音に通じるすばらしい側面がたくさんあります。それにしても、旧約聖書で律法を行うことで祝福されると教えていることが、いかにむなしいか。人間は自分の力で律法を守り切ることなどできない。そのことを、十字架につけられたイエス様の前で、本当に思い知らされていくのです。
でも、その十字架が復活の光に照らされるとき、《十字架につけられたイエス様が、私たちを罪から救い出してくれる神の力であり、神の知恵であるのだ》ということが、これまた本当にわかるのです。どうして私の罪が無条件に赦されるのか。自分の罪深さを思えば思うほど、自分の無力さを知れば知るほど、この私が赦されて生きる力を与えられているのは、イエス様の十字架の死のおかげなのだ、ということがよくわかります。その証拠に、イエス様は死を打ち破ってよみがえられました。復活のイエス様は永遠のいのちをお持ちなのです。
死んでなくなるいのちは、はかないいのちでしょう。死んでもなくならないいのち、十字架の死を打ち破ったいのち、それこそ永遠のいのちです。その永遠のいのちを、十字架で死んでよみがえられたイエス様が私たちに与えてくださいます。そのとき私たちは、罪からも死からも解放されて、本当に自由にされます。そのことによって私たちは、イエス様を死からよみがえらせてくださった神の大きな愛をいっぱい感じるのです。
 ここで、本題であるキリストにある自由と愛の問題に立ち返ります。6節は、内容的には13節に続いているのです。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。」 この13節の書き出しは、1節の「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」という言葉と響き合いますね。そして、13節後半に「ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と言われているように、自由と愛が両者並んで出てまいります。このキリストにある自由と愛について、非常に洞察に富んだ本を書いているのが、宗教改革運動を推進した一番の立役者であったマルティン・ルターです。
その本の名は『キリスト者の自由』として知られています。不朽の名著と言われるにふさわしいものです。その第一の項で、ルターはキリスト者の自由について、有名な二つの命題を掲げています。この書については、たくさんの日本語訳があります。私は今ここに「『キリスト者の自由』全訳と吟味」という副題のついた徳善義和先生の『自由と愛に生きる』と題する本を持っていますが、その徳善先生の訳で二つの命題を紹介します。
その第一は、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。」 これはキリスト者の自由の大事な一面です。しかし、自由というのは、両刃の剣のようなものであり、乱用されますと非常に困ることが起こります。自由が道を誤ると放縦になるように、自由には乱用の危険性があるのです。アメリカ式の自由主義経済にも同じ危険性があり、その路線を推し進めた小泉・竹中政権によって、今の日本は格差社会という大きな問題に直面しています。アメリカ式自由主義経済は、資本家と資本を持つ者たちが儲(もう)けるための自由ですから、それが高じると資本を持つ者と持たない者との貧富の格差が広がる構造になっているのです。以前の日本の自由主義経済は、儲けたものは儲けた者が独占しないで、その富をみんなに分配していくようにする仕組みになっていました。それで日本はかつて、世界で貧富の格差の最も少ない、平等で公平な社会を実現しておりました。
それが今はすっかり崩れてしまいました。いくら真面目(まじめ)に働いても貧しさから抜けられない人々を指すワーキングプアーという言葉が生まれていますが、そんな言葉は20年くらい前の日本には全くありませんでした。今の日本は経済的に立ち直りつつあると言われていますが、豊かになっているのは大企業・大資本家・有力な株主たちだけで、庶民の多くは豊かさを実感するどころか、どんどん貧困化していくことを肌で感じているのです。このように新たな奴隷状態が造られています。それがアメリカにおいてはもっと深刻で、アメリカは「貧困大国」と言われているくらいです。大国化をめざす中国も同じ道を歩んでいるように思われます。
 ですから、自由の乱用を防ぐことは、ものすごく大切なことなのです。そのための道といったら、「愛」しかありません。自由の乱用を防ぐためには、愛の道しかないのです。そのことを聖書は、本当に明解に示してくれています。与えられた自由を「肉の働く機会としない」こと。そう聖書は教えています。自分の資本を増大し、そのための働きの場を世界に広げていきたい。それがグローバリゼーションです。格好よさそうな言葉ですが、その内実は、愛の欠片(かけら)もない「弱者切り捨て」という肉の働きなのです。
 聖書は、ここでパウロの口を通し、「その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と命じています。このことに関しテマルティン・ルターは、キリスト者の自由の命題の第二として、次のように言います。「キリスト者はすべてのものに仕える僕(しもべ)であって、だれにでも服する。」
これら第一と第二の命題が矛盾なく成り立つところに、キリスト者の自由は存在する、とルターは教えてくれたのです。これは本当に正しい教えだと思います。
 自由主義経済が良い形になるためには、あるいは望ましい自由主義経済とは、経済がすべての人に服して仕える僕にならなければなりません。そのように主張する経済人がおられます。私は、つい最近、その方の感動的な講演を聴きました。品川正治さんという方です。経済同友会の終身幹事をしておられます。利潤はみんなと分け合わなければならない。以前の日本は、そのようにしてきたのです。そのやり方を今も続けていかなければならない、と品川さんは強調されました。それに欠かせないのが《愛の道》です。
自由が健全であるためには愛と肩を並べなければなりません。自由と愛とは、切り離すことができません。自由だけが野放しになったら、それはとても危険なものになってしまいます。自由が健全に働くためには、愛と堅く結びついていかなければなりません。愛は、いつも僕として、すべての人に服して仕える道を選ばしてくれるのです。イエス様ご自身がその道を歩まれました。イエス様は、だれにも服しない自由をお持ちの方です。それでも、イエス様はすべての人に服して仕える僕となる道を歩まれました。
十字架は、そのことを端的に示してくれています。十字架につけられたイエス様。すべての人の僕となって、ご自身をすべての人に与えてくださっているイエス様。私は、そのイエス様のお姿を、十字架で見ることができます。このような私にも、僕として仕えてくださっているイエス様です。このイエス様を知ることは、イエス様を知ることにおいても一番大事な側面ではないでしょうか。20世紀の最大の神学者はカール・バルトでしょう。私が彼を尊敬しているのは、このことを彼がよく理解していたからです。
彼は言います。《イエス・キリストは、主であると共に僕でもあり、逆に、僕であると共に主でもいらっしゃる》と。イエス・キリストは、僕である主、そして主である僕。そのように私たちも、しっかり受けとめたい。私たちは「イエスは主です」と言いますが、それは一面の真理であって、「イエスは私に仕えてくださる僕です」という大事な別の面があることを忘れてはなりません。私たちの主であるイエス様は、その完全な自由を肉の働く機会としないで、僕として私たちに仕える愛の道を歩まれています。このイエス様によって、私たちも《愛によって働く信仰への自由》に歩むよう召されているのです。
パウロは律法不要論者でなかったことを前にも学びました。パウロは愛に生きることにおいて、新しい次元で律法に回帰します。
その新しい次元での律法は、14節にあるように、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされているのです。この一語を全うするなら、弱者を切り捨てることなどできません。イエス様は、ご自身が、この新しい次元の律法の体現者でいらっしゃるのです。

律法の行いは、義認とは無縁であります。しかし、義認は聖化へと連結しているのです。このことから学ぶ大事な教えがあります。義認によって得られた[罪からの]解放の自由は、愛によって働く信仰への自由と連結しているのです。そうすることで、キリスト者の自由を乱用の危険から守ってくれるだけでなく、律法の全体を要約した隣人愛の戒めを実行させてくれます。それは聖霊の導きと助けによるのです。それで以下、「聖霊によって歩みなさい」(16節)という勧めに転じていくことになります。     (2007.10.14 村瀬俊夫)

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