2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 11》 あの喜びは、今どこにあるのか

  今日は7月8日で、昨日が7日でした。この7月7日は、七夕(たなばた)として知られています。しかし昨日は、盧溝橋事件で日中戦争が始まって70周年ということで、めずらしく新聞やテレビで取り上げられていました。中国では毎年、この日は「七・七記念日」として国を挙げて覚えられています。もう一つ、私の受洗日である9月18日が、日本の中国大陸への侵略戦争が本格化する満州事変開始の日で、中国では「九・一八記念日」として国家的に覚えられているのです。そのことを日本人も忘れてはならない。過去の歴史の事実をしっかり学び、それと向かい合っていくことを大切にしましょう。
 さて、今日説教するのはガラテヤ書4章8節からです。ガラテヤ書は、非常に起伏に富んだ内容で《読む者をして飽きさせることがない》という感じがします。少し難しいと思われる箇所もありますが、読んでいて飽きることがない文章であると思います。最初からパウロは挑戦的な調子で書き始め、ガラテヤ人に強く迫っているのです。そのため自分の使徒的権威を意識し、強調しております。そして、使徒の権威にかけて語る自分の福音の確かさ、真実さを彼は力を込めて訴え、語り告げているのです。その福音の真実性を、彼は、旧約聖書の救いの歴史(救済史)に照らして論証してまいります。
それだけだったら難しくてつまらなかったかもしれませんいが、そこにパウロは自分の体験を織り込み、心情を吐露するように語っているので、読む者や聴く者に切々と迫るものがあります。そしてパウロは、《キリストが世に来られたことは、すごい出来事、まさに終末論的出来事である》と受けとめました。「終末論的」というのは、それで終わりということで、一回ですべてを包含することを意味します。ですから、繰り返し起こることはありません。《キリストの来臨は、そういう出来事である。まさに歴史を転換させるような出来事である》と、彼は理解したのです。それも彼が頭で考え出したものではなく、彼の救われた霊的体験から得られた理解であった言わなければなりません。
 パウロは、理論的な人でした。彼の書いた手紙で一番代表的なローマ書には、福音の教えがきちんと系統だって述べられています。「福音の真理を知りたければローマ書を学べ」と、私がキリスト者になって間もない頃、よく聞かされました。それで私は、内村鑑三の『ローマ書の研究』を熱心に読んで教えられ、信仰の骨格を形づくられたように思います。このローマ書は内容が難しいと言われますが、それも道理で各節の文章が、丁寧に訳すと「なぜなら……であるからです」と、前節の理由を述べるという形式で続いています。こういう理詰めの文章を書くのですから、彼は確かに理論の人であり、神学者パウロと言われてもよいのです。
 しかし、それ以上に彼は情熱の人でした。彼の当時、50歳くらいにもなって、あれだけの大旅行をしたのです。当時の50歳は今の80歳くらいに相当します。今の私くらいの年齢です。私にこれから、あのような伝道活動をやれと言われて、できるでしょうか。それを思うと、彼は本当に情熱の人だったんだなあ、とつくづく思わされます。彼は頭でよく考えたけれども、それ以上に考えたことを実行するためによく動きました。
彼は当面の問題を解決するために、聖書によって論証することに力を注ぎました。しかし論証だけで問題が解決するとは思っていませんでした。理屈だけでは人はなかなか動きません。苦楽を共にした体験や、お互いに心を通わせ合う心の交流があってこそ、人の心は動かされるのです。そのためには、相手の立場をよく理解し、相手にも自分の立場を分かってもらえるようにする。そういう交流があってこそ、理論も生きてくるのです。  
 それでパウロは、ガラテヤの教会員たちと開拓伝道期に、本当に苦しみも喜びも共にした体験を思い浮かべながら、そのことを忘れてよいのか、「あの喜びは、今どこにあるのか」と、この手紙の受け手であるガラテヤの諸教会の人々に迫っています。それが今回の箇所でありますが、そういうことが問題を解決する大きな力[決め手]となるのだ、ということをパウロは知っていたのです。
 先日、私は石橋湛山のことを取り上げた「この時、歴史が動いた」というテレビ番組を見ました。石橋湛山のことは知っていて興味があったので見た番組ですが、それだけの甲斐(かい)がありました。改めて彼が、あの満州事変以来、その前から日本の侵略政策に経済的な面から厳しい批判を向けていた先見の明に対して、敬服の思いを新たにさせられました。中国を侵略しないでも、日本の生きる道はあるのだ、日本は経済的にもやっていけるのだ、と彼は経済学者として主張し続けてきました。《隣国とは心を通わせていかなければならない》という思いを、彼は強く抱き続けてきた人であったのです。
 戦後、政治の世界に登場して総理大臣になった時期(1957年12月)がありました。まだ私の社会的関心への目覚めが不十分であった頃であったのに、私は石橋内閣の誕生で、日本はよくなるのではないかと期待しました。それが病のため退陣し、たった二ヶ月の短命内閣で終わったのです。首相に就任すると、持論である《これまでのアメリカ一辺倒の政策を脱して、中国との関係を結ぶようにしなければならない》という考えを述べるため全国を遊説しました。その疲れもあってか彼は脳梗塞で倒れたのです。しばらくの静養が必要であるとの診断を受け、彼は潔く総理の職を辞したのですが、回復後、不自由な体を押して中国へ渡り、周恩来に会って日中関係を回復する基礎を築きました。
その石橋湛山が最後に言ったと伝えられる言葉が、私の心に深く刻まれました。「人を動かしていくのは理屈ではない。それは同情である。相手の立場に立って考えていくことなのだ。」 本当にそうですね。同じ情が通い合うときに、人は動き、問題は根本的な解決の方向に向かっていくのです。
パウロも、ガラテヤの諸教会の問題を解決するに当たって、論証だけで事を済ませることはしません。彼らと心を通わせ合うことをしたいと、自らの心情を吐露して語りかけています。ここは、特に11節以下が、そのような箇所であるのです。それだけに今回の箇所は、とても魅力のある所であり、また感動的な所でもあると思います。
 8節から10節を見ると、ここでパウロは、過去と現在との大きな違いに気づかせようとしています。「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした」(8節)。これはガラテヤ人の過去の姿を述べています。彼らは、この世にあふれた「神でない神々の奴隷」であったのです。9節を見ましょう。「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力な、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」 
  ガラテヤ人は、かつては「あの無力な、無価値の幼稚な教え」のとりこになっていました。「幼稚な教え」は、ストイケイアの訳語です。英語のエレメントにあたる意味がある語で、基礎的な事物、地・水・火・風を指すこともある。そのようなものが霊的な力をもって世界(特に星)に宿っているという考えから「世の霊力」と訳されることもある。それから「基礎的な教え」を指して用いられる場合もあり、新改訳はそれによっているのです。かつてガラテヤ人がストイケイアの奴隷であったとしても、まことの神を知らなかったのですから、やむをえないことでした。
 そのガラテヤ人は、パウロを通して、イエス・キリストの福音において現された「まことの神」を知らされました。この「まことの神」は、もう少し厳密に表現するなら、《キリストの十字架と復活の出来事において啓示された神》に他なりません。第一に、福音において示された神は、《十字架につけられた神》であります。十字架のシンボルは、その意味において大事です。しかし、それだけでなく、《十字架の死からよみがえらされた神》でもあります。この「まことの神」を信じることによって、ガラテヤ人はストイケイアから解放されるという自由を与えられ、本当に喜んで新しい生活を始めたのです。
 しかし、そのガラテヤ人が新しい生活から古い生活へ逆戻りする、という事態が生じました。「あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています」(10節)。これは肯定文に訳していますが、9節に合わせて「あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っているのですか」と疑問文に訳したほうがよいと思います。せっかくパウロから聴いた福音によって新しい生活に生きる喜びを味わってきたのに、またそれから離れて逆戻りしていくガラテヤ人を見て、「あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています」(11節)と、自分の胸のうち(心配)を打ち明けているのです。
 それでパウロは、「お願いです。兄弟たち」と呼びかけ、彼らの心に迫るように訴えています(12節)。「私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから」と。この表現の背景にあるのは、Ⅰコリント9章19-23節です。キリスト者の自由についてパウロが論じている、そのさわりのような箇所であります。パウロはこう言っているのです。《福音のためには何でもしている私、この私のようになってください。私も福音のために[異邦人である]あなたがたのようになったのですよ》と。彼はガラテヤに行ったとき、ガラテヤ人のようになって、彼らと福音の恵を分かち合い、共に福音の恵みにあずかろうとしました。その結果として、ガラテヤの諸教会が誕生したのです。
 「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした」(13節)。パウロは困難な伝道旅行を50歳代になってしたのですから、かなり壮健な身体を備えていたと思われます。しかし、ガラテヤに行ったとき、彼は肉体の弱さを覚えていたと告白しています。それで彼がガラテヤへ行ったのは、福音伝道のためよりも静養が目的であったかもしれません。彼の「肉体の弱さ」が何であったかは分かりません。15節に、ガラテヤ人が「もしできれば自分の目をえぐり出して私(パウロ)に与えたいと思った」とあることから、目の病気ではなかったかと言われることもあります。
 コリント第二書12章に、パウロは「肉体に一つのとげ」を与えられ、それが取り去られることを三度も祈ったが取り去られず、《むしろ弱さのうちにこそ神の恵みが完全に現されるのだ》ということを教えられた、と書いております。パウロの肉体に「一つのとげ」と呼ばれる欠陥があったことは事実です。それはガラテヤ人に不快感を与えかねないものであったのでしょう。彼は14節に、「そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました」と書いているのです。
その時のことをパウロは、忘れることができず、昨日のことのようにはっきり思い出しています。その時のことは、ガラテヤ人も忘れていないでしょう。それはキリストの福音が彼らの心に深く入りこんだ証しであったからです。「それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか」(15節)。《自分の目をパウロに与えたいとまで思った》彼らの喜びを、よもや彼らが忘れてはいないでしょう。そんな思いで、パウロは彼らに語りかけているのです。
 ガラテヤの諸教会の設立には、本当に多くの苦しみがありました。19節後半の「私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」という言葉が、それを示唆しています。最初にした産みの苦しみは、ガラテヤの諸教会を誕生させる時でした。そのようにして産み出したガラテヤ教会の信徒たちに、パウロは母親の情(母性的感情)を抱いていたように思います。産みの苦しみの後には、大きな喜びがあります。パウロがその喜びを忘れるはずはありません。そして産み出された者たちも、その喜びを共有していました。その喜びは、今どこにあるのですか。 
 この問いかけを、蓮沼キリスト教会が、また教会に連なる信徒一人一人が、しっかり受けとめなければなりません。年月を経ると、どれほど大きな喜びも感動も、惰性で次第に薄らいでいく危険があります。ですから、キリスト者である喜びが薄らいでいかないように、忘れてしまわないように、絶えず、毎日、思い起こすことが大切なのです。朝ごとに、活けるイエス様とお会いし、お交わりして、イエス様が私と共にいてくださる喜びと感謝を新たにさせていただきましょう。これが一番大切なことです。
教会においても、毎週の礼拝において、ここに主イエス様がおられる。そのイエス様の体(からだ)に私たちは召されているのだ。イエス・キリストが私たちの教会の主でいらっしゃる。その御翼(みつばさ)の下に私たちが置かれているのだ。それらの喜びを週ごとに、新たにしていくこと。それが本当に大事なことなのです。ただ教理を学び、聖書の教えを学んでいれば良いのではありません。日本長老教会は教理とその学びを大事にしています。私も聖書の教えと教理を[誰にも負けないように]よく学んできました。しかし、それで足りるのではありません。
それらの教えや教理が生きた力となるためには、福音の恵みにいつも私たち自身が新しくされていなければなりません。私も自分が19歳で救われた日のことを思い起こします。あの喜び、本当にうれしかったあの喜びを、現在78歳ですから60年近く経ちますが、この今によみがえらせていただいて忘れないようにしたい、と願っています。
 ガラテヤ人を誤りに導いた偽(にせ)教師たちがいました。彼らは熱心でした。その熱心さのゆえに、ガラテヤ人は彼らに引かれていったのでしょう。「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを[福音の恵みから]締め出そうとしているのです」(17節)。私たちを福音の恵みから締め出そうとする力は、いろいろな形で絶えず働いています。

パウロは19節で、「私の子どもたちよ」と母親の愛情を込めて呼びかけ、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。[この手紙を書いているのもそうですよ]」と言います。大事なことは、キリストが私自身のうちに形造られ、そして教会のうちに形造られていくことです。それほどにキリストとの交わりが新鮮であり、霊的な現実性を持つとき、そこに救いの喜びが満ちあふれるのです。       (2007.7.8 村瀬俊夫)

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