2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 8》 約束は律法に優先する ガラテヤ3:15~25

  前回の箇所(6-14節)で、《すべての人を救う福音は、律法の行いによるのではなく、ただキリストの信仰による》ということを、パウロはすごく強調しています。「キリストの信仰」は原文の直訳でありますが、新改訳その他多くの翻訳聖書は「キリストを信じる信仰」と訳しています。「キリストの」が「信仰」とどのように関わるかで、解釈上の問題が生じます。主格的に関わるのか、目的格的に関わるのか、という問題です。
 「キリストの福音」と言うときの「キリストの」と「福音」との場合にも、同じ解釈上の問題があります。「キリストの」を主格的に取れば、「キリストが与えてくださる福音」という意味に、目的格的に取れば、「キリストを[私たちが]伝える福音」という意味になります。同じように、「キリストの信仰」の場合も、主格的に取れば、「キリストが与えてくださる信仰(キリストから賜る信仰)」という意味に、目的格に取れば、「キリストを[私たちが]信じる信仰」という意味になります。どちらの意味に取るかは、意見の分かれるところなのです。
 プロテスタントは、宗教改革者マルティン・ルターの影響を強く受けていますので、目的格的に取って「キリストを信じる信仰」と解釈する場合が圧倒的に多いでしょう。でも、私は、主格的に取って「キリストからいただく信仰」と解するほうが、パウロの真意に近いのでないかと考えています。「キリストからいただく信仰」「キリストを信じる信仰」、どちらにしても、ただ「その信仰によって」私たちは救われるのです。
 パウロははっかり教えてくれました。祝福を受ける人々は「信仰による人々」であり、《キリストの信仰に生きる人々》である、と。律法の行いによって救われようと願っても、それは無理です。「律法による人々はすべて、のろいのもとにあるからです」と、パウロは断定的に申します。律法の書には、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる」 と書いてあるからです(申命記27:26参照)
 それならば実行すればいいじゃないか、ということも言えますが、はたして「すべてのことを堅く守って実行する」ことができるでしょうか。一部分ならば、いや[もっと譲歩して]大部分であっても、実行できるかもしれません。しかし、「すべて」を実行することはできません。よく考えれば、人間には不可能なことです。ですから、律法の書に書いてあることを「すべて」実行することが救いの条件であるとしたら、誰も救われません。みんなのろわれた者になってしまいます。
 そうであるなら、そもそも律法とは何であるのか。そんな疑問が生じます。パウロは、神がアブラハムに言われた「あなた[の子孫]によってすべての国民が祝福される」という約束を、とても大事にしています。すると、律法はこの約束とどう関わるのでしょうか。律法とは、この約束と合わない性格のものではないか。「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか」(21節)。このような疑問にまで行き着くのです。そしてパウロは、この疑問に、間髪を入れず「絶対にそんなことはありません」と答えています。
 では、神の約束との関係で律法が果たす役割は、いったい何なのか。こういう難しい問題に、パウロは答えようとしています。難解な箇所でありますが、聖書が教えている真理として、しっかり学んでまいりましょう。
律法は神の約束に反するものではありません。もし反するものであったら、律法が与えられたこと自体が、いや律法をお与えになった神ご自身が、問題になります。神がイスラエルに律法を与えられたのは、神がアブラハムに約束を与えられた随分後のことです。17節には「四百三十年」とあります。それは随分長い期間です。日本の歴史で430年遡(さかのぼ)ったら、江戸時代よりも前で、織田信長が天下統一をめざしていた頃になります。それほど長い期間を隔てて、後から律法がイスラエルに与えられたのです。
 律法は「御使いたちを通して仲介者の手で定められた」(19節)とパウロは書いています。「仲介者」はモーセのことです。律法がモーセの手で定められるようにしてイスラエルに与えられたことは、出エジプト記の記述とも合致します。しかし、「御使いたちを通して」律法が定められたという事実は、旧約聖書に見当たりません。これはパウロも知っていたユダヤ教の伝承によるものです。
モーセは紀元前13世紀頃の人です。それから430年遡ると紀元前17~18世紀になりますが、アブラハムはその頃の人だったのでしょうか。アブラハムがいつ頃の人かは定かでありません。考古学的研究に照らして紀元前19世紀頃の人ではないか、と私は漠然と考えています。すると、6世紀の隔たりがあり、430年とは符合しなくなります。そういう問題は、今は不問に付しましょう。
大事なのは、《神がアブラハムに与えられた約束は、430年も後に「御使いたちを通して仲介者モーセの手で定められた」律法に優先するものである》ということです。パウロは、「私が言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効にされたりすることがないということです」(17節)と書いています。
ここでパウロは、遺言(ゆいごん)のことに言及しています。「契約」と訳されているギリシア語は、新改訳の脚注別訳のように「遺言」の意味もあるのです。15節の「人間の契約」は、別訳のように「人間の遺言」と読んだ方が文脈にかなっています。「人間の遺言でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。」 その通りですね。いったん定められた人間の遺言は、決して侵されない不可侵性を持っており、また、決して変えられない不可変性を持っているのです。そうすると、人間の遺言にはるかに優るものである、神がアブラハムに約束された約束は、決して侵されることがありませんし、決して変えられることもありません。このポイントをしっかり押さえてくだされば、よろしいのです。
アブラハムへの約束は、アブラハムだけでなく、その子孫にも告げられたものであります。そのことでパウロは、16節に「約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです」と書いています。ちょっとこれは無理な解釈をしているのではないか、と思われます。子孫というと、ひとりではなく多数をさすのが普通でしょう。子孫を子孫たちと複数形で用いることは滅多にありません。ですから、パウロは無理な言い方をしているように思われるのです。
しかし、パウロは無理な言い方をしているわけではなく、ユダヤ人にとっても、このような論理はそれほどおかしいものではない、ということを知る必要があります。アダムは全人類の代表者と考えられています。キリストは新しい人の代表者であり、アダムは古い人の代表者である、という考え方が聖書の背景にあるのです。パウロやユダヤ人は、そんな考え方に慣れていたと思われます。私たちは慣れていないので、それを理解するためには相当の努力が必要です。この論理を納得すると、キリスト者として歩みやすくなるでしょう。多くの日本のキリスト者は納得していないと思います。それでキリスト者としての歩み方が不安定になってしまうのです。
要は、代表的人格という考え方です。このような考えは日本にはないと思いますが、見方によっては、天皇がそのような地位にあり、《天皇は日本人の代表的人格だ》という日本的な神学があるのかもしれませんね。でも、私はそんな神学は断固拒否します。
神の約束を告げられたアブラハムの子孫とは、神の祝福を受けた新しい人として登場する人間を代表する存在であり、「その方はキリストです」と、パウロは言い切っているのです。「子孫」という言葉は集合名詞ですから、一人の人を指すわけではありません。しかし、それを一人の人によって代表させる代表的人格という考え方があるのです。そうだとするとパウロの断定も理解でき、納得もさせられるのではないでしょうか。
代表的人格について、とても分かりやすく説明してくれている本があります。私が監修者として翻訳に関わったブリッジズ氏の著書『恵みに生きる訓練』の第4章です。私たちキリスト者は、キリストと結び合わされています。この恵みの真理が私たちの血肉となることが、大事なのです。次回に話す箇所ですが、27節に書いてあるように、「洗礼を受けてキリストにつく者とされた」私たちはみな、「キリストをその身に着たのです。」 キリストをその身に着るように、しっかりキリストと結合させられているなら、キリストを脱ぎ捨てるようなことは起こりません。しっかりしたキリストとの結合の中で、「キリストの信仰」が生きて働いてくれるのです。
最後に述べたいのは、《約束の後に与えられた律法は、約束の真の受領者であるキリストが来られるまで、どういう役割を果たしていたか》ということについてです。律法は約束に違反するものではありません。では、約束との関係で、どういう役割を担っていたのでしょうか。何かの役割がなければ、与えられる必要もありませんでした。そのことが、19節以下に述べられているのです。
 「では、律法とは何でしょうか」と改めて問いかけ、「それは約束をお受けになった、この子孫(キリスト)が来られるまで、違反を示すためにつけ加えられたものです」と答えています(19節)。律法があると、それに従わないとき、違反者であることがはっきり示されます。決まりがあるから、それに違反したかどうかが分かるのです。教会にも律法があります。日本長老教会には、「日本長老教会憲法」があります。
 でも、大事なのはイエス・キリストの福音です。日本長老教会は、イエス・キリストの福音によって立っています。それでも、実際に即した様々な運営において、何が善いか悪いかという決まりがないと色々な問題が起こります。それで憲法が与えられているのです。そのことは、よく弁えていなければなりません。しかし、律法そのものには、人を生かすだけの力がありません。そのことを、パウロは指摘しているのです(21節参照)
 22節には、「しかし[律法と結びついた]聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました」書いてあります。「律法は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました」と言ってよいのです。「それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです」という説明が続いています。この説明でパウロが言いたいことは、《キリストが来られるまで、律法は人々に違反を示すという中間的な役割を果たしている》ということです。
そのように違反を示されて罪を自覚させられ、「どうしたら私は、この律法ののろいから解放されるのか」ということが、次の大きな課題となります。これは大きな課題というよりは、人間の切なる願いであります。この切なる願いに答えてくれるものが、約束の成就として来られたキリストの福音であり、「キリストの信仰」なのです。 
 23節は「信仰が現れる以前には」という言葉で始まりますが、「信仰」にはギリシア語原文に冠詞がありますので、特定の信仰を指します。せめて「その信仰」と訳してほしいのですが、もっと特定すれば「キリストの信仰」に他なりません。そのようにして23節から24節前半を読んでみます。「キリストの信仰が現れる以前は、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていました。それは、やがて示されるキリストの信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。」
 違反を示すだけでは、律法の役割は消極的なものに過ぎません。ですから、ここでパウロは「養育係」という積極的な律法の役割に言及しているのです。「養育係」とは、当時のローマの上流家庭で、その子弟が成人するまで養育に当たった「後見人や管理者」(4:2)のことであり、教養のあるギリシア人奴隷がその任に当たりました。その役割は、主人の子弟が成人するまで、その子弟の後見役として彼を見守り、監督し保護することでした。
日本長老教会憲法も、各地区教会が間違いを犯さないように監視するだけでなく、よりよい運営ができるように保護するために与えられているのです。それらは、律法の積極的な役割と理解すべきであると思います。
 ここには「キリストへ導くための私たちの養育係となりました」と訳してありますが、それはある程度意訳してあるのです。原文はもっと簡単で、直訳すると、「キリストまで私たちの養育係となりました」です。この「キリストまで」を、新改訳は「キリストへ導くための」と意訳しますが、私は「キリストが来られるまで私たちの養育係となりました」と訳すべきだと思います。そのように訳しますと、「しかし、キリストの信仰が現れた以上、私たちは養育係の下にはいません」と述べる25節とのつながりが、ずっとよくなるではありませんか。
 律法そのものに、私たちをイエス・キリストへ導くだけのものがあるのか。そのことは、よくよく検討してみなければならない課題であると思います。とにかく、はっきりしていることは、キリストが来られるまで、律法は養育係の務めを果たしてきたのです。そうしますと、私たちは、イエス・キリストを信じてから、もう養育係の下にはありません。言い換えれば、私たちは、もう律法の下にはないのです。それは、パウロが別の手紙に、「あなたがた(私たち)は律法の下にはなく、恵みの下にある」(ローマ6:14)と書いていることにぴったり当てはまります。
 すると、私たちは律法とはもう無関係なのでしょうか。無関係だと言えば問題はないのですが、パウロはそうは言いません。この手紙の6章2節で、私たちに「互いに重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と命じています。キリストと結ばれたからこそ、律法ののろいから解放されたからこそ、私たちキリスト者には、感謝と喜びをもって、それに従って生きる「キリストの律法」があるのです。そのことについては、5章以下で学ぶことになります。今は、そういう側面があることを覚えていただいて、終わることにします。 

(2007.4.15 村瀬俊夫)

0 件のコメント:

コメントを投稿