2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 5》 キリストが私の内に生きておられる

  前回に述べたように、今回学ぶ2章15節以下は、新改訳聖書では、14節のパウロによるぺテロに対する批判に続く弁明の言葉とみなしています。しかし、パウロのペテロに対する批判の言葉は14節だけで、15節以下は、パウロがペテロに語るよりは、もっと公に自分の考え方を弁明しているものと解するほうがよいと思います。
 15節の「私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」という言葉は、一見すると、ペテロの考えにパウロが同調しているように思われます。そのため15節以下も、ペテロに対するパウロの言葉の続きだと理解される可能性があるのでしょう。しかし、ペテロへの非難の言葉を14節で区切り、パウロが自分の弁明を始めるに際して、一応ペテロの考え方の立場に対する理解を示すことが当然あり得るわけで、15節はそのように解してよいと思います。ここでパウロは、ペテロを公衆の面前で批判した理由を、その根拠を説き明かしているのであって、それが16節から21節までの内容です。
15節は、ペテロがした行為の背後にある考え方について、「それは私にも分かっていますよ」と、パウロが一応の理解を示したものでしょう。そのことを一応認めるとしても、《そういう考え方を全く無意味にしてしまうのが福音の真理なんですよ》ということをパウロは言いたいのです。
人間の世界には、いろいろな差別意識があります。手を変え品を変えて《人を自分と差別したい》という思いが、潜んでいるのではないでしょうか。でも、福音は《そういう差別意識を究極的には無意味にしてくれるものだ》ということを、ここで私たちはしっかり学んでまいりましょう。その福音の真理を、ここでパウロは初めてと言ってよいと思いますが、「信仰義認の教理」という形で開陳しているのです。
  信仰義認の教えとは何か。ただイエス・キリストを信じる信仰によって、罪人が義と認められる、神の御前で無罪とされる、という教えであります。それをパウロは初めて教理として披瀝しました。それは「人は律法の行いによってではなく、キリスト・イエスの信仰によって義と認められる」(16節)というものです。
 「キリスト・イエスの信仰」と読みましたが、それはギリシア語の「キリスト・イエスの」という属格名詞を主格的にとるか、目的格的にとるかで、解釈が分かれます。目的格的にとれば、信仰の対象(目的)を意味するので、「キリスト・イエスを信じる信仰」となります。日本語の多くの翻訳聖書は、この解釈をとっています。しかし、主格的にとるなら、原文を直訳する形で「キリスト・イエスの信仰」と読むことができるのです。
それを私は「キリスト・イエスからいただく信仰」と理解しております。キリストから恵みとしていただく信仰によって、《私たちは神の御前に罪人ではない》と認めていただくことができるのです。割礼を受けるとか、安息日を守るとか、という形で律法の行いをすることで、神の御前で義と認められるわけではありません。イエス・キリストからいただく信仰によってのみ、私たちは神の御前で義と認められているのです。この教えを明確に打ち出しているのが16節であり、ガラテヤ書2章16節は重要な聖句である、と言うことができます。
 ここで私が気づかされたことがあります。それは、義と認められるとか、義と認められないとかという表現は、パウロにとって、救われる時の問題や救われた当初のことに限られません。それは救われた者の全生涯にかかわる問題として、パウロは《義と認められる》とういう言い方をしているのです。
 キリストを信じて《救われた時に義と認められた》と、そのように理解されている場合が多いのではないでしょうか。はっきりと皆さんが自覚しているかどうかは別問題でありますが。義と認められるということは、信じてキリスト者になったという、その時のことだけではなく、キリスト者として信仰生活を歩むことすべてにかかわっている問題なのです。そのことを私は、このたび改めて気づかされ、また教えられました。
 そのことに気づかされる手がかりとなったのが、19節であります。この手がかりがあるからこそ、気づかされたわけです。聖書は、前後の関係を注意して、よく読まなければなりません。読むというよりは、そこで語られている言葉をしっかり聴いて、心に刻んでゆくのです。そうするとき、新しく教えられることがたくさんあります。
 19節には「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました」と書いてあります。「神に生きるために」ということは、神の御前に義と認められて歩むキリスト者の全生涯にかかわることではありませんか。義と認められたことは、その人の「神に生きる」生活がそこから始まることを意味するのです。そのことを私は、黙想の中で深く教えられました。
「神に生きる」ということは、神の御前に義と認められたキリスト者の全生涯にかかわる問題です。信仰によって義と認められた者は、まさに「神に生きる」ことによって、
神の子にされた特権にふさわしく、神の性質にあずかり、キリストに似る者にされてまいります。そのように信仰義認は聖化の生活に通じるものであり、また、義認は聖化の始まりであると理解することが、とても大事なのです。義認と聖化との間に境界線などありません。そのようにはっきり理解し認識することが、本当に重要なのです。
信仰の告白は、それを言葉に表せばよいというだけの問題ではありません。その人の「神に生きる」生活によって裏づけられていく、ということが大事になるのです。「神は愛です」と口で言うことは難しくありません。しかし、その言葉が深い意味をもって人々に感動を与えるには、それに裏付けられた生活が伴っていなければならないのです。マザー・テレサの例を挙げることができます。彼女の「神に生きる」生涯が貧しい人々への無私の奉仕に表されているので、「神は愛です」というセージが、生きた真理として多くの人々に強く訴えているのです。「神は愛です」と言いながら、それにふさわしいことを何もしていなかったら、その人がいくら「神は愛です」と叫んでも、空(むな)しい言葉に終わるだけでしょう。
そのように、義認と聖化とは一つの流れ、一つのプロセスなのだ、と考えてよいのです。この義認と聖化の過程を通じて、私たちは「神に生きる」生涯を歩んでいます。その時に大事になってくるのが、19節に続く20節の言葉なのです。
20節にはこうこう記されています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」その最後の「キリストが私の内に生きておられる」を、本日の説教題にさせていただきました。これは信仰告白と言ってよい内容の言葉です。この20節の言葉は、19節の言葉と対応しています。ですから、20節だけ読むのではなく、19節から20節をいつも連続して読むことが必要なのです。
20節だけを暗記している方が多くいると思います。その方に「前の19節には何と書いてありますか」と聞くと、「分かりません」という答えが返ってくることが多いのではないでしょうか。しかし、19節と合わせて20節をしっかり心に刻むことが大切なのです。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と、このようにしっかり覚えていただきます。
パウロは、このあと律法について3章後半で詳しく述べるのですが、今知っておいてほしいのは24節の言葉です。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」ここには律法の役割として、「キリストへ導くための私たちの養育係」と言われています。これは簡単すぎるギリシア語原文(「私たちの養育係、キリストまで」)の意訳であり、これには「キリストが来られるまで私たちの養育係」という別訳も可能です。そのことは以前、私が担当した『新聖書注解』の中の「ガラテヤ書注解」で書きましたが、今も私は、この別訳のほうがよいと思っています。
「養育係」とは、当時のローマ帝国の社会で、良家の子女を親に代わって養育する務めであり、知識階級の奴隷(多くはギリシア人)がその任に当たりました。その養育係の務めは、良家の子女が成人するまでであり、成人したら養育係は要(い)らなくなります。成人するまで養育係が必要であったことと並べて考えると、《キリストが来られるまで律法は養育係であった》ということになります。律法を与えられたのは、神の民イスラエルでした。《そのように神が律法をイスラエルにお与えになったのは、やがて神がキリストを世に遣わされるまで、イスラエルの民を守り導くための養育係としてであった》という理解を、パウロが示しているのです。
この養育係という律法の見方は、非常に興味深いし、ここでしかパウロが言っていないので、よく味わってみる必要があります。キリストが来られたのですから、私たちキリスト者はもう養育係の下にはいないのです。そのことが「律法によって律法に死にました」ということの具体的内容である、と理解するとよいと思います。「律法によって律法に死にました」と言われても、禅問答みたいで、よく分からないのではありませんか。私も長いこと、この表現の真意を確かめかねていたのですが、今ようやくはっきり分からせていただきました。
律法は、キリストが来られるまでは養育係でありました。しかし、キリストが来られたし、そのキリストを私が受け入れ、そのキリストが私の内に生きておられる以上、養育係である律法はもう必要ありません。こういう事態になっているのです。それが「律法によって律法に死にました」ということが意味している内容にほかなりません。キリストが来られるまでは、「神に生きるために」律法は大事な役割を果たしていました。律法の教えによって、神の御心を学んで、神に生きることをイスラエルの民はしてきたのです。今も多くのユダヤ人やユダヤ教徒は、そのようにしているのだと思います。
しかし、イエス・キリストが来られました。そのイエス・キリストは、救い主であり、また律法の完成者でもあります。そのように信じる私たちにとっては、《このキリストが私の内に生きておられるのですから、もう私は律法の下にはおりません》と、はっきり言うことができるのです。
そこで一つ、誤解がないように、わきまえておかなければならないことがあります。では、《もう律法は私たちと全く無関係であるのか》というと、そうではありません。
パウロは、このあとも律法という言葉を使っています。5章14節で「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」と言い、6章2節で「互いに重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と勧めているのです。
キリストは、私たちをご自身のように愛してくださることによって、律法を全うされています。そのキリストが私の内に生きておられるのですから、私もキリストによって律法を全うしいくのです。だから、互いに重荷を負い合うことをします。《そうすることで、キリストの律法を全うしなさいよ》と、パウロが勧めてくれているのです。
 律法はキリストが来られるまで養育係でした。その役割の律法は、キリストか来られてお役御免となりました。しかし同時に、キリストは律法の目指すところを全うしてくださっています。その「キリストが私の内に生きておられる」と告白するキリスト者は、キリストにあって律法を全うしていく者であるのです。そして、律法を全うすることこそ、神に生きる生活であります。律法には神の御心が示されていますから、《神に生きる生活とは、律法を全うする生活である》と言い換えてもよいのです。
 しかし、私たちは自分の力で律法を全うすることなどてきません。そうしようと努力すればするほど、自分の弱さを感じさせられるのです。そういう私たちが律法を全うして神に生きることができるためには、どうしてもキリストのお助けを得なければなりません。キリストの信仰をいただく必要があるのです。キリストの信仰をいただくとき、キリストは私が全面的にキリストに信頼するように助け導いてくださいます。キリストに私が全面的に従うことは、私の努力でできることではありません。聖霊によるキリストの助けがあってできることなのです。
 「キリストとともに十字架につけられました」(新改訳)という言葉に一言(ひとこと)触れて終わりたいと思います。これを新共同訳は「キリストと共に十字架につけられています」と現在形にしています。どちらの訳が正しいのか。実は、両方の意味があるので、どちらも正しいのです。ここに使われているのは、完了形というギリシア語の動詞で、過去の動作や行為が現在にまで影響・結果を及ぼしていることを示します。
「私は信じました。今も信じています」というのが、「信じる」という意味のギリシア語動詞の完了形の意味なのです。《かつては信じた、しかし今は信じていない》というのでは困ります。《かつて信じた。今に至るまで信じてきたし、これからも信じていく》というのが、私たちの信じ方でしょう。それがギリシア語動詞の完了形で表現されるので、ギリシア語の新約聖書には完了形の動詞がたくさん用いられているのです。 

ですから、「私はキリストとともに十字架につけられたままでいます」と訳したらよいと思います。十字架につけられたままのキリストは、同時に活きておられる復活のキリストです。「キリストが私の内に生きておられる」という確信には、《私もそのキリストとともに十字架につけられたままでいます》という現実があります。古い自分は死んでしまい、完全に罪から解放されているのです。そのことを日ごと深く黙想することができたら、日ごと新たに喜びが湧き上がり、感謝があふれてまいります。  (2007.1.14 村瀬俊夫)

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