2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 12》 隠されている別の意味を探せ

  今回の箇所は、パウロが自分の感情をさらけ出して語っている前回の箇所とは調子が一変し、お芝居でいえば舞台が反転するような感じがします。ここでパウロは、再び旧約聖書に訴えて、論証したいことを別の角度から述べてまいります。
その論証法は、ある意味で、意表を突くようなものです。少し想像を巡らせてみましょう。この手紙を口述筆記させているとき、パウロは前の箇所で、自分の感情を百パーセント高ぶらせる思いで語っている間に、思いついたことがあったのではないか。口述ですから、普通にしゃべる速さでしゃべり続けているわけではありません。一区切りの言葉を口にしたなら、それを筆記者が書き終えるのを見届けて、次の言葉を語ることになるので、その間にいろいろ考えることができ、また思いついたのではないでしょうか。それがこれから述べること表れていると思います。
訴えている旧約聖書の箇所は、アブラハムに関係があります。パウロは3章で、アブラハムに訴えて大事なことを述べてきました。ここでは、アブラハムの腹違いの二人の息子(イシュマエルとイサク)とその異母たち(ハガルとサラ)に光が当てられます。この二人の息子と二人の異母の物語が記されていのは、創世記16章1-16節、21章1-21です。
 書き出しの21節で、パウロはこれまでとがらりと調子を変えて、「律法の下にいたいと思う人は、私に答えてください」と言います。「律法の下にいたいと思う人たち」は、ガラテヤの諸教会を間違った方向に導こうとするパウロの論敵たちですが、その間違った教えに引きずられているガラテヤの諸教会の人たちをも暗に指しているでしょう。「これから私が言うことに答えてください」と、彼らに論争をしかける調子で、「あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか」と鋭く問いかけます。パウロは、律法の言うことを聞いていたと言い張る人たちに、「本当に聴いているのですか。そうではないでしょう」と強く迫っているのです。
 「律法」と言っても、ここでパウロが意味しているのは、律法の掟(おきて)ではなく、律法の書に記されている物語であることが[以下の展開から]分かります。モーセ五書の最初の創世記には、律法の掟はなく、ほとんどすべてが物語です。その創世記に書いてある物語を「あなたがたは本当に聴いているのか、本当に知っているのか」と鋭く問いかけて、22節以下に進みます。
 その物語には、「アブラハムには二人の子があって、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた」と書いてあります。女奴隷はハガル、自由の女はアブラハムの妻サラです。アブラハムとサラ夫妻には子が授からないまま、不妊の女であったサラは子を産める年齢を過ぎてしまいます。そこでサラは、当時の慣習にならって現実的な対策を採ります。自分の代わりに奴隷女を夫に差し出して子を産ませたのです。そのようにして生まれた子は、女主人である自分の子になります。こうしてハガルとアブラハムとの間に生まれた男の子がイシュマエルなのです。
 これは《アブラハムの子孫によって全世界の国々の民が祝福を受ける》という神の約束と深い関わりがあります。この約束が成就するために、まずアブラハム夫妻は子を授からなければなりません。そうでないと子孫が絶え、約束が無効になります。夫婦の間に子が生まれなければ、別の対策を講じる必要があり、サラは自分の女奴隷を夫に差し出して子を産ませることにしたのです。
「女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです」(23節)。「肉によって」とは、《男と女との自然の関係で》という意味です。アブラハムとサラとの間にも、人間的には不可能であったのに、なんと子が生まれます。それは神の約束であって、約束の成就として子が生まれるのです。そんなことをアブラハムもサラも、まともには信じませんでした。子を授かると聞いたとき、《そんな馬鹿なことが》という思いで、アブラハムもサラも笑ったと書いてあります(創世17:17;18:12)。それにもかかわらず子を授かったのは、「肉によって」ではなく、まさに「約束によって」であります。この約束の子がイサクです。
24節に、「このことには比喩があります」と書いてあります。「比喩があります」と訳された原語アレゴレオー(動詞)は、英語のアレゴリーの元になっていますが、内容的に掘り下げると「もっと深い別の意味が隠されている」という意味です。文字の表面的な意味のほかに別の意味が隠されていて、その隠されている意味のほうが大事である、という含みがあります。《その隠されている別の意味を探りなさい》と言われているのです。
その隠されている意味を探ると、「この女たちは二つの契約です。」 彼女たちにはもっと深い別の意味があり、それが二つの契約なのです。このことをパウロは、先に触れたように、口述筆記する合間に思いついたのではないでしょうか。このことは、私の小さい経験からも分かります。不思議に着想が湧いてくるのです。突飛(とっぴ)なものではなく、脈絡の中にきちんと位置づけられた着想であって、それが隠された別の深い意味を明らかにしてくれます。パウロは霊感によって、そういうすばらしい着想をたくさん神様から授かったのではないでしょか。旧約聖書の知識をしっかり身に着けていたパウロは、それだけの素養を備えていたのです。
ハガルとサラには隠された別の意味があります。それは二つの契約である。このことにパウロは(そして私たちも)気づかされました。「一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。」ハガルのほうはシナイ山から出ている契約(シナイ契約)で、古い契約になります。パウロの洞察によると、ハガルは古い契約を指しているのです。すると、サラはどの契約を指すのか。ここに明記されていなくても分かります。それはイエス・キリストを仲介者とする新しい契約です。これはシナイ契約に対してキリスト契約と言うことができます。
 すでに3章でパウロは申しました。《シナイ契約に基づく律法は、新しい契約を立てるキリストが来られるまで、その役割を担ったのである》と。それでパウロに、聖霊の導きによって《ハガルはシナイ契約、サラはキリスト契約である》という着想が湧いてきたのである、と私は思います。
 ハガルはシナイ契約を指すので、25節で「このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります」と言われているのです。当時のエルサレムは、ユダヤ教の本山であり、ユダヤ教そのものを指していると言ってよいでしょう。あるいは、律法主義的なキリスト教を指しているのかもしれません。「なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。」 
パウロはすでに3章で、《律法の行いによって救われようと思うなら、全く望みがない。私たちは律法のすべてを完全に守り切ることなどできないのであるから。律法の下にあるなら、その奴隷となり、そののろいの下に置かれるだけである》ということを、縷々(るる)述べてきました。シナイ契約に基づく律法は、ハガル自身が女奴隷であるように、人を自由にするのではなく、奴隷の子を産むことしかできないのです。
26節では、サラの名を挙げるまでもなく、「しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です」と述べています。ハガルのエルサレムに対して、サラは「上にあるエルサレム」と言われます。これは単に上にあるだけでなく、「上から来ているエルサレム」の意味合いがあり、そのほうが強いかもしれません。上にあるのを私たちがただ単に望んでいるのではなく、《「上から来ているエルサレム」が私たちのところにあるのだ》という[信仰的な]意味が強いと思います。それをパウロは《教会》と考えました。この「上から来ているエルサレム」こそ、キリスト契約(新しい契約)に基づく《キリストの教会》であり、人々を自由にします。キリストの福音が人々を罪の束縛から解放し、律法ののろいからも解放してくれるからです。
さらに「私たちの母です」と言います。サラはたくさん子を産む母なのです。教会はたくさん自由の子を産みます。母である教会の概念が、ここではっきり教えられていることに、注目してください。カルヴァンは、この教えを大事にしました。神は私たちの父であるけれど、私たちの母はいないのかという質問に、カルヴァンは《私たちの母は教会である》と明確に答えているのです。
「私たちの母」はたくさんの子を産むことが、27節に述べられています。ここにイザヤ書54章1節の預言が引用されています。イザヤ書54章の背景にある時代は、紀元前六世紀の後半です。その半世紀ほど前の紀元前六世紀初めころ、ユダ王国(ダビデ王朝)がバビロンに滅ぼされ、エルサレムは陥落して神殿も焼かれてしまいました(前587年)。そのときエルサレムや周辺の住民の多くがバビロンに連れていかれ、そこで捕囚生活を送ることになりました。《バビロン捕囚》と呼ばれる出来事です。しかし、半世紀ほど経過すると、バビロンが滅亡し、捕囚から解放される時が訪れます。バビロンからエルサレムへの帰還を許されたユダの人々は、荒れ果てた祖国の再建にとりかかります。そういう時期に語られた預言からの引用なのです。
「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ」と呼びかけられている「不妊の女」はサラのことを意味しているかもしれません。サラは「不妊の女」でしたから。だけど、ここで「不妊の女よ」と呼びかけられているのは、半世紀も荒廃の中に置かれていたエルサレムのことであると思います。当時のエルサレムは、城壁が破壊され神殿も焼け落ちたままで、見る影もないほど荒れ果てていました。「産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」 これは、《夫に捨てられた女のように無惨なエルサレムが、たくさんの子どもを産む祝福された女になる》という預言なのです。
では、いつ、どのように、この預言は成就したのか。バビロン捕囚から帰還したユダの民がエルサレム復興に取り組み、神殿を再建したり、城壁を築き直したりします。それでも、その後の経過を見ると、すべてが良かったわけではなく、様々な困難が続いて止むことがありません。この預言が成就したとは思えない情況が続いておりました。
パウロは、ここで《この預言は、イエス・キリスト及びキリスト契約に基づく教会において、自由の子どもがたくさん産まれていく情況において成就しているのだ》と、私たちに教えてくれています。「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです」(28節)。イサクのように自由の女サラから産まれた自由の子どもたち―これはガラテヤの諸教会の信徒を含む、私たち教会の子どもたちのことを指しているのです。
 「しかし、かつて肉によって生まれた者(イシュマエル)が、御霊によって生まれた者(イサク)を迫害したように、今もそのとおりです」(29節)。創世記の物語には、イシュマエルがイサクを迫害したことは書いてありません。この事実はユダヤ教の伝承によるのでしょう。《イシュマエルがイサクを迫害したように、今も、律法による人々が、律法ののろいから解放された人々を迫害している》と、パウロはガラテヤの諸教会で今起っている状況を見て、解釈しているのです。
こういう解釈法を寓意的解釈と言います。歴史的・文法的・字義的解釈が尊重される現代では、寓意的解釈は疎(うと)んじられる傾向があります。しかし、近代以前には、寓意的解釈が聖書解釈の主流であったのです。聖書に書かれている昔の事柄を現在の私たちにとっても大事な事柄として受けとめる道を示唆してくれていたのが、この寓意的解釈であると思います。この点での寓意的解釈の有効性を軽んじはなりません。
聖書は古い時代の書物です。それが《神のことば》として、現在の私たちにとってどういう意味があるか。そのことが絶えず問われています。そのため[聖書は歴史的に成立した文書なので]聖書の歴史的研究が必要です。しかし、それだけでは、《聖書が告げる昔の出来事は現在に生きる私たちにとって何を意味するか》という、もっと切実な問題には応えられません。聖書は最終的には聖霊の導きによって理解させられていくものであり、これが一番大切なことです。
この29節の現状は、今の日本の現状にも別の形で起っているのではないか。そのことに気づかされたので、週報の説教要旨にも書いておきました。「律法の下にいたいと思う人たち」は、日本の戦後レジームから脱却して、戦前の古いレジームへの回帰を熱望している人たちです。そういう日本人がかなりいて、戦後の新しいレジームを特色づける平和主義の人たちを押しつぶそうとしている。そういう現実を私は見るだけでなく、強く感じています。戦後レジームからの脱却を叫ぶ[軍国主義に変身した]律法主義が、平和主義の戦後レジームを押しつぶそうとしている。そういう現実を私は肌で感じています。
「しかし、聖書は何と言っていますか」(30節)。その後、創世記22章10節を引用します。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」 ハガルとイシュマエルは、ついに追い出されます。これはそういう物語として、その枠内だけで理解してください。物語の枠を越えて普遍的に理解されると、福音の真理に背くことになります。創世記の物語でも、追い出されたハガルとイシュマエルを神があわれんでくださった感動的(福音的!)な記事が、すぐ後に続いているのです(21:14-21)
パウロが一番言いたいのは、《大事なのは自由で、その自由をキリストの福音が私たちに与えてくれるのだ》ということです。それで5章において、キリスト者の自由の論述へと進みます。神の国の相続人は、自由の女の子どもです。奴隷の女の子どもは、神の国を相続することができません。神の国は奴隷の国ではなく、自由の国であるからです。この自由は基本的人権でもあり、思想・良心の自由、信教の自由等が尊重されるところに神の国があります。この自由を束縛する行為は、神の国に反対する行為となるのです。

 ハガルとサラのことから、そこに隠されている意味としての二つ契約(古い契約と新しい契約)を抽出しました。古い契約は奴隷の子しか産まない。新しい契約こそ自由の子を産むのだ。罪の赦しと永遠のいのちを得て私たちを神の子とする自由は、新しい契約に基づく福音が与えてくれます。キリストの教会こそ福音の自由の根源なのです。蓮沼キリスト教会も、いつも活けるキリストが現臨される場所であり、自由の根源であり続けることができるようにと祈ります。 (2007.8.19 村瀬俊夫)

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