2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 17》 大事なのは新しい創造 ガラテヤ6:11~18

 ガラテヤ書の連続説教も今日が最終回となります。回数では17回目です。この書は論争の書である、と最初に申し上げました。しかし、論争に明け暮れたのではなく、そこには大事なことが教えられています。その大事な教えの一つは、信仰義認の教理です。私たちが神の御前に赦されて義と認められるのは、ただキリストの信仰による、という真理が明確に教えられています。もう一つ、この教えと連続して聖化の勧めがなされているのです。ガラテヤ書は信仰義認の書と言われることが多いのですが、信仰義認だけでなく、それと切り離すことのできないものとして、信仰義認と連結して聖化の教えがあることを忘れてはなりません。
 神の御前で受け入れていただいたのですから、神に喜ばれる生活、神が聖であられるように私たちも聖とされていく生活へと進んで行きましょう。そのような生活を送れるように、神が恵みによって助けてくださいます。それは見方を変えれば、聖霊に導かれていく生活であります。信仰義認の教理と連結して、聖霊に導かれる聖化の生活の勧告がなされている。このことがガラテヤ書の最大の特色である、ということをしっかり覚えてください。その聖化の勧告の結びでもある箇所を、これから学んでまいります。
当時の手紙は、著者が手ずからペンを取って書くことはなく、口述するのを別にいる筆記者が書き留めていくのです。紙も今のようなものではなく、パピルス紙や羊皮紙でありましたから、それに書くための技術が求められました。パウロは、この手紙をずっと口述して、筆記者がそれを書いてきたのですが、この最後のしめくくりの部分だけは、著者が自分でペンをとって書いています。それで11節に、自らこう記します。「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」と。
ここで「こんなに大きな字で」と言っているのは、どういうことか。実際に大きな字で書いたのか、単なる形容の表現なのか。パウロが筆記者よりも大きめの字で書いたと考えることができます。それは彼の目が悪かったからだと言う説もありますが、それは真偽のほどが定かでありません。私は、《ここに手ずから書くことが、とても重要である》ということを強調する意味で、「御覧なさい、こんなに大きな字で書いていますよ」と言ったのだ、と考えるのがよいと思います。最後のしめくくりの言葉を手ずから書くのは、挨拶の言葉だけの場合が普通ですが、ここでパウロは、ただの挨拶では済まさず、これまで述べてきたことを半ば繰り返すようにして、大事なことを述べているのです。それで「こんなに大きな字で」と、思わず書いてしまったのではないでしょうか。
12~13節には、ガラテヤ書が論争の書である名残(なごり)が見られます。「あなたがたに割礼を強制する人たち[注・パウロの論争相手]は、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。」ここでパウロは、明らかに論争相手を批判しているのです。
この論争相手は、異邦人でキリスト者になったガラテヤ教会の信徒たちに、割礼を受けることを強制したユダヤ人キリスト者であり、割礼派と呼ぶことができます。《イエス・キリストの信仰が大事ある。この信仰がなければ救われない》ということは認めます。しかし《それだけでは足りない。割礼も受けてユダヤ人のようにならなければいけない》と言うのです。ガラテヤ教会の信徒の多くは、割礼を受けていない異邦人であったと思われます。その信徒たちが割礼を受けることを強制され、割礼を受ける者まで現れて、教会に混乱が生じていたわけです。
割礼を受けるのは男だけですから、女性はどうなっていたの?という疑問が生じて当然ではないでしょうか。あまりにも男性中心的な発想であると、フェミニスト神学者から手厳しく言われそうです。そのことに私は改めて気づいていますが、それについて述べる用意が今はありません。そのことは置いて、ここで言われていることが、具体的に何を意味するのか。あまりよく解りません。
「肉において外見を良くしたい」とか「キリストの十字架のために迫害を受けたくない」とは、どういうことなのか。またパウロは、割礼派に対して「自分自身が律法を守っていません」と言い切っていますが、言われた方は反論したくなるでしょうね。パウロの体験と判断から、このように言われているのです。律法を誰よりも熱心に守ろうと励んできたのに、守り切れないことを、彼はしみじみ感じました。割礼派の人たちには、かなり律法を守っているという思いが強くあったでしょうから、この論争には噛み合わない点があったかもしれません。
13節後半も何を言っているのか解りにくいのですが、かなり妥当性のある見解だけ申し上げます。当時は、ユダヤ教徒も熱心に伝道していました。それで異邦人でユダヤ教の会堂に集まる人たちが増えていたのです。その中から、さらにキリスト者になる人たちが現れました。その異邦人キリスト者に割礼を受けさせるなら、割礼派の人たちにとって、それは自分たちの活動ぶりを誇示する功績になったに違いありません。そんなことが、ここで言われていることの具体的内容ではないか、と思われます。
 では、《異邦人がキリスト者になるのに、割礼を受けてユダヤ人のようになる必要はない。キリストの信仰だけでよいのだ》と、なぜパウロは言い切れたのでしょうか。このことが、一番大事なポイントです。このポイントをしっかり学び取り、身に着けるようにしてください。それが14~15節に書いてあります。パウロが割礼派を厳しく批判した理由です。彼が「大きな字で書いていています」と言ったのは、このことであります。
 「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているかいないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」
 この聖句における決め手の言葉は「新しい創造」であると受けとめ、説教題も「大事なのは新しい創造」としました。一般には、14節のほうが脚光を浴び、「十字架以外に誇るものは何もない」などという説教題を掲げることが多いでしょう。しかし私は、15節の最後に記されている「大事なのは新しい創造です」が、この箇所のキーワードであると思います。「割礼を受けているかどうかは、大事なことではありません」と言い切れたのは、《新しい創造が始まっている》という認識がパウロにあったからで、割礼派にはこの認識が全くありませんでした。この違いが決定的な意味を持つのです。
 私たちキリストの教会に集まっている者は、「新しい創造」を知っている者たちです。あなたがたは本当に知っているでしょうか。そのことが今、一人一人に問われています。新しい創造を知っているからこそ(新しい創造の世界に今私が生かされている恵みを体験しているからこそ)、「割礼なんか大事なことではない」と言い切れるのです。
 ここで、もつ一つのキーワードを紹介します。それは「終末論的」という用語です。これは難しそうな言葉ですから用いないで済ましたいのですが、すごく大事な概念ですから、解っていただければ益するところが大きいと思います。イエス・キリストが来られた出来事は、それ自体が《終末論的出来事》である、とパウロは受けとめていたのです。まさに新しいレジーム(体制)が展開し、旧約時代が新約時代となって、新しい時代が幕を開けました。二つの時代の間には連続性も認められますが、大きな変化があります。レジームの大転換が起こっているのです。
その意味で、旧約時代は終末を迎えました。キリストの到来と出現は、古い体制を終わらせ、新しい創造を始めさせる契機となった[そのような意味で]終末論的出来事であったのです。そういう終末論的出来事が進行する中で、信仰義認の教えが説かれ、聖化の生活への勧めが行われています。このことが解っていただけたら、あなたがたの信仰生活の視野と理解は、ダイナミックな広がりを見せ、格段に深まることでしょう。
この新約時代における「新しい創造」ということに言及している旧約預言者は、イザヤであります。その預言が見られるのは、イザヤ書の後半部、40章以下のところです。43章19節で、昨年(2007年)の蓮沼キリスト教会の年間標語となった聖句であります。「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。」 その新しい事は、いつ起こったのか。《イエス・キリストの到来とその出来事によって》というのが、新約聖書の答えです。「そのことがまだ解らないのか」と、パウロは割礼派の人々に(私たちにも)問いかけているのではないでしようか。 
それから「新しい創造」という言葉は、イザヤ書65章17節と66章22節に出てまいります。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(65:17)は、黙示録21章を連想させてくれますが、この新天新地という新しい創造はイエス・キリストによって始まったのです。パウロはそのように理解していますが、パウロだけでなく、ヘブル書の著者も(1:1-2参照)Ⅰペテロ書の著者ペテロも(1:20参照)、そのことを認めています。
パウロのこの認識がもっと明確に示されているのが、コリントⅡ5:17です。新改訳の本文は、「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と訳されています。しかし脚注に、あるいは「そこには新しい創造があります」という別訳が示されています。この別訳のほうが良い、と私は思います。ギリシア語原文は、「だれでもキリストのうちにあるなら」の後には、「新しい創造」という言葉があるだけです。日本語にする場合、適当に言葉を補わないとはっきり意味が通じません。「その人は新しく造られた者です」よりも「そこには新しい創造があります」と訳すほうが、パウロの意図に沿うばかりか、後半の文章への続き具合もずっと良いと思います。
「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という現実は、キリスト者個人が「新しく造られた者」となることよりも、レジームの大転換を意味する「新しい創造」と対応するものと見るべきでしょう。その過ぎ去った古いレジームの中に、パウロは割礼を見ていたに違いありません。新改訳が「新しくなりました」と訳したギリシア語動詞は完了形なので、新しくなった現実が今に至っていることを意味します。私は、「新しくされてしまいました」と訳したいと思います。すでにキリストとともに新しいレジームが始まって今に至っているのです。
この新しいレジームにおいて、義と認められる(救われる)ために役立つのは、割礼ではありません。今や神の民となるために不可欠なものは、男性のみに許されていた割礼ではなく、キリストにある「新しい創造」に参与することであって、それは人種・階級・性の差別を乗り越えてすべての人に開かれています。そのために真に役立つ[他には何も要らないと言えるほど]大事なものは何か。私たちはパウロとともに声を大にして言いましょう。《キリストから恵みによって賜る信仰、言い換えれば、すべてをキリストにおゆだねすること―それだけである》と。
神がイエス・キリストにおいて成し遂げてくださったこと、それは十字架と復活の出来事に集約されています。14節では十字架が強調されていますが、復活を無視しているわけではありません。むしろ、復活の光に照らされた十字架が強調されているのです。十字架につけられたままのキリストが、よみがえらされて今も生きておられます。私たちと共におられるインマヌエルの主キリストは、十字架につけられたままの復活のキリストに他なりません。この認識と体験を深く身に着けていたのが、使徒パウロです。
私たちも、このパウロと同じ認識と体験を共有することが許されています。ですから、しっかり共有してまいりましょう。キリストにある「新しい創造」の中に恵みによって入れられて、私も新しくされています。その私は、パウロとともに、キリストの十字架以外に誇るものは何もない、と言うことができます。「この十字架によって、世界(世)は私に対して十字架につけられ、私も世界(世)に対して十字架につけられたのです。」 この言明は、世と私との間に大きな断絶があることを意味します。これはすごく重大な認識でありますが、デリケートな問題を含んでいて、私たちを悩ませる要因ともなるのです。
私たちは地上にあるかぎり、世と無関係に生きることはできません。しかし基本的に、いや根本的に、私たちは[新しい創造に参与するものとして]世に属するものではありません。しかし忘れてならないことは、同時に私たちは、キリストにあって世に遣わされてもいるのです(ヨハネ17:16-18参照)。私は世に属するものではないが、世に遣わされている―これはキリスト者各自が黙想を深めて把握すべき大事な課題であります。
キリストと共に十字架につけられて、私は世に対して死にました。洗礼を受けたキリスト者は世とは訣別して、古い人に死んだのです。その意味で、キリスト者は世に対して葬式を済ませました。そういうキリスト者が、世を支配する復活のキリストから、世に遣わされています。それは世にならうのでなく、世にキリストの恵みの支配を及ぼす(まさに「新しい創造」を証しする)使命を果たすためです。それが隣人愛の戒めの実践に通じることは、言うまでもありません。
そのために、14節の聖句を黙想の中で反芻(はんすう)し、その言葉に酔うのではなく、しっかり醒(さ)めて深く味わい、キリストにある「新しい創造」の中に自分自身があるのだ、という霊的現実を身に着けてください。「この[新しい創造に参与しているという価値観の]基準(尺度)に従って進む人々」に、私たちもさせていただきましょう。そういう私たちこそ「神のイスラエル」であり、そのような「神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」と、パウロは祈っていてくれるのです(16節)

17節でパウロは、「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのです」と言いますが、それは「この私は、自分がイエス様の所有であることを決して忘れません」という覚悟の表明です。私たちも同じ覚悟を言い表す者でありたいと願いつつ、ガラテヤ書の連続説教を終わります。   (2008.1.13 村瀬俊夫)

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