2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 6》 信仰をもって福音を聴きつづける

  前回のところで、パウロはガラテヤの教会の人たちに対して、自分の確信するところを力強く述べていました。2章20節がそのクライマックスの言葉であります。「私はキリストとともに十字架につけられたままでいます。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 この告白を自分でしっかりできることが、キリスト者にとって一番大事な事柄ではないかと思います。
 そのことは、何よりも、イエス・キリストの信仰、イエス・キリストからいただく信仰、またイエス・キリストへ自分自身をすべてゆだねる信仰から来るものであります。3章からは、「信仰」という言葉が多く出てまいります。信仰の本質をパウロが披瀝していこうとする、そのような展開につながるからです。特に今回学ぶ3章1~5節には、信仰という言葉が「信仰をもって聴いた」という言い方で繰り返し出てまいります。
 「聴く」というのは、何を聴くのでしょうか。何を聴くのかは、あまりにも当然過ぎることなので、ここには書いてありません。皆さん、お分かりですね。「福音」を聴くのです。福音はイエス・キリストですから、イエス・キリストを聴く、イエス・キリストの言葉を聴く、と言い換えてもよろしいのです。そのことに関連して、よく覚えていただきたい聖句があります。それはローマ人への手紙10章17節です。「そのように、信仰は聴くことから始まり、聴くことは、キリストについての言葉によるのです。」 
  「キリストについての言葉」は、ギリシア語原文を直訳すれば「キリストの言葉」であり、まさに「福音」であります。ここにはっきり言われている通り、信仰は福音を聴くということから始まるのです。福音を聴くことによって、信仰が呼び起こされてくるという働きもあります。ここでは、信仰をもって福音を聴くという理解が先行していると思います。それと同時に、福音を聴く私の中に信仰が湧き上がってくるのではないでしょうか。福音にすべてをおゆだねしていこう、福音は私のすべてである、という信仰が喚起されてくるのです。
 福音の中心は、もちろんイエス・キリストであり、わけても十字架の出来事であります。ですからパウロは、ガラテヤで伝道したときに、ガラテヤの人たちの目の前で、「あんなにはっきりと、十字架につけられたままのキリストを示したではないか」と書いているのです(1節)。これはパウロの感情のこもっている文章で、彼はガラテヤの教会員たちの心に切々と語りかけています。《この私にも、パウロが訴えかけるように語ってくれいるのだ》という思いで読むと、この箇所が非常によく分かるのです。
 それにしても、書き出しに「ああ愚かなガラテヤ人」という言葉があるので、驚いてしまうかもしれません。新改訳が「愚かな」と訳しているギリシア語は、3節に出てくる「道理がわからない」と同じ言葉なので、「ああ道理のわからないガラテヤ人」と訳してもよいのです。「道理のわからない(物分りの悪い)ガラテヤ人」という言い方は、やはり叱責の言葉であるように思われます。するとパウロは、ガラテヤ教会の人たちに、怒りをこめてこう呼びかけているのでしょうか。
しかし、パウロが本当に怒りを向けている矛先(ほこさき)は、ガラテヤ人ではありません。ガラテヤ人たちを間違った道へと引き込もうとしている誰か、その誰かに対して、パウロは激しい怒りを向けていると言えば向けているのです。それは1節の終わりに、「誰があなたがたを迷わせたのか」とある、その「誰」に対してであります。ですから、パウロの怒りがガラテヤ人に向けられている、ということはできません。そういうことを考え合わせますと、この「ああ愚かな(道理のわからない)ガラテヤ人」という言い方は、非常に逆説的な意味においてでありますが、パウロのガラテヤ人への愛情のこもった呼びかけなのではないでしょうか。
ガラテヤ人への愛情が深いあまり、パウロは思わず、《ああ、なんと物分りの悪いガラテヤ人なのか》と言ってしまったのではないか。そのように私は思います。《あんなにもはっきりと、あなたがたの目の前で、十字架につけられたままのイエス・キリストを語って示してあげたのに、もうそれを忘れてしまうとは、なんと物分りの悪いガラテヤ人なのか》といったパウロの気持ちではないでしょうか。人間の記憶とか印象とかは、非常にあやふやな場合があります。どんなに強い印象や記憶も、何かの拍子に弱まり、ついには消えてしまうことが少なくありません。
  そういうわけで、パウロがどんなにはっきりとガラテヤ人の目の前で十字架につけられたままのキリストを語り示したとしても、それを見て聴いたガラテヤ人がいつまでもその強い印象と知識とを保ち続けることができるかどうか、ということは別の問題になるのです。私たちの信仰生活における一番切実な課題は、そのことだと思います。私の中におられるイエス・キリストを、どのようにして日々新たに《本当に共にいてくださるのだ》と実感し続け、確信し続けていくことができるか。これが、信仰生活を持続させる点での、一番の課題なのです。
 信仰生活を始めた当初は、《私はキリストにすべてをささげている》という新鮮な思いがあふれ、口から出てまいります。しかし、1年、2年、3年と経過すると、同じようにそのことが言えるでしょうか。これは大事な課題であり、義認から聖化への過程をたどることであります。そのためには、いつも主イエス様をしっかり見つめて交わりを親密にし、私のうちに共におられるイエス様をしっかり覚え続けていかなければなりません。
そこで《毎朝のデボーションを大切にしよう》ということが言われます。私はデボーションという言葉をあまり使いませんが、これは神への献身を意味する用語です。このデボーションのために、朝ごとに、福音の言葉を聴いていかなければなりません。デボーションには、福音を聴くということが先行するのです。福音を聴いて福音に身をゆだねることをしないのに、どうして自分を神にささげることがでるでしょう。デボーションをするため、朝ごとに福音を聴いてまいりましょう。そのことを強調し、その実践を奨励しているのがアシュラム運動であります。
朝ごとに、福音をしっかり聴きましょう。聴いてその福音に生かされ、その福音に従って歩みましょう。そのとき、私のうちにキリストが日々新たに共にいてくださることが確信でき、その感謝と喜びが消えてなくなるどころか、いよいよ増し加わるようになります。毎日、しっかり福音を聴いていくとき、そのような恵みの体験を身に着けることができるようになるのです。
ガラテヤにおいて起こっていた問題は、イエス・キリストの信仰によって救われた後、キリスト者生活を持続していく過程において、《律法の行いをするのが大事ですよ》という[パウロや私たちから見れば]誤った教えが持ち込まれたことにありました。誤った教えを持ち込んだ人たちが言う「律法の行い」とは、特に割礼を受けてユダヤ人のようになることであったようです。それに惑わされてユダヤ人のようになろうとするガラテヤ人のキリスト者たちが、起こされるようになったのでしょう。その人たちにパウロは、「ああ愚かなガラテヤ人」と呼びかけているのです。しかし、パウロの批判の矛先は、ガラテヤ人にではなく、《誰がそのように彼らを迷わせたのか》という、その《誰》に間違いなく向けられていました。
パウロの切なる願いは、そのようにして迷わされた彼らが、それによって救われた福音に立ち返り、しっかり福音を聴き続けるようになってほしい、ということであります。そのような熱い思いをこめて、パウロは彼らに問いかけているのです。「ただこれだけをあなたがたから学びたい。あなたがたが[聖]霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって[福音を]聴いたからですか」(2節)と
ここでいきなり「聖霊を受けた」という言い方がされているので、唐突に感じられるかもしれません。イエス・キリストが私の中に生きておられるということは、私が聖霊を受けた証しなのです。福音と信仰と聖霊とは、いわば三位一体のような関係にあります。福音の中心はキリスト、福音とキリストは切っても切れない関係にあります。そのキリストが私に示されるのは、聖霊の働きに他なりません。信仰をもって福音を聴くとき、私は聖霊をいただいているのです。聖霊を受けなければ、福音を聴くことはできません。福音を聴いて私の中に信仰が呼び覚まされる、ということも聖霊の働きによるのです。このように、《キリストと信仰と聖霊とは一体化しているのだ》ということを、しっかり覚えておいてください。
 それで「あなたがたが聖霊を受けた」ということは、「あなたがたがキリストを受けた」と言い換えてもよいのです。それは律法を行ったからですか。そうではない。《信仰をもって福音を聴いた、あるいは、福音を聴いて信仰を呼び覚まされた》―そのことによって聖霊を受けたのです。
 「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。[聖]霊によって始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」(3節)。パウロは、聖霊の働きをとても大事に考えました。この私が救われる。イエス・キリストを信じることができる。キリストが私と共におられるという恵みを体験することができる。すべてこれらは聖霊の働きによるのです。私たちの信仰生活は聖霊によって始まりました。聖霊に導かれたからこそ、私は罪を赦され、永遠のいのちを与えられ、神の子とされているのです。
 そのように聖霊によって始まったものが、今は「肉によって[自分の努力で]完成される」と言うのですか。そんなことがあるはずはない。義認が聖霊の働きと導きによるならば、聖化も聖霊の働きと導きによるのです。聖霊に導かれるのでなければ、私たちは聖化の生活を保持することができません。
私たちが聖なる(聖別された)生活をするということは、いつも私たちが神の存在を喜んでいる、ということに他なりません。ウェストミンスター小教理問答の第1問は、「人間の第一の目的は、何ですか」で、それは「神に栄光を帰し、永遠に神を喜ぶことです」と答えています。私が聖化されて神に栄光を帰する生活をしているかとどうかの目印(めじるし)は、私がいつも神を喜んでいるかどか、という点にあるのです。
私に御子イエス・キリストを遣わし、その御子の聖霊をも私の心に遣わしてくださった父なる神(4:4-6参照)を私が喜び、心から感謝しているでしょうか。そのように私が神を喜び感謝していることが、私が祝福されて聖化の道を歩んでいることの確かな証しなのです。そのことを心に留め、その意味で聖化への道をしっかりと歩んでください。日々に神を喜ぶ生活をする。そのためには毎日、朝ごとに福音をしっかりと聴いていただきたいのです。
4節で「あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか」とパウロが言っていることから、パウロがガラテヤで初めて伝道したとき、彼らの目の前で、情熱をこめて《十字架につけられたままの復活のキリスト》を語ったとき、それを聴いたガラテヤの人たちは本当にその恵みにあずかったのだ、ということが分かります。彼らはパウロが語る福音を、信仰をもって聴いて、それに応答する中で、神によって生まれるというすばらしい経験をすることができたのではありませんか。それをしっかり見届けたパウロは、「万が一にも[それがむだになるような]そんなことはないでしょうが」と言い添えているのです。
 「とすれば、あなたがたに[聖]霊を与え、あなたがたの間で奇蹟[注・神が私たちを罪から救い、永遠いのちを与えて神の子としてくださることは最大の奇蹟]を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。」 もちろん、そうではありません。私たちが「信仰をもって[福音を]聴いたからです」(5節)。信仰もって福音を聴いたとき、あなたがたの間で奇蹟が行われたのではありませんか。あなたがたは聖霊を与えられ、罪を赦され、永遠のいのちを与えられて神の子とされる特権を賜るという、すばらしい奇蹟を経験したのではありませんか。
ですから、信仰をもって福音を聴き続けてまいりましょう。義認に続く聖化の生活も、信仰をもって福音を聴き続けることによって完成されるのです。日々の生活の中で、朝ごとに福音をしっかり聴き続けてまいりましょう。その時に、私の信仰が呼び覚まされ、神に対する感謝と喜びがあふれ出てまいります。それが私たちの聖化される生活の生きた証しとなるのです。   (2007.2.4)
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この説教は、正味19分の比較的短いものでした。録音テープからほとんど省かずに、むしろ多少の補足をしながら起こしても、かなりのスペースが生じました。40分くらい要した比較的長い説教の際は、この4ページ分のスペースに収めるために、カットされる部分がかなり生じるのですが。
この説教が短かったのは、扱った聖書箇所が短かったことと、「信仰をもって福音を聴きつづける」というテーマについて話すべきことが、短い時間で十分に話し切れたからだと思います。これ以上話をすれば、すべて蛇足になったでしょう。説教者である私も語り尽くせたという思いで語り終えることができましたし、聴く側の方々にしても説教が短くて、しかも信仰生活の大切な課題について教えられたのですから満足度が高かったのではないでしょうか。
この説教テーマは、義認と聖化に関する実践的な課題を扱い、キリスト者の信仰生活の大切な側面に光を当てています。私が20年あまり関わってきたアシュラム運動の課題や目標とも合致しているテーマなので、きちっと焦点を合わせて話すことができたのではないかと思います。

聖書から信仰をもって福音を[日ごと新たに]聴きつづけることは、もしキリスト者と教会が福音を証しすることを最高の使命と自覚しているなら、その実践を最大の急務としなければならないものです。その実践の手助けをするものとして《アシュラム運動は最善の方法の一つである》と、私は20年余の経験から確信させられています。   村瀬俊夫

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