2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 15》 聖霊の実を結ぶ生活 ガラテヤ5:16~26

  パウロは神学者と言われるくらい思索の深い人でした。それで理論の人であった言うこともできるのですが、それだけではなく、いやそれ以上に、パウロは実践の人でありました。別の言い方をすれば、パウロは、信仰と生活とを分離させることがなかった、と言うことができるでしょう。これは当たり前のことですが、大事なことであります。下手をすると、信仰と生活とが分離して、信仰だけ、生活だけ、ということになってしまいます。生活と信仰がしっかり一つに結び合わされて、名実ともに《信仰生活》となっているということが、とても大切なことです。
教理的な面から見ると、パウロはガラテヤ書で、信仰義認ということを強調しました。この教理は、ガラテヤ書の強調点の大きな柱です。しかし、ガラテヤ書の特色は、それだけではありません。ガラテヤ書が強調している信仰義認の教理は、私たちが神のみこころに従って聖(きよ)い生活に導かれていくという、聖化の生活と結びついています。ガラテヤ書には、信仰義認の教えと切り離されることなく、むしろ連結するようにして、聖化の教えが大切な柱としてあるのです。
この聖化の生活は、どういう内実のものであるのか。それは前回学んだように、隣人愛の戒めの実行です。「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語によって全うされるのです」(14節)。この隣人愛を実践していくことが、聖化の生活の内容であります。義認の教理は、この隣人愛の生活を実行することの始まりとなるのです。そのことをしっかり心に刻んでいただきたい、と願っています。
6節に「割礼を受けるか受けないかは、役立つことではない。役立つのは、愛によって働く信仰である」と言われています。その「愛によって働く信仰」とは、《隣人愛の実践を伴う信仰》のことである、と言ってよいでしょう。ですから、隣人愛の伴わない信仰は役に立ちません。信仰という名はあっても、実(じつ)がないのです。そんな信仰は有名無実である、ということになります。
そして大事なこと学びます。聖化の歩みは、決して律法の行いによるのではありません。信仰義認が律法の行いと全く無縁であるように、義認に連結する聖化の歩みも、律法の行いとは全く無縁であるのです。では、何が聖化の歩みの原動力となるのか。その答えは、すでに4章6節で学んだことから明らかです。「神は、『アバ、父』と呼ぶ御子の御霊(聖霊)を、私たちの心に遣わしてくださいました。」 私たちの心に遣わされた御子の聖霊こそ、聖化の歩みの原動力となるのです。これはとても大事なこと、まさに肝腎要(かんじんかなめ)のことであります。
前に、ガラテヤ書は起伏に富んだ内容の書で、読んでいて飽きることがない、と言いました。しかし、それはかなり読みこなしている人に言えることかもしれない、と思わされております。ガラテヤ書の中には、読みこなしていない人には、読みにくい点があるからです。それは律法をめぐって食い違いがあるのではないか、と思われる教えが展開されている、と感じられることであります。
パウロは、信仰によって義と認められるために律法の行いは無用である、とはっきり主張しています。私たちはもはや律法の下にはいない、とまで言い切っています。そう言いながら、聖化の生活を勧める中で、パウロが律法のことを持ち出しているのは、どうしてなのか。これは考えてみると、矛盾であります。この矛盾にひっかかり、戸惑うことが当然あるのです。私も、かつて神学的にひっかかりを覚え、悩み抜いたことがあります。ようやく悩みを通り抜けて、きちんと理解させていただけるようになりました。
その理解の鍵は、律法の持つ本質的なものと、その実際的な働きとを分けて考えることにあります。本質的なものとは、律法が神の御旨(みむね)を示していることです。しかし、律法が実際に機能しているとき、律法を行うことによって神の恵みを受けるのだとしたら、人は律法を完全に守れるだろうか。誰も守れません。律法を行うことによっては、誰ひとり、神の御前に義と認められないのです。その点で、私たちは律法の下におりません。私たちが義と認められるのは、キリストを賜った神の恵みのみ、その恵み―十字架と復活の福音―を感謝して受ける信仰のみによるのです。
そういう視野からすると、律法は要らなくなります。そこで「律法よ、おさらば!」と言って済(す)ませたら、事はすっきりするでしょう。では、信仰によって義とされた人の生活は、律法と全く関係なくやっていけるのかと言うと、そうではありません。むしろ、神の御旨として示された本来の律法を新しい観点から全うしていく、ということが始まります。この本来の律法とは、隣人愛の戒めに要約されているもであり、その実践が聖化の生活の重要な課題となるのです。
ユダヤ教は、たくさんの戒めを挙げて、それらを守らなければいけない、と教えてきました。しかし、戒めはたくさんあるのではなく、それは一つにまとめられるのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と。これこそが、神の御旨なのです。この神の御旨を果たして行く聖化の生活は、律法の行いによって義とされることとは全く関係がありません。律法の行いとは全く関係なしに、神の御旨である隣人愛の戒めを実践していくこと―それが聖化の歩みなのです。この点をしっかり把握すると、ガラテヤ書が本当によく解(わか)るようになります。
 パウロは、聖化の生活の勧めに入ります。ここで学ぶのは、その勧めの内容です。冒頭の「私は言います」とありますが、これは簡単には読み過ごせない、厳粛な意味がこもっています。パウロは使徒としての使命感から、使徒的権威を背景に、ガラテヤの信徒たちに勧めています。私たちにも、パウロは使徒的権威をもって「私が言うことを、しっかり聴いてください」と前置きし、勧めているのです。「聖霊によって歩みなさい」と。
 新改訳は「御霊(みたま)」と訳しており、これまで日本のキリスト教界でも「御霊」と言われてきました。しかし、「靖国の御霊(みたま)」と言い習わされているように、「御霊」
は神道用語として多くの日本人に周知されていますので、キリスト教界で使用するのは適当でないと思います。「賛美歌21」も、御霊を止めて聖霊に置き換えています。私も御霊と言わず、聖霊と呼ぶことに賛成です。「聖霊に導かれて歩みなさい」―この勧めが聖化の生活のポイントであり、聖化にとって一番肝腎(かんじん)のことであります。
 聖霊に導かれて歩んでいく―「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(17節)。ここに「肉の欲望」という言葉が出てまいります。パウロは、理想を追い求め、理想に憧れていた人です。そういう一面が彼にはあります。しかし、そのために現実を見ることを軽んじる、といことがありませんでした。パウロは、現実を直視することを忘れない人であったのです。それがパウロの偉さである、と思います。
 理想と現実は、時に相(あい)反することがあります。でも、その相反するものを併(あわ)
せ持っていることは、とても大事なことであります。現実一点張りの人、あるいは理想を追ってばかりいる人―そのどちらも問題があるのではないでしょうか。パウロは理想に憧れつつも現実を見失わない人でありましたから、信仰によって義とされたキリスト者であっても、肉の欲望という現実から完全に解放されてしまっているわけではない、ということを知っていたのです。
理想としては[教理的・理論的には]、キリスト者は、古い人(肉の人)に死んで新しい人(霊の人)に生きているので、肉の欲望とは縁が切れています。そう主張して突っ走ったのが、一世紀終わり頃から二世紀にかけて大きな勢力となったグノーシス思想です。これは二世紀末には異端としてキリスト教界から完全に退けられましたが、その特徴は理想一点張りの点にありました。実際、グノーシス異端には現実を直視しないための問題が生じて、自ら墓穴を掘るに至ったのです。
パウロは、そういう点でも、理想と現実とのバランスを欠くことなく、真理を受けとめていた人でした。現実の問題として、キリスト者も肉の欲望と無縁ではありません。実際に、私も「肉の欲望とは無縁です」と言い切れるものなら言いたいのですが、そうは言えません。絶えず肉の欲望という誘惑にさらされているのが、現実の私の姿です。
そのようにキリスト者も、「肉」と「霊」の対立の中に置かれています。この対立関係にある「肉」と「霊」は、特別の意味で使われています。それを肉体と霊魂と考えれば一番分かりやすいのですが、この場合は違います。ここでパウロが「肉」と言うのは、聖霊に逆らう原理、もっと分かりやすく言えば《神に逆らい、神から引き離そうとする力》のことです。それは人間の生来の性質であり、それゆえに、すべての人は《原罪》を負っているという教理が成り立ちます。
それに対して「霊」は、その「肉」に逆らう原理を指しています。言い換えれば、《神に喜んで従おうとする力》のことです。それは生来の人間の性質ではなく、神から新たにいただく賜物であります。キリスト者は、その賜物をいただいているのです。それゆえ、現実のキリスト者は、肉と霊との対立、いや肉と霊との闘争の中に置かれています。このことがキリスト者生活に一種の彩(いろど)りを添えているのであって、それから逃れられるキリスト者はおりません。
それにもかかわらず、いや、それだからこそ、私たちキリスト者は、この肉と霊との闘争に勝利するため、聖霊に導かれて歩み続けるのです。聖霊はいつも、「肉」の原理を打ち破る力を与えてくださいます。だから、聖霊によって歩むとき、肉の欲望を満足させるようなことは決してありません。肉の欲望に支配されそうになることはあっても、支配されてしまうことはありません。それに必ず勝利させてくれるのです。
それでパウロは、改めて18節でこう言います。「聖霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」と。聖霊の導きに完全にゆだねるとき、律法の下には完全にいなくなるのです。「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にある」と、パウロはローマ6章14節で宣言します。これは 大事な教えです。でも、この教えが《百パーセント私の霊的現実となる》ということは、次の課題であります。それが私の揺るがない霊的現実となるためには、私が百パーセント聖霊に導かれて歩まなければなりません。
19節から21節まで、肉の欲望がどういう行いとなって現れるか、「肉の行いは明白です」と言って、それらをパウロは列挙しています。いわゆる悪徳表ですが、いくつかに分類できるでしょう。「不品行、汚れ、好色」は性(セックス)に関するもの、「偶像礼拝、魔術」は宗教的行為に関するもの、「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」は交わりを破壊するもの、あるいは隣人愛の実践を阻むものです。最後に挙げられた「酩酊、遊興」は度を過ぎた酒宴のことであると思います。酒宴が禁じられているわけではありませんが、度を過ぎた酒宴はいけません。そこでは乱れが起こり、不品行がまかり通るからです。聖化の生活は、こうした肉の行いに打ち勝っていく歩みに他なりません。そのためには聖霊に導かれることが肝要であり、不可欠なことであるのです。
聖霊に導かれて歩むとき、聖霊の実が結ばれます。その聖霊の実のことが、22-23節に記されています。「しかし、聖霊の実は、……で始まって、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」と九つ徳目が列挙されています。ところで、「聖霊の実」の「実」は、原典を見ると、複数ではなく単数なのです。19節の「肉の行い」の「行い」は複数が使われています。「実」が単数であることは、聖霊の実は一つであることを意味します。ここでは「愛」が、それに当たります。聖霊の実は「愛」なのです。
その後に続く八つの実は、「愛」の実の種々の具体的な現れ方と考えることができます。そのことを示すため、こう訳すと良いでしょう。「聖霊の実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と。聖霊が結ばせてくださる実は、愛に他なりません。神の戒めは、ただ一つ、隣人愛の実践です。その隣人愛の実を結ばせてくださるのが、聖霊であります。続く八つの実は、その愛のいろいろな現れ方である、と理解するのがよろしいでしょう。
愛は喜びという現れ方、平安(平和)という現れ方もします。愛・喜び・平安は、私たちの内面的なものだ、という説明もあります。寛容・親切・善意は、愛が対人関係において現されるものと言われます。先の愛・喜び・平安も、対人関係にかかわるものですから、あまり厳密に分類するのはどうかと思います。寛容は赦すこと、赦してあげることです。親切は相手の立場を思いやることであり、自分がしたいと思うことを相手に対してするのではなく、相手がしてほしいと願っていることをしてあげる、それが本当の親切です。善意は悪意を抱かず気持ちよく相手に接する態度であり、まさに隣人愛を実践して、交わりを促進させるものであります。
最後の三つ「誠実、柔和、自制」は、人柄に関するものであり、誠実は真面目さ、柔和は優しさ、自制はしなやかさ示すという解釈があります。真面目で、優しくて、しなやかであることは、隣人愛の実践に欠かすことのできない資質であると思います。そのような実を豊かに結ばせてくださるのが、聖霊です。この聖霊によって私たちは生かされ、また生きています。だから、「聖霊に導かれて、進もうではありませんか」と、パウロは重ねて勧告してくれているのです(25節)
聖霊に導かれることは、父なる神とキリストとの交わりを深めることに通じます。聖霊によって神とキリストとの親密な交わりに導かれる黙想と観想の祈りを深めたいものです。そうするとき、聖霊によって神とキリストとの愛が私の心に豊かに注がれ、私はその愛に包まれるようになります。そうすることによって、聖霊による愛の実が豊かに結ばれ、私を通して神[またキリスト]の愛の働きが進められて行くようになります。

そうするとき、「自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(24節)という霊的現実が《自然に私のものとなった》、ということを感じるようになります。これは自分が努力してなれる境地ではありません。この境地に自然に達するのは、聖霊によって父なる神と御子キリストとの交わりが深まり、親密になる時であります。聖霊によって注がれる神の愛、キリストの愛をいっぱい受けるとき、《私の肉の欲望(古い人)は十字架につけられてしまった》という霊的現実を、素直に確認させられるようになるからです。  (2007.11.11 村瀬俊夫)

0 件のコメント:

コメントを投稿