2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 13》 キリストにある自由と愛 ガラテヤ5:1~6

  今回の箇所は、前の箇所(4章)と深いつながりがあります。前回説教した4章21節以下は、アブラハムの妻サラとそばめハガルをめぐって、パウロが寓意的解釈をしている箇所でした。その解釈によると、ハガルは奴隷女の出身なので奴隷の子どもたちを表し、サラは自由の女なので自由の子どもたちを表している、というのです。
 その段落の最後の31節を見てから5章に進みたいと思います。「こういうわけで」で始まる31節は、この段落の結論みたいな内容です。「兄弟たちよ。私たちは奴隷の女[ハガル]の子どもではなく、自由の女[サラ]の子どもです。」 「私たち」というのは、キリスト者のことを指しています。「私たちは奴隷の女の子どもではない」と言うとき、「奴隷の女の子ども」が具体的に指しているのは、律法主義者たちのことです。彼ら(その多くはユダヤ人)はキリスト者であっても、律法を守ることによって神の祝福が得られる、と考えています。[パウロも以前そうであった]ユダヤ教徒たちも、それに含まれるでしょう。
しかし、実際には、ユダヤ人でないキリスト者の中にも、律法主義者がかなりいるかもしれません。この世には、いろいろな形で律法主義がはびこっているからです。キリスト者になっても、キリスト者になる前の考え方を保っている場合があります。「私はクリスチャンになったので、古いものはみんな捨てました」と口で言うことも、心で思うこともできます。でも、実際には古いものが残っている。そういうケースが多くあるのです。キリスト者として、自分は本当に新しくされている。だから、それにふさわしく新しくされ続けていく必要がある、ということをもっと真剣に考えなければなりません。
キリスト者である以上、だれでもイエス・キリストを信じる信仰が要(かなめ)である、ということは否定しません。この信仰によって救われるのだ、という点でも一致しています。それでも、《律法を守ること、とりわけ割礼を受けることも大切ですよ》と言う人々が[キリスト者の中に]いるのです。
しかし、パウロによると、キリスト者は律法の下にはない。律法を守り切ることなど人間にはできない。だから、律法を守ることを主にしていくなら、誰も律法を守れない。結局、律法によって裁かれるだけ。そのことをパウロは、律法の呪いと言いました。キリスト者は律法の呪いの下にあるのではなく、その呪いから解放されているのです。サラはそういう自由の女であって、律法の呪いから解放された人を代表しています。私たちキリスト者は自由の女サラの子どもたちです―そのようにパウロも私たちも言うのです。
それで5章に進みます。4章31節のギリシア語原文は「自由」という言葉が最後にあり、その言葉を受けて5章の文章が始まります。ですから、原文の語順を生かして、私訳のように「この自由のために、キリストは私たちを解放してくださいました」と訳すのがよいのです。「解放してくださいました」は「自由にしてくださいました」と訳してもよいでしょう。「ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと[律法の]奴隷のくびきを負わされないようにしなない」と続く忠告の文章で、5章が始まるのです。
一般には、5章からガラテヤ書の実践的勧告の部が始まる、と見られています。私も[三十数年前に]ガラテヤ書の注解書を『新聖書注解』のために書いたとき、一応そういう見方をしました。「一応」と言ったのは、別の見方も述べてあるからです。その別の見方が、今ではよいと思っています。それによると、5章1~15節は、3章から4章にかけて論じられてきた教理的論述の結びであり、実践的勧告は「私は言います。御霊によって歩みなさい」と命じる16節から始まるのです。1~15節は、前の部分の結びであるだけでなく、16節以下の実践的勧告への橋渡しをしていると見ると、ガラテヤ書の構成がもっとよく掴(つか)めると思います。
1~15節に、パウロは実践的勧告をほとんど記していません。記している箇所があるとすれば13~15節で、ここが前の部分と後の部分の橋渡しをしている主体であると見るのが、もっとよいかもしれません。いや、13節で「ただ、……愛をもって互いに仕えなさい」と勧められ、15節でも「気をつけなさい」と言われているので、13節から実践的勧告が始まり、13~15節はその重要な導入部と見ることもできるのです。
「この自由のために、キリストは私たちを[律法の呪いと束縛から]解放してくださいました。」「自由」という語は、パウロにとって、すごく大事なものであったと思います。彼は、福音の本質を《キリストにある自由》として経験しました。そのことを体で深く味わったのです。体験が彼の知識になっています。そういう知識が、本当に強い知識なのです。キリストがこの私を自由にしてくださった! これはパウロの宗教的体験に他なりません。この福音の自由を理解してほしい、という熱い思いで彼は口述しているのです。
「自由」という言葉は、福音書にはあまり出てきません。よく知られているのは、「真理はあなたがたを自由にします」というキリストの言葉です(ヨハネ8:32)。その「自由にします」は、ここで「解放してくださいました」と訳されているのと同じ動詞です。福音書には「自由」が名詞で使われる事例はありません。「自由」を名詞で一番多く用いているのはパウロです。それは彼が福音の本質を《キリストにある自由》と体験的に捉えていたからでしょう。それが何よりも大事なことであると思います。この大事なことを、私も体験的に捉えていきたい。皆さん一人一人も、そうあってほしいと願っています。
古代ギリシア人にとって、自由とは、奴隷ではないという意味での自由人のことでした。パウロは、3章28節で「奴隷も自由人もなく」と言っています。すると、外的束縛からの自由という意味が強いのです―政治的自由、社会的自由のように。当時のローマ帝国の社会は、人口では奴隷のほうが多いという、まさに典型的な奴隷制の社会でした。そういう中で自由人としての立場でふるまえたのは、限られた人々でした。しかも彼らは、多くの奴隷たちの犠牲の上に自由を享受していたのです。弱者が犠牲になって[いや弱者を踏みつけにして]強い者が自由を得ていたのですから、今から見ればいろいろな矛盾を抱えていました。そういうことで、この外的束縛からの自由というものには、限界があることを認めざるを得ないのです。
 ですから、自由を考える場合、外的束縛からの自由というだけでは足りません。政治的自由を獲得し、社会的自由を確保する。それらは大事な事柄でありますが、限界もあるのです。それで自由を、もっと人間の内面のものとして考えなければなりません。個人の内面的自由ということが、当然生じてくる大事な問題となるのです。しかし、それにも壁があることを知る必要があります。最後の壁は自分です。この《自分》という壁を破ることができるか。自分こそ、一番手ごわい相手[いや、最強の敵!]なのです。内面的自由を考える時も、この《自分自身という大きな壁があるのだ》ということを、しっかり弁えておかなければなりません。
 そういう中で、パウロは、キリストにある自由をどのように考えたのか。もちろん、外的束縛からの自由も、個人の内面的自由も、キリストにある自由の中には含まれています。しかし、それらだけだったら、限界があります。パウロは、この《キリストにある自由》の基盤を、何よりも《神との交わりの回復》という聖所に置いていたのです。そのように私は確信します。《キリストにある自由》とは、《神との交わりを回復することと共にある自由》に他なりません。言い換えれば、救いと結び付くわけです。
キリストによる救い(「私はイエス様を信じて救われました」ということ)は、神との交わりの回復である《キリストある自由》としっかり結び合わされています。キリスト者は、救われてどうなるのか。神との和解が成り、神の子とされ、神様を「アバ父」とお呼びすることができ、神様との交わりを回復させられています。その福音的恵みの現実こそ、パウロが《キリストにある自由》として受けとめていた内容である、と言ってよいでしょう。そこには愛が息づいています。ですから、キリストにあるとき、自由と愛とは切り離すことができません。それで説教題も「キリストにある自由と愛」としたのです。
 私たちが神との交わりを回復するために、神はどれほど私たちを慈(いつく)しんでくださったか、いや慈しんでくださっていることか。どれほど大きな愛を神が私たちに注いでくださっていることか。その神様の愛が息づく中で、私たちの神様との交わりの回復が実現し、キリストにある自由が与えられているのです。ですから、この「自由」の背後にあるものは、神との人格的関係に他なりません。そういう意味で、毎朝、神様との交わりを持つ、イエス様との交わりを持つ、聖霊との交わりを持つ―聖霊に導かれて、キリストにあって、父なる神と交わりを持つことが、キリスト者の自由の根本であるのです。
 毎朝のデボーションと呼ばれる神様とのお交わりの時が、《キリスト者の自由と愛》と深い関わりがあることを、皆さんはどれだけ意識されていたでしょうか。今、はっきり意識してください。「しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないように[キリストにある自由と愛を失わないように]」、神様とのお交わりを日々新たに保ち続けていくことが、何よりも大事になるのです。
パウロは2節から、「よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います」と、使徒的権威をもってガラテヤの諸教会に語りかけます。聴いてほしい内容は、「あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もない」ということです。キリスト信仰に加えて割礼を受ける必要があるとする人々の教えによってガラテヤ諸教会に混乱が生じていました。それに対処するために書かれたのが本書です。
「割礼を受けるすべての人に、私は[すでに3章で述べたのだが]再び証しします。その人は律法の全体を行う義務があります」(3節)。割礼を受けた人は、律法の全部を行うことが本当にできますか。できません。それで、これまで述べてきたことを締めくくるように、使徒的権威をもって断言します。「律法[の行い]によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」(4節)と。キリスト者として割礼がなお必要だと思う人は、キリストから離れてしまい、恵みから落ちてしまうことになるのです。この断定をしっかり受けとめなければなりません。
キリスト者にもいろいろあって、キリストを信じるだけでは足りないと思う、そのような事態に出くわす人もいるのでしょう。それでキリスト信仰に何かをプラスするということが、よくあるのです。そうすると、そのプラスしたものが、彼をキリストから離れさせ、恵みから脱落させることになってしまいます。ここでパウロは、割礼はだめだと割礼そのものを否定してはおりません。しかし、割礼に特別な効力があるわけではありません。また、無割礼であることが、自慢の種になるわけでもありません。
6節に進む前に、5節に少し触れておきます。「私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。」 まだ義をいただいていないのかなぁ、と誤解しかねない文章ですね。キリスト信仰によって、私たちキリスト者は皆、義をいただいています。そういう私たちが「義をいただく望みを熱心に抱いている」姿は、毎朝の神との交わりを考えていただければよいでしょう。義をいただいているからこそ、朝ごとに、神様とのお交わりを慕い、新鮮に義をいただいていくことができるのです。
6節を新改訳で読むと、「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」 「大事な」は原語をかなり意訳したもので、「役に立つ」という原意を生かしてギリシア語原文を私訳してみました。「割礼も無割礼も少しも役に立たず、役に立つのは愛によって働く信仰である。」 何のために、役に立つのか。もちろん《キリストにある自由》のためにです。割礼も無割礼も、キリストにある自由に生きるためには、少しも役に立ちません。
「役に立つのは愛によって働く信仰である。」「信仰」に「愛によって働く」という修飾句が添えられていることに、注目してください。「働く」は「行い」と訳されている名詞と同根の動詞です。「働く」ことは、「行う」ことであり、「実行する」ことであります。ですから、信仰は行いと無関係ではありません。信仰義認の教えが誤解されると、行いはどうでもよい、ということになりかねません。しかし、信仰と関係のある行いは「愛の行い」であり、その意味で、愛の行いと信仰は堅く結び合わされているのです。
自由と愛が結び付くように、信仰と愛も結び付いています。愛は行為であって、必ず行いを伴います。行いを伴わない愛は、偽りの愛であり、愛ではありません。キリストにある自由のために役立つ信仰とは、「愛によって働く信仰」であり、それは「愛の行いを伴う信仰」を意味しているのです。
ガラテヤ書と対比されることの多いヤコブ書には、「行いのない信仰は、死んでいるのです」(2:26)と言われています。その通りであり、パウロもここで「愛の行いの伴わない信仰では役立ちません」と間接に述べているわけですから、両者の間に矛盾はありません。「信仰、信仰」と言っても、愛によって働かない信仰であるなら、無いほうがましだという場合もあります。なまじ信仰があるために、その信仰が災いの種を蒔いていることがあるでしょう。信仰は愛によって働いてこそ、役に立つのです。ここで、パウロは、本当に大事なことを言ってくれています。
そして、愛の行いこそ、実は、律法の要約であるのです。少し先の14節には、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」と書いてあります。パウロは律法について、律法無用論者かと思えるくらい、ずいぶん否定的なことを述べてきました。しかし、彼は律法を否定してはおりません。むしろ《律法の全体は愛の行いによって全うされるのだ》と理解しているのです。

その点で、パウロは、キリストの律法理解(マルコ12:28-33参照)を正しく継承しています。パウロは「キリストの律法」(6:2)という言い方もしているのです。それはキリストが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と命じられた《愛の戒め》に他なりません。《キリストの信仰、キリストから賜る信仰こそ、私たちが愛を行う自由の源泉である》と言ってよいのです。 (2007.9.2 村瀬俊夫)

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