2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 16》 互いに重荷を負い合いなさい

  今日の礼拝は、2007年の待降節(アドベント)第二礼拝であります。先ほど歌った二つの讃美歌とも待降節に関係のある讃美でした。最初に歌った242番は、私の好きな讃美歌で、毎年待降節に歌わせていただいていますが、その2節は「……第二の蝋燭(ろうそく)ともそう。主がなされたそのように、互いに助けよう」です。ですから、今回の説教「互いに重荷を負い合いなさい」は、アドベント第二礼拝にふさわしい説教題である、との確信を与えられております。
ガラテヤ書の連続説教を月1回のペースでさせていただいていますが、終りに近づきました。このガラテヤ書には、前回も述べたように、二つの大きな柱があります。一つは信仰義認の教えです。この教えは余りにも有名ですから、皆さんが知っています。もう一つの柱は、忘れられている場合が多いのですが、信仰義認の教えに優るとも劣らず強調されている聖化の生活です。信仰義認の教えと聖化の生活の勧めとは、一対のものであり、切っても切れない関係にあります。信仰によって義と認められるということは、聖化の生活の始まりとなるのです。このことは、私たちの信仰生活の骨格を形成する大切な教理となるものですから、しっかり学んで身に着けてまいりましょう。
ガラテヤ書も終りに近づき、パウロは聖化の生活との関連で、いくつかの具体的な事項に触れながら、そのことにガラテヤ教会の信徒たちの注意を向けさせています。それは私たちにも向けられている注意事項です。「これから述べることには、よく注意してくださいよ」というパウロの思いを、皆さんもしっかり受けとめていただきたいと願います。
今回の箇所、6章1節から10節までは、ごく自然に5節ずつ前後に分けられていると思います。1節が5節までが前半、6節から10節までが後半です。前半のほうでは、互いに重荷を負い合うことが、特に勧められています。後半のほうでは、すべての人に対して善を行うこと、このことも大事ですよ、と言われているように思います。この両者は深く関わり合っています。互いに重荷を負い合うことは、すべての人に対して善を行うことに通じるからです。
そして、さらに皆さんに注目していただきたいのは、この箇所全体に通じる、ここで具体的に勧められていることの根底にある、まさに核心的警句が3節に書いてある、ということです。これがすごく大事である、と思います。この箇所の勧めを理解する鍵と言ってもよいでしょう。新改訳聖書は、「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです」と訳しています。これはかなり意訳してあるので、ギリシア語原文の前半を直訳すると、「だれでも、自分を何者であるかのように思うなら」となる文章です。
「だれでも、自分を何者であるかのように思うなら、自分を欺いているのだ」という厳しい戒め、あるいは警告の言葉であります。この警告はすごく大事である、と私は受けとめています。皆さんも、そう受けとめてほしいと願います。このように自分を欺いていたら、信仰義認の恵みにはあずかれません。まして、そのように自分を欺くことは、聖化の生活の最大の妨げとなるのです。
実際の生活では、生活の知恵として、ある程度の自己評価、あるいは自尊心というものが必要であると思います。自己評価をしっかり持ち、アイデンティティを確立していないと、社会生活をすることが難しくなります。自尊心がないと、言い換えると、自信が持てないと、人と人との関係を築くことが困難になるのです。しかし、自尊心も自己評価も、度を過ぎると問題が生じます。それが度を過ごすと、人間関係や霊的生活を破壊することにもなるのです。
実際問題として、自己評価が度を過ぎてしまうことが多いのではありませんか。それこそが誘惑です。それで1節後半に「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と言われています。気をつけなければならない誘惑とは、度を過ぎて自己評価を高くすることです。この誘惑を私は今、わが身に感じています。霊的生活において私はかなり成長させていただいた、という思い[いや、自負心]が正直に言って強くあります。アシュラムで奉仕する機会も多くなっています。それは私自身の霊的状態が良いことの証しである、という思いが強くなります。すると、知らぬ間に慢心が起こってくるのです。
これは、ものすごく警戒しなければなりません。そのことを強く感じます。ですから、自分を何者であるかのように思う思いを、本当に注意しなければなりません。そのため日ごと朝ごと、私は主イエス様に仕えられている、イエス様が私の足を洗ってくださっている、ということを覚えさせられていくことの重大さを、痛感させられます。教会の中に問題が起こる時には、必ずここに原因があるのです。自分を何者であるかのごとく思う人が教会の中に幾人かいると、必ず問題が起こります。ですから、ひとり残らず、みんなが、この誘惑に陥らないように、この誘惑から私を救い出してくださるように、主の祈りを真剣に祈ってまいりましょう。
心すべきは、人間の驕(おご)り・高ぶりであります。7節に「神は侮られるような方ではありません」とあります。自分が驕り高ぶることは、神を侮ることに他なりません。これは、ただの罪ではなく、カトリック教会で言う《大罪(たいざい)》であります。自分を何者であるかのごとく思い高ぶるのは、神様に対する大きな罪なのです。人間が高ぶりの種を蒔くならば、必ず滅びの刈り取りをすることになります。その意味で、「人が種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」と言われているのです(7節後半)
 自分自身は取るに足りない者である、ということを知る。このことが神と人とに仕えることの一番の基本である。このことを教えてくれた人は、ディートリヒ・ボンヘッファーです。39歳という若さでナチス・ドイツの手で殉教の死に追いやられましたが、たくさんの著作を残しています。その中に、彼が生前に出版した『共に生きる生活』があります。ヒットラー政権に抵抗するドイツ告白教会の牧師候補者たちを訓練する牧師研修所の所長であった30代前半の頃、彼は牧師候補者たちと「兄弟の家」で共同生活をしました。その共に生きる生活の実践の中から生まれたのが、今紹介した書物です。
 その書の中に「仕えること」という項目の章があります。これは最近、同じ訳者が全面的に改訳して出された新版による項目名で、前訳の旧版では「奉仕」となっていました。「奉仕」よりも「仕えること」のほうがよいと思います。仕えることの根本は、自分が取るに足りない者であることを、しっかり覚えることなのです。この心構え無しに仕えることはできません。本当にそうですね。
 ボンヘッファーは、他にも幾つかのことを挙げていますが、もう一つだけ、第二に大切だと思う心構えを紹介します。それは、人の言うことに耳を傾けることです。そして、このことについて彼は重要なことを述べています。《神のことばに耳を傾けることをしない人は、人の言うことに耳を傾けることができない》と。人の言うことに耳を傾ける者は、自ら神のことばをしっかり聴いている人に他なりません。そう語るボンヘッファーは、共に生きる生活の中で、アシュラムと同じことを行っていたのです。
 自分は取るに足りない者であると自覚させられている、そういう者に神はとりわけねんごろに語りかけ、恵みと愛の福音を聴受させてくださいます。その結果、感謝と喜びが湧き上がってくるのです。
昨日、私の主宰で月一回行っている、有志による新約聖書をギリシア語原典で読む会がありました。そこに遠く千葉県から参加している方が、途中まで来たのに体調が悪くなって引き返し、欠席を余儀なくされました。その方のことについて、友人である受講者の一人が話してくれたことです。その方が出席している教会の集会では、説教中に牧師が、聴衆である信徒たちに、「あなたたちは足りない」と非難する言葉を投げかけることがあるらしい。それでその方は悩んでいるが、私が主宰する会に参加することで慰めを得ておられる、ということなのです。
その方の悩みは大変だと思いました。足りない者を顧みて、足りるようにしてくれるのが福音ではありませんか。人はみな足りない者です。牧師だって足りない者です。その牧師が信徒たちを、事情はよく分かりませんが、どうして「足りない」と言って非難できるのでしょうか。改めて聖書の教えを、しっかり心に刻みましょう。自分を取るに足りないと知ることが、義認の恵みを受ける鍵であり、仕えることの基本となるのです。
5節に「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があります」と書いてあります。その「負うべき自分自身の重荷」とは何か。その答えは、これまで教えられてきたことに示されています。その重荷の筆頭に挙げられるのは、絶えざる自己吟味に他なりません。自分を取るに足りない者であるとみなす修練を、日々新たに重ねていくことです。そのようにして、絶えざる自己吟味という重荷を負い続ける中で、朝ごとに福音してくださる神のことばを静聴してまいります。すると、取るに足りない者を顧みてくださるイエス様の測り知れない愛を、神様の圧倒的な愛を、深く覚えさせられるようになるのです。
「重荷」というと、重い荷物を背負わされるように感じて、嫌(いや)な思いになるかもしれません。しかし、この重荷は、実は軽いのです。「わたしのくびきは負いやすく、わたしがあなたに負わせる荷は軽いのだ」と、イエス様が言われています(マタイ11:30)。この取るに足りない者をイエス様がどれほどいつくしみ、どれほど愛してくださっているか、ということを覚えるのは、本当にうれしいことではありませんか。この喜びを味わえるからこそ、負うべき重荷を軽やかに負っていくことができるのです。
「互いに重荷を負い合い」に続いて、「そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と、パウロは勧めています。互いに重荷を負うこと、それは言い換えれば、自分のように隣人を愛することです。この隣人愛の実践こそ、律法全体の要約であることを学びました(5:14)。これが「キリストの律法」である、とパウロは捉えているのです。キリストの律法とは、隣人愛の勧めに他なりません。隣人を自分自身のように愛することは、隣人に仕えていくことであります。
そのとき、忘れてはならないことがあります。キリストがまず、この私に仕えてくださっている、という現実です。この現実を片時(かたとき)も忘れないようにしましょう。イエス様は、私に仕えるために、いつも私と共におられます。共にいて、私を祝福してくださっています。私に仕えるようにして、私を祝福してくださっているのです。私を祝福してくださるイエス様は、いつも私のために祈っていてくださいます。そのイエス様のお姿を黙想し、観想することにより、その祝福をいっぱい受けることができるのです。
イエス様は、私たちにこう言われます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と。それに続いて「わたしのくびきを負って、私から学びなさい」と言われます。何を学ぶのか。「わたしが心優しく、へりくだっていることを」と、イエス様はおっしゃっています(マタイ11:28-29)。私たちがイエス様から学ぶのは、《イエス様は心優しく、へりくだっておられる》ことです。そういうイエス様のお姿を学ばなければならない。学んでイエス様のお姿に近づくとき、おのずから、イエス様が私にしてくださったように、私も隣人にしてあげたい、してあげずにはおられない、という思いに満たされてくるのです。
イエス様の優しさとへりくだり。「わたしは心において優しく、へりくだっている」というのがギリシア語原文の直訳ですが、それを新改訳は「心優しく、へりくだっている」と訳しています。とても良い訳だと思います。隣人愛の実践には、「心優しく、へりくだっている」ことが不可欠の要件なのです。私自身が心優しく、へりくだっていなければ、隣人に仕えることはできません。隣人を愛することもできません。ですから、私自身が心優しい者であるように、へりくだっている者であるように、イエス様の心優しさ、イエス様のへりくだりを学び、しっかり身につけていくことに励みましょう。
そのイエス様を、今、私はいただいているのです。そのイエス様が、私と共にいてくださるのです。そのことをしっかり覚えてまいりましょう。そして、そのイエス様のお姿が心に焼き付いて、いつでも思い浮かべられるように、イエス様のお姿を全身で感じるまで観想してください。
そのようにして、自分自身がイエス様のように心優しく、へりくだっている状態にさせられていることを、本当に喜び感謝している。そのことが健全なスピリチュアリティ(霊性)である、と私は思います。そのような霊性は、「すべての人に対して」善を行わせてくれるのです。
10節には、「ですから、私たちは機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう」とあります。「特に信仰の家族の人たちに」と言われているので、教会外の人たちよりも、教会内の人たちに善を行うことが優先される、というような解釈が行われます。でも、これはガラテヤの諸教会に問題があったので、パウロがわざわざ「特に信仰の家族の人たちに」、言い換えると「特に[ガラテヤ教会の信徒である]あなたがたの間で」と言っただけのことではないでしょうか。
したがって、これは、善を行うには教会の内部を優先させよ、という指示ではありません。教会の外部の人たちに対しても、分け隔てなく、それこそ「すべての人に対して」善を行いなさい、と勧められているのです。では、その「善」とは何か。答えは、すでに教えられています。善にはいろいろあるでしょうが、その第一に挙げられなければならないのは、《しもべとして仕える》ことです。「すべての人に対して」しもべとして仕えること―これが「善を行いましょう」と勧められている、その「善」の具体的な内容である、と言って間違いないでしょう。
イエス様は言われます。「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためである」と。その前に弟子たちを諭しておられます。「人々の先に立ちたいと思うなら、みんなに仕えるしもべになりなさい」と(マルコ10:43-45参照)。《みんなに仕えるしもべになる》―このことを待降節第二主日に当たり、深く心に留めさせていただき、そのように生きる者とさせていただきましょう。

(2007.12.9 村瀬俊夫)

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