2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 9》 みなキリストにあって一つ ガラテヤ3:23~29

  パウロの書いた手紙がたくさんありますが、一番代表的なものはローマ書でしょう。しかし、別の角度からすると、ガラテヤ書こそ代表的なものだ、と言うことができると思います。パウロについての評価はいろいろありますが、一番重要な評価は、彼がキリストの福音(あるいはキリスト教)を普遍的・世界的なものにした、ということではないでしょうか。もちろん、その基礎はイエス様ご自身のうちにあります。そのイエス様の直弟子であるペテロやヨハネよりも、後からキリスト者になったパウロのほうが、イエス様の意図にそって福音を全世界的なものにする働きをし、そのために貢献したのです。
 そのパウロの考え方が一番よく打ち出されている文書が、このガラテヤ書であると思います。そして今回の箇所は、その核心に触れるところです。23節から朗読してもらいましたが、前回は25節まで読みました。ですから続きということだと26節からになりますが、学ぶ内容との関連で前回と少しダブりますが23節から学んでまいります。
 それに先立ち、その前の箇所で述べられていたことを、思い起こしてもらいましょう。前回の説教題は「約束は律法に優先する」でした。内容的に少し難しい箇所でしたから、どれだけ説教を聞いて分かっていただけたろうか、という不安があります。約束と律法との関係を、パウロは重要に考えています。約束は、神がアブラハムに対してされた約束です(創世12章)。アブラハムはイスラエル民族の父祖であり、イスラエル民族は「アブラハムの子孫である」ことを誇りにしていました。その約束の内容は、《アブラハムの子孫によって全世界の国民が祝福されるようになる》という、すばらしいものです。この神の約束は、イスラエル(あるいはユダヤ)民族のためだけのものではありません。全国民・全民族のための祝福の約束を、神はアブラハムに対してされたのです。
 これはすごく大事なことであり、そこにパウロはしっかり目を着けました。着眼点という言葉がありますが、着眼点が良いか悪いかで随分違います。着眼点が悪いと、何もかもうまく行かないことがあります。パウロは、旧約聖書に対しても、しっかり見るべき所を見たのです。その点でも《彼は神に用いられた器だったのだ》と、私は思います。
パウロは、アブラハムに対する神の約束に、しっかり目を据えました。その約束が《イエス・キリストによって成就し、実現しているのだ》と彼は確信し、ユダヤ民族の壁を打ち破って、キリストの福音を全ての国民・万民のものとしていったのです。こうしてパウロは、《キリスト教が世界的宗教となる基礎を据えたのである》という歴史的事実を、しっかりと覚えていただきたい。
 イスラエル民族には、その後、律法が与えられました。このことを彼らはとても大事に考えました。その律法を守り行うことによって祝福を受ける道を、彼らは示されました。彼らは自らを「律法の民」とも呼んでおりました。しかし、もっと大事なこととして、パウロは、《その律法よりも約束は優先するのだ》ということ強調したのです。
では、律法は、あまり重要ではなくなるのでしょうか。いや、そんなことはありません。律法には、果たすべき重要な役割があったのです。それが「養育係」という役割でした。 このことを話したくて、前回は22節までの予定を25節まで延ばしたのです。「養育係」という言葉が出てくるのは、24節と25節でありますから。
 さて、23節から見てまいります。「信仰が現れる以前には、私たち律法の監督の下に置かれ……」とある文章から、律法は監督の役目をするのだということが分かります。この「監督」は、野球チームの監督のように、良いイメージで考えてください。ただし、それは「信仰が現れる以前」のことでした。この「信仰」は、22節の「イエス・キリストの信仰」のことです。23節は、こういう意味になります。《イエス・キリストの信仰が現れた以上、もう私たち[キリスト者]は律法の監督の下には置かれていません。》
24節「こうして、律法は私たちをキリストへ導く養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」 前回も触れましたが、「キリストへ導く」は、原文を補足的に意訳したもので、原文は直訳すると「キリストまで私たちの養育係となりました」と読める文章です。少し説明を加えて、「信仰が現れる」という言い方に模して、「キリストが現れるまで私たちの養育係となりました」と読むのが、前後の脈絡にも合致して、はるかに良いでしょう。
 この「キリスト」は「キリストの信仰」のキリストであり、「キリストが現れるまで」は「信仰が現れるまで」と同じである、と考えてよいでしょう。「キリストの信仰」は、キリストからいただく信仰です。信仰を自分の力で何かすることのように、私たちは思い違いをすることがあります。それは重大な誤りです。信仰はキリストからいただくものであり、その信仰が私たちをキリストに全面的に信頼させてくれるので、私たちは義と認められる(無条件・無制限に罪を赦される)のです。このことがよく分かると、恵みの世界を豊かに味わうことができるようになります。
 25節に書いてあるように、キリストの「信仰が現れた以上」、その信仰の恵みに私たちはあずかり、キリストに全面的に信頼しているので、「私たちはもはや養育係の下にはいません。」 その理由が26節に書いてある、と言ってもよろしいと思います。「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子たちだからです」(私訳)
ここでパウロは、ガラテヤの信徒たちに呼びかけるように、「私たちは」ではなく、「あなたがたは」と言い換えています。「キリストにある信仰」は、《キリストにあって賜る信仰》と解すれば、「キリストの信仰」に他なりません。「神の子」を新改訳は「神の子ども」としていますが、ここは正確に「神の子」と訳すべきです。私たちもキリストと結び合わされることによって、本然の神の子であるキリストと同じ「神の子」に[養子縁組で]させていただけるのです。させていただいた以上は、私たちもキリストと[特権と身分において]同じ「神の子」であるのです。
そのことを証明する大事な出来事(あるいは儀式)が洗礼であり、その洗礼について27節以下が述べているのです。
「バプテスマ(洗礼)を受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(27節)。キリストの信仰は、それをどのように受けて、私の身に着けていくのでしょうか。その一つの《一番具体的な表れがバプテスマ、すなわち洗礼であるのだ》ということを、パウロはここで教えてくれているのです。洗礼を受けると、どのようになるのか。「キリストにつく者」とされます。言い換えると、キリストのものとされます。それは、さらに言い換えると、「キリストをその身に(わが身に)着る」ということになるのです。
その時に、古い人は当然、脱ぎ捨てられることになります。それは、言い換えると、古い人に死ぬことです。《罪の子・悪魔の子》と呼ばれていた古い自分に、それを自ずから脱ぎ捨てるようにして、死んでしまいます。《脱ぎ捨てる》と言いましたが、自分で頑張って脱ぎ捨てるのではありません。そんなことをしても、なかなか脱ぎ捨てられるものではありません。キリストを着るならば、すっと[自然に]脱げてしまうのです。洗礼は、それを受ける者がキリストを着ることに他なりません。「キリストを着る」ことによって、その人は[いや私は]「キリストにつく者」にされるのです。
そういうことをよくイメージして、黙想してくださると、すごく霊的に役立つと思います。洗礼は、「キリストを着る」という儀式であるのです。洗礼によって「キリストを着た」以上は、キリストを脱いではいけません。しかし、時々、[キリストを]脱ぎたくなる人がいます。私自身も、《キリスト者を辞めたい(キリストを脱ぎたい)なあ》と、心ひそかに思ったことが一度ならずありました。それは「キリストを着る」ことの意味が、まだ私によく分かっていなかったからです。「キリストを着る」ことのすばらしさが分かっていたら、キリストを脱ぎたいという思いになることはありません。感謝と喜びをもって《キリストをずっと着ていく》ことが、キリスト者の生涯であると思います。
その時に、「キリストを着る」ことにおいては、何の差別もありません。ユダヤ人だけは特別なキリストの着方があるのだ、奴隷と自由人ではキリストの着方に違いがあるのだ、ということは全くありません。「キリストを着る」ことにおいては、ユダヤ人もギリシア人も異邦人も、社会的な地位や身分にも関係なく、みな同じであるのです。また、男性と女性の差別もありません。これは本当にすごいことです。
当時は、男女差別の著しい時代でありました。福音書に《五千人の給食の奇蹟》が記されていますが、その五千人は大人の男だけの数です。女も子どももたくさんいたでしょうから、実際は五千人より多かったに違いありません。しかし、聖書の世界でも、当時は女や子どもは数に入れられていなかったのです。そんな時代にも、イエス様は女性や子どもたちを差別なさいませんでした。そのことが福音書にはよく描かれています。
イエス様ご自身は、そういう差別を乗り越えておられました。女たちにも、イエス様は大事な教えを話されました。子どもたちをも招きましたし、《子どもたちこそ神の国にふさわしいのだ。子どもたちのようにならなければ神の国に入れない》とまで、イエス様は言われているのです。そのように差別を乗り越えた考え方が、28節に見事に表明されているのを見ることができます。
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(28節)。ギリシア語の一という数詞には、男性・女性・中性の別々の形があり、普通「一」とか「一つ」と数える時は中性を使います。しかし、ここでは男性が使われているので、「キリスト・イエスにあってひとりなのです」と訳すほうがよいのです。New English Bible は‘one person’としていますが、良い訳だと思います。「一つ」でも意味は通じますが、「一体」と言えばもっとよいでしょう。「一つの共同体」である、と言うのです。
キリストをかしらとする一つの共同体という概念が、ここに示されています。それをパウロは、コリント書では「キリストのからだ」というイメージで表しています。この一つの共同体においては、何の差別もない。人種的・階層的・性的な差別は一切ありません。このように、理想的な教会の姿を示したパウロですが、その完全な実現を阻む時代的・社会制約が多くありました。キリストにあっては奴隷も自由人もないとしながら、パウロは奴隷制度の廃止を主張しませんでした。
当時のローマ帝国は典型的な奴隷制社会であり、その奴隷制度はその後の歴史でキリスト教が普及した多くの地域にも存続し、それが撤廃されるには多くの時間を要しました。アメリカ合衆国で奴隷制度が廃止されたのは19世紀の後半のことで、そのために数年間に及ぶ悲惨な内戦(南北戦争)があったのです。男女の差別撤廃が制度的に実現したのも、20世紀後半になってであります。でも、奴隷制度や男女差別が撤廃される方向づけは、パウロが[キリストの福音において]しっかり付けておいてくれたのです。それだけでも、すばらしいことだと思います。 
 29節に「もしあなたがたがキリストのものであれば(これは「あなたがたがキリストのものである以上は」と訳せる現在の事実を示す条件文)、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」とあります。キリスト者である私たちは、神の国を相続する者、すなわち神の子とされるのです。私たちがキリストの信仰によってキリストのものであるならば、私たちは文句なく、無条件に神の子にされています。こうして《神がアブラハムに対して約束された約束は、イエス・キリストにおいて完全に成就している》と、パウロは宣言しているのです。
 そのことによって、《キリストの福音は、一部の民族・一部の階級・一部の人々のものではなく、すべての民族・全ての階層・すべての人々のものである》と表明していることになるのです。また、そのことによって、律法の監視や保護の下にあった時代(旧約時代)は過ぎ去りました。旧約時代は、それなりの意味があったとしても、差別の時代であったことは否定できません。そのような時代は終わりを告げました。ユダヤ人とギリシア人、自由人と奴隷、男と女といった差別の時代は終わったのです。
 これで済めば、事は簡単なのですが、まだ少し律法の問題が残ります。私たちは律法という養育係の下にいないとすれば、養育係としての律法はお役御免になりました。では、律法は、私たちにとって不要なもの・無用なものになったのか。パウロは、そうだとは言わないのです。そこが少し微妙なところで、律法の理解についてのデリケートな部分なのです。その部分を、私たちキリスト者はしっかり把握していなければなりません。
 パウロは律法不要論者ではありません。その証拠に、彼は5章14節に「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」と、6章2節に「互いに重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と、書いているのです。「律法」という言葉が、これらの箇所では、私たちキリスト者との関わりで用いられています。この律法を全うしていくことがキリスト者の役目ですよ、と言われているのです。
 このことの背景には、《福音の主であり私たちに福音してくださるキリストは、律法を全うしてくださった方である。キリストは私たちを愛し、私たちのためにご自身のいのちをささげるようにして(2:20参照)、愛の律法を完全に成就してくださったのだ》という考えがあるのです。そのキリストが私たちのうちに生きておられます。それは十字架につけられたままの復活のキリストであると同時に、私たちのために律法を全うしてくださったキリストであります。ですから、私たちキリスト者も、キリストが私たちのために全うしてくださった律法を、キリストにあって全うしていくようになるのです。

 そういう大事な課題が、私たちキリスト者に託されています。それは言い換えると、《信仰によって義と認められることは、聖化の生活に連続していく》ということです。みなキリストにあって一つの共同体とされている恵みの現実の中で、その共同体を実現していくために《愛の律法を全うする課題がある》ことを覚えてください。  (2007.5.13 村瀬俊夫)

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