2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 7》 前もって告げられた福音 ガラテヤ3:6~14

  前回の箇所(1-5節)では、私たちが聖霊を受けたのは信仰をもって聴いたからである、ということが強調されていました。6節は、そのことを受けている言葉です。「アブラハムは神を信じ、それが神との義とみなされました。」 「神を信じた」というのは、《神が言われることを聴いて信じた》ということに他なりません。
 ここでアブラハムが登場します。ユダヤ人の父祖として彼らが尊敬してやまない人物であり、「われらはアブラハムの子孫である」ということを彼らは誇りにしています。そのアブラハムについて、なんと《ユダヤ人だけではなく異邦人も救われるという福音は、このアブラハムに前もって約束されていたのである》と、パウロは言うわけです。これは普通のユダヤ人にとって、大変ショッキングな発言だったと思います。彼らとっては、青天の霹靂のようなものであり、まさに大それた発言であったに違いないのです。
 アブラハムは、いつごろの人か。イエス様が来られるよりも二千年近く前の人です。その頃のことは正確には分かりませんが、《およそ紀元前1900年頃の人であったろう》と考古学語的研究に照らして言われております。それにしても、ずいぶん昔です。今から4000年も前のことで、その頃の日本の歴史は皆目わかりません。《そのアブラハムに神が約束なさったことが、なんと、イエス・キリストによって成就しているのだ》ということを、ここでパウロは、はっきり述べているのです。このようなパウロの(そして私たちの)福音理解は、当時のユダヤ教徒を本当に驚かせたのではないでしょうか。
 だけれど、イエス様がヨハネの福音書8章56節で語られたことばを見てみたいのですが、すると、そのイエス様のことばとパウロの発言とが、不思議に響き合うのです。イエス様はこう言われています。「あなたがたの父[祖]アブラハムは、私の日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」と。これは、考えてみると、すごい発言ですね。
《1900年も前のアブラハムが、1900年後のイエス様の来臨の日を見ることを思って、大いに喜んだのです》と、イエス様はおっしゃいます。それを聞いたユダヤ人たちはびっくりし、「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか」と問いただします。するとイエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前からわたしはいるのです」(ヨハネ8:58)と言われているのです。
 イエス様は神のことば・永遠のロゴスとして、ずっと前から、初めから存在しておられました。その神のことばであるイエス様が人となって世に来られたのが、今から2000年余り前のクリスマスの出来事であったのです。そういう意味で、イエス様は「アブラハムが生まれる前からわたしはいるのです」と言われているのだと思います。それでガラテヤ書3:6-8のパウロの大胆な発言は、このイエス様ご自身のことばによって支持されている、と見ることができるのです。
 このイエス様と、パウロは、ダマスコ途上で出会わされました。そのとき彼は、キリスト者と教会を迫害しておりました。それなのに、迫害されているキリスト者や教会がキリストと信じるイエス様との劇的な出会いを、パウロは[その時はまだサウロと呼ばれていましたが]経験しました。その結果、彼は回心したのです。そして、「キリストが私のうちに生きておられるのです」と告白するまでになります。すでに2章20節で、そのことを学びました。「私は、キリストとともに十字架につけられたままでいます。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
そのキリストは、アブラハムが生まれる前からおられた方です。「アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て喜んだのです」とおっしゃるキリストが、パウロの中に生きておられるのです。ですから、パウロは確信をもって、《聖書は、ユダヤ人も異邦人も区別なく救われるという福音を、前もってアブラハムに告げておられたのです》と言うことができました。パウロが確信をもってそう言えたというだけでなく、私たちも確信をもってそう言える立場にあります。ですから、そうならなければなりません。私たちはみんな、パウロと同じように、イエス様と出会わされたキリスト者であるのですから。
イエス・キリストと出会わされた経験を持つキリスト者、「私の中にキリストが生きておられる」と告白するキリスト者は、パウロと同じく、《私たちを救ってくれた福音はアブラハムに前もって約束されていたものである》と、確信をもって言うことができます。旧約聖書の見方についても、キリスト者は独自のものを与えられています。それは《イエス・キリストによって旧約を見ていく》ということです。キリスト教会は、旧約だけを正典(聖書)とするユダヤ教と違い、旧約と新約を合わせた聖書を正典として受け入れています。それは新約のイエス・キリストにおいて成就している書として旧約を見ているからなのです。
  「あなた(アブラハム)[の子孫]によってすべての国民が祝福される」というアブラハムへの神の約束は、創世記12章に記されています。アブラハムは、この約束を聴いて信じました。神はそれを「彼の義と認められた」と、創世記15章6節に記されています。アブラハムは神の約束のことばを信じ、その信仰が神の御前に義と認められたのです。アブラハムが神の御前に義と認められたのは、律法の行いによるのではありません。
アブラハムには、まだ律法が与えられておりませんでした。律法がモーセを通してユダヤ民族に与えられたのは、アブラハムから数百年も後のことです。ですから、アブラハムが神に義と認められたのは、律法の行いによるのではありません。まさに神の約束を聴いて信じたからに他なりません。
《まことにアブラハムは「信仰の人」である》ということを、ここでパウロは強調しています。「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです」(9節)。「信仰の人アブラハム」は、「信仰による人々」の代表として、彼らの先頭に立っています。私たちキリスト者は、「信仰による人々」として、その後に続いているのです。そのように考えると、「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです」ということが、もっとよく分かるのではないでしょうか。
この「信仰による人々」として、アブラハムのように神の約束のことばを聴いて、信じて義と認められていくのは、アブラハムの肉の子孫であるユダヤ人だけではありません。そのことにおいては、もうユタヤ人と異邦人という区別や差別はありません。誰でも、信仰によって義と認められるのです。この「信仰による人々」の中には、直接この手紙を受けているガラテヤの諸教会の信徒(回心者)がいるし、もちろん、ここにいる私たちも含まれています。ユダヤ人と異邦人という対立や差別を乗り越えて、私たちキリスト者は、みんな「信仰による人々」としてアブラハムの後に続き、アブラハムと共に《信仰によって義と認められ、神の子とされる》という祝福を受けているのです。
 「祝福」と対立する言葉は「のろい」であります。ここにも「のろい」という言葉が出てきます。旧約聖書のモーセ五書の五番目の書「申命記」の27章11節以下に、祝福とのろいの言葉が記されています。この言葉を語られているイスラエルの民は、指導者モーセによって神から律法を与えられていました。《その律法を守り行うなら祝福される。律法に背くようなことをするならのろわれる》ということが、これでもか、これでもか、と繰り返し語られ、その言葉が書き記されているのです。後で読んでみてください。
 ここでは、祝福とのろいが、それぞれ祝福は「キリストの信仰」、のろいは「律法の行い」とつながっています。私たちが祝福を受けるのは、律法の行いによるのではありません。この言明は《律法を守り行うなら祝福される》という申命記の言葉と矛盾するように見えますが、ここでパウロが言っているのは、《祝福は律法の行いによらず、キリストの信仰による》ということです。申命記は《律法を守り行えば祝福される》と教えますが、パウロは《律法の行いによっては、誰も祝福されない。いくら頑張っても、人間は律法を守り通すことなどできない》と言います。なぜなら、「律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです」(10節)
そのように言ったり書いたりするパウロは、実は、パリサイ派の一人として、「律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ3:6)と自負できるほど、誰よりも熱心に律法を守り行うことに励んだ人でした。でも、律法を守り通す生活をすることができない、ということを痛感させられたのです。
 守り行うべき律法の一番の骨子は、申命記6章5節以下に記されています。それは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」ということ。もう一つは、レビ記19章18節にある「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということ。イエス様は、律法をこの二つの戒めに要約してくださいました。これは大変ありがたいことです。律法はこの二つの戒めに尽きる、というのですから。
それにしても、問題は、《それをあなたは完全に守り行うことができるか》ということです。そのようにしたいと思って、いくら努力しても、なかなかそうすることができません。それが人間の弱さではないでしょうか。ですから、律法によっては、かえって自分の弱さを知らされるだけだ、ということになるのです。
 マルティン・ルターは、宗教改革者となる前に、カトリックの修道僧として、誰よりも熱心に修行に励んでいました。そのことについては、「もし修行によって義と認められるなら、私は第一番に義と認められる者だろう」と言った、と伝えられているほどです。そのルターが、《どんな熱心な修行によっても人は神の前に義と認められない》と痛感させられるようになりました。《義と認められるのは、イエス・キリストを信じる信仰によるだけだ、キリストの恵みによるだけだ。それ以外に救いはない》というように、ルターは福音を再発見させられて、それが宗教改革運動を推進する力となり、プロテスタント教会の流れに発展してきているのです。
ユダヤ民族が律法を大事にしてきたことには、いろいろな経過があって、それなりの理由があります。彼らは神に選ばれた民であるという特権を大切に思い、その特権を維持していくという目的が、律法の行いということと深く結び付いていたように考えられます。でも、そのような考え方や態度は、アブラハムとともに祝福を受ける「信仰による人々」とは一致しません。むしろ、対立するのです。アブラハムに前もって神が告げてくださった福音(神の約束)を聴いて信じることと、律法を守り行うことによって自らの特権を維持していくこととは、どうしても合致しません。むしろ、対立することであると言わなければなりません。
パウロは、「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです」(11節)と言った後に、「『義人は信仰によって生きる』のだからです」と旧約聖書の言葉を引用しています(14節)。この言葉が記されているのは、ハバクク書2章4節です。この「正しい人(義人)は信仰によって生きる」の「信仰」は、律法の行いとは関係ありません。それは神の恵みをいただくという信仰です。
その神の恵みは、イエス・キリストにおいて示されました。そのキリストは十字架につけられました。このことをユダヤ人たちは、非常に汚れたこと、のろわしいことと見たのです。「木にかけられる(十字架につけられる)者はすべてのろわれたものである」と、旧約聖書に書いてありますから(申命21:23)。そのように十字架につけられて「のろわれたもの」を《救い主キリストである》と主張するキリスト者や教会は断じて許せない、というのが熱心なユダヤ教徒の思いであり、かつてのパウロもその一人であったのです。
そのパウロの十字架に対する見方が変わりました。それは、彼が復活のイエス様に出会わされたからです。イエス様は、十字架につけられて死に、そのまま墓の中で朽ち果ててしまった方ではありません。三日目に、死者の中からよみがえらされたのです。死を征服してよみがえられたお方、それがイエス・キリストです。神はイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。この復活の出来事の光に照らして、十字架の意味がパウロにはっきり示されたのです。
イエス様が十字架につけられ、のろわれるものとなって死なれたのは、私たちの代わりに「のろわれるもの」となってくださったのである。そのようにパウロは理解し、受けとめるようにされました。そのことを13節に「キリストは、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と書いています。私たちを律法ののろいから贖い出すために、イエス様は十字架において御自(おんみずか)ら私たちに代わってのろわれるものとなって死んでくださったのです。
《そのイエス様を、神が死から復活させてくださった》ということが、重要であります。
それでこそ、イエス様の死は《私たちを律法ののろいから贖い出す力である》と言うことができるのです。イエス様の十字架の死は、復活の出来事がなければ、のろわれたものの死とみなされても仕方がないでしょう。しかし神は、イエス様を死からよみがえらせ、高く天に上げて、約束の聖霊を私たちに与えてくださっています。約束の聖霊とは、復活して高く天に上げられたキリストから来る聖霊であります。私たちがこの約束の聖霊を受けるのは、律法の行いによるのではなく、《神が前もってアブラハムに告げ、イエス・キリストの到来によって成就した福音》を聴いて信じることによるのです(14節)
 この福音の祝福(恵み)は、[人種的な差別を超えて]ユダヤ人も異邦人も、[社会身分的な差別を超えて]奴隷も自由人も、[男性優位の性的差別を超えて]男性も女性も、分け隔てなく与えられます。この祝福の中に生かされていることを感謝し、この祝福を分かち合う働きに参加させていただきましょう。

(2007.3.18 村瀬俊夫)

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