2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 1》 キリストをよみがえらせた神の福音

  今回から「ガラテヤ人への手紙」(これから呼びやすいので「ガラテヤ書」と言います)の連続説教を始めてまいります。ヘブル書の連続説教が終わりましたので、ガラテヤ書を取り上げます。実は、10年ほど前に、1996年1月から8月の初めにかけて、ガラテヤ書の連続説教をしているのです。一昔前のことですから、聴いてくださった方もおられるでしょうが、ほとんど記憶に残っていないのではないでしょうか。
私は、説教をした当人ですから、ある程度の記憶があります。しかし、10年という歳月は無駄に経過したのではなく、その間に私の理解や洞察も深められてまいりました。10年前の連続説教では見落としていた、あるいは気づかなかったなあ、と思われることが幾つか思い浮かびます。それでガラテヤ書の連続説教を新たにしてみたい、という思いに強く駆られたのです。これは聖霊にお導きによるものと、私は信じております。
このガラテヤ書というのは、著者のパウロが渾身(こんしん)の力をこめて書いたものです。何のためにか。福音の真理を明らかにするためです。その背後には、誤った教えとの激しい戦いがありました。その苦闘の中で福音の真理を鮮明にする必要から、彼がまさに渾身の力を込めて書き上げた記念碑的な文書が、このガラテヤ書であります。
この文書は、私たちプロテスタント教会にとって、宗教改革との関係で深いつながりと愛着があります。宗教改革運動を推進したマルティン・ルターにとって、カラテヤ書が原動力でありました。ルターのガラテヤ書の研究、それに基づく解釈は有名なものです。それはかなり大部の著作として遺されています。そこに示されている解釈が、プロテスタントでは一つの伝統となってきました。私が10年前に説教した時は、その伝統にかなり忠実に従っていたように思うのです。
カラテヤ書につきましては、『新聖書注解』の中で、私は注解を担当しています。40歳代の前半に書いたものです。いのちのことば社から出ている全3巻の『新聖書注解』の第2巻の中に収められています。私は編集委員の一人であったので、総論の「パウロの生涯と思想」も執筆しております。今それを読んでみると、それなりによく書けているなと感じるのは、自分で言うのは恥ずかしいのですが、やはり私が渾身の力をこめて書き上げたものであるからだと思います。皆様にも読んでいただいて、私の言ったことがそれほど間違ってはいない、という感触を抱いてくださればうれしいのですが。それにしても、それは伝統的な考え方に従って注解したものであります。
しかし、ガラテヤ書の研究は、ここ十年間非常に進歩しました。その新しい研究成果というものも十分参考にして、改めてガラテヤ書を学び直していきたい。そして、福音に生きる私たちの生活を確立していきたい、と願っているのです。そうすることが私たちの喜びともなり、また教会の祝福ともなると信じるからであります。
先に述べたような背景がありますので、ガラテヤ書は論争的な性格の強い文書です。今回学ぶ冒頭の箇所を見ると、なるほどそうだと思わされるのではないでしょうか。手紙として一応の挨拶は書いています。「パウロから、ガラテヤの諸教会へ」という言葉があって、「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」と、型どおりと言えるかもしれませんが、挨拶の言葉が書かれているのです。その後に、たいてい感謝の言葉や感謝に付随する祈りの言葉の続く場合が多いのですが、ガラテヤ書にはそれが全くありません。このことも、本書の論争的性格をうかがわせる一端ではないかと思います。
また最初の書き出しも、パウロが異常なくらい使徒であることと、その権威を強調しております。使徒である権威を強調するまでもないほど親密な関係にある教会へ送った手紙では、パウロは「使徒」と名乗っておりません。ピリピ書がその例ですね。その書き出しで、彼は「キリスト・イエスのしもべであるパウロ」と言っているだけです。
 しかし、まだ自分が行ったことのない、そこへ自分も行きたいと願っているローマの教会へ送った手紙では、「使徒パウロ」と言っています。でも、それだけなのです。しかし、このガラテヤ書では、「使徒となったパウロ」の後に注釈がついています。それは「私が使徒となったのは、人間から出たことではなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」という長い説明です。こんな説明を加えているのはガラテヤ書だけですね。
 察するのに、ガラテヤの諸教会には、パウロの使徒性を否定する動きがあったのでしょう。それに対してパウロは、自分が使徒であることを強調しなければなりませんでした。しかも私は、人間から任命されて使徒になったのでもなく、人間的機関を通して使徒に任命されたのでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神とによって使徒とされているのだ、ということを強調しているのです。
 パウロを使徒として召してくださったキリストは、死者の中からよみがえらされたお方です。そしてパウロは、《キリストを死者の中からよみがえらせた神によって、そしてよみがえらされたキリストによって、私は使徒として召されている》ということを強調しているのです。このことを、よく黙想していただきたい。パウロを使徒として召してくださったキリストは、復活したお方であり、まさに生きておられるお方であります。
 私の信じるキリストは、私を救ってくださったキリスト、今も私と共におられるキリストです。それは、ここでパウロが言っているのと同じキリスト、すなわち、神によって死者の中からよみがえらされたお方に他なりません。そのキリストは、「今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになった」お方でもある、と4節に書いてあるのです。
 十字架につけられて私たちのためにご自身を捨てたイエス・キリストは、復活して活きておられるキリストでもあります。この両者が切り離されてはいけません。私と共におられるキリストは復活者であり、活けるお方です。でも、そのキリストは、私の罪のために十字架にご自身を差し出してくださったお方でもあります。両者を結び合わせると、《十字架につけられたままの復活のキリスト》と言うことができるでしょう。
 パウロは、そのままズバリの表現ではありませんが、それに似た言葉を3章1節に述べています。「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに……」と。彼がガラテヤ人の目の前にはっきり示したのは、「十字架につけられたキリスト」です。そのキリストは、《2000年近く前、ゴルゴタの丘で十字架につけられたキリストである》と、短絡的に思ってはなりません。カトリック教会では、十字架につけられたキリスト像が、礼拝堂やその他の部屋に掲げられています。それはゴルゴタの丘で十字架につけられたキリストであると同時に、復活者キリストでもあられます。それはまさに、復活のイエス様が十字架につけられているお姿に他なりません。
 日本のキリスト教の弱さは、その宣教に不足があったからだと思います。それは十字架のキリストと復活のキリストが切り離されて、別々に考えられていた傾向があることです。「十字架につけられたキリスト」と言われていますが、これは《十字架につけられたままのキリスト》と言うべきで、もう少し丁寧に言うと、《十字架につけられたままの復活のキリスト》であります。パウロが伝えた福音とは、《十字架につけられたままの復活
のキリストの福音》なのです。このことは、しっかり皆様の心に刻んでください。それのみが真正な福音であることを、パウロは本書で強調しているのです。それこそパウロの揺るぎない確信でありましたが、私たちも彼と同じ確信を持たせていただきましょう。
 ガラテヤの諸教会は、パウロによって開拓され設立されました。そのガラテヤの諸教会に、パウロが去った後、パウロと異なる福音を伝える者たちが入り込んできました。すると、ガラテヤの諸教会の信徒たちが、その者たちの教えになびいていく情況が生じるようになったのです。6節「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」 ここでパウロは「ほかの福音」と言いましたが、7節で「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです」と述べ、それこそ福音でないものに変質された、まさに《非福音》であることを明らかにしているのです。
 そのようにパウロから非福音と言われているものの実態は何か。それは伝統的に、マルティン・ルターの理解を引き継いで、行いによる救いを説く律法主義的な教えとみなされてきました。ですから、対立の図式は、行いによる救いか、キリストを信じる信仰による救いか、ということになるのです。《私たちは行いによる救いではなく、信仰による救い・恵みによる救いを選ぶ。それこそ福音だ》と、教えられてきました。この教えは対立軸がはっきりしているので、とても分かりやいのではないでしょうか。
 最近は当時のユダヤ教についての研究が格段の進歩を遂げました。当時のユダヤ教では、行いによる救いが説かれていたのでしょうか。説かれていたのであれば、以上の伝統的な理解は正しかったことになります。でも、当時のユダヤ教の実態はそうではなかった、ということが明白になったのです。ユダヤ教は旧約聖書に基づいていますが、旧約聖書は行いによる救いを説いているのか。説いているという理解が、単純化されて分かりやすいので、何となく受け入れられたのかもしれません。でも、ユダヤ教の研究が進むにつれ、行いによる救いなど教えていなかった、ということが明らかになったのです。
 ユダヤ教でも、私たちは神の恵みによって救われる、と教えておりました。《私たち取るに足りない小さな民を、神は恵みによって選び、特別な契約の中に入れてくださったのです》と、旧約聖書の中ではっきり言われているではありませんか。このように旧約聖書でも、恵みによる救いが強調されています。では、キリストの福音が教える恵みによる救いと、どこがどう違うのでしょうか。
 ガラテヤ書には、「律法の行い」という言葉が出てまいります(2:16)。「律法の行いによっては義と認められない(救われない)」とパウロは言います。これは《行いによって救われるという律法主義的な考え方を表している》という理解が通説とされてきました。そのように理解することが、とても分かりやすかったからだと思います。
 ところで、ガラテヤの諸教会に間違った教えを持ち込んだ人々も、《人が救われるのはイエス・キリストを信じる信仰による》と教えていたのです。その点ではパウロと同じでした。違うのは、彼らが《信仰によって救われた生活をきちんとするためには、神との契約に入れられたユダヤ人のように割礼を受け、安息日を守るようにしなさい》と教えた点にあります。具体的で分かりやすかったからなのでしょうか、ガラテヤの諸教会の多くの人がその教えに従って行ったのです。
 それに対してパウロは言います。《私たちが救われるのも、私たちの救われた生活も、ただキリストを信じる信仰による、そのようにキリストに信頼することに尽きる。それに何も加える必要はない》と。もしそれだけでは足りないと、それに割礼や安息日の問題を加えたなら、パウロがそのために召された《異邦人への福音伝道》への道が閉ざされてしまうことは、火を見るよりも明らかなことでした。本当にパウロは、じっとしていられない気持ちだったのです。
 ジェリー・ブリッジズ先生は、その著『恵みに生きる訓練』の中で、アメリカの教会では、《キリスト者になったら、福音だけでなく、それ以上に弟子訓練が大事である》という考え方が強いことを述べ、それが危険であることを指摘してくれています。《福音を信じるだけではキリスト者として足りない。弟子訓練を受けなければいけない》という主張は、よくよく考えると、ガラテヤ書の問題の現代版と見てよいのではないでしょうか。教えとしては、分かりやすいのかもしれません。ですから、日本の教会にも持ち込まれて、いろいろな形や方法で弟子訓練が行われているのを見たり、聞いたりしております。
そうだとすると、現代日本の福音主義的な教会にも、福音を福音でないものに変質させてしまうような危険の芽が潜(ひそ)んでいるのではないか。そのことを私は心配しています。パウロが言うように、キリスト者の生活においても、福音を信じることに何も加える必要がないのです。福音の信仰に徹することが、キリスト者になるためにも、キリスト者になってからも、一番の重要事であることに変わりありません。救われていない人は救われるために福音を必要としています。それに優って、キリスト者もキリスト者として生きるために福音を必要としているのです。
 パウロにとって、福音は《キリストをよみがえらせた父なる神の福音》です。十字架につけられたキリストを、神はよみがえらせてくださいました。この十字架と復活の出来事によって、神は私たちを悪の世界から救い出し、「新しい創造」としてくださいます。恵みによって救われたなら割礼を受けることが大事だという人たちに、パウロは本書の終わりの方で、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(6:19)と言っているのです。まさにキリストが死からよみがえらされたように、私たちキリスト者は古い人から新しい人によみがえらされ、「新しい創造」とされるのです。

 そのことを可能にしてくれるのは、キリストをよみがえらせた神の福音の他にありません。その福音に何かを加える必要などないのです。もちろん、いろいろな訓練を受ける必要があるでしょう。その時は、それらの訓練を喜んで受けてまいりましょう。聖書をよく学び、祈りにも励みましょう。教会の礼拝に休まず出席し、その活動に喜んで参加しましょう。しかし、そうするのは、福音を信じることだけでは足りないからでも、それに何かを加える必要があるからでもありません。それらはすべて、福音によって新しい創造とされた者の喜びと感謝の表れとしての奉仕にすぎないのです。そのことについては、ガラテヤ書の学びが進む中で、さらに学びを深めてまいりましょう。   (2006.9.3 村瀬俊夫)

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